我家前に庭木(カイズカイブキ)が植えてあります。あまりに大きく育っているため、素人の私が一度にすべてを伐採するのはリスクがあります。このため、2012.4月と2014.1月に数本ずつ伐採してきました。今回も数本伐採することにしました。
倒したい方向に引っ張る 倒れる方向を深く削る ようやく倒れた庭木
チェーンソーで伐採するのは良しとして、伐採した庭木を処分するのが大変です。私は腐るまで待てないため、たき火で燃やすことにしています。倒した庭木を、燃やせる大きさにノコギリで枝ごとに細かく分断します。細かい作業はチェーンソーでは危険ですので、ノコギリを使うのですがとても疲れます。生木はなかなか切れません。
西側の庭木を三本伐採、一階の部屋に日差しが入り明るくなる
昼食後少し昼寝をしました。起きて、さあこれから伐採の続きをしようとしたころ、郷土館長Nさんの訪問がありました。少しばかり談笑しました。お話ついでに、畑に残っていたサトウモロコシの茎をかじってみました。最初、甘いかと思っていたら違いました。なんと、少し発酵しているではありませんか。少しお酒のような味がしました。
Nさんが帰った後、庭木の伐採を続行しました。今度は東側の庭木です。西側と同じように、倒したい方向に紐を張って引っ張りました。東側の庭木は育ちがやや悪く幹が細いので難なく伐採することができました。ただし、通り道に倒す予定が、勢い余って傍の畑にゴロンと倒れてしまいました。
倒したい方向に引っ張る 下の畑に倒れた庭木 畑の上で枝などを解体
畑には野菜や花を植えているため、このままでは野菜や花がダメになってしまいます。買い物に行った後、枝などを切断して解体しました。冬ですが日差しが暖かく、のんびりと解体することができました。
伐採した庭木の切断面を観察しました。すると、年輪を30ほど数えることができました。父親が30年位前にこの庭木を植えたのでしょう。30年前と言うと、娘が生まれた頃のことです。私が結婚した記念にと、父親は家を取り囲むように山際に桜を何本も植えました。その少し後、娘が生まれことを記念してこの庭木を植えたのでしょうか。今となっては分かりません。
伐採した庭樹(カイズカイブキ)の切株の年輪、樹齢約30年
我家の大きくなりすぎた庭木(カイズカイブキ)を伐採
グミの木を剪定
冬は果樹の剪定をする季節です。今回は、グミの木を剪定しました。グミは春に赤い実がなる家庭用果樹です。その実は市販されることがありません。やや酸っぱい味のため人によって好き嫌いがあります。私は実をたくさん取って食べるのではなく、春のささやかな味を楽しむためだけに栽培しています。
根元から生えた太枝をカット 絡まった蔓を取り除く
剪定するあたって、枝に絡まった蔓や根元に生えた雑草を取り除きました。そして、枝が重ならないように、樹木全体がスッキリするようにしました。背が高くなると、脚立に乗らないと実を採集することができません。全体的に、人の高さに収まるように剪定しました。
背伸びして実が採れる高さに剪定したグミ
田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(1/2)
去年、麻里府上組の薬師堂や麻里府のお地蔵様などを調査しましたが、縁あってまたまた麻里府に行きました。最初、その昔雨乞いをしていたらしい麻里府中郷にある岩を見に行きました。とにかくどんな岩か確認しました。最初、中郷のKさんの家にバイクを置かせてもらいました。そして、Kさんと一緒にその岩に向かいました。途中、Tm親子に出会ったため、4人で岩に向かいました。
雨乞い岩?とKさん 十心庵跡から見た中郷
岩は、中郷の小高い山の上にありました。周りは竹などが茂っており展望がありませんでした。もしこれらの竹や雑木を伐採すれば、ほぼ360°見晴らしが良い高台だと思います。その高台の上に石が据えられていました。一抱えほどの岩でした。色が黒く、その山に元々あった岩ではないようです。地表の岩と種類が違いました。文字類は刻んでありませんでした。どこからか運んできた岩なのでしょうか。
中郷から上組への途中の史跡、大泉寺は現存 明治20年頃を表す古図
岩を確認し終わると、中郷最高齢と言われるT氏に逢いました。そして、この周辺の史跡などについてお聞きしまた。雨乞いの岩については、「雨乞いがあったと言い伝えがある。」としか分からないとのことでした。その岩前に集まるとか,催しがあるとか,祭りがあるとか聞いたことがないとのこと。その岩の上に以前「天保通宝」があったそうです。そのお金は江戸時代の通貨です。雨乞いがあったとしても江戸時代のことだと思われます。50年位前だったらこの岩について知っている古老がいたかも知れません。今となって麻里府の謎の一つです。
麻里府小学校向かいある住吉神社がかつて鎮座していた大岩
T氏のお話の中で、一番の収穫はあつまんだ(八幡田?)地蔵の由来です。今は中郷の小山じょうにありますが、かつてはT氏の家前にあったそうです。今の道を作った昔に、お地蔵様を今の場所に移したそうです。そのお地蔵様はその昔、T氏の向かい側にあった庄屋が何代か前(江戸時代)に、亡くなった息子を弔うために安置したとのこと。
住吉明神社跡の礎石の一部 上組区公民館
T氏に明治20年頃の手書き古図などを見せていただきました。その古図に、とても興味をそそられるものがありました。その古図は、その頃に住んでいた人の屋敷の位置を表す図面です。その中に、明楽寺が元あった十心庵跡,麻里府小学校向かいにある住吉神社が元鎮座していた住吉明神跡,中村荒神社,そして上組の峠に大師堂が描かれていました。Kさんと別れだ後、Tm親子と一緒にその史跡を訪ねました。
