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防陽八十八ヶ所霊場の実踏調査 43番〜45番霊場 田布施町編(5/5)

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 田布施町内の防陽八十八ヶ所霊場もあと三ヵ所です。今回は、松尾にある第四十三霊場である瑞松庵を訪れました。この瑞松庵は田布施町地方史にもたびたび出てくる、比較的知られた庵です。かつては尼僧が住んでいたとのことでした。瑞松庵を訪れると、今は松尾の集会所として使われているそうです。住むことができるほど、綺麗に手入れされていました。

    綺麗に手入れされている瑞松庵         防陽43?番霊場、平和34ヶ番霊場
 

 瑞松庵をよく見ると、防陽霊場と平和霊場の二つの霊場の木札が飾ってありました。ところが、木札をよく確認すると防陽霊場は四十三霊場ではなく四十四霊場となっています。どこかで1か所ずれているようです。不思議なことです。ところで木札の古さから判断すると、防陽霊場が先で平和霊場が後に指定されてように見えます。
 瑞小庵は、庵の形態が比較的良く保存されいます。なお、寺,院,庵,そしてお堂の順に規模が小さくなり。人が住める一番規模が小さな建物が庵だそうです。

                 麻里府上組にある、石垣がとても立派な大泉寺


 瑞松庵を見学し終わると、次に第四十四霊場である麻里府の大泉寺に向かいました。このお寺も防陽霊場と平和霊場の二つの霊場を兼ねています。ただ、大師堂には霊場の番号が書かれた木札がないため、霊場番号を確認することはできませんでした。巡礼の順番からして、防陽四十四番霊場と平和三十五番霊場に間違いないと思います。

      大泉寺の本尊                      境内北側にある大師堂
 

 続いて第四十五番霊場の龍泉寺に向かいました。このお寺は、先日の田布施町観光協会の観光名所探訪の時に行きました。このお寺は何と言っても、楼門が立派です。今回下から見上げると、霧が太陽で放射状に光っていました。なかなかの素晴らしい光景でした。田布施町でもトップと言っても良い立派なお寺ではないかと思います。私が来たとき、拝観者が二名来ておられました。

         霧が太陽で放射状に光っていた、とても立派に見える赤の楼門


 ご住職さんに巡礼についてお話しを伺いました。すると、数年前まででしょうか巡礼で来られていた方々がいたそうです。巡礼者が拝む大師堂を見させていただました。その大師堂の柱に巡礼を示す木札が掲げられていました。木札に書かれた字が読めず困っていると、ご住職が水を入れたバケツと雑巾を持ってこられました。水を染み込ませた雑巾で、その木札を拭くと、なんと薄いながらもくっきりと字が浮き上がってしました。
 その木札には、「霊場四十六番」と書かれており、その木札の下に「防陽霊場・印」書いてありました。なお、瑞松庵と同じように、防陽霊場の番号が一つずれていました。不思議です。かつて田布施町に幻の防陽霊場があったに違いありません。もう1つの木札には「平和三番霊場」と書かれていました。
 ところで、何かごりごり音がするので、耳をそばだてました。すると、ご住職さんが「ムササビが木をかじっている音です。鐘突き堂の屋根をふさいだので、中に入ろうとかじっているようです。」とのことでした。初耳なのですが、龍泉寺を取り巻くように八十八のお地蔵様が安置されているとのこと。そして毎年、総代の方に草を刈り取っていただいているそうです。

      龍泉寺境内のハガキの木          「霊場第四十六番 防陽霊場」の木札
 

 防陽霊場は、43番の瑞松庵から、44番の大泉寺を経由して、45番の龍泉寺に行きます。ところが、平和霊場は、平和霊場1番の千坊山光福寺から、下図Bの平和霊場2番の竹尾観音様から、平和霊場3番(防陽霊場45番)の龍泉寺を経由して、平和霊場4番(防陽霊場44番)の大泉寺へ行きます。なお、瑞松庵は防陽霊場43番で、かつ平和霊場34番です。
 下図の黄緑線は、竹尾地区(11月)の平和巡りコースの一部です。Bが集合場所です。一昨年まで、車で巡礼が行われていました。昔は、歩いて巡礼していました。

 これで、田布施地区を通る防陽霊場巡礼コース(26番〜45番)の実踏調査を終わります。残る、柳井市,平生町,そして光市の防陽八十八ヶ所巡礼コースは、これから時間をかけて地道に調べようと思います。

防陽八十八箇所 43〜45番霊場(御札所)
 43番霊場:松尾 瑞松庵     44番霊場:大泉寺
 45番霊場:竹尾 龍泉寺
  A:千坊山光福寺          B:竹尾の観音様

 黄色線は防陽巡礼コース  黄緑色は竹尾地区の平和霊場巡礼一部コース


耕耘機の始動装置を修理、切れたロープ交換

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 畑を耕耘しようと、いつものように耕運機を動かすために始動ローブを引っ張りました。すると、スポンと始動ロープが紐ごと抜けてしまいました。やれやれ、2年ぶりに耕耘機の始動装置を修理しなければなりません。2年前の修理時に交換したロープがやや細かったようです。

       切れてしまった始動ロープ            始動装置を取り外す
 

 切れたロープを交換するため、耕運機の始動装置を取り外しました。4か所のネジを取ると、その装置を外すことができます。最初、切れたロープを外しました。そして、新しいロープの端を取り付けます。そして、バネの力で自然に巻き取られるように、ロープをプーリーに巻き付けました。

