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Channel: 東京里山農業日誌
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田布施川沿い史跡めぐりウォーキング8回シリーズ(その4)

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 昨日は雨でしたが、今日(16日)は快晴でした。ほぼ平坦な道ばかりで歩きやすく、しかも程度な風が吹いて快適なウォーキングとなりました。特に平生湾沿いの小道は、海風が吹いて涼しく楽しいウォーキングでした。スタート時に配った史跡資料を説明しながら歩きました。
 最初に習成中学校跡地に行き、その近くにあった旧平生保育園の跡地も見学しました。続いて南蛮樋にも行きました。そして、昔の平生街中心部を歩きながら久賀島に行き、江戸時代の平生干拓で亡くなった方々を弔う玖珂島観音寺跡に行きました。ここは玖珂島の高台にあり、平生街から宇佐木方面を眼下に見渡せました。

    習成中学校跡地にある碑を見学       江戸期干拓犠牲者を弔う観音寺跡
 

 次に真覚寺に行きました。ご住職から、本堂に招かれて冷たいお茶や茶菓子をいただきました。そして、お寺についていろいろお話しを伺いました。お心使いありがとうございました。真覚寺は岩国の吉川が起源とのことで、1660年頃の創建とのことでした。それ以来、平生の教育などに多大な功績があったそうです。幕末にシーボルトとゆかりのあった岡氏のお墓を見学させていただきました。

            真覚寺の本堂で、ご住職の方にいろいろお話しを伺う


 真覚寺を見学後、平生座があった場所に行ってみました。しかし、その場所にはアパートが建っており往時の町並みは残っていませんでした。次に玖珂島神社に行ってみました。この神社は、平生が干拓され始めた江戸時代中頃(1700年代)に創建されたのではないかと思います。鳥居に正徳6年(1716年)と刻まれていました。この近くは「新市」と呼ばれ、当時は市が開かれていたのかも知れません。玖珂島神社前の通りには立派なお屋敷の跡が残っていました。

  正徳6年(1716年)と刻まれた石鳥居     玖珂島神社前通りの立派なお屋敷跡
 

 玖珂島神社をすぎると平生湾に出ました。そして、左手に平生湾を、右手に塩田だった角浜や人島浜を見ながらのんびり歩きました。旧塩田跡地には工場や民家などが林立しており、塩田だったとは思えないほど変貌していました。この平生湾から田布施川河口沿いの小道は、涼しい海風が吹いており快適なウォーキングを楽しむことができました。
 八海橋袂を過ぎると、人島浜の北端にあるため池に着きました。水面には、たくさんの水鳥の巣がありました。立ったまま休憩しつつ、サギなどの水鳥を観察しました。

  涼しい海風が吹く、平生湾沿いの小道      人島浜北端ため池の水鳥を観察
 

 ため池を過ぎた場所に荒砂神社があります。ここでしばらく昼食休憩にしました。この神社、昔はちょっとした広場でしたが、今は真っ赤な鳥居や灯篭が林立していました。木陰に腰をかけて、談笑しつつ休憩しました。

               荒砂神社にて、今回のウォーキング参加者5人


 昼食休憩が終わると、近くにある私の従兄弟Uさんの家に行きました。そして、おトイレをお借りしました。Uさんありがとうございました。
 これまで私は気がつかなかったのですが、この親戚のお庭にはいろいろな木が選んで植えられています。また、その木々を愛でるように茶室があつらえてあります。そして、門の前には毎度花が生けてあるそうです。この家が気になっていたらしい参加者のEさんは、この家に入ってとても喜んでいました。また機会があれば訪問して、お茶室やお庭を見学させてもらおうと思います。

    従兄弟Uさんの緑あふれる家         もうすぐ灸川と田布施川の合流地点
 

 従兄弟の家を出ると、真っ直ぐ田布施川沿いを田布施に向かって歩きました。ここからは日陰がまったくありません。水分を補給しながらのんびり歩きました。田植えが終わった広い田んぼを左右に見ながらのウォーキングです。関戸橋からは桜の木陰の下を歩きました。しばらく談笑しながら歩くと、田布施交流館が見えてきました。初夏の暑い日差しの中、参加者の皆さんお疲れ様でした。
 ※前前回4月のウォーキング中、訪れた麻郷神社に祭られている世良修蔵の解説をしました。その世良修蔵、NHK大河ドラマ「八重の桜」にやはり出ていました。ただ、あまりに悪役として出ていたので少し残念です。この人は、柳井市妙円寺の月性に学び、阿月の克己堂で教えていたそうです。さらに第2奇兵隊の総監も勤めるなど、幕末にこの田布施や平生などを駆け回っていたはずです。鳥羽伏見で戦果をあげるなど、木戸孝允とも親交があり、なかなかの戦時指導者だったように思えます。京都で会津藩から手痛い打撃を受けた長州藩の恨みをはらすことを一心に受けたと思われる、奥羽鎮撫政策にそもそも無理があったのかも知れません。

      田植えが終わったばかりの広大な田んぼを左右に見ながらウォーキング


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