上組峠傍のお地蔵様A 上組峠から少し入った場所のお地蔵様B
まずは、明楽寺が元あった十心庵跡に行きました。庵と言うことは、かつて尼さんか修行僧が住んでいたのかも知れません。その場所に行くと、新しい民家が建っていました。そのため、庵の痕跡は皆無でした。ただその民家入口に、見晴らしが良く鐘突堂にピッタリと思われる高台がありました。十心庵跡を見終わって、桜川を上流に向かって歩いていると対岸に岩がありました。その岩全体を詳しく調べると、礎石と思われる石が一つありました。ここが住吉明神跡だと思われます。近くにあるはずの中村荒神様は見つかりませんでした。竹藪のどこかにあるのでしょう。
上組の横尾じょう上の峠にある大師堂
続いて上組横尾じょうの峠に行きました。明治20年頃の古図を見ると、今の舗装道路とだいぶ道が異なっています。大泉寺前から川を渡って横尾じょうに入っていくのが本来の道(古道)だったようです。そして、古道が峠に差しかかる場所に大師堂があったことが分かります。今回は舗装道路を歩いて峠に行きました。そして、古道と思われる小道に分け入ると、古図のとおりお地蔵様や大師堂がありました。周りに立派な瓦が散乱していましたので、かつては立派な大師堂だったのでしょう。
峠の大師堂内部 かつての大師堂の屋根瓦
この大師堂がなんと呼ばれていたか分かりません。いつかこの近所に住んでいる古老にお聞きしようと思います。古図に単に大師堂と書いてあるだけですので、その由来を知っている方はいないかも知れません。岩金じょうの薬師堂が立派に今も管理されているに対して、この薬師堂は管理する人があまりいないように思えました。
麻里府の中郷、A:バイクを駐車 B:現在の地蔵様 C:お地蔵様が元あった場所
古図によると明治時代、上組にはたくさんの人家があったことが分かります。特に峠付近には人家がたくさんあったようです。これらの方々が大師堂を守っていたのでしょう。しかし今、峠付近の人家まばらです。人が少なくなれば、大師堂やお地蔵様の管理ができなくなるのは世の常です。残念ですが仕方ありません。
今回調査した、麻里府上組地区
田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(2/2)
その後、Tmさん親子と上組から千坊山方面に向かってどんどん奥の方に行きました。目的は、人麻呂神社を探すことでした。ところが、行けども行けども神社らしきものが見当たりません。1ヶ所巨大な岩の窪みがあり、水が流れるように加工されている場所がありました(1番下の画像のD地点)。この窪みは何かの採掘跡かも知れません。その周りを調べましたが、石柱や礎石のようなものは見当たりませんでした。神社関連とは違うようです。
上組から千坊山に向かう途中の田んぼ 神社跡ではなく作業小屋跡?
どんどん奥に向かって進むと、広い田んぼがありました(1番下の画像のC地点)。そして、周りに崩れた棚田の石垣がたくさんありました。かつて、ここに田んぼがいくつかあったようです。壊れた農機具がいくつかありました。今、ここを耕作しているのは1人ぐらいのようです。ここの田んぼも、いつかは放棄田になり山に埋もれてしまうかもしれません。帰りに神社跡かと思った場所は、どうも作業小屋跡(1番下画像のE地点)のようでした。
明治20年頃の麻里府上組の1部、今は人家が少ない
人麻呂神社を探すのをあきらめました。この神社に行ったことがある方を、2ヶ月ほど前にたまたま知りました。再度、その方に聞いてみようと思います。その方の話では、おできが直る神様だったとのこと。何十年間も誰もお詣りしなかったであろう神社なので、今は雑木や草で覆われて見つからないのかなと思います。お詣りしなくなった理由があったのか、それても移築したのでしょうか。ただ言えるのは、明治時代にこの神社の周りに多くの人が住んでいました。しかし、今は無住の地になっていることです。森の暗い中に、白壁跡がうっすらと見えるだけでした。
麻里府上組岩金じょうの観音堂、天井の隅が抜ける
次に、上組岩金じょうの観音様に行きました。入口上に掲げられた板に、南平和八番ヶ所と書かれていました。このお堂に安置されている観音様はとても立派です。金粉が塗られているのだと思います。キラキラしています。お腹や目などの金粉がはがれて、黒い漆の地肌が出ています。相当昔から、お腹を壊した方や目を病んだ方などが触り続けてきたためでしょう。
金粉で塗られた立派な観音様 台座 右:別府村,中:奉寄進,左:上組
薬師堂を見終わると、その山の上にある不思議な墓所に行きました。守屋大人に関わると言われる大きな石碑のようなものが目立ちます。ただ、この石には何の文字も刻まれていません。周りには小さなたくさん五輪石が無造作に転がっています。この墓地は元々何だったのか全く分かりません。明治期に岩金家の名前が刻まれた墓石があるため、岩金家の古い墓所だったのかも知れません。これまた麻里府の謎の一つです。
守屋大人の石碑? 本来はこの道から薬師堂にお詣り
謎の墓地から再び薬師堂に戻りました。薬師堂の中に再度入ってみると、天井が2ヶ所抜けていることが分かりした。屋根に草が生えているため、永い間に雨水が染み込み、天井が抜けたのでしょう。修復するにも費用がかかります。今後、この薬師堂が修復されるのか心配しています。薬師堂傍に安置されているお地蔵様も調べました。台座には、「別府村と上組が奉寄進」と刻まれていました。どんな理由で寄進したのでしょうか。