  始動装置を裏返し、切れたローブを外す         新しいロープを巻き込む
 

 バネの力でロープを巻き込むようにすると、手で引っ張るレバーをロープの片端に取り付けます。あとは、始動装置を耕運機に取り付けるだけです。慣れないと難しい作業ですが、何年も経験すると簡単です。始動装置を取り付け終わると、エンジンをかけてみました。一発でエンジンがかかりました。直した耕耘機を使って、ポピーやビオラなどの花の種をまく畝を耕しました。

              バネの力でロープが巻き込まれるようにロープを取り付け

南平和八十八ヶ所霊場の実踏調査 1番〜4番ヶ所霊場(1) 田布施町

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 防陽八十八ヶ所霊場を実踏調査していると、平和八十八ヶ所霊場に加えて、南平和霊場に関わる大師堂や観音堂に当たることがあります。防陽八十八ヶ所霊場や平和八十八ヶ所霊場はそのリストがあるため、霊場番号,名称,そしておよその場所が分かります。しかし、南平和については何ヵ所あるのか、どうして「南」なのかがさっぱり分かりません。いろいろ調査してみると、田布施町の麻郷・麻里府周辺を巡礼する霊場のようです。
 まず、南平和の第一番ヶ所は田布施川の旧関戸橋袂にあった大師堂だと思われます。その理由は、「巡礼時には、最初にこの大師堂に集まる。」と聞いたからです。そして、第二番ヶ所霊場が、そこから比較的近い川添地区の寮(りょう)だからです。今、第一番ヶ所霊場は旧関戸橋解体などの理由によると思われるのですが、農機具小屋にあります。いつか、立派なお堂が建てられ安置されると思われます。

     一見すると農機具小屋            農機具小屋に安置されたお大師様
 

 第二番ヶ所霊場は川添地区の寮(りょう)です。院や庵ならば分かるのですが、不思議な呼び名です。しかし、寮の意味を調べてみると「僧の住む寺内の建物、又は僧が寄宿して修学する道場」を寮とも呼ぶそうですので間違いではありません。寮は浮島神社のすぐそばにあります。浮島神社のお祭りなどの時に地区の方が使うそうです。
 浮島神社の近くに住む古老のSさんにお話しを伺いました。Sさんがおっしゃるには、この寮にはかつて尼僧さんが住んでおられたそうです。そして、毎日「おっぱ」(竹尾地区では「おっぱん」、漢字で書くと御飯)をあげていたそうです。

          南平和第二番ヶ所霊場、川添地区の浮島神社近くにある寮(りょう)


 この寮にあげるおっぱは、この寮所有の田んぼ3反で賄われていたそうです。ところがある時、川添地区の道幅を広げるためその田んぼをつぶしたそうです。それ以降、村の家が毎日交代で各人からおっぱを持ち寄って寮にお供えしているそうです。
 ところである時に尼僧さんがこの寮から出てから無人になったそうです。拝む人がいなくなったため、ここに安置されていた大師様を平生の真覚寺に預けたそうです。すると、不思議なことにこの村に病気が流行ったそうです。そのため、真覚寺に預けていた大師象を返したもらって再び寮に祭ったそうです。すると病気が止んだとのこと。

    なかなか立派な、寮内の参拝所            すぐ隣の浮島神社
 

 ところで寮のお話をお聞きしたSさんは余田の出とのことですが、S家はとても古く、300年位前にこの川添に住み始めたそうです。住み始めた時、家名が藩主と同じだったためSに改名したそうです。
 近くに住む川添氏のご先祖は江戸時代、この地区の田んぼを開作したやはり古い家です。故川添常太郎氏のお話(田布施地方史記載)の中に、川添氏を含めて5家が最初にこの地区に入植したとの記録があります。その5家の一つがS家ではないかと思われます。機会をみて、Sさんにお話をお聞きしようと思います。

  南平和第三番ヶ所霊場の三宅薬師如来     南平和第三番ヶ所霊場の木札
 

 ところで、お接待は必ず霊場でするとは限らないようです。川添地区では第二番ヶ所霊場である寮の次は、ある民家を個別巡礼してお接待をしていたそうです。個々の家が望めば、巡礼ルートの一つに加えてもらえる柔軟性があったようです。
 続いて、南平和第三番ヶ所霊場の三宅の薬師如来に行きました。この霊場は三宅地区にあり、はっきりと「南平和第三番」と書かれた木札が掲げられています。ここの霊場も近年お接待が行われていました。
 ところで、この薬師如来は「南陽霊場第三十一霊場」も兼ねています。この地区周辺は、防陽霊場,南陽霊場,平和霊場,そして南平和霊場が入り乱れている稀有な地域です。さらに、防央霊場と呼ばれる霊場もこの一帯にあることが分かりました。いったいいくつ霊場があるでしょうか。また明治時代、大島の霊場は周陽霊場と呼ばれていたようです。

             尾迫の観音堂、とても綺麗に管理されている


 続いて、南平和第四番ヶ所霊場である尾迫の観音堂に行きました。この観音堂については故時政実作氏が田布施地方史に詳細に記録しています。巡礼の記録もあります。この観音堂はとても綺麗に管理されているので、地元の方が例えばクリーン作戦などの日に掃除しているのでしょう。又は、何かの集会に使われているのではないかと思います。ここに掲げられている「南平和第四番」の木札は、南平和霊場の中で一番綺麗です。雨風にも日差しにも当たらない場所に掲げられているからでしょう。

      尾迫の観音堂の内部               南平和第四霊場の木札
 

  ところで、この第四番霊場から先が分かりません。五番,六番が分からず、七番が井神の長福寺なのです。そして、十一番が戎ヶ下大師堂なのです。それ以外はまだ分かりません。大雑把な考えですが、麻郷,麻里府を1日で巡礼する霊場ではないかと思われます。八海を巡礼したとの話も聞きます。もしかして、私が昨年8月18日に見た千坊山光福寺ご住職による八海のお地蔵様の催しが巡礼の名残りだったのでしょうか。機会を見てさらに調査しようと思います。大泉寺を巡礼した話がありますし、廃されて跡しか残っていない鳥越のお大師様も巡礼のお話を聞いたことがありますが、まだ確証を得ていません。

