小高い丘と言うか山の上に、人丸神社はありました。地元の方のお話によると、その昔に子供が次々に亡くなる病が流行ったとのこと。この惨状を見かねて、石見国にある人丸神社にお参りしたとのこと。そして、人丸神社をこの地に勧請したとの言い伝えが残っています。おそらく天明か享保の飢饉時の事ではないかと思います。飢饉になると、栄養失調により子供が最も多く犠牲になります。各地にこの飢饉の史実が残っており、例えば田布施町では「飢民の供養塔」が残っています。また、各地に大師堂などか建てられています。ところで、何年か前にこの神社の御守をするのが二軒だけになったとのこと。その後、もう何年も世話をしていないようで屋根の一部が崩壊していました。地域でこの神社を維持できなくなったのでしょう。
屋根が一部倒壊した人丸神社
人丸神社の横には広場がありました。今は木々が茂って周りが見えませんが、かつては景色が良かったのではないかと思います。この広場ではかつて、盆踊りなどのお祭りが盛大に行われていたのではないでしょうか。そして、神社へと続く参道はたくさんの人が行き来していたのではないかと想像します。神社へと続く参道は大きく窪んでいます。数百年間たくさんの人々がお詣りした結果、道が削れて窪んだのではないでしょうか。
かつての参道を下る 半ば壊れたお大師様 小休止した橿原神社
人丸神社を出ると、次にお大師様を訪れました。このお大師様のお堂には、平和霊場第二十九番札所の木札が打ち付けられていました。今はうら寂しいお大師堂ですが、かつては人々が通る街道に面していました。お大師堂のある山の下に新たに道が作られてから、人々が通らなくなったようです。往時にはたくさんの巡礼者が通り、その巡礼者を歓待する地元の方々の賑やかさが想像されます。
橿原神社の石鳥居を支える岩 橿原神社傍のお地蔵様
お大師堂を過ぎると、しばらく歩いて橿原神社に向かいました。その昔は参道前に鳥居が建っていたのでしょう。しかし、自動車道が参道に割にり込むように作られたようで、神社と鳥居の間に道路があるのです。鳥居を支える岩に足跡とも思える模様があります。その模様は、鬼彦兵衛の足跡として言い伝えられています。橿原神社で少し小休止すると、昼食休憩をする教西寺に向かいました。
JR島田駅からJR岩田駅まで巡った史跡コース