お昼前に田布施町発明クラブのmさんから電話がありました。ロボット相撲部門で田布施農工が全国優勝したとのこと。午後16:00にNHKの取材が入るので、チャレンジコンテストに出た子供達を参加させるとの連絡が入りました。チャレンジコンテストに関わった私も、行くことにしました。
子供達にロボット相撲について説明 この円がロボット相撲の土俵
田布施農工は、前身の田布施農業高校時代に何度か来たことがあります。それも50年以上前のことです。当時は、木造校舎で裏校舎にニワトリや豚などが飼育されていました。そして、裏山に果樹園などありました。50年ぶりに訪れて驚きました。近代的な鉄筋校舎で、昔の面影は全くありませんでした。ところで、見知らぬ私達に声掛けしてくれた高校生が何人かいました。普段の教育がしっかりしているからでしょう。
丸い土俵の中で、相手を押し出すかひっくり返すと勝ち
私が着いてしばらくすると、子供達が次々にやって来ました。小学校から制服のまま来た子もいました。NHKは、若者(高校生)が地域で頑張っている姿を撮影するとのことです。さらに、その若者が地域の子供達と交流している姿も撮るようでした。参加した子供達は、ロボット相撲の迫力に驚いていました。来年の小学生チャレンジコンテスト、お兄さん達に負けないよう頑張る意欲が湧いてきたようです。
ロボット相撲を見学後、子供達の感想
ロボット相撲が終わると、高校生のお兄さんからロボットについて説明がありました。小学生から質問が次々に出ました。どんな電池を使っているのか,磁石でくっつくと車輪が回らないのではないか,どの位の期間で作り上げたのかなどの質問です。お兄さんへの質問が終わると、今度はNHKのお姉さん(レポーター)が子供達へ感想を聞いていました。子供達は元気よく答えていました。
NHKのお姉さんから質問 別タイプのロボットも見学
ロボット相撲の実演が終わると、別の部屋に案内されました。その部屋には別タイプのロボットがありました。ロボットには各種タイプがあり、タイプ別にコンテストがあるようです。
私が中学生の頃、ロボットを作るなどおとぎ話でした。代わりに、3年かけてホバークラフトを作ったことが唯一の思い出です。古いバイクを分解してエンジンを取り出し,そのエンジンに取り付けるプロペラを板で削り出し,胴体を作ったり・・・などなど苦労しました。中学3年生の時、やっとそのホバークラフトは完成しました。爆音を響かせて、人を乗せて空中に数センチ浮かんだことを覚えています。当時、コンテストがあれば、もっと張り切って工作したに違いありません。
今回のロボット相撲見学は、子供達にとても良い刺激になったと思います。ロボットの動きをじっと見つめている子供達の目はキラキラしていました。その目を見て、私はとても嬉しくなりました。
小学校での工作教室の説明 お土産をいただいた子供達
田布施町 発明クラブ 田布施農工のロボット相撲を見学
サトウモロコシの穂を収穫し天日乾燥
サトウモロコシの穂を収穫しました。これは穂モロコシの一種で、茎がとても甘い品種です。このため、茎を絞って水飴にしたり、乾いた茎は薪にし、穂は精白して食べることができます。自給作物にはとっておきです。とても背が高く3m以上になります。このサトウモロコシは、この周辺では上関半島など瀬戸内海側で、かつてサトウキビと呼ばれて広く栽培されていました。
天高伸びたサトウモロコシ、3m近くあるのに倒れない
私の母親の話では、昭和初期頃までは子供のおやつとして食べられていたようです。また、種をもらって子供達が空いた畑で育てていたとのこと。お菓子が少ない時代、子供達にとって貴重な甘いお菓子だったのでしょう。その甘い茎を食べている動作を「しがむ」と言います。茎の皮を剥ぎとり髄をかんでにじみ出る甘みを吸う動作です。今や死語となった言葉です。
収穫したサトウモロコシの穂 何本か茎をまとめて結束
一方、穂は稲位の大きさです。粒も米と同じ位の大きさです。15年位前でしょうか、山梨県の奥深い山里を訪れた時のことです。この実をつぶしして、四角いお餅のようにして食べていました。もち性のようです。基本的な食べ方は、お米のような粒食ではなく、小麦のように製粉して食べます。来年あたりもう少し多く栽培して、実を食べてみようと思っています。栽培のこつは、間引きをしっかりすることです。それさえ守れば、害虫被害がまったくないので世話いらずです。茎から砂糖を抽出できるし、乾燥した茎は薪の代わりになります。なお、東京八王子市に住んでいた頃、似た種類で実を主に収穫する穂モロコシを収穫,脱穀,精白していました。
天日乾燥後、脱穀、精白して、つぶして食べる
遅れたオートミールの種まき、順調に小麦が発芽
先日、小麦は予定通り11月中旬に種まきをしました。しかし、オートミールはうっかりして種まきが遅れてしまいました。夏に陸稲を栽培していた畑を耕して、オートミールの種まきをしました。遅まきですので、多めの種をまいておきました。今の時期ですので、発芽しても分げつは見込めません。さて、来年の初夏はどの位収穫できるでしょうか。
オートミール種まきのため耕耘 予定通り発芽した小麦
小麦の方は予定通り発芽しました。発芽した麦の緑が、うっすらと畑に筋を描きます。去年はあまり世話をしなかったため収穫量が少なかったので、今年は施肥や除草などの世話をちゃんとしようと思います。緑が少ない冬、この小麦の緑をみると気持ちが安らぎます。
発芽した小麦がうっすらと筋を描く
秋ジャガイモを初収穫
8月に植え付けた秋ジャガイモがようやく収穫時期を迎えました。私は毎年、初霜が降って葉が枯れた直後に秋ジャガイモを掘り上げます。この時期を逃すと、茎も枯れて株の位置が分かりにくくなります。今朝、ジャガイモの葉がしおれるように枯れていたため、初めての秋ジャガイモ収穫となりました。
