急な坂をハーハー言いながら登り切ると、笹が生い茂る木陰の道に入りました。そして、しばらく登り続けると目的地の赤根武人の墓地に到着しました。赤根はもともとは医者の息子だったそうで、武家となるため赤根家に武家養子になりました。晴れて侍となった赤根は月性,吉田松陰,そして梅田雲浜に学びます。吉田松陰と梅田雲浜はともに安政の大獄で亡くなりました。
赤根家墓所にある赤根武人墓石
赤根武人は松下村塾で優秀だったようで、吉田松陰に加え梅田雲浜にも仕えました。安政の大獄時に雲浜の身の回りの世話をしたようです。ところで、同じ松下村塾内でも萩出身の塾生と、周防出身の塾生とは何か肌が合わないところがあったのではないでしょうか。赤根も世良も、毛利に仕える浦家の家臣だったからかも知れません。身分制度が強かった当時、どこか合わない空気があったのかも知れません。
赤根武人墓所近くからの風景 〇は、赤根武人墓所に向かう上り坂
赤根は清廉潔白で理の人だったのではないかと私は思います。高杉晋作のような無謀な生き方が理解できなかったのではないかと思います。幕末当時の軍事力などから判断して第一次長州征伐のように、第二次長州征伐でも敗北は必至の状況でした。奇兵隊の総監にまでなりながら、その時の判断ミスが命取りになったと思います。
しかし、当時の状況ではとうてい長州藩が勝つとは思えなかったと思います。高杉晋作の無謀とも思える回天義挙、徳川家茂の死など想定外の事態が続きました。そして長州藩が勝ちました。理よりも勢いが勝ってしまったのです。その時、赤根武人の出番は永久に無くなりました。
地元の方が手入れされているのでしょう、とても綺麗な阿月の砂浜
私は、赤根武人こそ明治政府に必要な人だったのではないかと思っています。常識的な理の考えを持っており、高杉晋作のように狂信的とも言える考えはありません。立派な明治政府の一員になったのではないかと悔やまれます。
去年、赤根武人に連なる方々にお会いしました。未だに靖国神社に祀られておらず、名誉回復がなされていないことが残念とのこと。名誉回復ができない原因は山縣有朋なのですが、赤根武人から奇兵隊を引き継いだ山縣有朋にとって、赤根を一生許せない何かがあったに違いありません。元々赤根の部下だった山形、赤根の奇兵隊時の戦歴を抹消したとの逸話が残っています。よほど、赤根が憎かったのでしょう。
世良修蔵屋敷跡 往還道の地蔵尊 般若堂
た
赤根武人墓所を出ると、阿月中学校跡地を見学後、阿月の砂浜を歩きました。そして、世良修蔵屋敷跡、往還道のお地蔵様、般若堂、阿月漁港入口のお地蔵様、阿月漁港内のお地蔵様などを見学しながら楽しくウォーキングしました。次に、赤根武人屋敷跡やスキップした願成寺に行きました。
阿月漁港と漁港内のお地蔵様(恵比寿様)を見学
↧
柳井市 楽しかった阿月史跡巡りウォーキング(2/x)
↧