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和太鼓集団 山城組 「空」の舞台を楽しむ

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1.第1部


 久しぶりに音楽の舞台を楽しみました。場所は柳井市にあるアクティブ柳井です。楽しんだのは、和太鼓集団山城組「空」の舞台です。「空」は山城組の高校生以上で構成される太鼓集団です。それより若い太鼓集団は、中学生を中心とした「風」、そして小学生を中心としたグループから構成されていると聞いています。山城組は今年春に定期演奏会があったため見に行きました。今回の高校生以上の「空」はさすがに力強い太鼓でした。

       今回の舞台のパンフレット                最初の力強い太鼓曲
 

 私は、麻郷ふるさと会で太鼓の微々たるお世話をしています。山城組と異なって、地域の親睦を目的としているためそれほど練習はしません。中学生になると参加することが少なくなります。また、夏祭り,公民館祭り,地域の小学校などにしか出演しません。そもそも、秋冬春はほとんど練習しません。そのため、演奏は比較にならないほど山城組の方が上手です。

              体に響くような太鼓の音、熱気が伝わります


 私が子供の頃、和太鼓は村祭りでしか聞くことができませんでした。あるいは、神社のお祓いなどで聞くぐらいなものでした。学校で習う太鼓は、鼓笛隊などで使う持ち運びできる西洋太鼓ぐらいなものでした。まさか、和太鼓がこれほど見直されるなど思いもしませんでした。和太鼓が注目されるようになったのは、和太鼓集団「鼓童」の成功ではないかと思います。実際はどうなのでしょうか。

      槍を振り回すような演舞              一番力強い太鼓の演目
 

 私は、和太鼓に深い興味を持っているわけではありませんが、神舞,神楽などの史跡を調べていると和太鼓の皮を締める方法に2種類あることに気が付きます。一つは太鼓の胴に鋲を打って皮を張る方法です。もう一つは皮を紐で引っ張る方法です。大きな太鼓ほど前者のように鋲で皮を張るようです。先日見た東京都府中市の大国魂神社のお祭りに使われている直径2mの車輪付き巨大太鼓は全て前者の張り方でした。

               汗が飛び散って来そうな勇壮な太鼓曲


2.休憩中のパフォーマンス


 第1部が終わると、15分位の休憩時間です。トイレに行っていると、賑やかな声や拍手が聞こえてきました。山城組「空」の皆さんによるパフォーマンスのようです。観客をかき分けて前の方に行って間近で見させていただきました。いつも太鼓を打っているためかリズム感は抜群です。ボールや体を使った楽しいパフォーマンスに、観客も歓声を上げていました。

     ボールを使ったパフォーマンス          体を叩いてパフォーマンス
 

3.第2部


 よくは知らないのですが、山城組「空」は今後プロを目指すのでしょうか。日本全国、プロを目指すグループはたくさんあるように思います。私は二十代前半音楽をしていましたが、十代後半になって習った楽器は遅すぎました。このため音楽活動は思い出にしかすぎません。「空」の皆さんは、若くして身に着けた太鼓の特技、一生ものにして欲しいと思います。

       見ていて楽しい太鼓演技             私が一番好きな、力強い太鼓
 

 「空」の皆さんは、小学生の頃から仲間と共に太鼓を叩いているように聞いています。かれこれ、10年位一緒に練習した仲間ではないかと思います。10年位の間には、一緒に演奏旅行したり、キャンプなどしたこともたくさんあるでしょう。ある意味一家の兄弟のようなものかも知れません。それであるからこと、息の合った演奏ができるのではないかと思います。

 
      片手にバチをもう片方の手に小太鼓を持って、踊りながら軽快に打つ


 この舞台で空手/合気道の演舞がありました。最近の太鼓などの舞台で演じられることが多いのでしょう。意外な組み合わせを新鮮に思いました。そして、見て楽しい太鼓として、太鼓のバチを青の蛍光で光らせていました。バチだけが漆黒の闇を動き回るのは驚きました。飽きさせない新しい音楽パフォーマンスだと思いました。見ていても楽しくなります。単に音を出して感動させるのではなく、光や動きで表現することも大切だと思います。

    音に合わせて空手/合気道の演舞     漆黒の闇を動き回る、青い色のバチ
 

 13:30に演奏を開始して15:30頃に終わりました。あっと言う間の時間でした。演奏した方々は何度も練習したのでしょう、息がぴったり合ってとても良かったです。観客もさかんに拍手をしたり歓声を上げていました。まだまだ若い「空」の皆さん、これからもぜひ頑張ってください。ありがとうございました。
 会場を出ると、人が少ない白壁の町を散策しながら家路につきました。しばらくは太鼓の余韻が残っていました。

     最後、太鼓を力強く乱れ打ち          会場を出る満足そうな観客の皆さん
 


田布施町 波野市,天神周辺ウォーキングのための調査(1/3)

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 来年のウォーキング候補の一つとして、田布施町商店街周辺の史跡などを巡ってみました。商店街周辺の史跡は、史跡と史跡の間隔が近いのが特長です。他の地域では、何百mも歩かないと次の史跡に到着しません。その点、商店街周辺は短い時間で多くの史跡を回ることができます。今回は、商店街の東回りコース(波野市,天神周辺)を調査してみました。一緒に歩いたのは、EさんとWさんです。西回りコース(一本松,上ヶ周辺)は後日調査します。