しおれるように枯れたジャガイモの葉 〇はまだ枯れていない茎
このジャガイモの品種は、アンデスです。私が東京八王子に住んでいた頃、よく作った品種です。このジャガイモの一番目の特徴は、皮の色が赤いことです。二番目の特徴は、夏収穫した芋を秋用として再利用できることです。つまり秋ジャガイモの種芋を買わずに済みます。そして、収穫した秋ジャガイモを、さらに来年も再利用できます。ある意味、コストがかからない自給用に適したジャガイモかも知れません。ただ私の経験上、何年も使いまわしていると収穫量が落ちるようです。
ところで私が30歳代の頃、山梨県などの山間地域で作られていた雑穀などを調査したことがあります。その時、お米を作れない山間地域では、ジャガイモが重要な食料であることが分かりました。江戸時代に持ち込まれたジャガイモは、山間地域の人々を飢えから救ったのです。九州や瀬戸内海地域で作られてきたサツマイモと対比できます。
今回初収穫した皮が赤いジャガイモ
田布施町 麻郷~麻里府 お地蔵様調査(1/2)
田布施のあちこちを散策していると、道沿いにいろいろなお地蔵様が安置されていることに気が付きます。今は信仰心がある人が少ないため、それらのお地蔵様に花を手向ける人はお年寄りぐらいのものです。このため、山の中に取り残されたり,朽ち果てたり,撤去されるなど忘れ去られたものが少なくありません。
先人が信仰したであろうお地蔵様の戸籍簿を作ってみようかと思っています。戸籍を作るにあたって、写真,地域名,場所(北緯東経),由来,効能,呼び名などを近所の方に聞く必要があります。その最初として11月26日に、Yさんと一緒に麻郷公民館から麻里府上組まで歩いてみました。そして、主に国道188号線沿いのお地蔵様を調べました。
麻郷郵便局の川向いのお地蔵様 撤去された蓮輪のお地蔵様跡
北緯 33°55'55.25 北緯 33°55'42.96
東経132°02'47.27 東経132°02'53.55
一番目のお地蔵様は、麻郷郵便局の川向いにあるお地蔵様です。台座に十九番と刻んであります。何の番号か分かりせん。巡礼ルートの番号ではないかと思われます。次に蓮輪に行きました。蓮輪公会堂のはす向かいにあったはずのお地蔵様、今は屋根も柱もお地蔵様そのものも無くなっていました。どこにあるのでしょうか。隣家を整理した時に撤去されたようです。
浜城の大日如来地蔵 幕末の漢学者亘理南山の石碑
北緯 33°55'36.61
東経132°02'53.24
続いて浜城に行きました。ここには、私もよく知っているお地蔵様があります。花が生けられており、地域の人々に大切にされていることがよく分かります。巡礼ルート(麻郷詣り)のポイントの一つです。大日如来と書かれています。すぐ近くに江戸時代後期に漢学者として教育にあたった亘理南山の立派な石碑があります。
南周防大橋近くのお地蔵様 戎ヶ下のお地蔵様
(右側に引っ越し用の建屋あり)
北緯 33°55'21.66 北緯 33°55'01.74
東経132°03'03.34 東経132°03'08.22
続いて南周防大橋近くにあるお地蔵様に寄りました。不思議なことに、お地蔵様が安置されて建屋の右隣りに、お地蔵様様がいない建屋がありました。もともと2体のお地蔵様が安置されており、何らかの理由で右のお地蔵様が撤去されたのかと思っていました。そこで、お地蔵様向かいに住んでおられ、毎日のようにお世話をされているKさんに少しばかりお話を伺いました。すると、左のお地蔵様を右に引越ししてもらう予定の建屋だそうです。しかし、いまだに引っ越しが決まらないそうです。
戎ヶ下お大師様のお地蔵様(一部)
北緯 33°55'06.83
東経132°03'00.75
さらに道を進むと、戎ヶ下に入りました。その道筋にあるお地蔵様は地域の方々にとても愛されているようでした。口に紅が塗ってあり、綺麗な花が生けてありました。続いて、戎ヶ下のお大師様に行きました。そこにはたくさんのお地蔵様が並んでいましす。全部数えれば100体位はあるのではないかと思います。
麻郷~麻里府のお地蔵様調査ルート
田布施町 麻郷~麻里府 お地蔵様調査(2/2)
戎ヶ下を過ぎて麻里府に入りました。麻里府街内に入り、公民館から数百m先にあるお地蔵様を訪れました。花が生けられていました。このお地蔵様は、面白いことに塀に割り込む形で安置されています。もともと安置されていたお地蔵様を邪魔をしないように塀を作ったのでしょう。次に、国道188号線を渡って、麻里府小学校に行く途中にもお地蔵様があります。このお地蔵様も花が生けられていました。
麻里府街の塀中にあるお地蔵様 国道から小学校途中にあるお地蔵様
北緯 33°54'43.71 北緯 33°54'41.80
東経132°02'33.14 東経132°02'26.76
お地蔵様が大切されているかどうかは次のことで分かります。一つ、花が生けられているか。二つ、よだれかけは新しいか。三つ、屋根に幕が欠けてあるか。四つ、周りが整理されており雑草などが生えていないかなどです。次に、麻里府小学校の裏にお地蔵様があります。どうして道もないこんな場所にあるのか不思議です。手前に丸い井戸の蓋のようなものがあります。何か由来があるはずです。花が生けてあり比較的綺麗にしてあるので、お世話している方がいることは確かです。
井戸、それとも御旅所? 麻里府小学校裏のお地蔵様
北緯 33°55'47.71
東経132°02'20.50
