田布施町と光市の境にある石城山に半年ぶりに行ってきました。そして、その山腹にあるたくさんの神社にお参りしてきました。一つの頂上付近にこれだけたくさんの神社がある山は聞いたことがありません。それだけ古い信仰対象の山だったのかも知れません。一方、この山には約150年前に神護寺と呼ばれる大規模な寺があったとのことです。明治初頭に廃仏毀釈の対象として壊されたようです。この神護寺は今、平生町の大野に移転しています。どんな歴史がこの山にあったのでしょうか。
石城山鉄塔と石城大師堂近く 池に作られた葦原神社
歴史はともあれ、お正月ですので、このさいすべての神社にお参りすることにしました。最初に駐車場から一番近い荒神社からお参りしました。祠のようにも見えますが、ちゃんと神社の表示がしてあります。日本神社と石城島神社は比較的大きな建物です。面白い神社としては、池に浮かぶように作られた葦原神社、そして物部神社です。これらの神社は、遠めに見ても建物が新しく感じます。明治初期の廃仏毀釈の時、神護寺とその宿坊や付随するお寺が取り壊された時、入れ替わるように作られたのではないでしょうか。
門松が正面に置かれた日本神社 周りの森に溶け込む石城島神社
物部神社がなぜここにあるのか不思議です。聖徳太子の時代、仏教を重んじる曽我氏と古来の宗教を重んじる物部氏が争った結果、物部氏が敗れて滅ぼされました。今の神社に通ずる古来の宗教を大事にした物部氏を、滅んだ後も物部神社として祭ったのではないかと私は思います。私的な考えですが。
石城山の最高地点(362m)にある高日神社からの眺め
石城山の頂上に三角点があるはずなのですが、よく分かりませんでした。その頂上は高日ヶ峰と呼ばれており質素な高日神社があります。ここから柳井方面を見下ろすことができます。これまで登ったことがある、氷室山,多賀神社,大平山,三ヶ岳,琴石山,赤子山,大星山,行者山などが遠望できます。三ヶ岳に隠れるように銭壷山も見えました。石城山に来たついでに、古代朝鮮式山城遺構である石積み(神護石とも言う)を散策しながら見ることにしました。この石積み、3年前に反対側から散策しました。
石垣の構造が分かる古代の石積み(東水門)
この石積みを観察すると、日本の戦国時代などの石垣と明らかに違います。石城山の石垣は工期が迫られていたのか、石を組み合わせるのではなく石を積み重ねるだけの工法のように思えます。石組みではなく石積みです。このためか、この千数百年の間に、あちこちで崩れています。それでも、見るものを圧倒します。千数百年前の古代、この石城山でどんなドラマがあったのでしょうか。私には、古代中国,古代朝鮮の百済,新羅,高句麗の動乱と関わりがあったのではないかと思えます。
横に長い北水門の石積み 西水門の三段の石組み
これらの古代朝鮮式山城の石積み、そもそも、誰が,いつ,なぜ,ここに,何のための記録がまったく残されていません。完成前に放棄されたようにも思えます。しかし、これだけの山城を作るには、資財,知識,労働者がいなければなりません。古代の田布施は入り江になっており重要で豊かな地域だったにちがいありません。古代朝鮮との交流もあったのでしょう。古代の大型古墳が何基もありますので。
西水門付近の休憩所広場から見下ろした光市方面
古代石積みを散策するコースは歩きやすいハイキングコースになっています。古代に思いをはせながら歩くのもよいと思います。数年前に来た時、西水門を過ぎたところに休憩所がありました。しかし、今日行ってみると建物が無くなっていました。広場のようになっていました。その広場からしばらく歩くと、第二奇兵隊が駐屯していた神護寺跡がありました。そして、その向こう側に石城神社がありました。この神社が最後に参拝した神社でした。この神社付近の第二奇兵隊の記念碑を見た後、山頂の鉄塔を見てから石城山を後にしました。
広場からの明るい散策コース 今日最後に参拝した石城神社
石城山を降りる途中、古代朝鮮式山城の遺構の一つである南水門に立ち寄りました。50年位前、私が小学生だった頃、この石積みと共に水門がありました。しかし、今や水門は土砂に埋まって見えなくなっていました。千数百年も保たれていた水門が、たった50年で埋まるものでしょうか。土砂の原因は、南水門にかぶさるように作られた道路ではないかと思います。沢を埋めるように作られた道の土手が少しずつ崩れて土砂になったのではないでしょうか。とても残念です。
石城山から下山中に見えた,大波野,余田,そして柳井市街など
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石城山の神社に参拝、古代朝鮮式山城遺構を散策
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