麻里府上組の成川じょうの、趣のある民家
薬師堂からは本来のお詣りのルートをたどって山を下りました。とても急でしたが、所々階段があるため足さえしっかり踏みしめれば転げることはありません。ただし、下り坂の途中に何本もの竹が倒れていました。その竹を避けながら歩くのには難儀しました。
大泉寺の大師堂内部 上組から中郷に戻る道すがら
今回は新たに発見した史跡がありました。雨乞い岩,十心庵跡,住吉明神社跡,上組峠の大師堂です。T氏のお話を整理した後、再度麻里府に来ようと思います。そして、見つけることができなかった、中村荒神社と人麻呂神社を見つけようと思います。今回は天気が良く、早歩きしているとじんわりと汗ばんできました。Tmの親子様、お疲れ様でした。
ところで、麻里府や麻郷などで土地の単位に「じょう」という言葉がよく使われます。江戸時代から続く旧家の土地や場所をxxじょうと言うのです。あるいは普通名詞としても使います。例えば、「向こうじょう」は「向こう側の土地」を意味します。この言葉がずっと謎でした。漢字では「条」のようです。古代日本の区画割り制度の残滓ではないかと思われます。ある一区画を条と呼びますが、例えば横尾じょうは横尾家が治める一区画と考えれば納得がいきます。旧家が治める土地が「じょう」と深い関係にあるのです。こんな古代~江戸期の区画単位が今に残っているようなのです。
今回歩き回った麻里府上組
富永有隣関連の史跡などを訪問
今年、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に合わせて、我田布施町郷土館も吉田松陰に関わる富永有隣や楫取素彦関連の展示会を予定しています。また、町内にある史跡も案内する予定です。今回郷土館長のNさんと二人で、それに関わる史跡を確認し、富永有隣などの資料を保管しておられるT氏を訪問しました。
富永有隣の巨大な石碑と剪定予定の巨大庭木(カイズカイブキ)
富永有隣は幕末の長州志士の一人です。萩の野山獄に投獄されている時、吉田松陰と知り合いました。獄を出た後、松下村塾で一時教育に当たったこともありました。明治になってから奇兵隊反乱事件に関わり土佐藩に逃れていました。その後捕まりましたが、恩赦後に妹が嫁いでいる田布施町で余生を過ごしました。その時に定基塾と呼ばれる私塾を開いていました。その頃の彼を訪問したのが国木田独歩です。
富永有隣碑近くにある観音堂 観音堂の内部
富永有隣碑前の庭木(カイズカイブキ)が巨大に育っているため石碑が隠れて見えません。庭木を剪定する確認を地元の方としました。この有隣碑傍に観音堂があることに気が付きました。いつかこの観音堂を調査しようと思います。有隣碑の後ろにあったものを移築したとのことでした。
次に、富永有隣関連の資料を持っておられるT氏を訪問しました。T氏の家は美郷の丘キャンプ場の中にあります。史料をT氏の家から郷土館に運びました。ざっとその資料を見ると、明治から昭和にかけての城南地域の資料もたくさんありました。近いうちに、その中から展示すべき資料を選ぼうと思います。
美郷の丘キャンプ場の入口、冬のためか時計が止まったように静寂
我家裏のケヤキを伐採し、いただいた桜(陽光桜)の苗を植える
今、我家の樹木をいろいろ伐採しています。数日前、サトウカエデを植えるため庭木(カイズカイブキ)を伐採しました。今回、思いがけなく田布施町まるごと公園化プロジェクト(TMKP)より桜の苗を数本いただけることになりました。このため、以前から何かを植えようと思っていた場所にその桜の苗を植えることにしました。ただ、その場所はケヤキが植えてあります。そのケヤキを伐採することにしました。
伐採することにしたケヤキ(下画像の四角) ※左の大木は桜(ソメイヨシノ)
伐採するケヤキは、植えてから15年位経ちます。まだ小さいケヤキですが、慎重に伐採することにしました。まず、倒す方向にケヤキを引っ張るためのロープを張ることにしました。ブロックにロープを縛り付けて投げ、高い枝に絡めました。そして、高い枝にロープを結びつけました。
ロープを縛り付けたブロックを投げる 枝にロープを結んで引っ張り可
幹を引っ張る準備が整うと、チェーンソーで幹の根本を切りました。最初倒す方向にV字型に切りました。そして、反対側を切りました。幹がやや倒れ掛かった頃を見計らってチェーンソーのエンジン止めます。そして、わずかに倒れ掛かった幹を思い切り引っ張ります。すると、バリバリ音を立ててドーンと幹が倒れました。これで1本のケヤキを倒すことができました。
右が倒す方向、V字型に切る ロープを引っ張り、倒れたケヤキ
続いて、他のケヤキも伐採しました。伐採する要領は同じです。幹の高い所にロープを結びつけて、根元に切れ目を入れるてロープで引っ張るのです。計6本のケヤキを伐採しました。ケヤキが倒れると、周りが少し広くなり明るくなったように感じます。伐採したケヤキは、しばらくこのまま乾燥して薪にします。
四角は伐採して倒したケヤキ、山裾が少し広く感じる
伐採跡に桜の苗を約5m間隔で植えるつもりです。植える場所の距離を測ってみました。すると、21.4mでした。このため、苗を5m間隔で植えるとすると、計算上5本植えることができます。このため、桜の苗を5本いただくことにしました。