南平和八十八箇所巡礼コース(一部のみ)
 1番霊場:お大師様     2番霊場:川添 寮(りょう)
 3番霊場:三宅 薬師観音 3:尾迫 観音様
 7番霊場:井神 長福寺   11:戎ヶ下 大師堂

  A:大泉寺   B:鳥越 お大師様(廃) C:八海 地蔵堂

    黄色線は南平和巡礼コース  1番〜2番〜3番〜4番以外は未定

陸稲(農林24号:うるち)を稲刈りして干す、そして落穂拾い

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 ようやく陸稲の稲刈りシーズンになりました。私は、東京に住んでいた頃は水田で稲作をしていましたが、山口県に来てからは陸稲を栽培しています。水田に慣れていたため、陸稲作りには苦労しています。陸稲の栽培で一番難しいのは除草です。後で除草しやすいように種まきを工夫することが陸稲作りのこつの一つです。その点、水田は水深管理をちゃんとしておけば除草に苦労しません。
 さて稲刈りを始める前に、防鳥用のテグス糸を取り外してから反射テープを外しました。そして、テグス糸を張っている竿を陸稲畑から持ち去りました。

    最初、防鳥用のテグス糸を取り外し        次に、反射テープを取り外し
 

 鎌を使って手刈りしても良いのですが、手早く稲刈りするため稲刈機を使いました。この稲刈機は、東京に住んでいた頃に近所の農家の老夫婦にいただいたものです。いただいた老夫婦は、数年前に亡くなりました。いただいてから、13年になりますが、修理しながら使い続けています。麦の刈り取りにも使っている優れものです。

                    秋晴れの中、もくもくと陸稲を刈り取る


 刈り取りが終わると、束ねられた稲株を集めては干しました。一週間程度干してから、脱穀します。脱穀機もいただいたもので、発動機を使って動かします。私は、郷土館に展示してあるような古い農機具(もはや骨董品)を今だに使い続けています。
 東京にいる頃は、10年近く、近所の小学生に稲刈り体験の支援をしていました。そして、大学生などにも千歯こぎ,足踏み式など、いろいろな古い農機具を体験してもらっていました。こうして、子供達に昔の米作りや農機具の歴史を肌で知ってもらっていました。その頃の子供達の笑顔を思い出します。

       もうすぐ稲刈り完了                刈り取った稲束を天日干し
 

 一通り稲刈りが済むと、落穂拾いをしました。稲刈機を使うと、倒れた稲は刈り残されることがあります。そのような稲を拾い集めます。すべての陸稲を集めると1株分位の稲束になりました。1株分の稲は、ご飯2杯位の量です。昔ならば、無視できない量です。
 今回稲刈りした畑は脱穀後に耕運機で耕して、私が好きな「のらぼう菜」を植えようと思います(育苗中)。ところで、陸稲は嫌地性があるため来年は栽培できません。3年後に再びこの畑で陸稲を栽培しようと思います。

            稲刈り落穂拾いが終わった陸稲畑、干した稲をここで脱穀予定

平生町 直指院を訪問し、園田大師堂を訪ねる

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 これまでは、田布施町の古い巡礼地を調べてきました。今回、隣の平生町を調べてみることにしました。訪問したのは曽根の直指院です。子供の頃に平生保育園に通園していた関係で、私は幼児の頃に平生の街をずいぶんと歩き回りました。名前は知らなかったのですが、直指院を覚えています。その昔は庵だったのでしょうが、今は立派なお寺に見えます。

              この直指院の入口の近くに大師堂がある


 ご住職の方にいろいろお聞きしました。すると、3代前のご住職が各地を巡礼して得度をつまれたそうです。周南霊場八十八ヶ所(今の大島八十八ヶ所霊場)を巡礼した時の納径帳を見せていただきました。明治時代のことです。そして、直指院を立て替えられたとのこと。その時に庵から院になったのではないかと思われます。ご住職様、いろいろ教えていただきありがとうございました。

        直指院の本堂                   入口近くにある大師堂
 

 ついでに、「周央霊場巡拝道筋」を見せていただきました。ざっとその巡礼ルートを見ると、防陽霊場ルートと重なる御札所がありました。周央霊場と呼ばれる巡礼ルートもあったのですね。
 次に、直指院の一つ前らしい番号の防陽霊場を教えていただきました。それは、園田の大師堂ではないかとのことでした。さっそく、園田地区の大師堂を探しました。その大師堂を探している時、平生小学校傍に古代米アートがあるのに気がつきました。

    周央霊場巡拝道筋のリスト
    一番は光市岩田の冠念寺            平生小学校前の古代米アート
 

 大野の園田地区の周りに住んでいる方々に聞きながら探しました。すると、絶壁のような場所に大師堂がありました。極細の崖道を恐々と通って行きました。今は園田地区の集会所として使われていました。ところで、木札には「四国四十三番弘法大師」と書かれていました。何故「四国」なのか不思議です。
 防陽霊場とか平和霊場と書かれていれば、探している巡礼地なのですが判断に困りました。防陽霊場のリストには「大野薬師堂」となっているため、この大師堂は探している巡礼地ではないのかも知れません。今後、さらに大野地区を探してみようと思います。

