去年、麻里府上組の薬師堂や麻里府のお地蔵様などを調査しましたが、縁あってまたまた麻里府に行きました。最初、その昔雨乞いをしていたらしい麻里府中郷にある岩を見に行きました。とにかくどんな岩か確認しました。最初、中郷のKさんの家にバイクを置かせてもらいました。そして、Kさんと一緒にその岩に向かいました。途中、Tm親子に出会ったため、4人で岩に向かいました。
雨乞い岩?とKさん 十心庵跡から見た中郷
岩は、中郷の小高い山の上にありました。周りは竹などが茂っており展望がありませんでした。もしこれらの竹や雑木を伐採すれば、ほぼ360°見晴らしが良い高台だと思います。その高台の上に石が据えられていました。一抱えほどの岩でした。色が黒く、その山に元々あった岩ではないようです。地表の岩と種類が違いました。文字類は刻んでありませんでした。どこからか運んできた岩なのでしょうか。
中郷から上組への途中の史跡、大泉寺は現存 明治20年頃を表す古図
岩を確認し終わると、中郷最高齢と言われるT氏に逢いました。そして、この周辺の史跡などについてお聞きしまた。雨乞いの岩については、「雨乞いがあったと言い伝えがある。」としか分からないとのことでした。その岩前に集まるとか,催しがあるとか,祭りがあるとか聞いたことがないとのこと。その岩の上に以前「天保通宝」があったそうです。そのお金は江戸時代の通貨です。雨乞いがあったとしても江戸時代のことだと思われます。50年位前だったらこの岩について知っている古老がいたかも知れません。今となって麻里府の謎の一つです。
麻里府小学校向かいある住吉神社がかつて鎮座していた大岩
T氏のお話の中で、一番の収穫はあつまんだ(八幡田?)地蔵の由来です。今は中郷の小山じょうにありますが、かつてはT氏の家前にあったそうです。今の道を作った昔に、お地蔵様を今の場所に移したそうです。そのお地蔵様はその昔、T氏の向かい側にあった庄屋が何代か前(江戸時代)に、亡くなった息子を弔うために安置したとのこと。
住吉明神社跡の礎石の一部 上組区公民館
T氏に明治20年頃の手書き古図などを見せていただきました。その古図に、とても興味をそそられるものがありました。その古図は、その頃に住んでいた人の屋敷の位置を表す図面です。その中に、明楽寺が元あった十心庵跡,麻里府小学校向かいにある住吉神社が元鎮座していた住吉明神跡,中村荒神社,そして上組の峠に大師堂が描かれていました。Kさんと別れだ後、Tm親子と一緒にその史跡を訪ねました。
上組峠傍のお地蔵様A 上組峠から少し入った場所のお地蔵様B
まずは、明楽寺が元あった十心庵跡に行きました。庵と言うことは、かつて尼さんか修行僧が住んでいたのかも知れません。その場所に行くと、新しい民家が建っていました。そのため、庵の痕跡は皆無でした。ただその民家入口に、見晴らしが良く鐘突堂にピッタリと思われる高台がありました。十心庵跡を見終わって、桜川を上流に向かって歩いていると対岸に岩がありました。その岩全体を詳しく調べると、礎石と思われる石が一つありました。ここが住吉明神跡だと思われます。近くにあるはずの中村荒神様は見つかりませんでした。竹藪のどこかにあるのでしょう。
上組の横尾じょう上の峠にある大師堂
続いて上組横尾じょうの峠に行きました。明治20年頃の古図を見ると、今の舗装道路とだいぶ道が異なっています。大泉寺前から川を渡って横尾じょうに入っていくのが本来の道(古道)だったようです。そして、古道が峠に差しかかる場所に大師堂があったことが分かります。今回は舗装道路を歩いて峠に行きました。そして、古道と思われる小道に分け入ると、古図のとおりお地蔵様や大師堂がありました。周りに立派な瓦が散乱していましたので、かつては立派な大師堂だったのでしょう。
峠の大師堂内部 かつての大師堂の屋根瓦
この大師堂がなんと呼ばれていたか分かりません。いつかこの近所に住んでいる古老にお聞きしようと思います。古図に単に大師堂と書いてあるだけですので、その由来を知っている方はいないかも知れません。岩金じょうの薬師堂が立派に今も管理されているに対して、この薬師堂は管理する人があまりいないように思えました。
麻里府の中郷、A:バイクを駐車 B:現在の地蔵様 C:お地蔵様が元あった場所
古図によると明治時代、上組にはたくさんの人家があったことが分かります。特に峠付近には人家がたくさんあったようです。これらの方々が大師堂を守っていたのでしょう。しかし今、峠付近の人家まばらです。人が少なくなれば、大師堂やお地蔵様の管理ができなくなるのは世の常です。残念ですが仕方ありません。
今回調査した、麻里府上組地区
↧
田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(1/2)
↧