7月にいただいて植え付けたフジバカマの苗、今年は花は咲かなくても根付けば良いぐらいに考えていました。そして、来年花が咲けばいいなぐらいに思っていました。ところが、小さなつぼみがたくさん付いていることに気が付きました。もうすぐ咲きそうです。元々は雑草であるフジバカマ、周りの雑草に負けないで背が伸びて、しかも花まで咲くとは思っていませんでした。この調子だと、来年はもっとたくさんの花が咲いて、蝶々のアサギマダラが蜜を吸いにやって来るかも知れません。
たくさんのつぼみが付いたフジバカマ
一方、フジバカマの隣に植えてある藍は今が花盛りです。花そのものはとても小さいのですが、たくさん咲くので遠くからでも目立ちます。タデ科なので、雑草のタデも今が花盛りです。雑草のタデも藍も、同じ色に同じ花の大きさです。そのため、遠くからはほとんど区別がつきません。数週間後に採種しようと思います。
小さな花が無数に付いた藍の花
苗を移植したフジバカマがつぼみ、藍も開花
田布施町 少年少女発明クラブ 10月の工作
1ヶ月ぶりの少年少女発明クラブでした。9月までは、発明工夫展への出品物の工作や、チャレンジコンテストのための工作、そして夢絵画展です。それらが終わって、10月は新たな工作です。従来ならば、一度指導員が集まって10月の工作は何をするのか検討します。しかし、今年は発明工夫展がとても忙しく、検討する時間がありませんでした。そのため、去年と同じ工作をしました。
長い板をどう分ける? 45cmごとに線を引く 協力して切断線を引く
前日、工作に使う長い板を購入しました。最初から切ってある板ではなく長い板です。子供達にノコギリを使ってもらうためあえて長い板にしました。子供達は硬い板ではノコギリなどの工具を使いこなせません。そのため、少々高価でしたが桐の板にしました。ノコギリを切る感覚と釘を打つ感覚を、桐の板で養えればと思いました。
切断する線を引き終わると、ノコギリを使って自分の板を切り出す
各班に長い板を配布しました。最初に子供達がする作業は、板にノコギリで切る線を引くことです。ものさしや差し金を使って線を引きます。線を引き終わると、いよいよノコギリで自分が使う板を切り出します。ノコギリを使わないと、自分が工作に使う板を切り出せません。
絵を先に書こうか釘を打とうか どんな絵を書こうかな
大人には簡単なノコギリは、今の子供達にはなかなか難しいようです。昔は風呂焚き用などに使う木材をノコギリで切ることは子供の仕事の一つでした。私が子供の頃、五右衛門風呂の湯を毎日沸かすことが仕事でした。毎日のように山に行っては、その日燃やす枯れ木を探すのが日課でした。しかし、今の子供達にはノコギリを使う機会は無いようです。
先に釘を打ってから絵 うまく釘が打てるかな 先に絵を書いてから釘
自分が工作する板を切り出した後、いよいよ工作本番です。最初に釘を打ってから絵を書いても良いし、最初に絵を書いてから釘を打ってもかまいません。子供達に任せました。今年は先に絵を書いてから釘を打つ子が多いようです。桐の板は白いので、絵を書くには最適です。また桐は木質が柔らかいので、釘も容易に打ったり抜いたりできます。
絵を書いた後、金槌を使ってどんどん釘を打つ
長い一生、金槌やベンチなどは必ず使います。金槌を使って釘を打ち、ペンチを釘を抜く経験をたくさんして欲しいと思います。今の世の中、使い捨ての世の中になってしまいました。それでも、金槌、ノコギリ、ベンチ、ドライバーなどの工具を使えることは、エコで経済的な生活につながると思います。さらには、自分で考え工夫できる自立した生活につながると思います。
3年生には難しい釘打ち 工具をどんどん使う 絵の上にどんどん釘打ち
田布施町 史跡(古墳)探訪ウォーキング
8日午後、山口博物館主催,田布施町協賛の史跡探訪ウォーキングがありました。一般客17名(田布施町8名,その他7名)、そしてスタッフを合わせて24名が参加しました。郷土館に13時集合です。ウォーキングする前に、郷土館2階の学習室と埋蔵物展示室で、山口大学の先生より古墳について講義がありました。
主催者挨拶と説明 埋蔵物展示室で講義 埋蔵物一つ一つの解説
40分程度の講義が終わると、実際の古墳を巡ることになりました。最初に行ったのは古墳初期に作られた国森古墳です。山口県内で今のところ一番古い方型古墳です。観音橋袂まで車で行き、そこから歩きました。国森古墳に着くと、葺石が一番最初に目につきました。この古墳は、大和朝廷が政権を確立する前の4世紀頃に作られたそうです。
木立の中にある国森古墳頂上部で解説を受ける
