天気が良いので、久しぶりに田布施川をウォーキングしてみました。ただ歩くだけではつまらないので、川沿いのお地蔵様や碑を訪ねました。河口である八海から瀬戸の新開橋間を往復し、他にもあちこち寄ったので、トータル16km位歩きました。
まず最初、我家から八海の天神社まで行きました。この小さな神社、お供え物が少ないので最近はお参りする人が少ないようです。昔はちょっとしたお祭り位はあったのではないでしょうか。この天神社をスタート地点にしました。この付近はその昔、家が2,3軒ありました。しかし、今は竹藪の中に石垣だけしか残っていません。
八海の天神社からスタート 田布施側から見た、廃墟のような2代目八海橋
天神社がある山を下りて、旧188号線を少し歩いて田布施川に出ました。すると目の前に、朽ちた2代目八海橋が無残な姿をさらしていました。私が子供の頃、この近くにあった八海バス停からバスに乗ってこの橋を渡り、平生や柳井によく行ったものです。今、3代目八海橋が隣にあります。
改めて2代目八海橋を見ると、とても幅が狭いことが分かります。車力や馬車の時代ならこの橋のままでも良かったのかも知れません。車社会の今、2車線が十分ある3代目八海橋ができたのは時代の要請です。
田布施川に無残な姿で残ってる2代目八海橋
3代目八海橋を渡って平生町に出ました。三新化学前を通ってすぐ、運河を右に歩きました。しばらく歩くと、何十年も使われていない残骸のような橋に着きます。蔓に覆われているため、よく見ないと橋と気がつきません。こくぼ橋です。漢字で小窪と書くのか小久保と書くのかは分かりません。ナタを持ってきたので、橋にまとわりついている蔓を取り除いてみましたが、橋名が書かれているような遺構は何もありませんでした。
蔓に覆われ残骸のような、こくぼ橋 神社でよく見かけるような遺構?
こくぼ橋のすぐそばに、神社でよく見かけるような石の遺構がありました。何の遺構でしょうか。祀った形跡がありました。その石の遺構から20m位離れた場所にお地蔵様があります。実はこの場所は、八海に渡し船があった時代、そしてその後の初代八海橋があった時代のなごりの跡です。麻郷の人は、八海の渡し船を渡ってこの「こくぼ橋」を渡って、このお地蔵様を拝んでから平生の街に行きました。江戸から明治時代にかけての古道の跡なのです。
私見ですが、このお地蔵様は八海に渡し船があった場所に置かれているお地蔵様(天保8年1837年安置:八海地区の言い伝え)とよく似ています。このお地蔵様は、八海のお地蔵様と対になっているのではないかと思われます。
古道右側の、少し傾いたお地蔵様 江戸時代に安置されたらしいお地蔵様
なお初代八海橋が架橋される前、約1km上流に人島橋が文化9年1812年に架橋されていました。人島橋が架橋されてから数十年後、初代八海橋が架橋されたようです。渡し船では需要を満たせなくなり、初代八海橋が架橋されたようです。八海側のお地蔵様は、渡し船の時代か架橋時に安置(天保8年1837年)されたのではないかと思われます。なお、渡し舟をしていた家(屋号:渡し屋)のご子孫が、初代八海橋があった場所(渡し舟をしていた場所)に住まわれています。
なお八海地区の方から聞いた話ですが、初代八海橋は昭和20年代まであり、ルース台風で壊れた後に撤去されたそうです。その頃、すでに2代目八海橋は架橋されていました。初代八海橋が撤去されるまでしばらくは、初代と2代目は並立していたのではないでしょうか。その並立していた頃まで、こくぼ橋も使われていたのではないかと思われます。その後、三新化学ができた時に、完全に初代八海橋とこくぼ橋間の道が遮断されたのではないかと推定できます。
今、八海橋は3代目の橋が架橋されています。一方の人島橋は昭和2年に再架橋された後、昭和40年頃廃棄されました。国道188号線が通る八海橋の重要性は今や不動です。
江戸〜明治期、当初渡し舟で、その後架橋された初代八海橋を通って、
こくぼ橋を渡り、平生の新市付近に出る
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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(その1)
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