一条坊跡から100m位降りた所に、北水門の石垣がありました。この石垣は、比較的崩壊が少ないように思います。どの石垣もそうですが、崩壊が近づくと膨らんできます。それは、土圧や水圧が石垣にかかるからです。現代では崩壊を免れるように、石垣の角度や水抜き穴などが厳密に決められています。古代においては、防御面だけしか考慮して作られなかったのではないでしょうか。約900年後の戦国時代に作られた石垣は、見栄えや堅牢性などの点で見事です。戦国時代の石垣は、世界に誇れると思います。
朝鮮式石積み工法で作られた、石城山の神籠石
この石城山の神籠石(国指定史跡 石城山神籠石)は、朝鮮から伝わったとされる石積み工法で作られていることが判明しています。つまり、古代朝鮮半島の戦乱期(高句麗,新羅,百済など)でさかんに作られた石垣の作り方です。山の周りを鉢巻のように石垣で囲んでいます。さらに、この石垣の上は版築工法で土がかためられています。版築工法は、中国の万里の長城の作り方の一つです。石城山の神籠石は、古代において中国や朝鮮半島から伝わってきた技術です。渡来した人たちが、当時の日本に伝えたのでしょう。
塩田方面に下る十王口 西水門に到着 西水門の石垣を調査
北水門を出ると、神籠石に沿って西水門に向かいました。途中、塩田に降りる十王口を下ってみました。下った理由は、大日如来岩と獅子岩を見るためです。しかし、いくら下っても大日如来や獅子を彫った岩はありません。それらしき自然の岩を、大日如来岩と獅子岩に見立てているようです。少しがっかりしました。気を取り直して、西水門に向かいました。
西水門を見下ろす崖の上に坐って昼食休憩
西水門は三段の石垣から成っています。素人の私が見て、東水門や北水門と比べてやや粗雑に作ってあるようにみえます。石の大きさがばらばらで野積みのように見えます。また上から転がった岩がごろごろしていますし、水門の大きさなどが貧弱です。この石城山の神籠石は突貫工事で作ったのではないでしょうか。村人も無理に駆り出されたのかも知れません。
最下段の石垣に降りる 小さ目の西水門 休憩所跡に向かう
この石垣が作られた7世紀、朝鮮半島は戦乱続きでした。最終的に日本(倭)と百済の連合軍は、新羅と唐の連合軍に破れました。石城山の神籠石は、唐と新羅の連合軍が日本列島に攻めてくるかもしれない頃に作られたようです。防御を固めるのは急務のはずだったはずです。
東アジアの戦乱の結果は、その後の世界をほぼ決定づけました。つまり、唐やそれに続く、宋、明、清は東アジアの盟主(中華)として19世紀までずっと君臨し、朝鮮半島は常に属国として冊封体制に組み込まれることになりました。そして、その中華体制から外れた日本です。古代ローマ帝国とその周辺の蛮族などとの関係によく似ています。ローマ帝国が中国、近蛮族が朝鮮、遠蛮族が日本と言ったところでしょうか。しかし、蛮族だったはずのフランク族(英語の「frank 」,日本語の「フランクな」の語源)は、その後フランスなどになり、今は世界をリードしています。これだから歴史は面白いのです。
石城山に分け入って史跡を散策したコース
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光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(2/x)
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