午後4時頃に、田布施町まるごと公園化プロジェクト(TMKP)のT邸に向かいました。いつもはバイクで行くのですが、苗を積めるように自動車で行きました。T邸に着くと、ちょうどYさんも来ていました。Yさんに桜の苗を保管している場所に案内していただきました。すると、思っていたより苗が大きく、私の車にぎりぎり入るかどうかでした。どうやって車に積もうか考えながら苗木を段ボール箱に移しました。なお、苗は2本ずつ束になっていたため、6本いただくことにしました。ありがとうございました。
この線上に桜の苗を移植 距離を測ると21.4m
いったんT邸に戻ると、東京からTさんが帰っておられましたので挨拶をしました。その後、Yさんのご厚意でYさんの車に積んで運んでいただくことになりました。普通車の私の車に積めなくて、軽自動車のYさんの車に積めたのです。次に車を購入するときは、いろんな物を積み込みできる軽にしようと思いました。Yさんありがとうございました。
1本だけ植えてみました。植穴を掘り、苗を植えました。そして、土を被せて踏みつけました。最後に、たっぷり水をやりました。
苗を保管してある場所、苗を掘り出す 苗を植える穴を掘る
ところで、今回植えた桜の上の方には、父親が30年前に植えた桜が大木に育っています。桜の寿命は60年と聞いたことがあります。30年後、今回植えた苗は大木になり、父親が植えた桜は寿命を迎えます。今から30年後、息子は祖父(私の父親)が植えた桜を植え替えてくれるでしょうか。植え替えて欲しいものです。そして、それを伝えて欲しいものです。
ケヤキを伐採した跡に植え付けた桜の苗木
田布施町郷土館 富永有隣資料を調査・分類
先日、田布施町城南に住むT氏より、富永有隣の資料を預かりました。衣裳ケース2個に入っている資料をまだ一部だけですが調査・分類をしました。富永有隣そのものの資料よりも、昭和13年に建立した顕彰碑に関わる資料がたくさんありました。まずは、その顕彰碑にかかわる組織,寄付,写真,賛同者などに関わる資料を目録に沿って整理しました。
富永有隣に関わる資料を調査中の郷土館長Nさん
衣裳ケースに納められた資料をざっと見ると、富永有隣顕彰碑建立に関わる資料と、当時の吉井村や城南村に関わる資料が多いように思いました。それも、幕末から昭和40年頃にかけての資料です。富永有隣の資料も大切ですが、幕末から昭和にかけての城南地区の成り立ちを知る史料も大切だと思います。虫が食った和紙などいくつもの不思議な資料がたくさんあります。これらの古い資料を、じっくり時間をかけて調査してみたいと思います。
番号付けを行って、分類・整理中の古い資料
柳井市 楽しかった柳井港~大畠ウォーキング(1/3)
11月に下見した柳井港~大畠コースを15人でウォーキングしました。下見ではコースが長く時間がかかったため、今回はコースを少しばかり省略しました。そのため、天気も良いこともありのんびりと楽しくウォーキングすることができました。9:20にJR柳井港駅集合です。JR田布施駅やJR柳井駅から電車に乗ってきた方、直接JR柳井港駅に来た方などさまざまでした。日差しが強いポカポカ日和の中、JR柳井港駅を出発しました。
スタートしたJR柳井港駅 下見以来の月性の銅像
下見では春日神社に行きましたが、今回はパスしました。駅の裏手に回って、普段見ない方向からJR柳井港駅を眼下に見下ろしながら歩き始めました。そして、線路を横切って月性の銅像前に出ました。銅像は以前、ぜんまい仕掛け?で回転していたそうです。今は回していないらしく、月性像は国道の方角だけを向いています。
松戸八幡宮の長い石階段を登る、登っていると発汗
月性の銅像を見学後、琴石山の方角にある松戸八幡宮へ向かいました。そして、長く急な石階段を登りました。天気が良いため、登っていると汗が出てきます。登りきると松戸八幡宮本殿です。お賽銭を入れた後お祈りしました。そして、海の方角を見ながら立ったまま休憩しました。
石階段の向こうに広がる街と海 松戸八幡宮の本殿をお詣り
松戸八幡宮の石階段を降りると、月性の清狂草堂に向かいました。途中、遠崎小学校跡を回り込むように歩きました。少し道を間違えましたが、無事に清狂草堂に着きました。今回15人いたので、団体扱いとなりました。そのため、料金は150円/1人でした。いただいた資料を皆さんに分けた後に説明を受けました。
東の松下村塾と言われた清狂草堂の前にて
下見の時は、丁寧に説明を受けたため時間がだいぶ過ぎてしまいました。今回は、30分位に短縮して説明を受けました。ところで、来月のウオーキングは田布施街の史跡をウォーキングしますが、月性の叔母が嫁いだ円立寺を訪問する予定です。幕末時に御坊さん達が結成した僧坊隊が円立寺にあったと聞きます。ただ、資金が不足で他の隊に吸収されたとか。お坊さんは字が書けたので、他の隊で重宝されたのではないでしょうか。
妙円寺前で説明を受ける 月性に関わる展示室を見学
月性関連の資料を見学し終わると、旧柳井港街を通って高台に登りました。右手に見える海を見下ろしながら、のんびりとウォーキングしました。そして、昼食をとる大畠ふれあい公園に向かいました。
左右を見ながら歩いた旧柳井港街 海を見下ろしながら高台の道を歩く
いただいた桜(陽光桜)の苗木を植える
田布施町まるごと公園化プロジェクト(TMKP)からいただいた桜の苗木4本を植えました。6本いただいたうち、1本はいただいた日に植えました。斜面の端に植えたのですが、スコップで植穴を開けるのには骨がおれました。笹が生えていた斜面ですので、地下は笹の根が広がっていました。根が邪魔をしてスコップがなかなか通らないのです。