    町役場正面の江良碧松の歌碑              砂田のお地蔵様
 

 最初に田布施町役場正面の江良碧松の歌碑に行きました。農民歌人らしい詩です。続いて、あいさつ橋から田布施駅方面に20m位行った場所にあるお地蔵様に行きました。昔は道の中心を向いていたのに今は歩道側を向いて安置されています。続いて、田布施郷土館に寄りました。談笑後、ショッピングコートYou・U跡傍にある国信の森塚を訪れました。戦国時代末期、ここに流れ着いた武士が自決した場所との言われがあります。お地蔵様の一つに天保六年(1835年)と刻んでありました。そのすぐ傍に、さらに古いお地蔵様があります。その武士と関係があるのかもしれません。

    立ち寄った田布施町郷土館            You・U跡傍にある国信の森塚
 

 続いて、大内公園に行きました。戦時中に多く若者がここから出征しました。いったい何人が故国の土を踏むことができたのでしょうか。その名残として大きな忠魂の碑が建っています。この忠魂の碑の北側から、山陽本線の線路がよく見下ろせたのですが、今は竹藪が邪魔をして見ることができません。この公園は今、園児や小学低学年生の遠足の場所となっているようです。私も小学生の時、何度か遠足で来たことがあります。

             広い大内公園広場と、そびえるように建てられた忠魂の碑


 大内公園から西にみえる八坂神社を見たりしました。そして、しばらく広場で談笑しながら休憩しました。そして、次に平和番外霊場である伏木観音堂に行きました。比較的綺麗に管理されている観音堂です。この観音様を拝んで帰ろうとすると、不思議なことに、M.Rさんのお母さんがこの観音堂にやって来られました。その奇遇さに驚きました。M.Rさんは私の同級生で、何年か前にアメリカで亡くなりました。そのお母さんに出会ったのです。M.Rさんのお兄さんは今、田布施町議会の議員さんをしています。なお、M.Rさんのお父さんと私の父親は知り合いでした。巨額な選挙資金を扱ってもらうことができるとても信頼できる人だった、と父親からよく聞きました。

  平和番外霊場の伏木観音堂             安置されている観音様
 

 この伏木観音堂は、50年位前に建てたとのことでした。そして今、M.Rさんのお母さんが綺麗に管理しているそうです。私はいろいろな観音堂や大師堂などを調査していますが、この観音堂は一番新しく建てられました。この近くには古くからの平和六十五番霊場と六十六番霊場が既にあります。新たな番号を割り当てることができず、平和番外になったようです。以前から不思議に思っていた「番外」の意味が分かりました。

        M.Rさんのお母さんが丁寧に管理している伏木観音堂の縁側で


 朽ちて廃棄されたお堂がある中で、この観音堂のように新たに建てられたお堂があるのに驚きました。しばらくM.Rのお母さんと談笑しました。帰り際、観音堂に供えられていたお菓子などをいただきました。ありがとうございました。M.Rさんとは高校生の頃、二,三度お話をしたことがありますが、とてもべっぴんさんだったように記憶しています。惜しくも亡くなりましたが、皆の心の中に今でも生きています。

            今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)

田布施町 波野市,天神周辺ウォーキングのための調査(2/3)

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 伏木観音堂を出ると、丘を降りて祇園観音堂に行きました。この観音堂はかつて防陽八十八ヶ所霊場でした。しかし、ここ何年も管理が行き届いていないようです。お堂の扉を開けて中を見ましたが、ホコリが溜まって掃除がされていないことが分かります。ここ何年もお世話する人がいないようです。世話をする人が無くなればこのようなるのは仕方ありません。

    手入れがされていない祇園観音            畳の上には埃が溜まる
 

 祇園観音はその昔、上に建物があったようです。礎石のようなものがありました。四角い建物の前にひさしのようなものがあったようです。建て替えたのでしょうか。それとも、焼けたか何かで今の場所に移築したのかも知れません。時間があれば、近くの人に聞いてみようと思います。
 次に、祇園観音から八坂神社前の十字路に出ました。そして、商店街の中心道路を歩きました。しばらくすると、お地蔵様がありました。立派な屋根がありますが、その由来などは分かりません。やはり時間があれば、近所の方に由来などを確認しようと思います。

       観音堂跡?の礎石              商店街の中心路に立つお地蔵様
 

 この商店街は、かつてとても賑やかでした。私が小中学生の頃、まだその賑わいが残っていました。食堂,電気店,金物屋,タネ屋,建材店,ふとん店などが軒を並べていました。これらのお店に同級生が何人かいました。我家は、この通りにあった上田無線でよく電気製品を買っていました。私が小学校2年の夏、テレビが我家にやって来ました。テレビと電蓄が合体した珍しい白黒テレビでした。そのテレビで初めて、海亀が産卵している映像を見ました。この商店街は、田布施町庁舎が天神から今の場所に移った頃から賑やかさがなくなってきたように思います。

