先日、12月1日に1月の史跡探訪ウォーキングの下見で龍泉寺を訪問しました。その時のことです。ご住職と奥様と雑談していた時、楼門の向きについて話をしました。楼門がどこを向いているかお聞きしたのですが、分からないとのことでした。私が見るところ、東の方向で木々の間から平生の街並みがかすかに見えるのです。
実は、龍泉寺を訪問する約2ヶ月前の10月5日に般若寺のご住職のFさんをMさんと訪問しました。その時、仁王門の不思議なお話を伺いました。それは、仁王門の東側は大畠瀬戸を向いているとのこと。そして、西側は木が茂っていたが木を伐採すると、夕日が差し込むとのことです。そして、夕日が差し込むその方向を見るとも、田布施と光の境界である千坊山があるのです。龍泉寺がある方向です。
般若寺の仁王門と龍泉寺の楼門を結ぶ直線 ※古代:平生~田布施~柳井は海
龍泉寺は江戸初期の1615年に建立され、今年は建立400年記念が執り行われました。龍泉寺がある千坊山(千峯山,仙峯山とも。※般若寺は神峰山)一帯にはその昔、「千坊」の名のとおり多くの寺や僧坊があったとの言い伝えがあります。実際に発掘すると、当時と思われる列石や瓦が多く出土します(田布施地方史研究会誌第23号 千坊山探訪記参照)。その寺や僧坊群があった千坊山から西を望むと九州が一望できます。千坊山にあった寺や僧坊の名残を引き継ぐ庵か敷地跡か平地に、龍泉寺が創建されたのではないでしょうか。
般若寺の仁王門 龍泉寺の楼門
ところで、般若寺パンフレットに、仁王門が向く方向の直線が書かれています。この直線の西側の方向に龍泉寺があるのです。龍泉寺がある千坊山にかつてあったお寺群は、もしかして般若寺とセットだったのかもしれません。般若寺が大畠瀬戸を見守るように、千坊山のお寺群は今の田布施~柳井を結ぶ唐戸瀬戸(田布施地方史研究会誌第25号 八幡山遺跡参照)を見守っていたのかも知れません。さらに、熊毛王国または古周防国の繁栄や鎮護の役割を担っていたかも知れません。
般若寺のバンフレットより抜粋
ところで、田布施町周辺の遺跡は九州との結びつきが大きいようです。石器は大分県姫島の黒曜石が多く使われています。姫島産黒曜石が田布施町郷土館に展示されています。土器についても、関西方面よりも九州や四国に関わるものが多いのです。
また、田布施と平生には吹越遺跡を代表とする高地性集落跡が多くあります。古代に戦乱があったのではないでしょうか。魏志倭人伝に記されている倭国大乱(2世紀後半)、はたまた記紀に記されている東遷に関わるような戦乱が古代にあったようです。戦乱と関わりがあるかどうか分かりませんが、山口県で一番古いとされている国森古墳(田布施町、4世紀)から中国製(漢の時代)銅鏡に加え多くの鉄製の武器が発掘されています(郷土館常設展示)。
姫島産黒曜石 国森古墳の鉄製武器 後井古墳の石室内
(田布施町郷土館) (田布施町郷土館) (田布施町城南)
面白いことに、般若寺と龍泉寺を結ぶ線を伸ばすと、偶然かもしれませんが、東に奈良、西に北九州を指します。古代史の最大の謎は、邪馬台国が奈良にあったのか北九州にあったのかです。この直線は、熊毛王国または古周防国が古代において邪馬台国と何らかの関わりをあったことを示唆しているようにも思います。6~7世紀頃になっても、田布施周辺にはそれなりの勢力があったようです。その証拠に、石城山の古代朝鮮式山城遺跡(7世紀)があります。また、田布施の後井古墳(山口県で最大の石室、郷土館に1/2縮尺石室模型を常設),柳井の茶臼山古墳(発掘された銅鏡は日本で2番目に直径が大きく重量日本一)、平生の白鳥古墳(山口県で最大の墳丘長120m)があります。
日本の歴史上、古墳時代以後は寺院がさかんに作られるようになります。熊毛王国または古周防国もまた、古墳や山城を作ることから寺院を作ることに変わったはずです。その寺院が、千坊山のお寺群の元になったのではないでしょうか。千坊山の寺院遺跡を丹念に調査すれば、その創建時期や衰退時期(戦乱による大火災による焼失との言い伝え)が分かるはずです。
ところが、唐戸瀬戸が埋まり始めたと思われる10世紀頃から、熊毛王国又は古周防国は次第に勢力が衰えたようです。勢力の中心が、防府など周防灘方面に移っていきます。海が埋まると共に、熊毛王国又は古周防国は歴史から消えてしまったのです。千坊山のお寺群を再建する余力はすでに無かったと思います。
古代において、田布施平生柳井がどんな小国家だったのか、そして日本の歴史にどんな役割をしたのか興味は尽きません。
般若寺と龍泉寺を結ぶ線を伸ばすと、偶然でしょうが奈良と北九州を指す