苗木を植える場所に、5m間隔で棒を挿す
このため、今回はスコップではなくツルハシを使いました。なおツルハシで穴を開ける前に、巻尺を使って正確に5mごとに印を付けました。そして、その印の場所に棒を立てました。その下の斜面をツルハシで植穴を掘りました。今度は、笹の根を容易に貫通しました。
植穴5m間隔を正確に計測 ツルハシで植穴を掘る
穴を掘ると、桜の苗木4本を斜面に持ってきました。1本ずつ根を穴に入れては、根元に土を被せました。そして、足で踏み固めました。何度か土を被せては踏み固めました。最後に水をたっぷり入れました。この春、ちゃんと芽生えてくれるでしょうか。
残り1本の苗木は植えずに残しておきました。3月末に娘が山口県に来るようなので、娘自身の手で植えてもらおうと思っています。それまで、その1本を大事に裏庭に埋めておくことにしました。
桜の苗木を植え付け終わった裏山の斜面、四角:苗
柳井市 楽しかった柳井港~大畠ウォーキング(2/3)
柳井港の街並みを過ぎて高台の道を進むと、段々畑の向こうに海が見えてきます。真冬にも関わらず天気が良く、風が穏やかなため快適にウォーキングできました。去年の今頃、平生町の赤子山に登りましたが、その時は昼食中に雪が降り出してとても寒かったことを思い出しました。今回は、冬とは思えないような穏やかな一日です。
段々畑の向こうに広がる海を見下ろしながら快適なウォーキング
高台の道をどんどん行くと、左への登り道へ入りました。途中、老人ホーム大畠苑の横を通りました。そして、大畠バイテクファームへと向かいました。2ヶ月ぶりのバイテクファームです。
Oさんに逢うのを楽しみに、でも! Oさんの代わりの方に説明を受ける
私は、前回この大畠バイテクファームでお会いしたOさんに逢って談笑するつもりでした。そして、今回みんなを連れて来ることもお知らせしていたのです。ところが、どころが!Oさんは一日前に亡くなっていたのです。本当に驚きました。とてもショックでした。Oさんは柳井市のむろやの園で歴史研究会の会長もしていました。歴史のお話ができるかと楽しみにしていたのに残念です。合掌!
x十歳、お誕生日おめでとうございます! お弁当美味しかったかな?
Oさんの代わりの方に育成中のランについて説明を受けました。どんな花が咲くのかは受粉後に15年経ないと分からないとのこと。Oさんがいないこの大畠バイテクファームはどうなるのでしょうか?代わりの方がすぐに見つかると良いのですが。
大畠ふれあい公園で、今回のウォーキング参加者
ところで、今回x十歳ジャストのお誕生日の方がおられました。私が、小学校4,5年生時の担任K先生です。みんなで、ハッピーバースデイの歌を歌いました。Kさんはしきりに照れていました。今後も楽しく一緒にウォーキングできたらと思います。
もうすぐ大畠、高台の道を散策 上原東公会堂隣の薬師観音堂
大畠ふれあい公園で予定通り昼食休憩にしました。みなさんお弁当を広げて談笑しながら休みました。食べ終わった頃、お菓子などが配られました。私はいつももらってばかりですみません。昼食休憩が終わると、出発しました。途中、コロコロ滑り台を楽しみました。
薬師観音堂でいただいたお接待のミカン、ありがたいことです。
高台の緩い道を登り降りしていると、上原東公会堂隣にある薬師堂に着きました。ここで一時休憩をすることにしました。皆さんには薬師如来像などを見学していただきました。鐘を叩いていると偶然にも、近所の方がお接待を持ってこられました。ありがたくいただくことにしました。私も一つ食べました。ちょうど喉が渇いていたため、とても美味しかったです。ありがとうございました。
今回歩いた柳井港~大畠の高台コース
柳井市 楽しかった柳井港~大畠ウォーキング(3/3)
薬師堂を出ると、足を速めて大畠方面を目指しました。途中、遍照院の八十八番ヶ所巡り入口に寄りましたが時間がないため止めました。しばらく行くと、大島大橋が視界にどんどん入るようになり、JR大畠駅に近づいていることが分かります。大畠中学校を過ぎると、JR大畠駅が眼下に見えます。
田園風景を眼下に歩く 大畠中学校から、JR大畠駅と大島大橋
この周辺には神社がいくつかあるのですが、今回は全て回れません。次回に訪れようと思います。また、大島大橋を渡ってすぐの飯の山には展望台があります。この山も眺めが良いので、これまた次回のお楽しみウォーキングにしようと思っています。大畠中学校から緩い下り坂を下って不動院に寄りました。
大畠中学校からの下り坂、JR大畠駅や大島大橋を見下ろしながら歩く
不動院は扉に鍵がかかっていたため、中を見ることができません。仏像が盗まれるケースがあるからでしょうか。最近、お寺,院,庵,お堂などから仏像が盗まれて闇市で売られていることがあるそうです。まったくやり切れない思いです。このご時世、仏像を扉越しに拝むことができないのは仕方がないのでしょう。
不動院の内部、ガラス越しに 不動院の石階段を下る
不動院の次は、すぐ近くにある大畠のお大師様です。私はこのお大師様ではなく、柳井金剛寺のお大師様の方に子供の頃よく行きました。今回ウォーキングに参加したEさんは、私とは別に、この大畠のお大師様の方によくお詣りしたそうです。JR大畠駅や大島大橋を眼下に見渡せる高台にあります。
最後の訪問地である大畠のお大師様に到着
私は仏教についてはあまりよく知りませんが、得度を積むには大きく分けて次のような方法があるようです。それは、真言宗のように厳しい修行をして積む方法、そして浄土宗のようにひたすら念仏を唱える方法です。そのため、この田布施町では、霊場をまわって巡礼するのは真言宗のご住職が主導していたようです。