                  園田地区の四国四十三番弘法大師

平生町 大野薬師堂を訪れる

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 直指院を訪問後、園田の大師堂に行きました。その大師堂は巡礼地のようではないため、防陽八十八ヶ所霊場道筋に記載してある大野薬師堂を探しました。大野北にある「こびとのおうちえん」の0さんと大岩を見て回ったことがあります。その時、お堂のような変わった作りの建物を見かけたことがあります。その建物を探しました。

                    大野の山の斜面途中にある薬師堂


 その建物を探し当てると、さっそく建物を見学しました。付近に誰もいなかったため、詳細を聞くことができませんでした。しかし、柱に「平和第五十五番霊場」と墨で書かれた木札が掲げられていました。巡礼地の札所に間違いありません。この大野薬師堂は、神護寺の次の巡礼他に間違いありません。

    〇は霊場番号が書かれた木札      「平和第五十五番霊場」と記載された木札
 

 これで、平生町の神護寺から平生竪ヶ浜知願寺までの、六つの霊場が分かりました。今後、確認の意味で神護寺から知願寺まで通して訪問しようと思います。なお、久賀島法輪寺は去年訪れた時は廃墟のようになっていました。その法輪寺、さらにその昔は観音寺と呼ばれ平生開作工事の時に無くなった方を弔う場所でした。

 かろうじて残った法輪寺の山門 2013         倒壊した法輪寺本堂 2013
 

 古い巡礼地などを調査していると、倒壊寸前の祇園様,廃されたお寺,ただの広場になっていた大師堂などを発見することがあります。一方で、廃バスに安置されたはずの観音様がちゃんとしたお堂に安置されていたこともあります。
 今のうちに記録しておくべき歴史遺産が次々に無くなっています。そのような現状を目にすると、記録が追いつかず焦りに似た気持ちになります。

                        今回訪問した、直指院と大野観音堂ほか

田布施町 城山(じょうやま)頂上の不思議な石垣

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 田布施町麻郷戎ヶ下の城山(じょうやま)に不思議な石垣があることを、泊団地の方にお聞きしました。そこで、10日に泊団地の方々と一緒にその石垣を実際に見に行ってみました。私が子供の頃に一度浜城から登って尾根筋を歩いたことがありますが、石垣の記憶はありません。そもそも史跡や石垣に興味がなかったので、見たとしても記憶に残らなかったのではないかと思います。
 泊団地の集会所をスタートして、最初妙躰神社に行きました。昔は段々畑であっただろう山裾を通りながら神社に行きました。この神社は比較的新しく、移築か立て直しをしたように見えます。

    泊団地と浜城の境近くの妙躰神社            険しい急傾斜を登る
 

 妙躰神社からは道がありません。落葉を踏んだ跡を見つけては登りました。とても急峻な傾斜地です。足は滑りやすく、枝をつかまないと転んでしまいそうです。それでも、無理して登っていると、頭上が明るくなるので尾根に近づいていることが分かります。少し汗ばみながら頂上に着くと絶景が待っていました。特に、平生湾の対岸にある水場方面がとてもよく見下ろせました。「そうそう、この光景だ!」と、私が子供の頃に見た光景が蘇ってきました

          眼下に広がる、泊団地,平生湾,南周防大橋,水場など


 視界を北に向けると。麻郷や田布施町方面が見渡せました。ところで、この山が何故「城山」と呼ばれるのか由来は分かっていません。火のない所に煙はたたないとの諺のように、何の言われも無く「城山」と呼ばれるはずはありません。ふもとには「浜城」と呼ばれる地区があります。何らかの関係があるのでしょうか。

             城山から北の方角にある麻郷や田布施方面を見下ろして


 視界を南に向けると、佐合島,長島,馬島,牛島,そして祝島がよく見えます。もっと快晴であれば九州の峰々が見えるはずです。この城山は、田布施や平生が海峡だった古代にはとっておきの見張り場所だと思います。狼煙台にも適していると思います。今は、城山の南と西側は長年の採石のため山の形がありません。何か遺跡のような物が無かったのか、今になっては知る由もありません。

   百済部,田名,阿多田半島を見て           馬島,牛島,その向こうに祝島
 

 頂上には大岩が鎮座していました。その大岩傍のわずかな広場を支えるように不思議な石垣があります。そして、その周辺には瓦の破片が散乱していました。瓦があることは、昔に何らかの建物があった証拠です。しかし、その建物が、何の目的で,いつ頃,誰が住んでいたかなどが全く分かりません。この大岩のどこかに文字か印のようなものが刻まれていないか、そして製造所のマークがある瓦が採取できないかなど調査してみたいものです。

     平生湾をバックに、城山頂上に登った5人(左よりA君,私,泊団地の方々)


 私見ですがこの石垣は、①大岩は国道などからも目立ちます。この大岩を祀る建物。 ②海峡を監視する烽火台。 ③元々あった城の一部、本城は採石のため壊されて無い。 ④支城。 ⑤庵,お社,祠の跡。 などなど、いくらでも考えられます。いったいどれが正解なのでしょうか。歴史の謎でありロマンです。石垣が作られた時代と、建物が作られた時代は同じではないも知れません。しかし、石垣と建物があったことは史実なのです。

      石垣の東南角                      少しばかり反っている石垣
 

 私の手に余るため、田布施地方史研究会のH会長に、石垣の写真と模様の付いた瓦の破片の写真をお渡ししておきました。Hさんも良く分からないとのことで、石垣を含む中世史の専門家に見てもらおうとのことでした。歴史の謎の一端でも分かると良いのですが。

            野積み?石が交互に斜め組みされているようにも見える石垣


  ところで、石垣の周りに散乱している瓦ですが、どれもバラバラに破損してます。建物が焼失ならば黒く炭がついていると思いますが黒い瓦はありません。建物を移築したのであれば整然と並んでいるはずです。何らかの原因で放置されて倒壊したのか、意図的に壊したのではないかと思われます。また、お地蔵様や石柱のようなものが一つもないので、神社やお寺のような宗教に関わる建物ではないようにも思われます。

