平和祈念展示資料館で今日(8月24日)から、終戦時の海外からの引揚者の方々などの労苦に関する展示があることを知りました。去年亡くなった父親も引揚げ者で、田布施農業高校を卒業後に養子先の家があった当時の満州に行きました。当地の開拓をしたり時々軍事教練も受けました。そして終戦。まさにその時、父親はソ連と満州の国境にいたのです。その国境から日本への必死の逃避行は苦難の連続でした。
亡くなったたくさんの仲間達、飢えで苦しみながらも食べることができなった軍馬、銃で撃たれるも当たらず命拾いしたこと、歩けないお年寄りを殺める手伝いをせざるを得なかったこと、そんな中でやさしい中国人家族に出会ったこと、引揚げ船の中での悲惨な出来事など、今の時代なら100年かかっても体験できないような悲惨な体験をしつつ満州を逃避行し、日本へ引揚げしました。
昭和17年12月に卒業した田布施農業高校、向こうに箕山が見える
ところで私が子供の頃、軍服を着て最後に足にゲートルを巻いてから農作業を出かける父親しか知りませんでした。このため軍服が野良着とばかり思っていました。その頃、父親は満州の話をしたことがあまりありませんでした。ところが、亡くなる数年前によく満州での苛酷な逃避行の話をするようになりました。
父親は、昭和17年に田布施農業高校を卒業後しばらくして、T家(今の私の姓)の養子になりました。そして、当時満州のハルピン北部の四平(しへい)近くにあった満州農産公社に就職(昭和18年3月)したそうです。四平には養子先T家のお店(東沢洋行 「東沢」はT家の屋号)があったため、その近くの満州農産公社を選んだようです。私の祖父(父親の父)の姉がT家に嫁いでいたのですが、子供ができなかったため父親が養子となりました。なお最初、T家には父親の姉が養女に行っていました。しかし、その姉が早世したため、代わりに父親が養子として迎えられました。
田布施農業高校の卒業写真、左下〇は17歳の父親
父親は終戦直前、召集でソ連との国境に送られていました。そのまさに終戦時、父親はソ満国境にいたのです。しかし、ソ連兵とのあまりの兵力の差に、機関銃を持ち軍馬を連れて仲間と立ち去ることにしたそうです。機関銃は重かったのですが、菊のご紋章があったため置いて行けなかったとのこと。機関銃は三分割して三人で担ぐか、軍馬に乗せたそうです。
立ち去った理由は、父親がソ連との国境に来た時、大砲などほとんどの兵器は南方戦線に送られて無いに等しかったからのようです。父親は「戦うなど、話にならなかった」と言っていました。国境から次々に戦車が入ってくるのが見えたそうです。とても機関銃だけでは対抗できません。しかも、正規の軍隊である関東軍はすでに去った後でした。関東軍は事前に敗戦が分かったらしく早々と逃げたようです。つまり、国境に送られた父親達は捨て駒だったのです。父親は、自分達や民間人を置き去りにした関東軍に憤っていました。
満州中央部の四平(しへい)にあった、
父親の養子先T家の東沢洋行ビル 東沢洋行で使われていた封筒
ソ連兵がいる正規の道を逃げると危険なため、道無き山から山を伝うようにして逃げたそうです。しかし途中で、あまりの重たさに機関銃を土の中に埋めたそうです。そのうち飢えはじめ、やむなく軍馬を中国人の飼っている駄馬と交換して、その駄馬を食べたそうです。連れ添った軍馬をどうしても食べことができなかったとのこと。なお、背が高くたくましい軍馬を見て、喜んで駄馬と交換してくれたそうです。
またある時、飢えて仕方なくある建物に忍び込んだらいきなり銃で撃たれ、ほふく前進で命からがら山に逃げ帰ったとのこと。運よく弾が当たらなかったそうです。
山伝いに逃げている時、ズボンを血で真っ赤に染めた仲間がいたそうです。重い痔だったとのこと。その仲間、「自分は休むから先に行ってくれ、後から行くから。」と言ったそうです。しばらく進んで、二日ばかり待ったそうです。でもいくら待っても、その仲間は来なかったそうです。父親の言うには、皆の足手まといになりたくなかったようで、一人でも生き延びて欲しいとの必死の心遣いだったのではないかとのことでした。
