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Channel: 東京里山農業日誌
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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(その3)

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 灸川の河口を過ぎると、広い田布施の平野部が続きます。その平野部の田んぼに、ぽつんとお墓のようなものが見えました。田布施川の堤防からおりて、その場所に行ってみることにしました。田んぼの細い幅5cmほどのコンクリート製の畦道を、伝うようにして行きました。

            平野部にぽつんとあるお墓のような一角、向こうは石城山


 そのお墓のように見える一角に着いてみると、お墓のような石が二つありました。その両サイドに丸い石が数個ありました。石には表と裏があり、何か文字のようなものが刻んでありましたが風化して判読できません。この平野が干拓された頃の古いものではないかと思われますが、文字が判読できない以上分かりません。
 そのお墓のような一角から田布施川の堤防に戻り、再び上流に向けて歩きました。しばらくすると、新関戸橋に着きました。その新しい橋を過ぎると、旧関戸橋があった場所に着きました。

      文字が判読できない石塔、お墓?       今は跡形も無い旧関戸橋跡
  

 この旧関戸橋,精米所,そして田布施川の関係についてTkさんにインタビューしました(私の同級生Tyさんの弟のTsさんに、Tkさんをご紹介いただく)。
 まず昭和始めまで田布施川の川幅は25m位しかなかったそうです。そして、下図のように精米をするための水車小屋と、その下掛け水車を回すための堰があったそうです(田布施郷土館にその頃の写真を展示中)。その精米を生業にしていたT家の住居は水車小屋の上流100mにあったとのこと。
 昭和17頃に関戸橋が架けられた頃に、下図の場所に旧精米所ができたそうです。その時、水車小屋の一部の精米機を旧精米所に移したそうです。その旧精米所は水車ではなくモーターで精米機を動かしたとのこと。この頃、水車の役目が終わったようです。

              新旧の関戸橋,精米所,そして田布施川の位置関係


 その後、昭和25年にキジヤ台風で田布施川の瀬戸付近の堤防が決壊して氾濫したとのこと。この時の氾濫で、田布施の商店街などの街が水浸しになったそうです。瀬戸地区に碑があります。その洪水が将来起きないようにと、昭和30年に田布施川の川幅を拡張したそうです(上図の黄色矢印のように)。この工事の結果、川幅が約25mから今の約40mに拡張しました。そして旧関戸橋は、川幅が増えた分だけ上図の茶色矢印のように延長したとのこと。なお、Tkさんによると、T家近くも新川と呼んだそうです。ところが、どう言う訳か麻郷の川添付近だけを新川と呼ぶようになったとのこと。
 この川幅拡張工事の時にT家は補償金をいただいたそうです。そして、そのお金で昭和30年12月に旧精米所と旧住居から今の精米所の場所に移転したそうです(上図の赤矢印)。

 数年前に新関戸橋が作られた時、旧関戸橋とそのすぐ下流の堰堤は壊され今は跡形もありません。

               旧関戸橋付近の桜並木の堤防、田布施川上流を見て


 旧関戸橋と精米所を過ぎると、田布施川上流に向けて歩きました。鉄塔付近の堤防下にくすの木の大木が生えています。その木の下に地蔵様がたくさんありました。何のお地蔵様でしょうか。
 お地蔵様は、災害時か世の中の安寧を願って立てられたものが多いようです。このお地蔵様に刻まれた年号は明和元年(1764)でした。この年に何があったのでしょうか。田布施川堤防直下にあるため、考えられるのは田布施川氾濫関連か田布施川堤防工事関連の可能性か高いように思います。このお地蔵様に刻まれた文字を解読すれば分かるのではないかと思います。

     くすの木の下のお地蔵様群        一番大きなお地蔵様に明和元年と刻印
  黄色矢印は私が中学生時代の通学路        新しいものは明治の年号
 


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