日光寺からは急な登り坂を歩きました。登っていると、家々が広く見渡せるようになります。この登り坂の途中に上段地区の墓地があります。ここからは、亡くなった方々が生まれ育ったであろう家々がよく見渡せます。お墓からこの村を見守りたい気持ちにさせられる場所です。江戸時代の年号が刻まれた墓石がたくさん並んでいました。
坂道を登り女体社へ到着 天神社への石鳥居 天神社に到着
しばらく山道を登っていると、女体社に到着しました。不思議な名前のお社です。すぐ下の日光寺が尼寺であることと関係があるのでしょうか。今、その由来を知っている古老は誰もいません。永遠に謎です。女体社のさらに上に天神社があります。近くにある立派な石鳥居をくぐって、長い長い石階段を登り終えた場所に天神社があります。この石鳥居や石段は、すぐ近くの岩永地区の採石場から運んできたとの言い伝えがあります。
天神社傍の開けた場所から、子供達が「ヤッホー!」
天神社前の広場は最近手入れがされていないのでしょうか、だいぶ草木が茂っていました。かつては、ここから九州が見えたそうです。いまは灌木にさえぎられて見えません。次に天神社傍の開けた場所にいきました。そこでしばし休憩です。その間、子供達は大声で遠くに向かって「ヤッホー!、、、ヤッホー!、、、」と叫んでいました。天真爛漫な子供達を見ていると心が和みます。
天神社から山道を下る 地元上段の祠に向かう 上段の祠の到着
しばらく休憩後、山を下りました。ひざ下まで伸びた雑草をかき分けながら、のんびりと下りました。少し降りると、舗装道路に出ました。予定では、江戸時代にら作られ、昭和初期に整備された溜池まで行く予定でした。しかし、日差しが強くなり時間もそれなりに過ぎていたためコース変更し、ここからスタート地点に戻ることにしました。
明地遺跡へ向かう 岩永地区のお地蔵様 防陽八十四番札所の人丸坊
上段からスタート地点の東田布施公民館にただ戻るのではなく、明地遺跡やお地蔵さんを訪ねながら戻りました。上段地区から岩永地区に入ると、南に広々とした田んぼを見ながら歩きました。最初、岩永集落の道端に安置されたお地蔵様を見学しました。続いて、田んぼのど真ん中を通る真っ直ぐな道路を通りました。
岩永地区の田んぼのど真ん中の道を進む
田んぼを左右に見ながら進むと、ポツンと安置された人丸坊に着きました。このお地蔵様は防陽八十八ヶ所霊場の八十四番札所です。かつては沢山の人が巡礼したのではないかと思います。その人丸坊周辺は広い田んぼが続いていますが、約二千年前は海岸線でした。そして、海岸に沿って集落(明地遺跡)があったのです。分銅型土製品が出土するなど、縄文時代から弥生時代にかけての住居跡が見つかりました。
明地遺跡を説明 東田布施小学校を通過 東田布施公民館に到着
明地遺跡を過ぎて、どんどん歩いて東田布施公民館に向かいました。途中、最後の史跡として有田翁の石碑を訪れました。石碑前で、明治時代にこの周辺を開拓した有田翁の説明をしました。その説明を終えると、今回の史跡巡りは終わりです。しばらくして、東田布施小学校傍を通過しました。東田布施小学校の国旗掲揚のためのポールは、東京オリンピック時(1964年)に使われたものの一つを運良くいただいて移設したものだそうです。そのポールを見ながら、スタート地点の東田布施公民館に戻りました。
ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした大波野地区のルート
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田布施町 楽しかった大波野ウォーキング(3/3)
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