麻里府小学校を過ぎて、中郷に入りました。中郷の中心部近くの、瓦屋根付きの小さな建物に入ったお地蔵様を訪ねました。このお地蔵様の前は、ちょっとした広場になっています。このお地蔵様が入っている建物に板が張り付けてありました。その板に何か書いてあるようですが、くて分かりません。そこで、その板を薄く水で濡らすとうっすらと文字が浮かび上がりました。この水で濡らす方法は龍泉寺のご住職さんに教えていただきました。その板には、「南平和十番」と墨書きされていました。この建物は、かつてお堂だったものを小さくしたもののようです。今後、真意を確かめてみたいと思います。
麻里府中郷のお地蔵様、〇は十番札所の板
北緯 33°55'04.62
東経132°02'03.60
中郷を過ぎると、竹尾方面に向かってだんだん上り坂になります。中郷から上組にさしかかる場所に、お地蔵様があります。車に乗っていると分かりにくい場所です。次に、大泉寺の墓所に行きました。ここには、私が高校生時代に亡くなった岩金君が葬られています。45年位前のことです。Yさんと冥福を祈りました。そして、生きていることの不思議さや巡りあわせに思いをはせました。大泉寺を過ぎると、最終地点の上組地区に入りました。
上組に行く途中のお地蔵様 上組のお地蔵様、卍マーク
北緯 33°55'16.62 北緯 33°55'28.01
東経132°01'43.98 東経132°01'25.81
上組地区にもお地蔵様があります。台座には卍マークが刻んでありました。上組には、亡くなった岩金君や同じく同級生のHさんやYoさんの家がありました。Yoさんの家は蔓に覆われて今にも崩れそうでした。40年近い時の重みを感じました。
上組を回ると、スタートした麻郷公民館に向かって早足で戻りました。Yさん、お疲れ様でした。田布施町には、いったい幾つのお地蔵様があるのでしょうか。今後、暇をみてはお地蔵様調査をしようと思います。
麻郷~麻里府のお地蔵様調査ルート
念願かなって製粉機をついに購入、組み立て
これまで、小麦などの製粉は石臼や手回し式の製粉機を使っていました。石臼や手回し式製粉機は、イベントなどで子供達にもよく使わせていました。イベントならば面白くて良いのですが、日常的に必要量の小麦粉を得ようとすると腕や手がとても疲れます。食べる量の粉をすぐに挽こうとすると、効率良く製粉できないのです。昔このような器具を使って製粉していたのかと思うと、頭が下がります。
かつて使っていた石臼 よく使った手回し式製粉機
田布施町周辺に製粉所がないかどうか調べましたが無いようでした。そもそも、精米機も含めて製粉機を他者に使わせることを嫌うことが分かりました。その理由は、別の種類の粉が混じるからです。そのたびに製粉機を分解して粉を取り除かなければなりません。また、ある程度以上(20kg以上)の量がないとダメなことも分かりました。私が作っている小麦はパン用です。うどん用やまんじゅう用の製粉、あるいは米粉を作っている方の気持ちからすれば使って欲しくない理由がよく分かります。そこで、4ヶ月分のお給料を溜めて購入しました。決して安くはありませんでした(10万円未満)。
届いた、モーター駆動の製粉機
手回し式の製粉機は、軽いので片手で持ち運びできます。しかし、このモーター駆動の製粉機はとても重く、両手でやっと持つことができます。箱の中を見ると、味噌作り用と餅つき用の部品が付属品として入っていました。今のところ製粉しか使う予定がないため、製粉用の部品を取り付けることにしました。手回し式を大きくしたような臼部品でした。
製粉用臼(メス型)を取り付け
市場に出ているモーター駆動製粉機のほとんどは、蓋に粉の荒さを調整するネジがあります。今回購入したものは、いったん蓋を外さないとそのネジが出てきません。少しばかり面倒のようですが、手回し式の苦労に比べたらたいしたことはありません。近いうちに、今年収穫した小麦を製粉してみようと思います。三回程度通せば粉になると思います。プロ用の製粉機ではないため微粉にはならないと思います。なんとかパンやうどんを作ることができる程度で良いと思っています。
製粉用臼(オス型)を取り付け 小麦の流入調節部を取り付け
ところで昔、山梨県の山間地域に住む古老に石臼の目砥ぎ方法を習ったことがあります。そして、古い鍛冶屋さんに一つだけ残っていた石臼の目砥ぎ専用の金具を購入しました。石臼を使っていると、だんだん製粉の効率が悪くなります。このため時々、目砥き屋さんに調整してもらいます。今時、石臼の目を調整できる人は皆無だと思います。そもそも石臼に目砥ぎ調整が必要であることすら知らない世代ばかりになってしまいました。そこで私は、石臼の隙間調整方法や目砥ぎ方法などを歴史記録として残そうかとも思っています。
左側のカバー下に、製粉された小麦が落下
遅れた小豆の収穫
今年は小豆の種まきが遅れ、8月中旬になってしまいました。このため、背が低く収穫も大幅に遅れてしまいました。しかし、小豆は種まきから収穫までの期間が短いため助かります。今回収穫した小豆は、霜のため葉がすっかり落ちていました。枝にぶら下がるように残った小豆の鞘をもぐだけです。
小豆を植えた畝に座り、のんびりと鞘をもぐ
去年は種を蒔くのも標準の7月、収穫も標準の10月末でした。このため、11月初めには美味しい水羊羹を作ることができました。今年は、収穫も食べるのも1ヶ月遅れとなりました。それでも、収穫は楽しいものです。パックリ割れた鞘から小豆が顔を出すと自然に笑みがこぼれます。近日中にお汁粉か水羊羹を作ろうと思います。
葉が落ちて鞘だけの小豆 鞘から顔を出す小豆
小豆の鞘を収穫すると、小豆の畝を整地しました。収穫し終わった小豆の茎を根ごと引き抜きました。そして、たき火をする近くに並べました。乾いたら燃やします。畝は別の野菜を植えることができるように耕耘機で耕しました。
根ごと引き抜いた小豆の茎 小豆の畝を耕耘