大畠のお大師様をお詣り 終点のJR大畠駅
そして、真言宗のご住職が亡くなった時に後継者に恵まれないと、別の真言宗のお寺のご住職に交代していたようです。田布施町の場合、かつては円満寺が巡礼を主導していたようですが、何十年か前に今の光福寺に引き継がれました。しかし今、光福寺のご住職もご高齢になられかつ後継者がおられないようです。そのため、つい数年前まで巡礼していた地域で困っているようです。
今回歩いた柳井港~大畠の高台コース
田布施町 商店街周辺の史跡を訪ねてウォーキングの下見(1/3)
来月予定しているウォーキングコースの下見をしました。これまでは、山,川,島,そして丘などをウォーキングしてきましたが、来月は田布施町中心部の商店街やその周りの史跡を巡ります。今回は、それらの史跡や歩くコース,トイレや休憩の場所,コースタイムなどを確認するための下見です。来月のウォーキングに参加できない方や観光協会のMさんなどが参加しての、楽しい下見ウォーキングでした。
江良碧松の句碑 真光寺の立派な石垣 真光寺の建物
集合したのは田布施町交流館です。最初、田布施庁舎前にある江良碧松の句碑を訪れました。この句碑の前で、田布施町内にある江良碧松の三つの句碑について説明をしました。その中の一つである浮島神社の句碑について詳しく説明しました。浮島神社の力石に刻まれた句碑を知らない方が多いようですので。
次に、庁舎の南側にある真光寺に行きました。そびえるような立派な石垣の間の坂道を上って、真光寺に行きました。そして、江戸後期の教育者漏田遠慶の石碑を見ました。
真光寺、拝ませていただいた立派な建物内部
漏田遠慶の石碑を見学した後、真光寺の建物内部を見学しました。とても立派な作りでした。私も皆さんと同じように拝ませていただきました。真光寺を出ると、すぐ近くの吉田菊之進の石碑を見学しました。吉田菊之進は、明治時代に女子教育の必要性を説いた人です。彼が設立した吉田裁縫所は嫻雅女学校となり、今の熊毛南高等学校の前身となりました。
岸信介元首相のお墓詣り 詩情公園を散策 定井手の石碑を解析
続いて、岸信介元首相のお墓詣りをしました。そして、その横の道を登って詩情公園に行きました。この公園からは田布施町を広く見渡すことができます。詩情公園を降りると、定井手に行きました。ここは、田布施川が真っ直ぐ南に向かって流れる起点です。江戸時代始め、この定井手から田布施川が人工的に直線に掘られました。それ以前は、定井手から薬師川となって田布施街内を通って灸川に流れ込んでいました。
田布施幼稚園を併設する龍巌寺の建物
定井手に着くと、田布施川決壊の記録が刻まれた石碑の文字解析を試みました。昭和25年のきじや台風による決壊に関わると思われる、決壊を防ぐための施設を昭和27年に設置したことの石碑のようでした。石碑を拓本で解析するなどして時間が取られてしまいました。
龍巌寺の内部、とても荘厳 近いうちに建物を建て替え
急いで次の訪問地である龍巌寺に行きました。幼稚園を併設しているお寺です。ちょうど、園児たちは昼食時間でした。龍巌寺の建物の内部を見学させていただきました。天井に古い太鼓が置かれているのに気がつきました。その昔、お葬式の合図などに使ったそうです。今は葬儀場が完備されているため、使うことは無いそうです。なお、建物が今の建築基準に合わないとのことで、近いうちに建て替えるそうです。
小さな小川の卵型岩 長合集会所が敷地内にある円満寺
龍巌寺を出ると、田布施中学校の北側を通り、線路を渡って長合に行きました。最初、小さな小川に横たわる卵型の岩を眺めました。この岩は、人が住み始める何千年も前からここに鎮座していたはずです。この岩に魂があるならば、古代からの田布施の歴史を聞いてみたいものです。
続いて、円満寺に行きました。ここは真言宗のお寺です。数十年か前にご住職が亡くなって以来、継ぐ方がいないとのことです。同じ敷地内に長合集会所があります。
下見で歩いた田布施町商店街周辺の史跡コース
田布施町 商店街周辺の史跡を訪ねてウォーキングの下見(2/3)
円満寺に来たのは、行者山に登った時以来です。円満寺は城南にも同じ名前のお寺があります。城南の円満寺の方に聞いたことがありますが、長合の円満寺とは関係がなく、たまたま同じ名前とのことでした。円満寺で少し過ごした後、国木田独歩の波野英語塾跡に行きました。その石碑は、通りに面したアパート前にポツンとあります。
通りに面したアパート前にある国木田独歩波野英語塾跡の石碑
国木田独歩がこの塾を開いた理由は、彼が富永有隣に逢って吉田松陰の松下村塾のことを聞いたからだそうです。吉田松陰のような塾を開きたい、と思ったのがきっかけのようです。しかし、この塾はすぐに閉まりました。その理由は、当時の田布施にはまだ英語教育は早すぎたからのようです。また、国木田独歩がクリスチャンであり、日清戦争に記者として従軍したように、一つの場所に腰を据えることができなかったことも理由のようです。吉田菊之進は同じ頃、田布施にじっくり腰をすえて吉田裁縫所を設立しました。当時は裁縫など実際に役に立つ教育の方が受け入れられました。吉田裁縫所は、今の熊毛南高校に引き継がれています。
田布施高等洋裁学院の跡 御嶽教田布施稲荷協会 祇園宮の石階段