国森古墳の見学が終わると、次に石走山古墳に行きました。国森古墳は竪穴式のため石室はありません。しかし、古墳中期に作られた石走山古墳は石室がきれいに残っています。続いて、県内最大の石室がある後井古墳に行きました。石室内は大部屋に相当するぐらい広い空間に特徴があります。この頃になると、雨がパラパラと降ってきました。そのため、稲荷山古墳はスキップしました。
石走山古墳の石室開口部 後井古墳石室開口部 御蔵戸古墳への細道
後井古墳からは500m位、パラパラ降る雨の中を歩きました。そして、御蔵戸古墳に行きました。この古墳は、4年ほど前に来たことがある古墳です。その時に比べて草が刈ってあり古墳まで容易に行くことができました。しかし、この古墳は天井が傷んでおり、いつ倒壊してもおかしくないとのこと。御蔵戸古墳を出ると、すぐにワゴン車に乗って、田布施町郷土館に戻りました。雨の中、主催者の方々ありがとうございました。
今回史跡ウォーキングして回った古墳
久しぶりのミニ同窓会、ご馳走様でした。
同級生を中心としたいつもの仲間たちが集まり談笑しました。私が子供の頃、何十年もの未来にこうして集まり談笑することになるとは思いもよりませんでした。美味しい手料理にお酒が少々入り、楽しい夕べが過ぎていきました。ありがたいことです。今後ともよろしくお願い致します。
長生きする理由の一つに、ふだん楽しく交流する仲間がいることが挙げられています。これはクリアしているように思います。もう一つの長生きする理由の一つに、ストレスがあまり無いことが挙げられています。今の私は、これが少々心配の種です。この春思いもかけず、やりがいはあるのですが結構面倒な仕事がいくつか舞い込んできました。来年になれば、これらの仕事に慣れてくるのではないかと思います。そうすれば、私の癒しの元である農作業ができるようになると思います。さてどうなることやら。
夕方、いつもの仲間たちと楽しいひと時
半ば放置のトウモロコシ畑、思いがけずたくさん収穫
6月中旬に種を蒔いた硬質トウモロコシを収穫しました。種を蒔いた後、一度だけ根元の雑草を取りましたが、あとは放置していたトウモロコシ畑でした。農薬をいっさい使わなかったためトウモロコシの害虫アワノメイガが大発生しました。そのため、あまり収穫を見込めないと思っていました。冬の前にトウモロコシ畑を整理しなければなりません。ダメ元で実を収穫することにしました。
根元が雑草で覆われたトウモロコシ畑
予想通り、アワノメイガの食害によって何本かのトウモロコシが倒れていました。しかし、倒れなかったトウモロコシには茎一つに実が一つの割合であるではありませんか。全滅かと思っていたら、焼いたりコーンスープにして食べるだけの量は収穫できそうです。トウモロコシ畑を回って実を集めました。50本以上の実を収穫することができました。あれほど激しく害虫に食われたのに、これほど収穫できるとは。
害虫被害のないトウモロコシの実 50本以上の実をいったん天日乾燥
収穫した実は、一昨日の雨で湿っていました。そのた、数日間天日乾燥することにしました。試しに1本の皮を剥いでみました。すると、黄金のような実が並んでいました。これは美味しそうです。スイートコーンではないので、そのままでは食べられません。火であぶりながら軽く焦がすと、昔のトウモロコシの味が堪能できます。私が作っているトウモロコシは、昔の品種「甲州」に近いので、今お店で買うことができません。ある意味、贅沢品です。
並んだ黄金色の実、軽く焦がすと昔のトウモロコシの味
冬野菜(小松菜,タアサイ,葉大根,チンゲンサイ,春菊)の種をまく
去年は9月に冬野菜の種まきをしました。しかし、今年は10月になってしまいました。小松菜はたくさん食べるため多く種を蒔きました。その他の小松菜,タアサイ,葉大根,チンゲンサイ,春菊は少な目に種を蒔きました。
今回種を蒔いた冬野菜 クワで畝を耕す レーキで畝を整形
秋の畑作業で残っているは、サツマイモの収穫,小麦の種まき、そして枝豆の収穫です。まずは、11月の初めの麻郷公民館祭に間に合わせるため、10月末にサツマイモを収穫する予定です。そして、枝豆収穫パーティーをする予定です。そして、11月末に小麦の種まきが終われば、秋の農作業は終わりとなります。
小松菜,小松菜,タアサイ,葉大根,チンゲンサイ,春菊を種まき
田布施町 古代と中世の地形を辿るウォーキング(1/3)
いつもは大師堂や寺社などの史跡を巡るウォーキングをしています。しかし、10月は田布施町の古代や中世がどんな地形だったのか知るウォーキングにしました。今回その下見をしました。いつもは、下見をしてから案内ハガキを出すのですが、仕事などが忙しくて下見が後になりました。
古代、海だった頃の田布施(田布施川はまだ無い) 赤線は今回下見したコースた