収穫した小豆の鞘は天日で干しました。まだ、湿っている鞘があるためです。数日カラカラに干した後、くるり棒でたたいて鞘と小豆を分離します。鞘は捨てて小豆だけを取り出します。そして、唐箕を使って小豆とゴミを風選します。そうして小豆粒が収穫できるというわけです。私は豆の中でも小豆が一番好きです。その小豆色がまたいいです。母親がこの小豆を使って小豆御飯を作りたいと言っていました。
天日干し中の小豆の鞘、数日間乾かしカラカラに乾燥させる
購入した製粉機で初小麦製粉
購入した製粉機で、今年収穫した小麦を初めて製粉してみました。以前、手回し式製粉機で製粉した時、よく乾かさなかったため小麦が粘ってしまった失敗がありました。このため、収穫した小麦は十分乾燥させておきました。袋から取り出した小麦は乾いてサラサラしていました。投入口に小麦を入れて、モーターのスイッチを入れました。
投入口に入れた小麦、製粉されて右下に落下
続いてシャッターを少しずつ開きました。すると、製粉機の音が少し重くなります。小麦が粉砕される音です。一気に小麦を入れると製粉機に負荷がかかります。最初は臼の隙間を少し緩くして荒く製粉しました。製粉された小麦を手に取ると、思った以上に白い粉になっていました。粉でないのは茶色の糠です。これまで手回し製粉機を使っていた私は、この機械の製粉スピードに驚きました。
一回目のやや茶色の全粒粉 製粉された粉をさらに二回通す
一回目に出てきた粉はやや粗い粉です。次に臼の隙間を狭くして、二回,三回と粉を通しました。すると、きれいな全粒粉になりました。この粉を使ってパンを作ってみたいと思いました。しかし、私はパン焼き器を持っていません。パン焼き器を持っているTさんのところへ、粉を持っていきました。そして、この粉を使ってパンを焼いてもらうことにしました。一つは全粒粉のパン、一つは糠を取り除いたパンです。Tさんよろしくお願い致します。
三回通した全粒粉、細かいのか手に持つと一部煙のように舞う
田布施町 光った古代の光、ひかり観音の科学的実証(その1)
今年の夏、田布施町のひっかり観音(又はひかり観音)民話の実証実験をしました。その要旨を簡単にまとめたものです。
田布施町西部の呉麓山九合目付近に「ひっかり観音」と呼ばれる自然石があります。田布施地方史研究会会誌第111号のふるさとの民話・伝説(五)に、その自然石について次のような民話が収録されています。「山麓一帯が海だったころに朝日が射すと、この自然石がピカリと光った・・・・」と。「山麓一帯が海だった」頃とは、千年以上前の古代において田布施町が海だった頃の話です。この民話は千年の時を超えて引き継がれた話なのです。
この自然石の話が単に作り話ではないことに気が付いたのは、2013年3月22日、呉麓山ウォーキングのための事前調査に行った時のことです。西山林道のひかり観音石碑がある場所から頂上に向かいました。頂上に向かう途中にこの自然石がありました。この時初めてこの石を見ました。この自然石は、縦約1.6m横約5mの巨大な鏡のような一枚岩でした。不思議なことに東を向いており、わずかに上に向きに傾斜していました。この一枚岩は苔が生えており汚れていました。もし、この一枚岩が汚れておらず綺麗だったら、そしてもしこの岩の前に生えている樹木が邪魔をしなかったら、朝日がこの岩に当たり反射した光が地表から見えたはずと気がついたのです。
ひっかり観音(自然石) 苔を取り擦ると、汚れが落ちツルツルに
そこで、朝日の反射光が地表から見えるかどうかを検証するため2013年2月12日、その自然石を正確に計測しました。その結果、場所は北緯33°57'35"で、東経131°59'53",自然石が向いている方角は東を0°とするとどの面もほぼ-15°,傾斜角はどの面もほぼ70°(水平面に対して)でした。横5m縦1.6mほどの巨大な岩面が、平らで同じ方角を向いて,しかも同じ傾斜角でした。面白い事に、この自然石の真東の直線上に国森古墳と八坂神社があることも分かりました。
この自然石の傾斜角から、太陽高度が約40°の時に反射光が地表に当たるこことが分かります。ひっかり観音の北緯は33°57'35"で、東経は131°59'53"です。この情報から太陽高度の動きを求めると、下のようにグラフになります。下の黒グラフは冬至、中間は春分秋分、そして上の赤グラフは夏至を表しています。このグラフを見ると、当然ながら冬至は最も高度が低い天空のコースをたどり、夏至が最も高度が高い天空のコースをたどります。このグラフから、夏至の時は8:30頃に高度40°になり反射光が見えることが分かります(下図の橙色〇マーク)。
年間の太陽高度グラフ
次に、田布施町のどこにいれば反射光が見えるかなど計算しました。
計算上は、
①5月20日前後か7月20日前後
下の橙色左矢印から朝日が入り、上の橙色右矢印方向に反射。
②6月20日前後
下の赤色左矢印から朝日が入り、上の赤色右矢印方向に反射。
A地点は、6月25日に反射光を実際に観測した地点。
緑線はひっかり観音の真東の方角、黄線はひっかり観音が向いている方角。
朝日が入射する方角と反射する方角
ひっかり観音からの朝日の反射光が本当に見えるかどうかを確認するため、2014年6月18日にひっかり観音の自然石に15cm x 20cmの鏡を張り付けました。なお、この程度の小さな鏡でも、反射光が5km離れた所からでも十分観測できることを2014年1月31日に確認しています。
そして、6月25日、城南の宿井団地でひっかり観音からの朝日の反射光を実測しました。8時半頃にぼんやりと明るかった光が、8時 47分頃から急に光が強くなりました。そして約3分間もの間、強い光が輝き続きました。48分頃に光の中心点が通過したようです。
