行者堂からやっとのことで獣道のような山道を下りました。そして、元来た舗装道路に戻りました。次に、金毘羅社に向かうことにしましたが、これまたどこにあるのか、その入り口が分かりませんでした。そこで、手当たりしだい山へ入る入口に入ってみました。ある入口を入ると、民家を左手に見て、右手に入る獣道がありました。その獣道の先に何かありそうでした。胸や頭の高さに枝が当たるのもかまわずに登り続けました。すると、石垣跡らしい場所に出ました。さらに枝をかき分けて進むと、石の階段が現れました。どうもここが金毘羅社跡のようです。
この傷み具合だと、数十年間放置されたらしい金毘羅社跡
数段の石階段を進むと、左右に狛犬が安置されていました。その狛犬の間を進むと、ちょっとした広場になっていました。そして、正面に形だけの小さな石階段があり、その上に祠がありました。これが金毘羅社と思われます。あたりを見渡すと、右下に小さな祠が落葉に半ば埋まるようにありました。さらに周りに目を凝らすと瓦の破片がありました。広場と思われる場所に、かつては瓦屋根のお社があったようです。
野積みの石垣 睨むような狛犬 小さな石段と祠
広場の左側に立派な石碑が建っており、文字がたくさん刻まれていました。この金毘羅社跡の由来が刻まれているのかと期待しましたが、寄進者名と寄進額でした。そして、この石碑が明治三十五年に建てられたことが刻まれていました。回りを見渡しましたが、由来が分かるような石碑はどこにもありませんでした。
寄進者名簿と寄進額の石碑 珍しい胚状石が安置
金毘羅社はこの周辺、例えば光市の室積,田布施町の大波野,平生の水場,柳井市の田布路木,柳井市の宮本など数えきれないほど多くあります。金毘羅社は、元々はインドの神様クンビーラを祀ります。クンビーラは海や川に住んでいるワニのことです。その昔、仏教と同じように日本に伝わってきた宗教なのです。しかし、今やそのことを知っている日本人は少ないと思います。この金毘羅社は明治年間に四国の金毘羅社をお参りした方が柳井の伊保庄に伝えたのではないでしょうか。しかし、それを受け継ぐ人がいなくなり今に至っているのではないでしょうか。続いて、疫神社に向かいました。
柳井市伊保庄の山間部の史跡調査をしたルート
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柳井市伊保庄の山間部の史跡事前調査ウォーキング(2/x)
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