よく古代田布施の中心部は海だったとの話を聞きます。そして、その海を干拓して今の田布施ができたとの話も聞きます。そこで、海がどの範囲にあったか、中世の田布施川跡はどこかなどを知るためのウォーキングとすることにしました。古代や中世の姿を思い浮かべる想像力が試されるウォーキングです。スタートしたのは田布施町交流館です。ここから田布施川の堤防沿いに川を下りました。
交流館に集合 流れ荒神様 火伏大権現
途中砂田でお地蔵様を見学しました。一つは流れ荒神様です。田布施川の工事中に見つかったお地蔵様とのこと。そして、もう一体は江戸時代に由来があると思われる火伏大権現です。このお地蔵様はとても立派です。おそらく江戸時代の田布施大火により安置されたのではないかと思われます。
葉がだいぶ落ちた田布施川堤防の桜
毎年8月24日に50人位の人が集まります。大恩寺のご住職様が弔いをされ、お接待もあります。砂田地区の方々が守るお地蔵様です。柳井市にもやはり江戸時代の大火を弔うため八十八体の火伏地蔵が安置されています。
南平和霊場一番のお大師像 田布施川から古代浮島を見て
お地蔵様を過ぎて、旧関戸橋に近づきました。すると、小さな農機具様納屋があります。ここには南平和霊場一番のお大師像が安置されています。道路工事のため、一時的にここに避難されているお大師像です。近々旧関戸橋左岸に建物が再建されるそうです。続いて、古代において島だった浮島を巡りました。そして、山崎原遺跡を遠望しながら古代浮島を一周しました。
お米の収穫まっさかりの田布施川沿いの田んぼ
今の田布施川は、定井手から中央橋を経由、さらに関戸橋を経由して八海にに向かって真っすぐ流れています。しかし戦国時代(1585年頃)、定井手から田布施川を掘削する工事が始まりました。そして、江戸時代(1687年頃)までに関戸橋付近まで掘られました。その頃、関戸橋から熊毛南高校方面に向かって川が流れていました。さらに江戸時代(1687年頃)の工事により八海まで田布施川が延長されたと推定されます。その川は、古川とも呼ばれていました。記録にもあります。そして、その古川は地番名として今に残っています。また、航空写真を見てもその痕跡がくっきり見えます。その古川跡を横目に見ながら、灸川河口に向かってさらに田布施川を下りました。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
田布施町 麻郷公民館祭りの焼き芋用サツマイモのつる直し
8月中旬にサツマイモのつる直しをしましたが、2ヶ月ぶりの今回、最後のつる直しをしました。2ヶ月何もしなかったため、すっかり雑草に覆われていました。特に畑南端のサツマイモ畑はイネ科雑草植物でびっしり覆われていました。足の踏み場も無いほどです。まずは、通れるようにイネ科雑草植物を踏み倒しました。
イネ科雑草植物を踏み倒す 南側に生えたイネ科雑草植物を刈り取り
そして、サツマイモ畝の南側に生えたイネ科雑草植物を刈り取りしました。最初チップソーで刈り取りしましたが、注意深く刈らないと巻き付いてしまいます。草刈機を止めるなどして巻き付いた草を外しました。あせればあせるほど草が巻き付き、なかなか刈り取りが進みません。そこで、紐式刃に交換しました。紐式刃は刈り取り速度はとても遅いものの、雑草を細かく裁断できます。
畑南端サツマイモ畝の雑草を刈り取り、すっきり
草刈りが終わった畑南端のサツマイモ畝ですが、思っていたよりサツマイモの葉が茂っていました。やはり日当たりが最高な場所なので、雑草の伸びに負けないように成長したのだと思います。収穫が楽しみです。
次に、畑中央のサツマイモ畝の草刈りをしました。こちらの畝はやや日当たりが悪いため、雑草もあまり生えていません。サツマイモもあまり成長していません。サツマイモを作りには、やはり日当たりは重要のようです。
雑草が少ない畑中央のサツマイモ畝 西側の雑草を刈り取り
畑中央のサツマイモ畝は簡単に草刈りを終えました。雑草が少ない分、サツマイモの成長もよくありません。畑中央のサツマイモ畝は収穫量が少ないことが予想されます。今回の草刈りで、サツマイモ掘りの準備は整いました。11月13日麻郷公民館祭りの一週間程度前に掘って寝かせ、祭りの前日に提出しようと思っています。果たして、良い形のサツマイモ100本を収穫できるでしょうか。
草刈りが終わり、つる直しが終わった畑中央のサツマイモ畝
田布施町 古代と中世の地形を辿るウォーキング(2/3)
川添橋を渡り、田布施川の左岸堤防をどんどん下ると川尻に着きました。その川尻に小さなお地蔵様があります。文字らしいものが刻んであるのですが、今はもう判別できないほど風化が進んでいます。このお地蔵様は川尻地区の方々が交代で世話をしています。
