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Channel: 東京里山農業日誌
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田布施町 観光協会の方々と古墳などの観光資源を調査

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 午後13時に田布施町郷土館に観光協会などの方々が集まって、田布施町の観光資源である古墳などを調査しました。最初、城南川西西山の呉麓山の8合目付近にあるひかり観音をに行く予定でした。しかし、先日すでに何人かの方々がひかり観音を調査したため外しました。今回は、最初に城南川西にある木ノ井山古墳に行きました。

      郷土館で資料類を渡すN君              妙見社前に車を駐車
 

 郷土館を出ると、田布施川にかかる観音橋を渡り川西地区に入りました。そして、車一台が通ることができる山道に入りました。しばらくして妙見社に着きました。そこで、車を降りて、妙見社の石鳥居(安永4年1775年建立)の下をくぐった後、山ツツジが咲いている山道をのんびり歩きました。山道は、地元の方が清掃したようでした。落ち葉が踏み固められ、ふかふかした歩きやすい道でした。

      妙見社の石鳥居をくぐる             木ノ井山古墳を一周する道
 

 しばらく歩くと、木ノ井山古墳を一周する道に着きました。今回は、右に回ることにしました。歩いてすぐ、木ノ井山古墳の説明板が立っていました。この古墳は直径約27m高さ5mの円墳で、古墳時代中期(5世紀中)に作られたようです。この時代は、日本で古墳が一番多く作られた時代です。日本で一番大きい大仙古墳(仁徳天皇陵)が作られたのもこの頃です。

                 木ノ井山古墳を巡る道に建てられた説明板


 私は木ノ井山古墳に初めて行きました。この古墳を巡る林の道は、歩きやすくとても気に入りました。来年、ウォーキング仲間を連れて歩きたいと思います。
 次に、石走山古墳に行きました。この古墳はあまり整備されていません。去年9月の田布施川沿い史跡巡りウォーキング(5回目)時、やっとの思いで藪漕ぎをしながら石走山古墳にたどり着きました。

    舗装された坂道を石走山古墳へ       明るい杉林の中、石走山古墳は目の前
 

 石走山古墳へに行くコースは三つあります。今回は舗装された坂道を上がりました。正規コースは国森古墳側から登り、民家の間を通り抜けて行くコースです。しかし、民家を通り抜ける道はとても分かりにくく迷いそうです。初めて来る人は、不安になりそう。

                 石走山古墳の案内板前でコースを確認


 ところで、石走山古墳のさらなる問題は道が整備されていないことです。藪漕ぎしないと古墳に着きません。よほど、根性がないと行きつきません。今のままでは、女性の方や子供にはお勧めできないように思います。

     大きな石が使われた石室             石走山古墳を後に、国森古墳へ
 

 石走山古墳を見終わると、次に国森古墳に行きました。この古墳は、山口県で最古級の古墳時代前(4世紀頃)で横穴式ではなく竪穴式です。また珍しい方型古墳で、大和朝廷が誕生する前後の時代のようです。いわゆる魏史倭人伝の時代に近いと思われます。この古墳が田布施にあると言うことは、当時(4世紀頃)の田布施は山口県の先進地域ではなかったかと思われます。

      国森古墳へのなだらかな坂道            国森古墳直下の説明板
 

 国森古墳に着くと、方型墳墓の頂上に登ってみました。頂上の真ん中に建つと、方型の形をなんとなく連想することができます。ただ、石走山古墳ほどではないにしても管理が行き届いていないように思いました。柳井市の茶臼山古墳ほどでなくとも、もう少し整備されていれば良いのにと思いました。

                   杉林の中にある、国森古墳の頂上


 ところで、国森古墳が作られた4世紀初頭、ヨーロッパではコンスタンティヌス1世がローマ帝国を再統一した時代です。キリスト教徒ならば絶対知っておくべきミラノ勅令(キリスト教の公認)が発布された年代です。またヨーロッパの民族大移動が始まった頃です。中国は、魏史倭人伝で有名な魏(3世紀)の時代が終わり、混乱した五胡十六国時代(4〜5世紀)です。古墳を見ながら世界史に思いをはせると、歴史をより面白く感じることができます。

       後井古墳の秋葉社石鳥居           後井古墳の石室入口
 

 国森古墳の次に、山口県下で規模が一番大きいとされる後井古墳の石室に行ってみました。この古墳は、江戸時代にはすでに開口されていたようで、地元の方から秋葉社と呼ばれて大切にされてきたようです。後井古墳は古墳後期(6世紀頃)に作られたようで、これ以降は古墳は作られなくなります。
 ちなみに、石城山の朝鮮式石積遺跡(神護石)は、古墳時代が終わった直後の7世紀に作られたようです。中国の隋,唐時代にあたり、朝鮮半島が新羅に統一される戦乱の時代にあたります。この石城山の古代遺跡は、中国や朝鮮半島の戦乱と関わりがあると思われます。その一つの証拠として、石積みが古代朝鮮式であり、さらに土塁跡が万里の長城と同じ坂築工法で作られているからです。

        稲荷山古墳の石鳥居            破損が進んだ稲荷山古墳の石室
 

 後井古墳の次に、後井古墳から数百メートル離れた場所にある稲荷山古墳に行ってみました。この古墳は人家近くにあったためか、石室がだいぶ破損を受けていました。石室が壊れないように、支えとしての石が後代に石室内に置かれたようです。人家近くに作られた古墳は、大波野の天王原古墳と同様に傷みは避けられないようです。
 ところで、この古墳の位置から西田布施方面の広大な田んぼが見下ろせます。この古墳が作られた時代、この辺りは海だったはずです。この海を見下ろせる眺めが良い位置に作られたのではないかと思います。

                巨大な木々に囲まれた、富永有隣の石碑


 稲荷山古墳を見終わると、今回の古墳巡りは終わりです。少しばかり時間があったため、富永有隣の碑がある瓜迫農業公園傍まで行きました。ちなみに、富永有隣のお墓は、石碑から田布施苑の方への小道を50m位行った場所にあります。
 ところで、巨大な木の枝や葉にさえぎられている富永有隣の石碑は少し残念です。手前の大木を伐採するか、枝打ちすると良いと思います。

  木々に囲まれた有隣の石碑に向かう          有隣の庵がかつてあった場所
 

 午後3時過ぎに、古墳巡りや富永有隣の石碑調査を終えました。これらの古墳や石碑,それらに至る道,案内板などの状況が分かりました。田布施町の貴重な観光資源ととらえるならば、これらの整備はまったなしだと思いました。

             ピンクの線は、今回歩いたり車で通ったりした道,古墳,そして石碑
               ※森や林を通ったためGPSが少し乱れている


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