郷 浜城のお地蔵様(北緯33°55'21.66 東経132°03'03.34)
2015.8.23 調査資料より
浜城の国道188線の南側沿いの浜城バス停留所前に、ブロック作り建物の中に一体のお地蔵様が安置されています。お地蔵様は台座の上に立っています。このお地蔵様に特に名前はないとのこと。不思議なことに、その隣に空の同建物が建っています。
左は、お地蔵様が安置された建物 右は、空の建物
今から60年位前、今のようなブロック作りの建物ではなく、四本の立派な石柱がお地蔵様の屋根を支えている建物だったとのこと。また、このお地蔵様は明治時代にKI氏他三名が発起人となって建立したとのこと。建立後100年以上も経っており、建立された理由の詳細は伝わっていないが、海か港での事故に関わるらしい。徳が高いお地蔵様とのことだが、どんなご利益があるか伝わっていません。
建立して以降、KI氏の親族であるK氏がお守りしています。昔は巡礼者が来ていたそうです。数年前まで、K氏が千防さんにお願いして8月24日の裏盆にお勤めをしてもらっていました。千坊さんが来ても、部落で集まるようなことをしなかったため、お接待はしなかったそうです。部落の人はこのお勤めのことを知りません。今、K氏以外に部落の人はお参りしていません。
平成6年頃の国道188線沿いの拡張工事で、道路が広げられ歩道が整備されました。工事前は細い歩道でした。道路を広げるために、K家,O家,そしてN家が土地を提供しました。道路の歩道を作るためにK家は井戸が無くなりました。その工事中に、工事車両が屋根を支える石柱やお地蔵様などを誤って壊してしまいました。お地蔵様の傍に、壊れた四本の石柱の残骸が残されています。このお地蔵様の台座に建立した三人の方の名前が刻まれていたとのこと。しかし、この台座も工事車両が壊してしまったとのこと。
壊れたお地蔵様は、城南の石屋に一時的に預かってもらったそうです。そして、お地蔵さまを補修してもらったとのこと。壊れた石柱の代わりにブロックを使い、その上に屋根を載せてあります。台座はコンクリートを塗って修復したため、建立した三人や建立日付が分からなくなりました。今、セメントが塗られた台座側面上部に「明」の文字が確認できます。明治の「明」ではないかと思われます。また、正面上部に「三」の字が確認できます。「三界万霊」と刻まれていたのか、または何かの番号だと思われますが確認できません。K氏が主に修理費用を出したそうで、修理のため4,5軒回り3万円かかったとのこと。お地蔵様,台座,そしてブロックで建物を建てて以降、今に至っているとのこと。
その道路拡張工事中にお地蔵様を移動する話が出たとのこと。そのため、数m西へ離れた場所に新たな建屋をブロックで作ったそうです。傍のN家(広島在住とのこと)に同意を得ようと広島まで行ったが、以後連絡が取れなくなったとか。N家の同意がないため、お地蔵さんはそのまま今の位置から移動することができないでいます。以降、移動先予定の建屋は空いたままとなっているのです。
ところでK氏が嫁に来た60年前頃、K家周辺は広場で前は海岸でした。傍にN家の塩田がありました。その塩田は後に田んぼになり、さらに今の会社になりました。この近くの海側に塩浜の番人小屋が二軒あったそうです。隣に住むO家は浜城の海で牡蠣の養殖をしていました。何年位養殖を続けていたのかは分からないそうです。永大の工場が平生湾に来た頃に、牡蠣ができなくなったとか。その頃、八海でも海苔の養殖ができなくなったそうです。
KI氏の元に、大島から養子に来たKY氏(K氏のご主人の父親)は生菓子の職人でした。このため、K家では以降おまんじゅうを作っていました。「かとくや」と言いました。鳥越のK商店などにおまんじゅうを出していたそうで、卸しに歩く人が二人いたとのこと。
K氏のお話では「田布施地方史研究会第113号で記載している「鳥越のこつり地蔵」は、私もお詣りした。お胸(よだれかけ)をいただいて帰って、咳が出なくなって体調が回復したら、新しいお胸を作って返した。いただいたお胸も返した。自転車で平生に買うものに行く途中に寄っては拝んでいた。建物の三方にお胸がぶら下げきれないほど吊るしてあった。いただいて帰るときは、傷んでいない良いお胸を選んで持って帰っていた。こつり地蔵は、ただの石の像だったように思う。このような昔の素朴な信仰を子供達に伝えないから、今この話が忘れ去られている。」とのことです。
※2015.12.9 頃 お地蔵様は隣りの空の建物に移動