川尻のお地蔵様 手水石が残る祠跡 灸川(左側)の河口
そのお地蔵様の向背部にはかつて祠がありました。しかし、今は手水石だけが残っています。その祠跡から10m位の場所に、灸川の河口があります。灸川と田布施川が合流するこの場所でよく魚が捕れました。私が子供の頃、お気に入りの場所でした。
平生新開のお地蔵様 熊高近くを流れる灸川 灸川傍の湧き水
江戸時代初め、田布施川はまだ無く灸川が大小の川を集める大河でした。今の倍以上の川幅だったのです。その頃の堤防跡を今でも見ることができます。当時、灸川を法寺坊まで船が上っていました。天神まで数百メートルの所まで船が来ていたのです。そして、当時の田布施波野地区の流通の一端を背負っていました。田布施川が完成後、灸川の水量が減ったため船が入れなくなりました。その時に運河である堀川が掘られ、そこを船が行き来するようになりました。船の舳先を回転させる船回しがあったそうです。
薬師川右岸の痕跡上にある道を歩く
田布施川から灸川の上流に向けて歩きました。そして、古代や中世の灸川を想像しながら歩き続けました。しばらく歩いて熊毛南高校前通りました。そして、湧き水が出る場所に出ました。この場所は田布施と平生の往還道です。平生から田布施に入る旅人は、ここで湧き水を飲んだのではないでしょうか。
薬師川の水を通す管 菅原天神をお参り 波野の旧街を通る
湧き水の場所から灸川にかかるコンクリート製の端を渡りました。ここから灸川に別れを告げて、かつての薬師川跡に入りました。川跡には水が流れていません。川が流れていた川幅20mの薬師川の痕跡だけが残っています。ちなみに、今の薬師川は堀川に流れ込んでおり、灸川には流れ込んでいません。その薬師川跡右岸の道を通りました。薬師川は波野の街に入ると単なる溝になっています。そして、その溝は蓋で覆われています。菅原天神をお参りして波野の街並みに入りました。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
我家裏に設置してある汚水処理タンクの掃除
今年も我家の汚水処理タンク掃除の季節がやってきました。去年までは私が仕事や何かの用事で見る機会がなかったのですが、今年はたまたま用事がなく我家にいたので掃除の様子を見ることができました。一般家庭では下水道が近くに通っているため、我家のようにタンクを地下に置いていません。我家は一軒だけ孤立しているため、個別に汚水処理用タンクが必要なのです。1~2年に一度、掃除する必要があります。
地下にあるタンク水をかき回すモーター タンクの鉄蓋を取り外す
作業員二人がやって来て、掃除の作業開始です。最初、汚水を吸い込む長いホースをタンクローリー車から汚水処理タンクまで伸ばします。伸ばし終わると、汚水タンクの鉄蓋を取り外して溜まった汚水を吸い出します。我家の汚水処理タンクは40年以上前の製品らしく、壊れても部品が無いそうです。そのため、地震などでタンクにひびが入るとタンクを取り換えるしかないようです。今のところタンクは傷んでいません。
汚水をぐいぐい吸い込んでいるタンクローリー車
タンク内をよく見ると、周りの木や草から伸びた根が垂れ下がっていました。今年の夏は日照りでしたので、根がタンク内に伸びたのでしょう。タンク内の汚水をすべて吸い終わると、伸びた根を取り除いたり、水を流してタンク内を掃除しました。その後、水を規定量まで貯めれば掃除が終わりとなります。作業が終わると、タンクローリー車は去っていきました。ご苦労様でした。
管をローリー車に巻き戻す 左は汚水管、右は水を流す管 1時間程度水を貯める
田布施町 古代と中世の地形を辿るウォーキング(3/3)
菅原天神社を過ぎると、今は溝でしかすぎない旧薬師川沿いに旧街を歩きました。しばらく歩くと、大恩寺の前に来ました。大恩寺と言えば、飢民の供養塔を訪れないわけにはいきません。大恩寺に入ってすぐ左にある飢民の供養塔を久しぶりに見ました。享保の飢饉時にたくさんの方が飢えて亡くなりました。飢民の供養塔は、それを言い伝える貴重な歴史遺産なのです。
大恩寺の門、門を入ってすぐ左に飢民の供養塔
大恩寺を過ぎると、東田布施小学校の元になった金星小学校跡地に行きました。今、小さな畑になっています。東田布施小学校開校後、金星小学校は無くなりました。その後、青少年育成の学校として残ったようですが、その欠片さえ今はありません。次に、長岡商店の所で左に道を曲がりました。そして、そのすぐの所に「ちえらるこ Open」と書かれた看板を掲げた民家がありました。この看板にひかれて、その民家に入りました。
金星小学校跡地 民家「ちえらるこ Open」 平和霊場六十六番札所