            不思議な石垣の脇を通った後、元来た急峻な斜面を降りる


 この瓦には模様があるため、それなりに由緒ある建物だったに違いありません。庶民は茅葺き屋根が当たり前だった時代です。瓦は貴重で、それなりの地位のある人でしか建てられなかったように思います。烽火台や支城ならば、こんな贅沢な模様付き瓦を使わないように思います。

       模様が付いた瓦の破片            城山直下にある千代稲荷明神
 

 この城山は、平生湾を眼下に見下ろす絶好な位置にあります。平生~田布施~柳井を結ぶ海峡があった古代、湾を行き来する船を監視するにはとても良い位置です。また、九州方面からやってくる船を監視するにも適しています。さらにその昔、2世紀頃にあった高地性集落(平生の吹越遺跡など)を考えると、海から襲っていくる敵を監視するには絶好の場所になります。考えすぎかもしれませんが。

                   石垣を確認した城山頂上の位置

第4回 田布施町 ウォーキング大会 2014

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 台風が明日か明後日来そうで風が強い11日、第4回の田布施町ウォーキング大会が催されました。去年は、東京に行かなければならず欠席でした、今回は一番距離が長い9kmの古墳コースに参加しました。一昨年も同じ古墳コースに参加しましたが、その時は出発地点が交流館でしたので8kmでした。その他、4.4kmの郷土館コース、そして6.8kmの大橋コースがあります。

    この垂れ幕が、出発点であり終点          登録を済ませる参加者の方々
 

 古墳コースの先導者はS君です。ご苦労様です。10時の花火を合図に、ウォーキングのスタートです。午前中にスタート地点に戻らなければならないので、少しばかり早歩きしなければなりません。私は、先頭を歩きながらも行きつ戻りつ写真などを撮影しました。一昨年は、中間地点のたぶせ苑から先頭と最後尾に差がつきました。今年は、たぶせ苑に着くまでに差が着きました。最後尾担当のT君もお疲れ様でした。

                旗を持つ先導者と、それに続く古墳コース参加者


 迫っている台風19号のため曇空でしかも風が強かったため、快適にウォーキングすることができました。少しばかり汗ばんでも、強めの風が吹いていたため、信号や踏切で立ち止まるたびに疲れが取れました。また、美しいコスモス畑を見ながらの楽しいウォーキングでした。

    踏切で電車が通り過ぎるのを待つ         コスモス畑を楽しみながら歩く
 

 後井古墳では、数人が石室に入って見学しました。私は何度も入ったので、石室前で休憩しました。内部は懐中電灯がないと見学できません。参加者の数人に、私が持ってきた懐中電灯を貸しました。ところで、10月にもかかわらず蚊がたくさんいました。去年、後井古墳をウォーキングした時は、大群の蚊に襲われたため少し離れた場所で昼食休憩したほどです。

   後井古墳の石室を見学している方々         第1チェックポイントで押印
 

 後井古墳を出てすぐの場所に第1チェックポイントがありました。参加者は通過した証明のために押印していました。その後、しばらくすると中間地点のたぶせ苑です。ここで参加者全員に飴が配られました。そして、トイレ休憩です。参加者の何人かは芝生などに座って休憩をとっていました。

              1時間ほど歩いて到着した、中間地点のたぶせ苑


 このたぶせ苑は中間地点ですが、あまり休憩時間を取り過ぎると体が鈍ります。鈍らないうちに、たぶせ苑をスタートしました。S君の旗を先頭に再び歩き始めました。復路は、古代米アートを見渡せる田んぼや広大な田園風景を楽しみながらのウォーキングです。田んぼのあちこちで、コンバインが台風前の稲刈りを急いでいました。

  左手に古代米アートを見つつ小休止           旗を持つ先頭集団
 

 田布施町スポーツセンターに到着したのは11時50分頃でした。元気な参加者は先を争うように終点に着きました。正午に間に合うように早歩きしたためか、先頭から最後尾は見えませんでした。私は、史跡などを皆さんに解説しつつ楽しみながらのんびりウォーキングするので、今回のような早歩きウォーキングは別の意味で新鮮でした。来年も同ウォーキングにも参加しようと思います。

      若者3人+1名の最先頭集団         到着の手続きと抽選、お疲れ様!
 

 ウォーキング大会が終わると、たぶせスポーツまつりの祭典を楽しみました。ちょうどパン食い競争が行われていました。子供も大人も歓声を上げながら楽しんでいました。運動場の周りを見渡すと、たくさんのお店が出店されていました。私は、ばあ様のお土産用に炊き込みご飯を買いました。そして、苺ファームのアイスクリームを食べました。

            とても賑やかな、第16回たぶせスポーツまつり会場


 ウォーキング参加に当たって、スポーツに関わるGPS測定器を持っていきました。それによると、歩いた距離は9.2km、平均速度5.7km/Hで歩き、そして消費したカロリーは331kcalとなっていました。そして、休んだり,信号や踏切などで停止していた総時間は約15分でした。このため、正味1時間35分で9.2kmを歩いたことになります。これを時速に換算すると5.8kmです。つまり時速5.8kmでウォーキングしたことになります。4km/Hが普通と言われますので、1.4~1.5倍の速さで歩いたことに相当します。古墳コースに参加された方々、お疲れ様でした。

