出会い地蔵から緩い坂道を下ると、西方寺の石階段下に着きます。この石階段を逆に辿ると、西方寺からほぼ直線に海に向かっています。そして、史跡の一つである船つなぎ石まで繋がっています。かつて、船をつないでいた港から西方寺までの通りは、行きかう人々で賑やかだったことでしょう。幕末期には奇兵隊諸隊の一つの義勇隊が西方寺に駐屯していたとか。義勇隊が出張して留守の時は、田布施町の円立寺の僧坊隊が代わりに駐屯していたとのこと。当時は、血走った侍たちが通りを跋扈していたのではないかと思います。その証拠に、西方寺本堂の柱に義勇隊が付けた刀痕がいくつか残っています。
猛暑の中、やっとの思いで西方寺の石階段を登る
西方寺に到着すると、ご住職にお声をおかけして本堂に安置された仏様を拝ませていただきました。そして、柱に残る義勇隊の刀痕を見学させていただきました。ありがとうございました。ところで、義勇隊が起こした加徳丸事件はとても有名です。今の田布施町麻里府の港に着いた薩摩藩借り受けの加徳丸を襲撃して薩摩藩の一人を殺害しました。そして、船に積まれていた積み荷を投げ出して焼いたとの記録が残っています。さらに、殺害した薩摩藩士の首を塩漬けにして大阪に持っていきました。そして、自分達の行動を賛美した上で自決しました。その様子が当時の瓦版(かわらばん)に残っています。田布施町郷土館ではその瓦版の写しを展示したことがあります。
西方寺本堂を見学 義勇隊士が付けた刀痕 長命寺跡から見た室津街
当時、侍の身分ではなかった新撰組が「侍よりも侍らしく」をモットーに京都で活躍しました。当時の義勇隊士にも同じように行動したのではないかと思います。新選組は規範に外れた行動した者には切腹を命じました。それと同じように義勇隊も「侍よりも侍らしく」を行動規範にしたのではないかと思います。現代に生きる我々には到底理解できない規範です。しかし、そのような狂気があったからこそ、今日につながる明治維新が実現できたのだと思います。
お大師山の八十八箇所を巡礼 大師山山頂の大師堂
西方寺を出ると、長命寺跡に向かいました。長命寺があったと思われる立派な石階段を登りました。そして、かつては賑やかだったであろう室津の街並みを見下ろしました。明治初期の廃仏稀釈で、長命寺は廃寺になったか移転したのではないかと思います。長命寺があったと思われる一体を見渡した後、お大師山の八十八箇所巡りをしました。最近巡礼する人が少ないようで、何ヵ所か背の高さほどの草に覆われていました。猛暑の中、一番個所から順番に拝みながら巡りました。お大師山の頂上と麓近くの二ヵ所に、お大師堂と思われるお堂がありました。
道端の船つなぎ石 大きな六角井戸 最後に四階楼を見学
お大師山の巡礼が終わると、海岸近くの船つなぎ石に向かいました。この石が船つなぎ石であることを、傍でガソリンスタンドを経営する同級生に確認しました。その同級生にかつての海岸線も教えてもらいました。ありがとうございました。その同級生のご主人も同級生(田布施出身)です。事故で亡くなる2年前、私が定年を迎えたら会おうと口頭で約束していました。その約束が果たせず今でも残念に思っています。船つなぎ石を見学し終わると六角井戸に向かいました。
ステンドグラスが斬新な四階楼の四階 「道の駅 上関海峡」のアイスで疲れを癒す
最後に四階楼を見学しました。私は何度も来たことがありますが、初めて来た人は感激していました。特にステンドグラスの四階は素敵です。朝日か夕日時にステンドグラスを通して差し込む日差しは虹のように綺麗です。ところで、私の母親(92歳)は、上関に来るといつも四階楼や四階荘を経営していた佐々木のお婆さんのことを「叔母さん」と呼んでいました。その娘さんの一人は柳女(今の柳井高校)に通い母と同級だったそうです。また、他の娘さんの一人は室津の天ぷら屋さんにお嫁入したそうです。佐々木のお婆さんは、平生町田名の金福家から佐々木家へ嫁入りしたとのこと。ちなみに私には金福姓の従妹が何人かいます。佐々木のお婆さんとは金福つながりの遠い親戚のようです。しかしながら、佐々木のお婆さんがどのようにして四階楼の継承者になったのか知りたいところです。しかし、今や確認する手立てがありません。
今回の室津の史跡巡りウォーキングに参加された方々、この猛暑の中でお疲れ様でした。来月は、光市の島田駅から岩田駅にかけての史跡を巡ります。
猛暑の中、巡った上関町 室津の史跡コース(全コース)
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楽しかった上関町 室津の史跡巡りウォーキング(3/3)
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