実測したひっかり観音からの反射光
天文学の知識を元に計算して、光が見える場所や時間をおよそ特定しました。今回、その計算結果がほぼ正しかったことが分かりとても嬉しく感じました。計算上のことですが、田布施中心街より城南の方がより強く、しかも長い時間光ると思われます。これは、ひっかり観音が城南の民話として残っていることと関係があるかも知れません。
来年2015年は、ひかり観音の自然石に付いた苔やゴミなどを取り除いて磨こうと思います。そうすれば、鏡を取り付けなくても光が見えるようになるはずです。その光こそが、古代の田布施に住んでいた人々が見た光ではないかと思います。岩は微妙な凹凸があるため、鏡より広範囲に光が見えるはずです。なお、田布施町地方史研究会会長のH氏より、磨く前にお祓いをした方がよいのではないかとのアドバイスをいただきました。約千年もの間封印された光です。そのようにしようと思います。
サトウキビの冬越し作業
先日は、サトウモロコシの種を取りましたが、今回はサトウキビの茎を保存する作業をしました。サトウキビは沖縄のような暖かい地域では種ができるのでしょうが、寒いこの田布施では種ができません。このため、茎を取って保存しておきます。一昨年は保存方法がよく分からなくて春までに全て枯死してしまいました。その理由は湿気でした。カラカラに乾いてしまったのです。
霜にあたって葉が少し変色したサトウキビ
一昨年の失敗から、湿気を保つための工夫が必要であることが分かりました。そこで、去年は防腐剤を塗ったり、保存する箱の底に水分を含んだ土を敷きました。すると、硬い茎1本がなんとか冬越しして春に芽が出たのです。2本は、根は出ましたが芽が出ませんでした。柔らかい茎はやはり乾燥して枯れてしまいました。根元付近の茎が保存するのに適しているようです。今年は、箱の底と上の両方を湿らせてみようと思います。茎を籾ガラで包むのは一昨年も去年も今年も同じです。
茎を切り取っているサトウキビ 茎を3節ごとに切断
サトウキビは寒さに弱いので、何度か霜に当たっていると枯死してしまいました。このため、12月初めには冬越し作業に入らなければなりません。サトウキビの根元から茎をナタでぱっくり切って、押し切りで3節ずつカットしました。2節でも良いようです。茎のいくつかを噛んでみると口内に甘みが広がります。硬い茎ですので、よほど歯が丈夫な人でないと歯が欠けるのではないかと思います。
3節ごとにカットしたサトウキビの茎
切り口は一日も経つと茶色に変色します。細菌が繁殖して変色するのか、単に酸化して変色するのかは分かりません。効果があるかどうかは分かりませんが、去年と同じように切り口に防腐剤を塗っておきました。そして、保存用の発泡スチロールの底に濡らした土を入れました。その上に籾ガラを敷いて、サトウキビの茎を並べました。そして、その上に籾ガラを被せ、さらにその上に濡らしたタオルを被せました。蓋をして、温度計の測温部を籾ガラ内に入れておきました。籾ガラの温度は12.8°でした。そして、室内の比較的暖かい場所に置きました。
敷いた茎の上からモミガラを被覆 発砲スチロールの箱と温度計
今回、新たな試みとしてサトウキビの茎や根も冬越しできないか試すことにしました。茎を切り落としたサトウキビの上に、籾ガラを山のように積みました。そして、その上から土を被せました。湿気は十分なのですが、地温がどの程度なのかは分かりません。枯れて元々のつもりで試してみました。トタンの屋根でも乗せた方が良いかも知れません。さて結果はどうなるでしょうか。
茎を刈り取った根元に籾ガラを積む 籾ガラの上に土を被覆
冬眠中の冷え切ったヤモリ
農作業小屋の掃除をしていると、紙の隙間にヤモリがいました。寒いのでしょう、摘まんでも動きません。寒さで体が冷え切っているようです。掌に載せるとその冷たさが分かります。手で温めて少しさすってやると、目が開いて手足がぴくぴくと動きました。逃げたいのでしょうが、寒さで体が動かないようです。
冬眠中でしょうか、体が冷え切って動けないヤモリ
夏のヤモリは敏捷性があります。餌の蝶や蛾などの虫を素早く捕まえます。私が捕まえようとしても、素早く壁や天井を這いまわって捕まえるのは至難の技で。しかし、今回捉えたヤモリは、目をパチクリさせたり手足をわずかに動かしますがその動きの緩慢なこと。冬眠中は天敵に捕まりやすいと思います。少し掌に載せて観察した後、元の場所に返してやりました。タヌキなどに食べられないで、春まで生き抜いて欲しいものです。
じっとしてほとんど動かない 目は少しばかりパチクリ
光市 五軒屋~伊保木~岩屋~かんぽの宿ウォーキングのための調査
来春のウォーキング候補の一つに、光市の五軒屋や岩屋方面を考えています。今回そのウォーキングルートを調査してみました。バスで五軒屋バス停まで行き、そこから歩いて丘の上を室積バス停まで歩くルートです。途中、慶法寺,岩屋大師堂,長徳寺,そして岩屋古墳などを見学します。かんぽの宿も通ります。伊保木で陶芸を見学するのも良いかも知れません。
千坊山コバルトライン登り口から五軒屋方面を見下ろして
まずは、五軒屋にバス停があることを確認しました。このバス停でバスを降りて丘の上に向かいます。くねくねした細い、軽自動車が一台だけが通れるような細い道を行きます。道なりに行くと伊保木に入りました。そして、しばらく行くと右手に登る道があります。この付近は、しっかり道を覚えていないと間違えてしまいます。私はこれまで、何度か通ったことがあるため迷わず進むことができました。
伊保木の道途中、慶法寺に行って戻る 慶法寺に行く途中のお地蔵様