                   古墳コース(9km)で歩いた道筋


台風対策のため、乾燥中の稲にビニールシート

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 台風13号が12~13日に来るとのことで、急いでその対策をしました。先日稲刈りして干している稲が豪雨で濡れないように、急遽ビニールシートで覆うことにしました。最初、ビニールシートに収まるように干している稲束を寄せました。そして、ビニールシートで覆いました。麦を収穫する初夏もたびたび豪雨があり、そのつどビニールシートで被います。

  干している稲束をビニールシートで覆う        風であおられないよう紐で結束
 

 台風は風も強いため、あおられないように紐でしっかりと結束しました。ただ、あまりの強風の場合、ビニールシートごと倒れないか心配です。おそらく台風が過ぎ去る14日には快晴になると思います。その時は、再びビニールシートを外します。そして、今週中に脱穀,籾摺り,精米をしたいと思っています。さて、今夜から明日13日昼にかけて台風が来る見込みです。山口県に上陸するでしょうか。

                干している稲をビニールシートで完全に覆う

古いSONY製トランジスタラジオ TR-63の修理(4/x)

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 台風19号のため、昨日の夜から雨が降り続いています。このため、予定した田布施町国木竹尾方面のウォーキングを中止(来月に延期)しました。大雨で家から一歩も出ることができないため、久しぶりにラジオを修理することにしました。57年前の昭和32年(1957年)に発売された、SONYが製造したトランジスタラジオTR-63です。このラジオが発売された年、私は平生保育園に通う4歳でした。

          SONY製トランジスタラジオTR-63の回路基板を取り出して修理


 前回までに回路基板の部品などを調査し終えたため、今回はラジオの音が小さい故障を直すことにしました。これまで何台ものラジオを修理してきましたが、音が小さい原因のトップは音声回路初段の結合コンデンサの容量低下です。このラジオもその疑いがあるため、そのコンデンサを調査しました。まずは、その結合コンデンサの位置を探しました。

      結合コンデンサの場所を特定          故障したコンデンサを取り外し
 

 初段の結合コンデンサを特定すると、正常なコンデンサを並行に接触しました。すると、格段に音声が大きくなりました。やはり、電解コンデンサが容量低下故障をおこしていました。ちなみに、バイパスコンデンサも調査しましたが正常でした。

   上は容量抜け故障をおこした電解コンデンサ、下は交換した正常な電解コンデンサ


 半田吸収器を使って、故障したコンデンサを基板に固定している半田を取り除きました。そして、同じ容量の正常なコンデンサと交換しました。このラジオが製造された頃は、まだ製造技術や部品が未成熟な時代でした。このため、基板に熱をかけ過ぎると銅被膜がはがれてしまうことがあります。今回も、半田ごての熱で少し銅被膜が浮き上がってしまいました。当時ゲルマニウムを使っていたトランジスタもやはり熱に弱い部品でした。

       交換後の電解コンデンサ           オシロスコープで波形を確認
 

 格段に音が大きくなったこのラジオ、音量は申し分ありませんが音を最大にすると音が歪んで割れることが分かりました。ちなみに中間周波をオシロスコープで見ると、やや過変調気味のようでした。最大音量で聞くと耳が痛いほどですので、通常は音を弱めて聞くことになります。弱めて聞く分には歪がありません。このため、このままで良しとしました。
 修理したトランジスタラジオTR-63は、放送中の台風情報をとても良く受信することができました。感度は問題ないようです。次回はトラッキングなどの調整をして、筐体を綺麗に磨いて修理を終えようと思います。

             台風情報を聞きながら、オシロスコープで波形を確認

ニンジン,ジャガイモ,ヤーコンが順調に成育、バケツ赤米

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 先月、遅れて種をまいたニンジンがだいぶ大きく育ってきました。ニンジンは発芽がとても難しいのでいつも種まきは慎重に作業します。特に、種まき後に土が乾燥したり、多雨で発芽しないことが多々あります。今回は成功しました。その後、2度ばかり間引きをしたため、ニンジンとニンジンの間は適度な隙間が空いています。昨日来た台風で心配していましたが、特に何事もなく葉が立っています。

                雑草を適度に取り、間引きしたニンジン


 ニンジンの害虫はアゲハチョウの幼虫です。卵から孵った幼虫は黒いのですが、最後には緑色になります。種まきが遅かったためか、アゲハチョウの幼虫は今のところ見つけることができません。これからはどんどん寒くなるため、さらにアゲハチョウの幼虫が育ちにくいでしょう。もしこれで、ニンジンが順調に育って立派なニンジンを収穫できるようであれば、来年も同じ時期に作ってみようと思います。チンゲンサイ,白菜,キャベツは害虫にやられています。寒冷紗を使ったり、種まき時期をずらしてみたりと、農薬を使わないで野菜を育てる方法をいろいろ試しています。

                         根が太くなり始めたニンジン


 ところで、夏に種芋を植え付けた秋ジャガイモ(品種:アンデス)がだいぶ育ちました。最初、三つしか芽を出しませんでしたが、残り四つも遅れたもののちゃんと芽を出しました。来月収穫できそうです。そして、ヤーコンも収穫時期を迎えました。葉がだいぶ茂っています。この芋は不思議な味と食感です。薄甘い味で、さくさくした梨を思わせる食感です。薄甘い大根とも言えるでしょうか。でんぷん質ではない芋です。

       来月収穫予定の秋ジャガイモ          不思議な味と食感のヤーコン
 

 バケツに種まきした赤米が穂を出し始めました。この赤米は私が東京に住んでいた頃に田んぼで栽培していた古代米です。東京に住んでいた当時は赤米をたくさん栽培していました。箱苗作り田植え稲刈り脱穀籾摺り,そして精米して食べていました。この赤米は、背が高いため台風などでよく倒れました。。今は水田が無いため、種継ぎ用に毎年バケツで数株を育て続けています。

