先日、呉麓山ウォーキングの調査のため田布施町城南西山地区にあるひかり観音に登ってみました。そして、その鏡のような岩を見ました。その岩と、古代にピカリと光っていたと言う伝説の関係を確かめてみたくなりました。そこで、その鏡のような岩がほぼ東を向いていることから、もしかしたら東に登った太陽光をひかり観音が反射しているのではないかと思いました。そこで、その反射先の範囲(反射光が見える場所)を想定してみました。
下の図で、中心の赤い線はひかり観音から真東を向いた線です。上に向かう赤い線はひかり観音が見えやすい北限線です。下に向かう赤い線はひかり観音が見えやすい南限線です。
ひかり観音が見えやすい視界の北限南限範囲
ひかり観音が見える視界の角度範囲は、真北を0度として83度から101度の範囲です。なお、真東は90度です。真東90度の位置にある太陽は、夏の7〜9時の頃です。もし、真東に太陽があるときに、ひかり観音からの反射光が見えたと仮定すると、下の図の中心の赤い線上です。場所は、田布施駅脇の陸橋、祇園様などの線上です。
伝説では航行する船から光が見えたそうです。古代、柳井〜田布施〜平生にかけては海でしたので、船が航行していたのは間違いないようです。ところで、古代の船は、今のような動力はありません。風,オール,そして潮流で航行していたはずです。今のヨットのように風を使いこなせかったと思われるため、主にオールと潮流だったのではないでしょうか。何かの資料に、古代の航法が載っていたように思います。柳井から船で来て、平生に船を進める場合の航行方法は次のようだったと思われます。
柳井から上げ潮に乗って余田近くまで行きます。余田に着くと、オール(櫂)で八和田近くまでこぎます。そして今度は、下げ潮に乗って平生を抜け瀬戸内海に出ます。このように潮の干満を使って船を進める航法は、速度がやや遅いものの一番楽ちんな省エネ航法です。上関側を通るより楽ではなかったかと思います。
なお、この航法はつい最近の明治時代まで行われていたようです。今の大晃機械傍の法寺坊近くあったらしい船回し、上げ潮の時に水場や八海から灸川を経由して運河の堀川を上りました。そして、田布施の荷物を載せた後、舳先を戻して下げ潮の時に同じく堀川を通って八海や水場に下ったようです。灸川にできた排水機場のため、今は堀川に潮が上がることはありません。
3日に数人でひかり観音に行って、岩の正確な傾斜角,仰角,高度,北緯東経,方角などを調査する予定です。この調査結果と天文知識を総合して、真意を精査しようと思います。
黄色は予定観測ポイント、青線は古代の航行ルート(推定)
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ひかり観音と「古代の光伝説」との関係(1)
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