万徳寺は早めの12時過ぎに出発しました。昨日の大雨とは違った快晴でしたので、冬にもかかわらずポカポカしていました。そのため、早歩きするとすこし汗ばんでくるのを感じました。宇佐木コミュニティーセンター横を過ぎてしばらく歩くと、白井小介の飯山塾跡に着きました。白井小介は第二奇兵隊を率いて幕末の戊申戦争で活躍しました。なお時間の関係で、白井小介の墓地へは寄りませんでした。
ポカポカ天気の万徳寺本堂前で
白井小介は政治的な手腕はあまりなかったようですが、山縣有朋と同様戦術的なセンスがあったようです。そのため山縣有朋と戦場の親友だったのではないでしょうか。実際、白井小介の顕彰碑に山縣有朋の名前が刻まれています。戊辰戦争末期、今の新潟長岡の小千谷で岩村などと共に河井継之助と一時交渉したようです。しかし、交渉は決裂して北越戦争に突入しました。この交渉決裂は新政府にとって痛手となったようです。司令官だった松下村塾生時山直八が戦死しています。
白井小介の飯山塾跡 青空にピンクの梅 白井小介顕彰碑に向かう
白井小介の飯山塾跡を見学し終わると、田布路木峠の十心庵に行きました。ところで、この十心庵はいつ建立されたのでしょうか。実は5~600年前から江戸時代にかけて、麻里府の中郷に十心庵があったとの伝承があります。十心庵は念仏道場のような場所だったそうで、古い地図によりその場所も分かっています。昭和の初め、その跡に灯篭のようなものがあったそうです。田布路木の十心庵は、麻里府から移転した十心庵ではないでしょうか。近隣で同じ庵名をつけるはずがありませんので。しかし、今となってはその事実の詳細は分かりません。
国木田独歩石碑前で 国木田独歩石碑 阿弥陀寺に到着
十心庵を見終わると白井小介顕彰碑に行きました。そして、すぐ隣の国木田独歩の石碑を見学しました。国木田独歩の書いた帰去来に、田布路木峠からふるさとの高塔山が見えたとの記述があります。当時、その高塔山の麓近くに独歩が仮寓していた吉見家がありました。吉見家から初代大野毛利が出たことを独歩は知っていたでしょうか。なお、明治過ぎ、この吉見家に泥棒が入ったのですが、すきを見て奥方が薙刀で泥棒に切りつけたとのこと。そして、深手を負った泥棒は通報により警察に捕まったそうです。明治になっても、吉見家には戦国時代の気風が残っていたことが分かります。
土穂石川を上流に向かって歩く
国木田独歩の石碑を過ぎると、周東病院前で188号線下の地下通路を通りました。そして、旧道に出ました。続いて、かつて旧道に通じていた橋跡を見ました。その後、188号線を渡って、阿弥陀寺に行きました。江戸時代、阿弥陀堂があり防陽八十八ヶ所霊場の第五番札所でした。明治以降、正式なお寺になりました。阿弥陀寺を出ると、土穂石川を上流に向かって土穂石を目指して歩きました。
今回歩いた、平生町の宇佐木、田布路木方面ウォーキングコース
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平生町 楽しかった宇佐木,田布路木方面の史跡探訪ウォーキング(2/3)
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