最初は小さな古民家喫茶店かなと思いました。周りを見渡しながら、ゆるりと座敷に上がらせていただきました。すると、赤ん坊を抱いた方ともう一人が出てこられました。この民家、ヨガをしたり、お話し会をしたりするそうです。いろいろお話をしていると、なんと一緒に下見したEさんのお嫁さんのお知り合いのようでした。話がどんどん繋がって、Eさんはびっくりしていました。
田布施町郷土館に立ち寄りトイレ休憩
民家「ちえらるこ Open」を出ると、すぐ近くの平和六十六霊場のお地蔵様を訪ねました。このお地蔵様は、近隣の方々が大切にしているようです。いつ行っても、花が活けてあり服が綺麗です。このお地蔵様の成り立ちをぜひ知りたいものです。大火供養、飢饉供養、火伏など、安置された頃の世相を反映しているお地蔵様ではないかと思います。
郷土館で音楽を聴きながら疲れを癒す 砂田のお地蔵様
平和六十六霊場のお地蔵様を過ぎて、国森の古塚を訪ねようと思いましたが、急いでいたので今回は止めました。次に、トイレ休憩のため田布施町郷土館に立ち寄りました。そして、疲れを癒す音楽を聴きました。11月末まで、真空管アンプや蓄音機でレコードを視聴することができます。郷土館を出ると最後に砂田のお地蔵様を拝みました。そして、出発地点の地域交流館に戻りました。下見に参加された方々、お疲れ様でした。
古代と中世の田布施の地形を知るコース
田布施町 第5回史跡探訪 地方史研究会(1/x)
去年はマイクロバスに分乗して、田布施町の大波野,小行司,そして麻郷の史跡探訪をしました。今年は同様にマイクロバスに分譲して、去年行かなかった麻郷の史跡と麻里府の史跡を巡りました。朝9時に田布施町中央公民館前に集合しました。私は早めに来て、点呼を取りながら、参加費1000円を徴収しました。全員が集まったところで挨拶をし、最初の訪問地である浮島神社に向かいました。
全員集合後、挨拶 マイクロバスで出発 浮島神社の説明
浮島神社に到着すると、浮島神社の歴史や傍にある力石に刻まれた江良碧松の句について説明がありました。浮島神社はかつてのお祭り時、女性のお尻をつねる奇習「ひねきり」が行われていました。そのため「ひねきり明神」とも呼ばれていました。今ではセクハラ行為になりますが、当時はおおらかな時代だったのでしょう。続いて、五人力の清三郎の昔話として伝えられる川添橋右岸堤防の記念石碑に行きました。
浮島神社江良碧松の句碑 五人力の清三郎伝説の石碑 正泉寺に到着
この川添橋右岸堤防の記念石碑は、もともと麻郷と麻里府を結ぶ伊佐里ヶ峠の茶屋にあった腰掛石だったとのこと。ある時、清三郎がこの石を川添橋右岸堤防まで運んだというお話です。昔はこのような力自慢の逸話が少なくありません。続いて、麻郷三宅の正泉寺に向かいました。
麻郷三宅正泉寺の本堂で、ご住職のお話を拝聴
正泉寺では本堂に上がらせていただき、ご住職よりお寺の成り立ちなどについてお話を伺いました。続いて、竹重と奈良の境にある奈良の大岩に向かいました。この大岩は有名になりすぎたためか、不法に車を乗りつける人が多くなりました。そのため、地元の不評に繋がっているようです。この日も、その話を地元の方から聞きました。観光インフラを整備しないで観光開発することの危うさを露呈しています。
観光の難しさ奈良の大岩 尾迫の常楽寺を見学 蓮輪の光泉寺に到着
奈良の大岩から、尾迫の常楽寺に行きました。このお寺傍にはお寺が経営する幼稚園があります。平日は園児の声で賑やかですが、日曜日だったため園児がおらずとても静かでした。続いて、蓮輪の光泉寺に行きました。ご住職が本堂で待っておられました。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
秋の野菜畑、そして陸稲の採種
だいぶ大きくなった大根 この大きさでは玉になるのは無理か、白菜


一方、ナスとピーマンは秋になってやや小振りになりましたが、10月になってもまだまだ収穫できています。霜が降りる11月になっても収穫できるのではと思います。ナスで失敗したのは、実がとても長い品種なので実のお尻が地面に着いてしまうことです。そのため、地面にいる虫が這いあがって食べるのです。来年は普通品種のナス苗を購入するか、種から育てようと思います。我家に合った品種を選ぶことは大切なことです。
小振りですが、緑が濃くとても美味しそうなピーマン

ところで、10月になって種をまいた、小松菜,チンゲンサイ,ターサイなどは発芽してぐいぐいと育っています。しかし、よく見ると小さな虫か付いていました。農薬は使いたくないのですが、虫に食われて全滅は避けたいです。そのため、低農薬のものをかけてみようと思います。