続いて、祇園宮(八坂神社)に向かいました。途中、旧田布施高等洋裁学院の建物がありました。A君のお母さんはこの学校に通っていたそうです。そして、習った技術を使って田布施町内の洋装店に服を卸していたそうです。
当時、女性がお嫁に行く時に洋裁か和裁の技術を持っていることは常識の一つだったようです。私の母親も、ミシンなど裁縫道具一式を持ってきました。ところが、そのミシンはだいぶ昔に廃棄してしまいました。今、服は作るものではなく、買うものになってしまいました。時代は変わるものです。今の娘さんが嫁入りするのための常識はなんでしょうか。
昼食休憩した祇園宮(八坂神社)にて、下見参加者7名
田布施高等洋裁学院跡の建物を過ぎると、祇園宮(八坂神社)へ登りました。途中、地元で「お稲荷さん」と呼んでいる御嶽教田布施稲荷教会の横を通りました。祇園宮はそのすぐ上です。祇園宮からは、田布施町の商店街をよく見下ろすことができます。ここで昼食休憩を取りました。みなさんと談笑しながらの楽しいお昼時でした。
広々とした大内公園 伏木観音堂にお詣り 祇園観音堂にお詣り
次に大内公園に行きました。この周辺の地域では招魂場といっているそうですが、その慰霊碑はないようです。広々とした公園広場の北側に巨大な忠魂碑が立っています。戦時中、この広場からたくさんの若者が出征したのでしょう。大内公園を過ぎると、伏木観音堂にお詣りし、続いて祇園観音にお詣りしました。
商店街通りのお地蔵様 長岡商店の古い建屋 波野市の祠
祇園観音から旧田布施町商店街に入りました。この道を歩いていると、昔の賑やかだった頃を少し思い出します。今回参加した方々も歩きながら、キョロキョロと左右を懐かしそうに見ていました。お地蔵様,長岡商店の趣のある古い建屋,そして江戸時代から明治にかけて盛んだった波野市(市場)の名残りの祠を見ました。この祠の前で市場が開かれていたそうです。
大恩寺の「飢民の碑」を見学
波野市の祠を過ぎると、大恩寺に向かいました。そして、入口に入ってすぐ左手にある「飢民の碑」を見学しました。この時の飢饉は悲惨なものがあったそうです。東北では、娘を売るほどに困窮したそうです。田布施ではどうだったのでしょうか。娘を売ったとの話は伝わっていないので、それはなかったようです。
食べる物が無くなれば、体の抵抗力も無くなり病気も蔓延します。当時の1/3位の方が亡くなったそうです。特に子供が多く亡くなったのではないでしょうか。当時は、多く生んで少なく育ったようです。子供が七歳まで育つのは難しく、だからこそ七五三のお祝いは切実だったのです。
下見で歩いた田布施町商店街周辺の史跡コース
田布施町 商店街周辺の史跡を訪ねてウォーキングの下見(3/3)
大恩寺を出ると土井の内に行きました。ここには、薬師堂があります。中には立派な薬師如来像があり、薬師和讃が書かれた板もありました。近所の方々は、この薬師堂に集まって薬師和讃を唱えるのでしょうか。よくは知らないのですが、この和讃は薬師如来の徳を唱えた御詠歌のようなものではないでしょうか。
土井の内の薬師堂 旧薬師川右岸を散策 灸川の堤防沿いを散策
薬師堂のすぐ近くに、石の道しるべがあります。ここから左に向かうと余田に、右に向かうと平生と刻んであります。かつてはここが、柳井からの道と平生からの道の合流地点だったのでしょう。薬師堂をすぎて、旧薬師川を通って灸川に向かいました。法寺坊の墓地横を通りすぎると、堀川に出会います。この薬師川と堀川の合流地点には、かつて船回しと呼ばれる池がありました。海から堀川を上げ潮に乗ってきた船が、ここで舳先を回転させるのです。ここで荷を降ろして新たな荷を積み込みます。そして、同じ堀川を引き潮に乗って再び船は海に向かったのです。
江戸の昔、田布施の一本松や波野市などを流れていた薬師川の痕跡
船回し跡を過ぎると、どんどん旧薬師川右岸を進みました。やがて、灸川に突き当たります。ここに来ると、かつての薬師川の川幅を実感できます。今は小川程度の水しか流れていませんが、今の田布施川を築く前は相当な水量だったと思います。江戸時代以前の田布施はこの薬師川の氾濫に悩まされ続けてきました。しかし、江戸時代に定井手から人工的に田布施川を築いてからは、水のほとんどが田布施川に流れるようになり氾濫が少なくなりました。
江戸時代と同じ流れの灸川 かつて平生と田布施を結んだ石橋
灸川には立派な石橋が残っています。この橋は、かつて竪ヶ浜から田布施に来る人が渡っていた橋です。江戸時代初期、竪ヶ浜沖はまだ海で平生も海の底でした。地名「竪ヶ浜」は、かつて海岸だったことを明確に示しています。竪ヶ浜方面からくる人は、荒木の山沿いの道を経由してこの橋を渡りました。そして、薬師川沿いに田布施に向かったのです。
昔は賑やかだった天神様 レトロなポスト発見! 田布施市の祠
石橋の近くに、ぜみ(清水)が湧く岩があります。かつてこの付近は海岸近くでしたので、山から染み出る岩清水は貴重だったのではないでしょうか。岩清水を見た後、来た道を戻って天神様に行きました。そして、田布施市の祠(通称:恵比寿様)を見学しました。その近くに、懐かしいレトロな郵便ポストがありました。
幕末に僧錬隊の駐屯地だった円立寺
次に、円立寺に行きました。ここは、幕末元治元年(1864)に結成された僧錬隊が駐屯していました。お坊さん達が結成した奇兵隊と言ったところでしょうか。経費の関係で長続きしなかったようです。なお、円立寺は月性(柳井の妙円寺十世住職)の叔母(織江)が嫁いだお寺です。海防論者の月性に影響を受けて、僧錬隊を結成したのかも知れません。