右手への道は慶法寺に向かう道です。数百メートル進むと、立派な慶法寺があります。このお寺は、防陽八十八ヶ所霊場巡りの第四十六番ヶ所です。田布施町竹尾の龍泉寺の次の霊場になります。龍泉寺から行くと、千坊山を越えてかなりの距離を歩かなければ着きません。
伊保木にある、なかなか立派な慶法寺
この付近から周防灘がよく見えます。時々休んでは海を見ました。曇り空だったため、牛島や祝島は見えましたが九州は見えませんでした。車はほとんどすれ違いしなかったため、本番ウォーキングではのんびりと歩くことができると思います。しばらく行くと、岩屋に着きました。ここに長徳寺と岩屋大師堂がありますが、今回は時間がないためスキップしました。下見の時に訪問しようと思います。昔、田布施から普賢様のお祭りへ行く時、竹尾から千坊山を越えてこの岩屋に下っていました。
周防灘を見ながら進む 千坊山中腹の岩屋の街並み
岩屋の街並みを過ぎてしばらくすると、岩屋古墳の案内板が建っています。道案内のとおり岩屋古墳に寄ってみました。古墳前に立っていた説明板を読むと、古墳後期に建てられたそうです。田布施町の後井古墳や石走山古墳と同時期に作られたようです。石室の中を覗きましたが何もありませんでした。
岩屋古墳への案内板 岩屋古墳の石室入口
岩屋を過ぎてかんぼの宿が近くなってくると、室積の象鼻ヶ岬がよく見えるようになります。9月に象鼻ヶ岬をウォーキングした時、千坊山やこの岩屋側がよく見えたことを思い出しました。この岩屋からは、周防灘に沈む夕日が綺麗に見えると思います。
岩屋から見た象鼻ヶ岬
岩屋を過ぎてどんどん進むと、アネックススポーツランドの建物が見えてきました。この建物、初めて見たときは温室かと思いました。中に入ったことはありませんが、プールがあるのでしょう。アネックススポーツランドを過ぎてすぐの場所に、かんぽの宿がありました。下見の時、ここで休憩できるかとかトイレが使えるかなどを聞いてみようと思います。かんぼの宿を過ぎると、ひたすら室積バス停に向かいました。
ようやく着いたかんぽの宿 ゴールの室積バス停
下見・本番共にウォーキングの時、室積バス停からバスに乗って田布施・平生方面に帰ろうかと思っています。下見は3月頃を予定しています。下見の時に歩く距離を実測しますが、距離が長ければ五軒屋ではなく伊保木からウォーキングしようかとも考えています。
調査のため通った、五軒屋~伊保木~岩屋~かんぽの宿~室積ルート
全粒粉入り小麦パンを試食
先日。我家で収穫した小麦を製粉(全粒粉)しました。残念ながら我家にはパン焼き器がないため、Tさんに試しに焼いてもらいました。全粒粉に強力粉を混ぜたそうです。そして、イーストなどを入れたりして焼いてみたそうです。Tさんありがとうございました。予想した通り全粒粉らしい色で、やや固めのパンになりました。そのままかじってみると、食感はフランスパンのようで糠の味が少し残っていました。
出来上がった全粒粉のパン、見かけはフランスパンのよう
朝、このパンを焼いて食べてみました。焼くとパンの耳の部分がカリカリになりました。耳をかじると、破片が少しポロポロ落ちます。バターを塗って食べると、バターの風味で糠の味が消えました。とても美味しかったです。欲を言えば、やはり糠を取った方がより美味しいのかなと思います。
ところで、19日この小麦粉ですいとんを作る予定です。フルイで糠を取って、白色の小麦粉にしようと思います。糠は栄養的にはすぐれていると思いますが、食感や味のためには取った方がよさそうです。今後、この我家製小麦をいろいろな料理に試してみようと思います。
全粒粉パンにバターを塗る 朝食の全粒粉パン,野菜炒め,そして牛乳
小雪が舞い散る中、裏山の下草刈り
久しぶりに裏山の下草刈りをしました。下草と言ってもほとんどは笹です。大きく育った笹は、チップソーでないと刈ることができません。しかし、一昨年、去年と毎年のように刈ってきたたためか、笹は背が低いままです。低い笹はチップでなくても紐式でなんとか刈ることができます。紐式の方が刈り跡が綺麗です。このため、今回はチップソーと紐を使いわけて刈り取ってみました。ところで、小雪が舞い散る中での下草刈りになりました。寒い中で作業したのが良くなかったようです。夕方頭が痛くなりました。どうも風邪をひいたようです。
背が低い笹は、紐式で刈り取り
私が定年でこの田布施に帰ってきた時、この裏山は背の高い笹がびっしり生えていました。このため、全てチップソーを使わなければ刈り取りできませんでした。それでも、最初の年に何度か下刈りしていると、だんだん笹の背が低く小さくなってきました。夏は木陰になるため、笹は育ちにくいようです。そのため、今年からは晩秋か冬に一回だけ笹刈りすれば良いようです。
下刈りした裏山の斜面道 下刈りした裏山の尾根道
裏山を含めて山はとても広いため、何度かに分けて下刈りします。今回は我家から見える範囲を刈り取りましたが、今後は別の山を少しずつ刈り取るつもりです。そして3月位までは、しいたけ作りなどの山仕事の合間に下刈り作業を続けます。畑と違って斜面ばかりですので、疲れがたまります。山仕事はのんびり作業するに限ります。
刈り残した山道の両脇、暇を見て全て刈り取る
今年も、素人自家製たくあん作り(その1)
今年も白菜漬けやたくあん作りの季節がやって来ました。白菜は寒冷紗内に虫が入ってしまい穴だらけです。今年は白菜漬けしようか迷っています。大根は種まき後、順調に育っていますので、今年もたくあんが作れそうです。ところで、一昨年は作り過ぎて、春までに食べきれずにだいぶ廃棄してしまいました。このため、去年から大根を4本程度にしています。抜いた大根は、その場で葉を落としました。
人の脚ほどに太った大根を収穫