発芽した小松菜 チンゲンサイも発芽 色が濃いターサイ



野菜ではないのですが、陸稲の穂を収穫しました。収穫したのはうるち性のもので、一昨年まで栽培,収穫,脱穀,精米して食べていたものです。今年は種継ぎのため小規模に栽培しました。来年の種まきに使うためです。幸運にもハトやスズメに食べられていないので安心しました。陸稲は畑に作るお米です。水田のように除草が容易ではないので、日本ではほとんど作られなくなりました。食味も水稲に劣ります。
穂を収穫したうるち性の陸稲

田布施町 第5回史跡探訪 地方史研究会(2/x)
続いて、麻郷神社に行きました。麻郷神社はかつては麻郷護国神社と言われ、戊辰戦争から太平洋戦争にかけて亡くなった戦没者を弔うための神社です。いわば、田布施町麻郷版の靖国神社と言った方が分かりやすいでしょうか。毎年4月1日に慰霊祭が行われています。近年、高齢化のためか出席者が少なくなっています。
戊辰,日清,日露戦争時の戦没者が弔われている慰霊碑群
麻郷神社を見学し終わると、国木田独歩吉見家仮寓石碑を訪れました。この石碑は今、雑草に覆われやや傾いています。吉見家は戦国時代、毛利と争うほどの勢力を山陰地域に持っていました。その後、江戸時代初期に麻郷高塔に屋敷を移しました。この吉見家は平生町の大野毛利の発祥になりました。吉川から吉見家に養子に入り、その後大野毛利の初代になりました。戦国時代一時は山陰に城を持っていた吉見家に、どんな歴史があったのでしょうか。
国木田独歩吉見家仮寓石碑 麻郷公民館で休憩、紙芝居 上関宰判勘場跡
国木田独歩吉見家仮寓石碑を出ると、麻郷公民館に向かいました。天気が良ければ次の訪問地でお弁当休憩する予定でした。しかし、小雨が降ったり止んだりの天気でした。そのため急遽、麻郷公民館でお昼兼トイレ休憩することにしました。このような史跡探訪やウォーキングでは、天候不順の場合の対応に苦慮します。
亘理南山の顕彰碑 成器堂跡地を見学 国木田独歩歌碑
麻郷公民館でお昼休憩した時、紙芝居の上演がありました。「五人力の清三郎」,「竜宮の使い」,そして新作「享保の飢饉」です。「享保の飢饉」は初公開の紙芝居です。麻郷公民館を出ると、麻郷米出の上関宰判勘場跡に行きました。続いて、戎ヶ下の成器堂跡に行きました。そして、麻郷地区を離れて麻里府地区の麻里府公民館に向かいました。
麻里布漁港で、幕末に起きた加徳丸事件について説明
麻里府公民館に着くと、最初に国木田独歩歌碑を見学しました。かつて、この歌碑は馬島を目前にした国道沿いにありました。しかし、今は麻里府公民館敷地内にあります。麻里府は、国木田独歩が青春時代を送った心の故郷です。国木田独歩が心の故郷麻里府を読んだ詩が歌碑に刻んであります。続いて、麻里府漁港に行きました。港を前に、幕末の加徳丸事件についての説明がありました。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
サツマイモの試し掘り、今年初の焼き芋に
そろそろサツマイモの収穫時期です。来週、数人とサツマイモ掘りをする予定ですので、総収穫量を占う意味で事前に一株だけ試し掘りしてみました。葉が結構茂っているため、たくさんのサツマイモが収穫できるのではないかと期待して掘りました。しかし、がっかりでした。
サツマイモの茎葉を切断 サツマイモの茎葉を撤去 黒マルチを外す
最初、端っこ一株の茎や葉を切断しました。一番日当たりが良い場所でしたので、茎や葉がびっしりと茂っていました。次に切断した茎や葉を畝の外に撤去しました。そして、黒マルチを外しました。すると、サツマイモ一株が見えてきました。
試し掘りするサツマイモの一株をフォークで掘る
次に、その一株をフォークで掘りました。去年のようにたくさん収穫できた年は、株が盛り上がっています。しかし、今年はフォークを地中に刺しても手ごたえが無いのです。それでも掘ると、大きな芋二つが、狸,アライグマ,又はハクビシンに食べられていました。残りは生育不良の芋ばかりでした。がっくりです。
手ごたえが無い一株 食害された芋 一株の芋、〇:食害芋
試し掘りの結果、焼芋に使えそうな芋一つ,小さくて焼芋として使えない芋五つ,そして食害された芋二つでした。この試し掘りの結果、焼芋に使える芋は一株一つとなりました。一株に一個しか収穫できないなら、全体で50本しかサツマイモを収穫できないことになります。
一株分のサツマイモを家に持ちかえり、焼芋にしてみました。収穫後一週間程度寝かせると良いのですが、収穫したての初物サツマイモを美味しくいただきました。来週のサツマイモ本番収穫で、果たして期待できる数のサツマイモを収穫できるでしょうか。
芋を鍋と小石で焼く 焼芋に、美味しそうな黄色