                  賑やかだった頃の趣が残る古い店


 商店街道を歩いていると、石の鳥居が目に入りました。鳥居の向こうに小さな祠があります。ここは、波野市と呼ばれる市場がかつてあった場所を示しています。江戸時代、この波野市はとても有名だったとのこと。余田、竪ヶ浜など近隣からたくさんの人が買い物に来て賑やかだったそうです。その市場の名前が、今の「波野市」として残っているほどです。なお、石の鳥居はどこからか移築したものだそうです。移築した時に、元々刻んであった文字が削ったとのこと。文字をなんとか読み解けば、元々置かれていた場所が分かるかも知れません。

   この前で、かつて波野市が開かれる              大恩寺の飢民の碑
 

 続いて、田布施町の史跡では外せない、大恩寺の飢民の碑に行きました。元々は境内の東側にあったそうです。江戸時代享保17年(1732年)にウンカが大発生して稲が全滅したとのこと。そのため食べるものが無くなり、3割位の人が飢えて亡くなったとか。今の人口に当てはめると、5,000名の人が亡くなったことに相当するような、とんでもない飢饉えだったようです。その後、明和元年(1764年)に当時の大恩寺のご住職がこの飢民の碑が建てたとの記録があります。この飢饉を機に、大波野の神舞が始まったり、亡くなった民を弔う大師堂などが建てられたようです。平生町の佐賀には、小さな子供達が次々亡くなったことを弔うために建てられたとの言い伝えがある大師堂があります。
 去年、田布施の田んぼに小規模ながらウンカが発生しました。直径数mのサークル状に稲が枯れていました。大恩寺を出ると、次に土井の内の薬師堂に向かいました。

            今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)

田布施町 波野市,天神周辺ウォーキングのための調査(3/3)

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 続く土井の内の八日薬師堂は平和六十四ヶ所霊場です。土井の内の通りに面して建っています。この薬師堂から東に向かう道は、真っ直ぐ行くと平生の竪ヶ浜へ向かいます。90°曲がって北に向かうと柳井の余田に向かいます。その交差点に石の道しるべがあり、すぐ近くにこの薬師堂があるのです。昔はほとんどの人が歩いていました。柳井や平生方面から田布施に来た人は、この薬師堂を拝んだのではないかと思います。

     土井の内の八日薬師堂             薬師堂の内部、薬師観音を安置
 

 土井の内の八日薬師堂を過ぎると、真っ直ぐ竪ヶ浜方面に進みました。県道を横切って田んぼの中を灸川に向かいました。途中、法寺坊の墓地があります。江戸時代、ここには焼場があったそうです。この方寺坊の墓地に沿う様に薬師川(かつて田布施川の本流)が今でもわずかに流れています。今の田布施川を作った江戸時代、運河として掘川を掘削したそうです。その堀川と薬師川の交差点に船回しと呼ばれる船の向きを変える池がありました。江戸時代、田布施の物資はここから船に積まれて海に向かいました。

            かつて田布施川の本流だった薬師川をどんどん下る


 薬師川は元々田布施川の本流で、江戸時代川幅が10m位はあったのではないかと思われます。古地図には波野市と天神の間に、かつての薬師川が描かれています。この薬師川はよく氾濫したようで、江戸時代初めに、定井出から川尻にかけて人工の川(今の田布施川)が掘られました。新しい川のため新川と呼ばれました。
 薬師川と灸川の合流地点に着くと、熊毛南高等学校に向けて灸川を堤防沿いに歩きました。そして、天神に向かって戻りました。

     牛車が出たり市が立っていた、かつてはとても賑やかだった天神の菅原神社


 天神に着くと、菅原神社境内に入りました。私が幼児の頃、祖母に連れられてこの神社のお祭りに来たことがあります。とても賑やかで、牛車が出るなど絢爛豪華だったことを覚えています。今は牛車が無くなり、代わりに子供が引く御神輿になっています。寂しい限りですがこのご時世、仕方のないことなのでしょう。この神社付近ではかつて、田布施市と呼ばれる市場が開かれていました。今でも、その田布施市を示す恵比寿様の祠が祀ってあります。

   田布施市を示す恵比寿様の祠          平和六十六霊場札所のお地蔵様
 

 天神にはかつての田布施町役場がありました。今、保育園がある場所です。この周辺は、古い白壁の家が少し残っており、田布施町商店街が賑やかだった往時を偲ぱせます。当時のの街並みが少し残っています。
 ところで幕末に、お坊さんが中心になって作られた奇兵隊がありました。円立寺にその部隊が集まっていたそうです。しかし、経費の工面が難しくなり、石城山の奇兵隊に吸収されたそうです。今回時間が迫っていたため、その円立寺はスキップしました。本番ウォーキングでは訪問しようと思います。

     フランス食堂で昼食兼休憩             田布施川沿い砂田のお地蔵様
 

 次にフランス食堂向かいのお地蔵様に行きました。このお地蔵様は平和六十六番ヶ所霊場です。お地蔵様横に打ち付けられた板にそのことが書かれていますが、今は黒く変色して読み取ることが困難です。なお、平和六十五番ヶ所霊場は大恩寺です。昼食も取らないで歩き続けたため、お腹が空いてきました。お地蔵様向かいにフランス食堂がありました。ここで昼食兼休憩を取りました。