このところの寒さで、収穫した大根を洗っていると手がしびれるように痛くなります。しかし、4本程度の大根ですので我慢できます。井戸水だからでしょうか、水をかけ流していると水が心持ち暖かくなりました。洗って真っ白になった大根にはほれぼれします。やんわり曲がった大根は、なんとなく人の脚のようです。
冷たい水で手が痛い 人の脚のような白い大根にほれぼれ
綺麗に洗った大根は、農作業小屋に持って行きました。乾燥中のサトウモロコシの隣りに縄を張って干しました。今はパンパンに硬い大根ですが、何日か後に乾いて柔らかくなれば漬けることができます。糠に混ぜる昆布などでたくあんの味が決まりるようです。積物素人の私ですが、毎年少しずつでもより美味しくなるように漬けることでできたらと思います。そして、人様にあげても恥ずかしくないようなたくあんを、いつか漬けることができたらと思っています。
軒下に縄を張って、洗った大根を天日干し
いつもの仲間達と、お料理忘年会
5時までは郷土館で仕事でした。その時にKさんからパン焼き器をいただきました。その器械にHome Cooking Schoolと書かれていました。パン焼きの講習を受けた時に購入したパン焼き器のようでしょうか。Kさんありがとうございました。大切に使いたいと思います。郷土館を出ると、お料理忘年会の会場に向かいました。
いろいろな具材で調理 美味しい料理の数々
今回は、一緒にウォーキングしたり旅行などしたりする仲間達とお料理忘年会です。お土産,手料理,具材などを各自が持ち寄っての忘年会です。私は、具材を持っていきました。持って行ったのは、白菜,ニンジン,キャベツ,しいたけ,すいとん用小麦粉,春菊,そして長ネギなどの野菜です。料理は苦手ですので、テーブルを出したり座布団を敷いたりなどのお手伝いをしました。
料理が出来上がると、それらをテーブルに運びました。そして、お料理を楽しむ忘年会の始まりです。お酒も入り、楽しい話で盛り上って時の経つのを忘れました。
楽しいお料理忘年会、時の経つのを忘れて楽しく語りあう
田布施町 キャンドルナイトカフェ 2014
午前中、発明クラブの指導者の集まりのため田布施西小学校に行きました。そして、今年の反省会や来年に向けての改善点などを話し合いました。発明工夫展,絵画,チャレンジ創造コンテストなどにおいて、子供達にとって一番良い指導とは、などいろいろ話し合いをしました。
キャンドルナイトカフェ入口案内 カフェ会場テントの入口
そして、今年のチャレンジコンテスト全国優勝チームの映像を見ました。田布施町は残念ながら全国大会に行けませんでした。隣りの柳井市は全国大会に行ったとのことですが、全国のレベルの高さに驚きました。田布施町は、一人の子供が発明工夫展やチャレンジコンテストなど複数の課題に取り組みます。他クラブでは、発明工夫展とチャレンジ創造コンテストなどの課題別にチームを分ける所もあるようです。来年に向けてのヒントにはなりました。
さて、夕方はキャンドルナイトカフェに行きました。午前中雨が降っていたため心配しましたが、夕方雨も上がって私はバイクで会場に行きました。
キャンドルナイトカフェのテント会場
キャンドルナイトは、夏のハゼの実ろうそく祭りの冬バージョンと言ったところでしょうか。冬の寒さをしのぐため、会場はすっぽりテントで覆われていました。そして、テント内の何ヵ所かで暖房用薪ストーブが炊かれていました。テントに入ると、最初に田布施まるごと公園化計画のTさんから、和ろうそくと絵ハガキを購入しました。和ろうそくは田布施近辺のハゼの実から作ったろうそくです。江戸時代末期、長州藩が防長四白として奨励したろうそくです。石油のパラフィンから作ったろうそくではなく、植物(ハゼの実)から作ったろうそくです。
和ろうそくと絵ハガキを売るTさん 和ろうそくと猫の宿絵ハガキ
バイクで会場に駆け付けたため体が冷えていました。このため、すぐに豚汁を食べることにしました。外気が冷たいため、大鍋からは湯気が白く立っていました。いつもお世話になっているYさんに、豚汁をよそっていただきました。冷えた体には暖かく、とても美味しい豚汁でした。ご馳走様でした。
湯気がたなびく豚汁鍋 美味しい豚汁、ご馳走様でした
豚汁を食べていると、知っている方々が次々にやってきました。昨日、お料理忘年会を開いたメンバーもやってきました。豚汁を食べ終わると、私はおにぎりを購入して彼らの席に移動しました。そして、歌声を聴きながら談笑しました。彼らの何人かと明日、田布施町商店街の史跡などを中心に巡ってみようと思います。
いつものウォーキングと旅行の仲間達、しばし談笑
ウォーキングでよくご一緒する平生町のFさんが来られているのに気が付きました。そして、お孫さんの小学2年生Aちゃんもいました。久しぶりのAちゃん、童顔だったのが少し娘顔をなっていました。子供の成長は早いものです。
別の席に、観光協会のMさんも来ていました。そして、Mさんのお友達?の麻里府明楽寺の方も来ておられました。可愛い子供達に囲まれて、いろいろ楽しくお話しをしました。そして、その隣の席に昨日パン焼き器をいただいたKさんがいました。パン焼き器を所有していたKさんの奥様もいました。奥様に、いただいたお礼を言いました。
平生町のFさん家族とAちゃん Mさんや可愛い子供達
楽しく談笑していると、歌姫グループWishの歌が一段落しました。すると、和ろうそくを作る実演が始まりました。その実演を見るため、何人もの方々が人垣になりました。溶かしたろうそくの原料を、手ですくい上げるようにしてろうそくの形にします。手は熱くないのだろうかと思います。見ていると、水に溶かした楮をすくいながら和紙にする職人さんのようにも思えました。伝統的な技術なのでしょう。江戸時代末期の幕末、田布施町はこのような職人さんがたくさん暮らしていたことでしょう。