                 バケツで育てている古代米(赤米)が出穂

畑で作るお米、陸稲(農林24号:うるち)を脱穀

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 先日刈り取って干していた陸稲(農林24号:うるち)を脱穀しました。この10年近く同じ発動機を使って脱穀機を駆動していましたが、なんとその発動機が故障していました。ディーゼルエンジンなのですが、圧縮が弱くなっていました。ピストンリングのオイル減が原因かも知れません。
 エンジン故障を修理する時間はありません。そこで、東京に住んでいた時、古老にいただいた古い水冷式ディーゼルエンジン耕運機のエンジンで代用することにしました。

    故障した発動機と代用の耕耘機            耕耘機に燃料の軽油を入れる  
 

 急遽、農機具倉庫からその古い耕運機を畑に持ってきました。そして、そのエンジンの回転力が使えるようにベルトを外してプーリーを露出するなどの臨時加工をしました。そして、脱穀機とベルトで結びました。燃料である軽油を購入して注油しました。これで、脱穀機を使うことができます。この耕運機で脱穀機を動かすのは5年ぶりのことです。とにかく、応急的に脱穀することができて良かったです。

                      秋晴れの中、快適に陸稲を脱穀


 先日の台風の前に、刈り取った陸稲にビニールシートを掛けていたのは正解でした。まったく濡れておらず、乾いた陸稲をスムーズに脱穀することができました。毎年のことですが、稲を脱穀する時の籾音を聞くと、これまでの草取りなどの苦労が報われる思いです。

      カラカラに乾いた陸稲の束            脱穀機で次々に陸稲を脱穀
 

 私が作っている陸稲畑はそう面積は広くありません。田んぼと異なり収穫量もわずかです。脱穀作業も一時間とかかりませんでした。収穫量もざっと20kgではないかと思います。同じ面積の水田ならば、少なくとも60kgは収穫できるはずです。それだけ、陸稲は収量を上げることが困難です。
 栽培が困難な割には収量が少ないことが、近年陸稲が作られなくなった最大の原因ではないかと思います。特にうるちの陸稲を作っている人は極めて少ないです。そもそも、うるちの陸稲の種籾は売っていません。米余りの現代、陸稲を作っている人は、この日本にいったい何人いるでしょうか。私のように好きで栽培をする人はいるでしょうが、商業生産する人は日本にはいないと思います。

                 1時間足らずで、陸稲の脱穀は終了


 陸稲を栽培した畑で、のらぼう菜を育てようかと思っています。そのため、トラクターで綺麗に耕しておきました。18日に東京に行く予定ですが、それまでにこの畑にのらぼう菜を植え付けしようと思っています。

          午後になり日が陰り始めた陸稲畑、トラクターで綺麗に耕耘

半ば雑草化したオキザリスが満開

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 我家では、いくつかの秋の花が満開です。その一つがオキザリスです。東京に住んでいた頃に、園芸店で購入した球根がいつの間にか増えたものです。種ではなく、球根で増えます。その球根を掘り上げている時、小さな球根がバラバラ落ちます。落ちたところで芽生える、とても強い園芸品種です。世話いらずの花です。

               半ば雑草化したオキザリス、いやされるピンク色の花


 オキザリスは山口県でもよく育つようで、我家では半ば雑草化しています。ピンク色の花はなごみます。今後も、毎年我家の秋を彩ってくれることでしょう。

            カタバミと近縁種のオキザリス、とても大きなピンクの花

柳井市 小古柳井座 懐かしいフォークソングライブに参加、ほか

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 17日、郷土館の勤務が終わる午後5時ピタリに、A君が車でやって来ました。そして、彼の車に乗って柳井市の小古柳井座に行きました。最初、バイキング方式の会食で、しばらくはA君と談笑しました。会場を見渡すと、私ぐらいの年齢の方々が多く参加されていました。
 そして5時半、司会のやすべえさんによる楽しい司会の元、松田正純さんと茂和淳平さんによるフォークソングジョイントライブが始まりました。私が、18歳から22歳頃の懐かしいフォークソングが次々に歌われました。そして、両氏のオリジナルソングも歌われました。

               司会のやすべえさんと茂和淳平さんによる歌声


 私が20歳頃の、とても懐かしい歌ばかりでした。なごり雪や神田川などを聞いていると、当時お付き合いしていた素敵な女性達を思い出してしまいました。青春を共有した美しい思い出、そして、自分の未熟さゆえに泣かせてしまった出来事など、つい昨日の事のようにほろりと思い出してしまいました。40年前に連れ戻してくれた素敵なコンサートでした。

    松田正純さんのすばらしい歌声        最後、参加者と一緒に歌う
 

 ところで、今日18日は東京に行きます。早朝、一昨日脱穀したお米(陸稲:うるち)を精米し、畑でサツマイモを掘りました。そして、このお米とサツマイモをリュックに詰めました。10時に我家に来る予定のタクシーで田布施駅に向かいます。29日頃に山口県に戻ってくる予定です。

      畑で作った陸稲を精米中       掘り上げたばかりのサツマイモ(安納イモ)
 

田布施町 昔ながらの稲刈り天日干し風情

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 田布施町を走り回っていると、ほとんどの田んぼは、コンバインを使って稲刈り,脱穀,藁切りを一度に済ませています。しかし、一部の田んぼでは竹を組んで,束ねた稲を干しています。とても懐かしい風景です。私が子供の頃、稲刈りは手がりで、竹を組んだはさに、束ねた稲をかけて干していました。何かほっとする懐かしい風情です。