なお、吉田松陰や杉家の菩提寺である泉福寺の十世住職大敬は月性の叔父にあたります。吉田松陰と月性はお寺のネットワークを通じて知り合ったのではないでしょうか。吉田松陰は、月姓の海防論などに影響を受けたと思われます。
人工の川、田布施川 さくら橋のモニュメント
円立寺を見学すると、次にフランス食堂前のお地蔵様に行きました。このお地蔵様は平和霊場六十六番札所です。板にそのことが書かれていますが、文字が今にも消えそうなほど薄くなっています。次に、国森の古塚に行く予定でしたが、うっかり忘れてしまいました。2月の本番ウォーキングでは忘れないように訪問しようと思います。これで、今回の下見ウォーキングは終わりです。参加された方、お疲れさまでした。
ところで26日から10日ほど、私は東京の我家に行きます。時間があれば東京をウォーキングしようと思います。
下見で歩いた田布施町商店街周辺の史跡コース
くぬぎなど椎茸用樹木の切株から出たひこばえを剪定
椎茸用に伐採したくぬぎの切株からひこばえがたくさん出ています。このまま放置すると、たくさんの芽が伸びて見栄えが悪くなります。さらに、それぞれが細いまま伸びてしまいます。このままでは10年後に椎茸用の原木として使えません。このため、芽を1本又は2本に間引く作業をしました。
剪定する前の根本、ひこばえがたくさん
細いひこばえは剪定バサミで切り、太いひこばえはノコギリで切りました。伐採した根本周辺はどうしても日陰になります。このため、背が伸びて太陽の光を十分浴びることができる高さに成長するまで数年かかります。椎茸用として伐採するのは10年後頃になると思います。
細いひこばえは剪定バサミで切断 太いひこばえはノコギリで切断
椎茸用の原木は、およそ10年位の単位で伐採を繰り返します。古い山では根元がこぶだらけの原木があります。このような木は、何十年も伐採が繰り返されてきた木です。里山にはこのようなこぶだらけの椎茸用の木が残っているものです。
2本のひこばえを残すように剪定した根本
椎茸用に伐採した木は数本あります。これら数本の根本をすべて剪定しました。このように、椎茸用のくぬぎやならの木は再生力があります。いわゆる、再生可能農業のひとつが椎茸栽培です。我家の山は広くないので、せいぜい自給用の椎茸だけしか作ることができませんが、お金を使うことなく新鮮な食料を得ることができることを、ありがたく思っています。
ある原木の剪定した根本 この根元も2本のひこばえを残す
寒い冬、黄梅が満開
我家で年初めに一番早く咲く花は黄梅です。黄色の花びらが枝いっぱいに咲いています。不思議なのは、普通こんな綺麗な樹木の花は虫が花粉を媒介します。虫がいない厳冬期にどうやって花粉を媒介させるのでしょうか。風媒花ならば、こんなきれいな花は必要ありません。そもそも風媒花の松や杉は花がありません。黄梅は、冬でも花粉を媒介する虫がいるのでしょうか。もしいれば、見てみたいものです。
我家で満開中の黄梅
越冬中の紫大麦
去年の11月初めに種をまいた紫大麦、寒さの中を順調に越冬しています。麦が越冬する姿には2種類あります。1種類は葉がつんと上を向いています。このような姿の麦は耐寒性が弱いとされています。もう1種類は葉が地面にペタリと這っています。耐寒性がある麦は地面を這うそうです。この紫大麦は後者のようです。3月になって暖かくなると、葉が伸びてきます。どの位たくさん穂が出るか楽しみです。
葉が地面を這っているような姿の紫大麦
裏山の東斜面すべて笹刈り
去年の冬から、裏山斜面の下草である笹を刈っています。今回は、裏山東面の最後の斜面部を刈取りしました。桜の大木の下に生えている笹です。桜の陰になっているためあまり太く育っていませんでした。このため、紐を使って草刈りをしました。下草を綺麗に刈り取ると芝生のようです。見ていて気分が爽快になります。次回は、南向き斜面の笹を刈り取りしようと思います。
今回下草である笹を刈り取った東斜面
柿の木を剪定
一昨年苗を植えた柿の木を剪定しました。一昨年,去年と何もしなかったため、枝が混んできたからです。大好きな果物の一つが柿なのですが、どういう訳か我家には柿の木がありませんでした。東京の我家には立派な柿があったので、毎年のように柿を収穫して食べていました。周りの家に配るほどたくさんの柿が成りました。山口県の我家でも柿を食べたいと、一昨年苗を植えたのでした。ちなみに、去年は実がたくさん成ったので、小さな実を数個に減らしました。しかし、食べることができるまで大きくなった実はありませんでした。
無駄な枝をノコギリで切断 切り口は消毒液を塗る
柿の選定方法を正式に習ったことはないので、自分なりに無駄と思われる枝を切りました。そして、切り口からばい菌が入らないように消毒液を塗っておきました。まだ背が低い柿の木ですので、上に伸びる枝は数本残しておきました。来年以降は、背伸びして柿の実が収穫できる高さに保とうと思います。また、成り時期が違う種類の柿をもう一本植えてみようかと思っています。自分の家で果物を自給できることは、ある意味贅沢ではないかと思います。
剪定が終わった柿の木、今年は何個実が成るでしょうか
伐採した庭木でたきび、暖まるう!
先日伐採した庭木(カイズカイブキ)を焼却するため、久しぶりにたき火をしました。最初段ボールを燃やして、だんだん大きな木や湿った木を燃やしました。庭木はまだ十分に乾いていませんがよく燃えました。寒い今の時期は、たき火に限ります。夕方、暗くなり始めた頃のたき火はとても暖まります。
たき火で燃やしている庭木(カイズカイブキ)