田布施町 第5回史跡探訪 地方史研究会(3/3)
麻里府港から麻里府公民館に戻ると、水田のぶほの歌碑の説明を受けました。水田のぶほは、元々はお医者さんだったそうです。続いて、軽い山登りです。麻里府尾津西地区の墓地がある大平山の東裾野の山に入りました。軽い登り坂を歩いて立石墓地に向かいました。
水田のぶほ歌碑 立石墓地への登り道 大谷仲之進墓石前で
この墓地には、幕末の加徳丸事件で殺害された大谷仲之進の墓石があるのです。墓石には「大谷仲之進」でなく、忠義を尽くしたとの事で「大谷忠之進」と刻まれています。その墓石前で説明がありました。
国木田独歩と石崎トミの話 住吉神社を参拝 明楽寺を見学
立石墓地がある山から降りると、次に麻里府小学校跡前に行きました。そして、国木田独歩が石崎トミとデートしたと言われる場所などについて解説がありました。そのお話を聞いた後、住吉神社に行きました。狭い急階段の山の上に鎮座しています。
最後に見学をした麻里府上郷の大泉寺
住吉神社を降りると、麻里府中郷の明楽寺に向かいました。明楽寺に着くと、ご住職の奥様と子供達が待っていました。明楽寺の次に、最後の訪問地である大泉寺に向かいました。曹洞宗のお寺です。お寺の歴史などを聴いた後、出発地の田布施町中央公民館に戻りました。
事務手続きなどをした私としては、事故も無く、皆さんが楽しんで史跡を探訪できたようなので、とても嬉しく思いました。参加された方々お疲れ様でした。
麻郷,麻里布の史跡探訪コース
田布施町 少年少女発明クラブ10月の工作(2/2)
少年少女発明クラブの活動も、10月で区切りを迎えます。10月までは田布施西小学校で工作活動をしますが、11月からは活動場所を移します。11月は田布施中学校で活動し、来年は田布施農工高校で活動します。今回が最後の田布施西小学校での活動です。なお、活動ではないのですが、12月はこれまでの工作成果発表会があります。
先々週に続いて工作 どんどん釘を打つ 絵も大切な要素です
さて、今回は10月2回目の活動日です。作っているのは釘を並べて板に打ち込み、その釘の上をビー玉を転がるようにする工作です。ビー玉が上から下に長い時間転がるように釘を打つのです。いかに長い時間転がるようにするかは、子供達の釘の打ち方の工夫次第です。この工作は、基本的な大工道具であるノコギリや金づちなどを使います。子供達は、前回よりも器用に釘を打っていました。例えば、釘を強く打ったり,弱く打ったり,斜めに打ったり,抜いたり,釘の間隔を工夫したりしていました。
金づちを使って器用に釘を打つ子供達
この工作は大きく分けて、絵を先に書いて釘を打つか、先に釘を打って絵を書くかになります。見ていると、先に釘を打つ子供は釘を打つ線のデザインに悩むようです。そして、絵を書くのが遅れるようです。釘打ちは初めての子が多いので、どう言うデザインに釘を打つか悩むようです。
そろそろ釘打ち終了 ビー玉を転がして確認 後ろの支えを取り付け
それに対して、先に絵を書く子供達はさらさらと絵を書いている子が多かったように思いました。絵を書く行為は家や学校でいつもしているので、図案をすぐに考えつくのでしょう。すぐに絵を書き終わり、釘打ち工程に入っていました。全体的に、絵よりも釘打ちに時間がかかっているようです。
板の後ろに支えを取り付け、ビー玉の最適な転がり角度を見つける
絵も書き終わり釘も打ち終わると、板の角度を決める支えを板の後ろに取り付けます。細い板をノコギリで切りだして支えにし、蝶番で板の後ろに取り付けるのです。キリで穴を開け、蝶番を木ネジで固定します。最初その方法を指導員が教え、子供達自身が支えを切りだして取り付けます。
審査の始まりです ビー玉を転がして競う 最後に転がした6班
工作の最後は審査です。全員が班ごとに前に出て競います。審査されるのは、ビー玉が転がる時間です。最も長い時間転がった板が一番です。途中でビー玉が止まったり、板から落ちると失格です。2番目にデザインの審査です。
そして、3番目にビー玉が転がる時に釘が良い音を出しているかの審査です。釘を強く打ちこむと高い音が、弱く打つこんでいると低い音がでます。つまり、釘の打ち方によっては音階が出るのです。その音の連続で良い音がメロディのように聞こえるのです。
とても綺麗な絵、デザイン賞 良い音が出たで賞、よかったね
田布施町 古代から中世かけての地形探訪ウォーキング(1/x)
これまでは、寺社,お堂,祠,山,河川,海,田んぼなどを中心にウォーキングしてきましたが、今回は田布施町の古代から中世の地形が残る場所を中心にウォーキングしました。そのためウォーキングする前に、下に示すような「古代田布施町の海面推定図」と「江戸時代初期の海面推定図」を皆さんにお配りしました。なお、後者は当時の岩国藩が作成した図面を元に作成しました。図面に書いた赤線は、今回歩いたコースです。