和ろうそく作りを実演している方と、輪になってそれを見つめる方々
しばらくして、歌姫グループWishのクリスマスソングが再び始まりました。時節がらクリスマスですねえ。子供達が巣立った今、クリスマスには縁遠かった私です。クリスマスツリーに見立てたキャンドルを見て、我家のどこかにしまった20年近く前に購入したクリスマスツリーを思い出しました。私が子供の頃、クリスマスになると山に行ってクリスマスツリーにふさわしい杉かひのきを伐採してきまものでした。そしてその木に、雪に見立てた綿を付けたり飾り付けをしていました。懐かしい思い出です。
クリスマスツリーに見立てたキャンドル 楽しいクリスマスソング
歌姫グルーブWishは、夏のろうそく祭りや少年少女合唱団などでお見かけします。私は20代前半に、音楽を少しばかりやっていたことがあります。このためか、このような音楽活動には親しみがわきます。
ところで、もう少し音楽を楽しんだり談笑したかったのですが、用事があるため19:40分頃にキャンドルナイトカフェ会場を去りました。真冬のためか満席ではありませんでしたが、美味しい豚汁を始めとする料理などを楽しむことができました。企画・設置された方々はこれまでいろいろご苦労されたと思います。楽しいクリスマスイベント、ありがとうございました。
歌姫グループWishと一緒に、クリスマスソングを歌うみなさん
徒労に終わるか?期限外原木にしいたけの植菌作業
寒い日々が続いていますが、今回はしいたけの植菌作業をしました。植菌したこならの原木は、実は初夏に伐採した期限外の原木です。本来ならば、冬に伐採して春までに植菌します。どうしても初夏に伐採しなければならなかった木を原木にしました。伐採した木が夏の雨露を経由したため、しいたけ以外のキノコなどがすでに繁殖しているようでした。植菌するには適しませんが、ダメ元で作業しました。
原木に植菌する穴を開ける 穴にしいたけの駒を挿入
初夏に伐採した後、せめて室内に運び込んでいれば良かったのですが、そのまま野外に放置していました。そのため、夏の間にだいぶ雑菌で汚染されていることが分かります。中には、小さなキノコが生えている原木もありました。打ち込んだしいたけが、原木に着生して成長することができるでしょうか。
手で打ち込む植菌用の槌 交換可能な槌の先端
ところで最初、手でしいたけの駒を打ち込むための槌を使いました。原木に槌を叩きつけると穴が開きます。その穴にしいたけの駒を入れるのです。電気が使えない山の中では、この方法を使います。次に、電動ドリルを使って穴を開ける方法もしました。この方がスルスルと穴を開けることができるので作業的にとても楽です。
日が陰る場所に、しいたけの駒を打ちこんだ原木を交互に積む
しいたけの植菌作業で一番大変なのは、原木の移動です。原木を山から降ろして植菌を終え、再び山に持っていくのです。そして、雨が直接かからない場所に井形に積み上げていきます。特に根元から取った原木はとても重いので腕が疲れます。雑菌に犯された原木ですが、果たして来年か再来年しいたけが出るでしょうか。冬の間に伐採して冬の間に植菌すると言う決まりを守らなかった作業でした。結局徒労に終わったかも知れません。もし、しいたけが生えなければ、薪にでもしようと思います。
しいたけの菌駒を次々に打ち込む 原木全体を通水シートで被覆
田布施町 郷土館建物の歴史、年末の大掃除
今年も残りわずかになりました。今回は、郷土館の年末大掃除の日です。夏に草刈りなどをしましたが、夏~秋の間に再び草が生えていました。最初、寒さで枯れたこれらの草を綺麗に刈り取りました。今回は、草刈機に紐を取り付けて刈り取りました。硬い茅などは少しばかり手間がかかりましたが、駐車場,芝生,庭木の間などを綺麗にすることができました。
駐車場に生えた枯草を刈り取り 郷土館庭木の間も刈り取り
今回大掃除した田布施町郷土館は、建物自体が昭和の建築遺産のように思います。今から55年前の昭和36年(1961年)に建てられました。当時の日本電信電話公社が、全自動電話交換のために建てたものです。
それ以前は、電話交換手と呼ばれる人によって、電話線が繋がれていました。例えば、田布施町から東京に電話する場合、最初田布施町の電話交換手に頼みます。すると、広島,大阪,そして東京と確か三ヵ所にある電話交換所の電話交換手が次々に手動で繋いでくれるのです。このため、東京に電話が繋がるのに40分位待たされました。それが、この建物の出現ですべて自動交換になりました。このため、当時の女性のあこがれの職業であったと言われる電話交換手が必要なくなったのです。そんな歴史的背景がある建物なのです。なお、当時はリレー式自動交換でしたが、今はコンピュータ式となっています。
その後古くなった建物は、平成12年(2000年)に郷土館に生まれ変わり解体を免れました。今でもあちこちに昭和建築のなごりを見ることができます。
電話交換手を必要としなくなった全自動電話交換所、現田布施町郷土館
外の大掃除が終わると、中の掃除をしました。床などは業者の方に頼んでいたため、主に展示品と見学者を隔てるガラスなどをピカピカに磨きました。郷土館は休日なのに、たまたま立ち寄ったMさんが手伝ってくれました。Mさん、仕事日でもないのにすみませんね。ありがとうございます。
郷土館建物の外内共に綺麗にした後、知り合いの家に寄って昼食を取りながら談笑しました。その時Eさんからゆずをたくさんいただきました。ありがとうございます。その後、いつものように地域の史跡調査に出かけました。 調査から帰ったその夜、ゆず湯にたっぷり浸りました。ほのかに漂うゆずの香りは、体の疲れを隅々まで癒します。
Mさんも加わり、ガラス磨き 夜、ゆず湯にたっぷり浸る