                 モニュメントが立つさくら橋を渡り、交流館に戻る


 食事が終わると、田布施川方面に行きました。この付近は砂田と呼ばれ、かつてはよく田布施川の氾濫がよくあったようです。この付近に、名古屋で有名な輪中のような屋敷跡があります。川が氾濫しても浸水しないように、石垣などで敷地を高く積み上げてあるのです。どんどん歩いていると、デイサービスセンター サポートたぶせ横のお地蔵様に着きました。ここは田布施川氾濫に関わるお墓やお地蔵様があります。田布施川の堤防に上がると、ひたすら出発地点の交流館に向かいました。お疲れさまでした。

             今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)

山口県立図書館展示 「『層雲』の三羽ガラス」を見学・調査

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 来年早々に田布施町郷土館(山口県立図書館共催)で、自由律俳句で著名な周防の三羽ガラス(山頭火,白船,碧松)展を開きます。そのため、現在三羽ガラス展を開催中の山口県立図書館に調査に行きました。
 山口市まで調査に行くにあたって、私は初めて町有のハイブリット車(Honda製)を運転しました。最初はおっかなびっくりでした。特に、スイッチを押してエンジンを始動するのには驚きました。またギアチェンジもスイッチのようで、最初は少々戸惑いました。しかし、しだいに慣れて快適に運転することができました。

     初めて運転したハイブリッド車              山口県立図書館に到着
 

 自由律俳句を主とする文芸誌「層雲」を、荻原井泉水が明治44年4月創刊しました。この文芸誌は、自由律俳句の有力な俳人を輩出しました。特に、山口県出身の種田山頭火,久保白船,江良碧松です。その三人を周防の三羽ガラスと呼びます。
 その三人の中で、江良碧松は私と同じ田布施町麻郷出身ですので特に親しみがわきます。私が小学生時代に江良碧松は存命でした。江良碧松の生家近くによく遊びに行きました。当時そんなに著名な人がいると分かっていれば、逢いに行ったのにと思います。

         ふるさと山口文学ギャラリー企画展 「層雲」の周防三羽ガラス


 山口県立図書館に着くと、開催中のふるさと山口文学ギャラリー企画展「『層雲』の周防三羽ガラス ~山頭火・白船・碧松~」を、田布施町郷土館館長のNさん,Fさん,そして私は見学・調査しました。そして、山口県立図書館の方と、どれを田布施町郷土館でお借りするかなどを決めました。それが終わると、同じ車で田布施町に戻りました。途中、いちやなぎで昼食を取りました。Nさんご馳走さまでした。
 ところで、私は40年間も山口県を離れていました。このため、これほど県内の道路事情が良くなっていることを知りませんでした。田布施から1時間程度で山口市に行けるとは。Nさん,Fさんお疲れさまでした。

   どれを郷土館に展示するか検討         タブレツトパソコンで展示物を撮影
 

ブラックベリーの剪定と整姿作業

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 この夏に実を収穫したブラックペリー、冬になり葉がだいぶ落ちてきたので剪定と整姿作業をしました。全くの素人のため、どのように剪定して良いのか分かりません。自分なりに無駄と思われる枝を切り落として整理し、支柱に麻紐でくくりつけました。ブラックベリーは夏、雑草の蔓のようにぐんぐん伸びます。今後毎年のように剪定が必要になると思います。

      無駄と思われる枝を切断              支柱に麻紐でくくりつけ固定
 

 昨日、近くのスーパーマーケットに行った時、ブラックベリーが売られていることに気が付きました。とても高くて、1パック税込で518円でした。この冬に収穫できるのかと不思議に思って産地を見るとメキシコ産でした。国産のブラックベリーは極めて少ないのでしょう。
 私が子供の頃ブラックベリーをたくさん栽培しており、実を収穫してジュースにしてよく飲んでいました。ブルーべりーのように手摘みしか収穫方法がありませんので、安くはならないと思います。もし売れるようならば、たくさん作ってみてもよいかなと思います。 

                 剪定・整姿後、支柱に枝を結んだブラックベリー

田布施町 竹尾地区のお地蔵様を調査(1/3)

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 先日、麻郷から麻里府にかけてお地蔵様を調査しましたが、今回は竹尾方面のお地蔵様を少しばかり調べてみました。竹尾には麻郷や麻里府から岩屋に抜ける道があるため、よく通ります。その道を中心に調べてみました。すると、意外にお地蔵様が多いことが分かりました。この地域は昔、信心深い人が多かったのでしょう。

   麻里府と竹尾境付近のお地蔵様           旧竹尾小学校近くの集落
 

 まず、麻郷と麻里府境近くにある田布施・平生合同斎苑を通って竹尾に入りました。しばらく竹尾に進むと、お地蔵様がありました。台座に「法界」と刻んでありました。よく「法界(ほうかい)さま」と言われているお地蔵様です。よくは知らないのですが、「法界」とは、仏教において「すべてのものには因果があり繋がりがある。」の意味のようです。このお地蔵様から、竹尾地区の郷(ごう)じょうに入りました。なお、竹尾は大きく分けて、郷じょうと奥じょうの二つの地区からなるそうです。