今ではただの紙屑、当時父親がお金を預けた銀行の定期預金証書
〇に「満州興業銀行 四平支店」と記載
※これらの資料は祖母(父親の母)が敗戦直前に日本に持ち帰ったもの
さらに、逃げる途中でたまたま、同じ方向に逃げている福島県の開拓団家族と一緒になったそうです。ところがある時、足が遅く足手まといのお年寄りを、家族が相談の上で泣く泣く葬ったそうです。他人である父親だからこそ、そのお手伝いをせざるを得なかったそうです。お年寄りに栄養剤と偽って注射したのこと。父親はその時、そのお年寄りが動かないように、注射する腕を両手で強く掴んで押さえる役だったそうです。その時父親はどんな気持ちだったのでしょうか。注射直後、お年寄りはすぐに目をくるくるさせながら痙攣し始めたそうです。仕方がなかったとは言え、葬る手助けをしたためか、そのお年寄りの死にゆく様が頭からずっと離れなかったようです。
満州から父親(私の祖父)宛の軍事郵便 満州農産公社に在籍していた証明書
飢えや疲れで、もう逃げられないと悟り仲間数人で投降したそうです。すると、広場に連れて行かれました。その広場の立札に日本の敗戦が書かれていたそうで、それを見て初めて終戦を知ったそうです。一緒に投降した仲間は、一人ずつぱらぱらに中国人に連れて行かれたそうです。父親が連れて行かれた先は若夫婦と子供二人の四人家族だったそうです。その家族と一緒に生活し、父親は無給で働きました。子供二人(10歳位の姉と弟だったとか)と仲良しになったとのこと。その家族は棺おけを作る仕事をしていたそうです。ある時、できた棺おけを街に運んだそうです。大きな川が流れていた街だったとのこと。
ある時、中国の軍隊に居場所を見つかって軍への入隊を勧められたそうです。当時は八路軍と国民党軍が内戦中で、軍人が足りなかったのでしょう。父親がそれを断わると殴られたそうです。それを見ていた中国人家族が父親を可愛そうに思ったのか、次に軍が勧誘に来る直前に山に逃がしてくれたとのこと。勧誘の軍が去って行った後、子供二人が「おにいちゃん、もう帰ったから出てきていいよ。」と迎えに来てくれたそうです。父親は、良い中国人家族に巡り合ったと言っていました。そのためか父親は、ずっと中国人の恩に感謝し続けていました。
一緒に投降した仲間達の消息は、それ以来まったく分からないそうです。父親と一緒に山をさまよいながら逃避行した仲間達、そのうちの何人が日本に帰ることができたのでしょうか。
どの引揚げ船でいつ日本に着いたかが分かる調査書
ようやく日本に帰ることができると決まった時、中国のある港(葫芦島)で、船に乗る直前に力尽きて無くなった人を山に葬ったとのこと。なお父親の残した資料によると、乗船した船名は「はつうめ」で、1946年10月23日に博多港に着きました。
その船の中に、お腹が大きい女性が何人かいたそうです。ソ連兵の慰安婦とならざるを得なかった女性ではないかと言っていました。航行中に生まれた赤ん坊がいたそうですが、明らかに白人(ハーフ?)だったそうです。その赤ん坊、船から捨てられたとのこと。そんなおぞましいことが本当にあったのでしょうか。お腹が大きかった女性達、生まれたであろう赤ん坊達はその後どうなったのでしょう。
引揚げ後に父親の安住の地となった今の高塔、最初右下の燃料倉庫で暮らす
軍の倉庫群があちこちにあるのが分かる 撮影1950年
満州での怒涛の4年6ヶ月を生き抜いた父親。亡くなる直前に、中国での苦難の逃避行を、母親に何度も話して困らせたそうです。母親は今、ちゃんと聞いてあげれば良かったと後悔しています。
上の写真の右下〇で写した写真、左は当初一緒に暮らした父親の叔母 撮影1950年
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父親の、苛酷な満州逃避行、そして日本への引揚げ
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