                  竹を組んで稲束を干している、懐かしい風情


田布施町 麻郷 鳥越の大師堂敷地跡

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 先日から、田布施町麻郷地区の巡礼ルートを調査していますが、この巡礼ルートの終端が少し分かってきました。最後の札所は、国道188号線の鳥越と八海の境近くにある大師堂です。この札所で巡礼が終わり解散したそうです。この大師堂、今は跡形もありません。
 鳥越に住んでいる方にお聞きすると、おにぎりを100個ばかり作ってお接待をしたことがあるそうです。大師堂がなくなる直前頃、車に分乗して20~30名の方が巡礼していたそうです。平成19年にこの大師堂を閉めたとのことです。その一番の理由は、お世話をする方が高齢化してお接待などができなくなったためだそうです。少子高齢化や若い人が古い文化に興味が持てなくなったことなども原因と思われます。お大師像は周防大島のお寺に返したそうです。その大師堂、今は敷地が残っているだけでした。

            かつて大師堂があった敷地跡、昔は賑やかだったことでしょう

田布施町 麻郷 麻里府戎ヶ下大師堂

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 麻郷と麻里府を巡礼する南平和札所の一つである、麻里府戎ヶ下大師堂に行ってみました。麻郷戎ヶ下にあるトクヤマ麻郷鉱業所近くの国道188号線脇の坂を少し登った所にある大師堂です。
 この大師堂の正面に「南平和十一番 本尊十一面観世音菩薩 麻里府戎ヶ下大師堂」と書かれた木札が掲げられていました。戎ヶ下は麻郷であるのに不思議です。明治22年、麻里府が麻郷から分かれ、上関町だった馬島を合わせて麻里府村ができました。この大師堂の名前は、分かれる前にこの大師堂が作られた名残りではないでしょうか。実際はどうなのでしょう。

          南平和十一番 本尊十一面観世音菩薩 麻里府戎ヶ下大師堂  


 鉄道がなかった江戸から明治にかけて、麻里府,戎ヶ下,水場は交通の要所でした。水場には遊郭や酒場があったそうです。それだけ、この一帯は栄えていたようです。このため、麻里府と戎ヶ下は交流が深かったのでしょう。
 この大師堂の横に、水色のよだれかけを付けたお地蔵様が並んでいました。坂道に続くようにお地蔵様が続いているので八十八ものお地蔵様が安置されているのでしょう。いつかすべてのお地蔵様を拝みたいと思っています。

     麻里府戎ヶ下大師堂の中               八十八のお地蔵様?
 

雑穀であるヒエ(稗)とシコクビエの穂を収穫

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 30年近く種を絶やさないように作り続けている、雑穀のヒエ(稗)を収穫しました。田んぼに普通に生えている雑草のヒエを連想しますが、栽培しているヒエは全くの別物です。古来日本で作り続けてきた栽培植物です。寒さにとても強い特徴があり、江戸時代以前に飢餓食として作られてきました。脱穀や加工が難しく、食味もボロボロとしているためあまり美味しいものではありません。しかし、日本人が飢餓を生き抜くため欠かせなかった食物です。
 田布施町などで、江戸時代に飢饉がよく発生しました。これはお金になる米ばかりを作ったための人災なのです。わずかでもヒエさえ作っていれば避けられた悲劇なのです。

           美味しくはないものの、寒さやウンカなどの害虫に強いヒエ


 ヒエと同じ飢餓食であるシコクビエも収穫しました。この雑穀もポロポロして美味しいとは言えません。この雑穀の特徴は米のように一度に収穫時期を迎えるのではなく、1ヶ月以上にわたって穂が出続けます。つまり。9月頃から霜が降りる11月まで、延々と穂が出続けます。収穫は面倒ですが、長い期間安定して収穫できます。
 なお、これらの雑穀は収穫がだらだらしているため、米のような機械化ができません。このため、今や日本人に忘れ去られてしまった穀物です。元々は東京八王子で栽培していましたが、今はヒエもシコクビエも山口県の我家で栽培していますが、トウモロコシに多いアワノメイガに少し弱いようです。

       食味はまずいものの、荒地や寒い場所でも安定して収穫できるシコクビエ

小豆の莢の成熟が進む

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 遅れて8月中旬に種をまいた小豆の鞘がだいぶ大きくなってきました。種まき時期が大幅に遅れて8月でしたので、背の高さは半分にも育っていません。去年より少し遅れて花を咲かせ始めました。小豆は、大きさではなく季節によって花が咲く時期が決まるようです。

             葉がびっしり茂った小豆、花が終わり鞘が付き始める


 鞘の付き方はバラバラです。茶色になればすぐに収穫できるほど鞘が大きくなっているもの、まだ数センチの長さしかない鞘もあります。しかし、11月初めにはそろって小豆が収穫できるのではないかと思います。収穫した鞘から小豆を取り出すときは至福の時です。

     さまざまな大きさの小豆の鞘        だいぶ育った鞘、あとは茶色になるだけ
 

来年の種まき用に、ヒマワリの種を採種

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 真夏に巨大な黄色の花を咲かせていたヒマワリが、だいぶ首を垂れてきました。そろそろ種の収穫時期です。子供が小さい頃にハムスターを飼っていたことがありますが、そのエサ用にヒマワリを栽培していました。ハムスターが口をもぐもぐさせてヒマワリの種を食べるしぐさは見飽きません。今は、もっぱら巨大な花を観賞するだけになってしまいました。

                     重い花柄が垂れ下がったヒマワリ


 垂れ下がったヒマワリの花柄を見ると、たくさんの種が実っていました。種を一粒取り出すと、中にはちゃんと実が入っていました。花柄を一つ切り取って部屋で乾燥させることにしました。このたくさんの種の中から大きいものを選んで、来年また種をまこうと思います。

               不思議な模様を描いているヒマワリのたくさんの種

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