             旧竹尾小学校手前300m手前にある立派なお地蔵様


 旧竹尾小学校の300m手前に石垣に安置された立派なお地蔵様があります。その立派なお地蔵様の傍に、七丁と刻まれた小ぶりなお地蔵様が安置されていました。七丁は番号を示しているようで、七番目を表しているようです。この地蔵様に至るまでに一~六丁のお地蔵様があるようです。

      七丁と刻まれたお地蔵様           旧竹尾小学校の向田農村公園
 

 お地蔵様を見終わると、旧竹尾小学校に行きました。旧竹尾小学校は、明治9年に開設されました。その後、国木小学校竹尾分校になったりしながら、昭和36年に田布施西小学校に統合されました。90年近い歴史があった小学校でした。今は竹尾コミュニティーセンターになっています。そして、旧校庭は向田農村公園の広場となっています。炭焼きをしているのでしょうか、広場隅に炭焼き窯があります。

         90年の歴史があった旧竹尾小学校(現竹尾コミュニティーセンター)


 龍泉寺まで今は舗装道路を通って車で行くことができます。舗装道路が無い昔、人々は旧竹尾小学校からの古道を歩いて龍泉寺まで行きました。さらに、その先の峰尾峠を越えて伊保木まで行っていました。かつて、竹尾と伊保木の人々は互いに、この古道を通じてさかんに行き来していたようです。竹尾にも伊保木には龍泉寺の門徒さんがたくさんいます。

              古道を探して訪ねた竹尾の最奥部の民家 

 竹尾と伊保木の人々が行き来していた峰尾峠は、今はもう使われていません。峰尾峠近くに残る山小屋の残骸だけが往時をしのばせています。数年前までは歩くことができたようです。今通ることができるのは大城峠と大峰峠だけです。
 龍泉寺までの古道を探してみました。最初、旧竹尾小学校から最奥部の民家を訪ねましたが、別の場所が入口でした。なんと、旧竹尾小学校から少し下がった所が入口でした。この古道を、龍泉寺まで歩いてみました。

                竹尾地区を上から見た図(航空写真)

田布施町 竹尾地区のお地蔵様などを調査(2/3)

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 最初、古道の入口を間違えました、そこで、旧竹尾小学校に戻ってから再度入口をあちこち探しました。すると、旧竹尾小学校入口から20mくらい下がった場所に入口がありました。入口を示す道標は無かったのですが、少し入った場所にお地蔵様が見えたからです。お地蔵様から山奥に道が続いていました。

              旧竹尾小学校校庭から見下ろした集落、桜が植樹


 古道入口のお地蔵様には、六丁と刻まれていました。古道はこのお地蔵様の向こうに続いているに違いありません。しばらく山道を進んでいると、崖のような山裾に次のお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様には予想通り五丁と刻まれていました。五丁のお地蔵様近くに、この集落のと思われる墓地がいくつかありました。

          お地蔵様 六丁                                          お地蔵様 五丁
          北緯   33°55'40.89                                 東経  33°55'37.91
          東経 132°00'58.95                                 北緯 132°00'57.72
 

 五丁のお地蔵様付近の山道は、とても切り立っています。元々は尾根道だったのでしょうが、永い間踏まれたりして浸食されたのだと思います。また、雨の水が削ったこともあると思います。
 いろいろな山を歩いていると、人が歩いた道がどんどん浸食されているのをよく見ます。例えば、神奈川県の丹沢山系は、都心に近いこともあり登山客がとても多い山です。あまりに登山客が多いため山道が窪んで使えなくなり、脇に新たな登山道が作られている箇所が所々ありました。この竹尾の古道はいったい何年使われてきたのでしょうか。

              永い間歩かれたため、龍泉寺に続く侵食された古道


 切り立った古道をしばらく進むと、次のお地蔵様(四丁)がありました。この付近に来ると集落が見えなくなります。この古道はとてもよく整備されています。竹尾の方々が日々草刈りなどの整備を怠らないからでしょう。さらに進むと、その次のお地蔵様(三丁)が見えてきました。この付近から急に山深くなります。

        お地蔵様 四丁                                       お地蔵様 三丁
           北緯   33°55'34.94                             北緯  33°55'33.33
           東経 132°00'54.54                             東経 132°00'51.07
 

 どんどん歩いていると、急坂になりました。急坂になった場所に立派な二段の石垣がありました。かつて家か作業小屋が建っていたに違いありません。今は、柱などの形跡すらもありません。相当昔に朽ちたか移築したようです。その石垣の横を登ると、お地蔵様(二丁)がありました。ところで、これらのお地蔵様には皆、同じような花が生けられていました。おそらく、同じ方が生けたのではないかと思われます。

       お地蔵様 二丁                  昭和32年と刻まれた道標
     北緯   33°55'33.44
     東経 132°00'48.58
 

 この付近に来ると龍泉寺が見えてきました。そして、石段となりました。その石段を登ると、古道の終わりを示しているのか石の道標がありました。昭和32年と刻んでありました。少なくとも昭和32年まではこの古道が使われていたことが分かります。