古代田布施町の海面推定図 江戸時代初期の海面推定図
今回は麻郷小学校で行事があったり、城南公民館祭りがあったりして参加者がいつもより少な目の9人でした。最初、史跡とは関係ないのですが、田布施町商工会館(サリジェ)の北側にある田んぼの稲刈りを見学しました。子供を含む何人もの方々が古代米の刈り取りをしていました。ご苦労様でした。続いて田布施川の左岸を河口に向けて歩きました。
古代米の刈り取り 関戸橋近くのお大師堂 E邸に寄って休憩
最初に訪れたのは、流れ荒神様と火伏地蔵です。それぞれについて説明しました。次に、田布施川の堤防を歩きながら、古代の海の広がりについて解説しました。そして、新川の浮島が古代において島だったことなどを話しました。そのうち関戸橋に着きました。その近くにあるお大師堂について、近々お堂が建てられる予定であることを解説しました。そして、庄山橋のたもとで江戸時代の田布施川の流れが今と違うことなどを話しました。
灸川のかつての河口堤防跡に生えるカヤに沿って歩く
続いて、古代において島だった浮島の中心部を通りました。そして、浮島の南端から見渡したスポーツセンター方面を見ながら、山崎原遺跡について話しました。次に、トイレ休憩するためにE邸を訪れました。しばらく休んだ後、再び田布施川に戻りました。そして、川尻を通り過ぎて灸川河口に行きました。灸川河口に着くと、江戸時代には灸川から竪ヶ浜の間に海が広がっていたことなどを話しました。続いて、当時の堤防跡に植えられたカヤに沿って灸川を上流に向かいました。
灸川排水機場でお昼休憩 コーヒーなどを配膳 灸川排水機場を出発
灸川排水機場に着くと、ここが海であった時代のお話をしました。そして、お昼休憩を灸川排水機場で取りました。たわいない話をしながら楽しく休憩をとりました。30分位休憩すると、再び灸川を上流に向けて歩きました。灸川は、江戸時代の姿を残す貴重な川なのです。人工的に作られた田布施川が直線なのに対して、灸川は曲がりくねっています。
江戸時代の流れの姿を残す灸川を、上流に向かう
サツマイモの掘り上げ、今年は少ない収穫量
サツマイモの苗を植え付けてから約5ヶ月、やっと収穫する日がやってきました。真夏の日照りで枯れそうだった茎や葉、どのくらい芋が収穫できるでしょうか。事前の試し掘りの結果、収穫量は少ないだろうとの予想でした。残念でしたが、その予想は当たりました。
黒マルチを剥がした後、芋掘り 芋掘り完了、少なかった収穫量
最初、サツマイモのツルや葉を取り除きました。そして、剥ぐように黒マルチを外しました。そして、いよいよ芋掘りです。やや日当たりが悪かった場所は、小さな芋ばかりでした。日当たりが良かった場所は、タヌキかアライグマなどの小獣に食べられていました。やれやれ!
麻郷公民館祭りの焼芋に使えそうな芋は約50ヶでした。芋掘りが終わった後、畑の中にテーブルを広げて、楽しく昼食をとりました。サツマイモ掘りを手伝ったくれた方々、ありがとうございました。
畑の中にテーブルを広げて楽しく昼食、ピクニックみたい
田布施町 古代と中世の痕跡探訪ウォーキング(2/3)
灸川排水機場を出ると、しばらくは灸川右岸堤防沿いの道を上流に向かって歩きました。灸川は、江戸時代頃からほとんど流れが変わっていません。左右に曲がりくねる川筋に沿って歩きました。ほどなく熊毛南高校を目の前にして歩き、柳井市余田方面へ抜ける道を横切りました。数年前までこの川筋周辺には亀がたくさんいましたが、灸川の浚渫工事のため亀がほとんどいなくなりました。
灸川をどんどん上流へ 余田に向かう道を横切る 心地良い川の流れる音
余田に入ってすぐ、清水が湧き出る場所に出ました。少し前までは雨水が振り込まないように屋根があったのですが、崩れ落ちていました。この清水は、江戸時代以来つい数十年前まで使われていました。水道が普及した今、不要な施設になってしまったようです。少し寂しい気持ちになりました。次に、トイレ休憩のためコンビニに寄りました。
使われなくなった清水 トイレ休憩したコンビニ 菅原天神社
コンビニを過ぎると、次に菅原天神社に行きました。この境内には菅原道真が座ったと言われる石があります。菅原道真が太宰府に流された古代、この付近は海岸線でした。田布施には古墳が多数あることから、小国家(古周防国か熊毛王国か)があったはずです。菅原道真が立ち寄ってもおかしくはありません。なお、菅原道真が座ったと言われる石の隣に松尾芭蕉の大きな句碑があります。
菅原天神社本殿前、少しばかり座って休憩