先月、奈良の大岩を深針調査しましたが、深針の棒が短かったため、あまり正確に計測できませんでした。今回、長さ180cmの鉄棒と230cmの細棒を持っていきました。そして、前回より正確に大岩の形状を調査してみました。最初、より体積を正確に調べるためA君が大岩の頂上に登りました。そして、大岩の高さを計測しました。すると、3.0mの高さがあることが分かりました。
大岩の頂上に登って、周囲を見渡すA君
次に、大岩を取り囲む南北の長方形を計りました。すると、南と北の一辺の長さはそれぞれ650cm、東と西の一辺の長さはそれぞれ800cmでした。そして、上から見た大まかな形状をスケッチしました。その結果は下図のとおり、C~Dはほぼ直線、E~F~Gはゆるかなカーブ、そしてG~A~Bはさらにゆるいカーブであることが分かりました。将来ドローンで上から空撮すれば、より正確な形状が分るはずです。
大岩を上から見た、おおまかな形状
続いて、一番知りたい大岩の地下形状を調べてみました。最初、地下に垂直に岩が続いている上図のC近くを深針してみました。岩から10cmずつ離れながら、斜め約45°の角度で打ち込みました。すると、多少凸凹するもやはり地下深くにそのまま潜っていることが分かりました。山側にスカート状に繋がってはいませんでした。
次に、上図のE地点から斜め約30°の角度で打ち込みました。すると、どこまでも刺さります。しかもほぼ30°の角度で奥深く続いています。2m以上も刺さるため、大岩の直下中心部がどうなっているかは今回も分かりませんでした。
上図、C地点の地底図 上図、E地点の地底図
これらの計測の結果、大岩の北側A~D(5m)は、地下深く続いていると思われます。また、大岩の南側は、今回の探針調査では届かないほど深くえぐれていることが分かりました。そのため、大岩中心部の直下はどのような形状になっているのかは、相変わらず謎のままとなりました。なお、大岩下のどの窪みにも廃ビニールが詰め込んでありました。この廃ビニールを全て取り除くだけでも、大岩の地下形状が少しでも分かるのではないかと思います。
江戸や明治頃はもしかして、人が雨宿りできる程度の窪みがあったかもしれません。そして、戦後にビニールなどの廃材が詰められた結果、窪みがふさがり今は大岩があたかも地面に置かれてように見えているのではないでしょうか。
大岩の地下形状は相変わらず分からないままですが、巨大な岩山の頂点が大岩して顔をのぞかせているのかも知れません。大岩の下は、おそらく下図のようにおおきく窪んでいることが予想されます。さらに正確な形状を調べるには、地震探査計などを使うか、スコップなどで掘るしかありません。
奈良の大岩の、大まかな形状
大岩の形状を調べていると、田んぼ跡を挟んだ向かい側でTMKPの方々がラベンダーの苗を植え付けていました。大岩の調査が一区切りすると、TMKPの方々の所に行きました。そして、苗を二つだけ植える手伝いをしました。談笑していると、午前中に大岩でアルプスホルンの演奏があったことをお聞きしました。
私は、かつてトロンボーンをはじめとするホルン類を吹いていたことがあります。ホルンは、クラリネットのような音を震わせるリードがありません。唇を震わせて鳴らすのです。35年前鳴らすことができたホルン、今の私は鳴らすことができるでしょうか。
ラベンダーの苗を植え付けている、YさんをはじめTMKPの方々
奈良地区の調査が他にあるため、談笑後すぐにTMKPの方々と別れました。そして、奈良地区の西福寺跡を調査しました。田布施町の記録に無い寺跡です。おそらく、他のお寺の例に漏れず、明治初頭の廃仏毀釈で廃寺になったのではないでしょうか。
今回、悲しいことですが、この秋まで建っていた南平和第三番ヶ所霊場の三宅薬師堂が更地になっていることを確認しました。その言い伝えや記録を取っていたことだけが救いです。この薬師堂のように、次々と昔の民間信仰の証が消えていくのは悲しいものです。しかし、この現代ではやむを得ないことなのかとも思います。
ところで、大岩の形状を調査している時、誤って自分の指をハンマーで打ち付けてしまいました。痛いし血が出るし、困りました。いつものウォーキングでは薬や包帯を持ってきているのに、今回油断して忘れてしまいました。家に帰って薬を塗りました。
西福寺の目印である大銀杏を目指す 更地になっていた三宅の薬師堂
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奈良の大岩の形状再調査ほか
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