       最奥部の田んぼは猪で荒らされているものの、綺麗に整備された田んぼ

 石段を登り坂道を登ると龍泉寺に着きました。お地蔵様(一丁)があるはずなのですが、見あたりませんでした。龍泉寺のどこかにあるはずです。いつか探してみようと思います。龍泉寺から同じ古道を歩いて引き返しました。お地蔵様(五丁)近くの脇道を歩いてみました。少し下ると、誰もいない廃家がありました。廃家横の道をどんどん下ると、広々とした田んぼが広がっていました。しばらく歩くと、旧竹尾小学校が見える舗装道に着きました。次に竹尾の奥じょうに行くことにしました。

                竹尾地区を上から見た図(航空写真)


お正月の準備ほか

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 毎年のことですが、お正月の準備をしました。我家と農作業小屋にしめ縄を飾りました。東京にいる時、しめ縄は自分で制作していました。この山口県では婆さんがしめ縄を購入するので、作る必要はありません。午後、天気が崩れるとの予報でしたので、午前中にしめ縄を飾りつけました。

      我家玄関に飾ったしめ縄               農作業小屋に飾ったしめ縄
 

 我家の猫リンちゃんは、婆さんが猫嫌いのためずっと外飼いです。このところ天気が良いため、リンちゃんは芝生などでよく腹ばいになって寝ています。夜は零下の気温ですが、私が作ったリンちゃん用の暖房小屋でくるまって過ごしています。電気を使った暖房が気に入っているようです。昼間の晴れ以外は、この暖かい猫小屋に入っています。大晦日のため、いつもより多めに餌をあげました。

               リンちゃん専用の自作電気暖房猫小屋


 大晦日なので、いつもとは違う食事を取りました。昼は、あんこが入った餅とお味噌汁、そして、夕方は年越しソバを食べました。明日は、たっぷり朝寝坊をした後に二,三ヵ所の神社に初詣でしようと思います。来年はどんな年になるでしょうか。今年と同様に、田布施を中心にした史跡や民俗調査,ウォーキング,野良仕事,ラジオ修理などの日々になるでしょう。そう言えば3月、娘の日本での結婚式もあります。それなりに忙しい一年になるのではないかと思います。

      あんこ入り餅とお味噌汁               夕食の年越しソバ
 

田布施町 麻郷の神社などを初詣

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 お正月、去年は田布施町麻郷の高松八幡宮,伊保庄の賀茂神社,余田の名合八幡宮,防府天満宮へお詣りしました。今年は、田布施町の神社などを中心にお詣りしてみることにしました。今年は寝正月と決めたので、午前中はほとんど寝ていました。10時頃に起床して、最初に高松八幡宮に行きました。この神社は麻郷一の神社なので、たくさんの参拝者で溢れていました。

                 たくさんの参拝者で溢れた高松八幡宮


 高松八幡宮が盛んなのは、宮司さんのMさんとその娘さんのお二人が神職を持っており、麻郷を中心とした神社をはじめ小さな祠も含めて祷られているからではないかと私なりに思っています。そして、毎年の秋祭りなどで地元の方に愛されているからではないかと思います。
 今回の初詣、私は車のお守りと神宮暦を購入しました。神宮暦には神社に関わるお祭り,日の出など太陽や月の動き,農業の豆知識,庚申暦などが書かれています。ところで、今年は庚申暦で平成二十七年乙未です。庚申暦で乙未は60年に一度訪れます。つまり、今年61歳の方が生まれた年は乙未なのです。この庚申暦は江戸時代以前の碑文によく書かれているため、古い年代を特定するには欠かせない暦です。

      本殿でお祓いを受けてい方々        私が購入したお守りと神宮暦
 

 午前中に高松八幡宮にお詣りし、午後から麻郷にある例えば荒神様,祇園様,天神様,天王社,金毘羅社,稲荷神社などを、私が知っている範囲でなるべく多くお詣りしました。初めに、私が住んでいる高塔から八海方面に向かいました。そして、隣町平生の人島を通りました。一番目は祇園牛頭天王社で,次に八海天神社,そして荒砂神社に行きました。

  高塔の祇園牛頭天王社     八海の八海天神社       人島の荒砂神社
  

 次に田布施川の灸川河口に行きました。ここにかつて神社がありました。近くの方に聞くと、何年か前に田布施の天神様にお返ししたそうです。今はわずかに手水石とソテツが残っています。続いて川添橋を渡って浮島神社に行きました。ちゃんと国旗が掲揚されていました。ひねきり明神と呼ばれていた時代の浮島神社を知りたいものです。
 次に新川地区にある神社を訪れました。何と呼ばれている神社なのでしょうか。いずれ調べてみたいものです。石鳥居には文政十年(1827年)と刻まれています。このため、幕末にはこの神社があったことが分かります。

   灸川河口の神社跡     浮島神社(ひねきり明神)        新川の神社
  

 次に三宅に行きました。祇園山の石段を登って祇園様に行きました。広場は相変わらず草が刈られておらず、屋根は一部朽ちてぶら下がった状態でした。山を下りると、荒神様に行きました。扉にしめ縄が飾ってありました。地元の方が飾ったのでしょう。次に、尾迫の稲荷神社に行きました。しめ縄が張られて綺麗されていましたが、お詣りする方は少ないようでした。 

   崩れかけた祇園様       三宅の荒神様           尾迫の稲荷神社
  

 次に、麻郷小学校西隣の山の上にある小さな神社に行きました。近くに住む友達に聞くと、「神臥(じんが)さー」と呼んでいるようです。三宅の祇園様を管理している班を特別に「神臥(じんが)班」と呼んでいます。かつて神に仕えるような何かがあったのでしょうか。どんな由来があるのでしょうか。

              麻郷小学校西側の山の上にある神臥(じんが)さー


 次に蓮輪にあるお志南稲荷大明神に行きました。大正時代この稲荷神社前には広場があったそうです。この地区の方々は神舞をしていたそうで、その広場などで舞っていたそうです。戦後舞う人もいなくなり、広場に今の舗装道路ができるなどして、かつての賑わいが無くなりました。
 次に、千手山千光寺に行きました。今回は千光寺が目的ではなく、その裏山の頂上にある金毘羅社です。かつては立派な建物があったそうです。今はブロック作りのお堂があり、かつて天井を飾っていた絵板が残されています。早々にその絵板を調査したいと思います。続いて浜城に行きました。

 蓮輪のお志南稲荷大明神     蓮輪の金毘羅社         浜城の妙躰神社
  

 浜城に着くと最初、妙躰神社に行きました。この神社は、去年城山に登った時にお詣りしました。この神社の参道を降りている時、浜城に住んでおられるIさん家族に出会いました。Iさんに城山尾根の石垣について尋ねました。すると「城山尾根の石垣上に建物があったと聞いたことがある。」とのこと。Iさんは昭和20年生まれとのことでしたので、少なくとも昭和20年台には建物が無かったことが分かります。瓦が使われていたことを考えると、大正~昭和初期までには廃されたのでしょう。浜城の古老に聞くとより正確な情報が得られるかも知れません。

 浜城の千代稲荷大明神       蓮輪の塩谷天王社         鳥越の麻郷神社
  

 Iさんに、、妙躰神社近くにある千代稲荷大明神についても聞きました。すると「昔、浜城によく火事がおきたのでこの神社を建立した。その後、火事が出なくなった。」とのことでした。その千代稲荷大明神のお詣りを済ませると、蓮輪に戻って塩谷天王社に行きました。
 次に、鳥越の高台にある麻郷神社に行きました。私が子供の頃、この神社前広場にあった灯篭が倒れて下敷きになり死にかけたことがありました。口から血を出していたので、飛んできた父親はもうダメかと思ったそうです。神様が命を救ってくれたのでしょうか、骨盤骨折や全身の軽い出血で済みました。その後、しばらく歩けませんでした。車イスなど無く、這って移動していました。この神社から平生湾が見えます。昔は田んぼが広がり向こうに海が見えました。今は、工場の向こうにわずかに海が見えます。

   かつて田んぼが広がりその向こうに海が見えた。高台の麻郷神社前広場より


 麻郷神社にお詣りすると次に、浮島神社分神とひとまる様が奉られている二つの祠に行きました。かつては浜明神とも呼ばれて建物が建っていたそうです。ひとまる様は柿元人麻呂を祀っている学問の神様です。祠内部に柿本大明神と刻まれています。人麻呂がひとまると訛ったようです。それが本当であれば浮島神社より古いのかも知れません。いつしか浮島神社の分神も兼ねるようになったようです。夏の浮島神社のお祭り時、ここで御神輿がお休みします。

   鳥越の浮島神社分神兼ひとまる様               旭の荒神様
 

 最後に旭地区にある荒神様に行きました。この神社が不思議なのは、旭にありながら管理する方々は鳥越の方々なのです。戦前に今の高塔が軍に接収された時の移転に関係があるようです。この荒神様のお祭りには、鳥越に加え旭の方々も参加するようです。そのため、旭の方々にも管理を手伝ってもらえないかとの思いが鳥越の方々にあるようです。管理しているのは5軒位に減っており、皆お年寄りばかりだそうです。この荒神社に限らず、維持管理に関わる悩みをお年寄りから多く聞きます。明日は、麻里府や西田布施方面をお詣りしようと思います。

                   今回お詣りした麻郷の神社関連

田布施町 麻里府~西田布施の神社などをお詣り

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                   八尋石八幡宮


 お正月2日目、今日は麻里府から西田布施にかけての神社などをお詣りしました。元旦より寒く、粉雪が時々舞う中をあちこち回りました。最初、昨日うっかり忘れていた麻郷戎ヶ下の菅原社を最初にお詣りしました。この神社境内に田布施町の記録がタイムカプセルとして埋蔵されています。いつ掘り出すのでしょうか。100年後かな?同じ菅原社の境内に祠があります。祠内を見ると恵比寿様のような像が安置されています。

 田布施町の記録が埋蔵された菅原社            恵比寿様?の祠
 

 戎ヶ下の次に麻里府漁港に行きました。お正月だけあって漁港関係者は誰もいませんでした。ここに来た理由は、漁船にしめ縄か何かが飾られているかどうかを調べるためです。一隻だけ舳先が飾られていました。松と何かの葉のお飾りです。車にしめ縄を飾るように、船にも松飾りを飾るようです。

             舳先が飾られた漁船(一番手前の漁船)、麻里府漁港


 漁船を見たついでに海岸の砂浜を歩いてみました。私が子供の頃、今ほど砂がありませんでした。小石がごろごろしていて、その石の間にオコゼがいるのです。私は、そのオコゼを踏んで足先がひきつるほど痛かったことがあります。海水浴場があり飛び込み台があったように記憶しています。そして、毎年夏にこの海岸で臨海学校がありました。今は各小学校にプールがあるので、臨海学校はないのではないかと思います。

   麻里府の海岸と砂浜       尾津西の住吉神社        上組の妙見神社
  

 麻里府の砂浜を楽しむと、麻里府小学校校門正面の住吉神社に行きました。ちゃんと国旗が掲げられていました。続いて、上組(中郷かも?)の妙見神社に行きました。昔、この広場で佐賀の神舞を踊ってもらったことがあるそうです。佐賀田名の神舞でしょうか。田名の神舞は、田名地区が海軍(回天の基地)に接収されたこともあり戦後絶えてしまいました。麻里府上組の方々は、この妙見神社で盆踊りをしているそうです。

     姥ヶ盥の祠          八雲八幡              戸倉神社
  

 妙見神社を過ぎて、麻里府から竹尾に入りました。そして、川筋にある姥ヶ盥の祠に行きました。千坊山に住んでいた山姥が石城山に引っ越す途中にここで休憩したとの伝説があります。川が二段の滝になっており、椅子のように見えるからかも知れません。また女性の部分にたとえられている民話もあるようです。続いて八雲八幡に寄り、石段がとても急な戸倉神社に行きました。この石段を登っていると息がハアハア、とても疲れました。

                旧国木小学校跡地から登った多賀神社


 戸倉神社にお詣りした後、道すがら田布施町郷土館長Nさんの家に寄って新年の挨拶をしました。訪問すると、親戚の方々が来訪中でとても賑やかでした。珈琲をいただくなど15分位お邪魔をしました。ご家族ご親族が歓談中の所、すみませんでした。
 Nさん宅を出て旧国木小学校跡地に向かっていると、中学高校時代の同級生O君に出会いました。O君は、私の事が全く分からなかったようです。しばらく話をしていると、私の事を思い出したようでした。

    多賀神社後背の祠     多賀山の不思議な祠?    V字型にえぐられた山道
  

 旧国木小学校跡地に着くと多賀神社を目指しました。V字型にえぐられた山道が所々にある道を登りました。休まず歩くと足が疲れます。ハアハア言いながら登っていると、多賀神社に到着です。少し休んだ後、後背にある祠を見学しました。左石扉に「多賀大明神」、右石扉に「田布施一郷」と刻まれていました。ついでに、多賀山頂の三角点を見てきました。さらに多賀神社から30m位離れた場所にある不思議な石の祠のような物も見学しました。

                  何家族か初詣中の八尋石八幡宮


 多賀神社に登る時、遍照院がどこにあるのか探すように歩きました。しかし、見当たらなかったため旧国木小学校近くに住んでいる方にお聞きしました。すると、普通の民家のような家が遍照院でした。お遍路像があるのでそれとなく分かりました。続いて、八尋石八幡宮に行きました。

八尋石八幡宮本殿でお祓いを受ける家族        御神輿が置かれた別殿
 

 八尋石八幡宮には宮司さんがおられ、初詣された方々がお祓いを受けていました。私は、お賽銭を入れて神社の周りをあちこち散策しました。神社後ろにも石鳥居があり、その向こうに三方に分かれる道が続いていました。その一つを歩いて行くと、長椅子がある山の斜面に出ました。石城山方面が見渡せました。

    西條稲荷神社       詩情公園の椙山稲荷神社       岸邸隣の祠
  

 八尋石八幡宮を出ると、西條稲荷神社に行きました。西田布施でも麻郷竹重に近いのであちこち道を迷いながら行きました。城電気の後ろの山にある稲荷神社です。この頃になると、少し日が陰ってきました。時々粉雪が舞っていました。次に詩情公園の上にある椙山稲荷神社に行きました。中央公民館近くから登りました。この公園から田布施の街並みが見下ろせます。一昨年から去年にかけてウォーキングした赤子山琴石山三ヶ岳などがよく見えました。

               詩情公園山頂から田布施の街並みや山を遠望


 続いて、詩情公園を西側に降りて岸邸前に下りました。途中、祠に寄りました。岸家代々のお墓の西隣りにある祠です。そのまま中央公民館に戻ると、今度は田布施街に入りました。最初、八坂神社(通称祇園様)に行きました。ちなみに石鳥居には祇園宮と刻まれています。八坂神社にお参りすると、隣りにある祠と、石鳥居がある御嶽教田布施稲荷教会に行きました。

   八坂神社(通称祇園様)   八坂神社傍にある祠      御嶽教田布施稲荷教会 
  

 田布施街内のかつての市を示す祠に行きました。最初に波野市の名前が地区名として残る祠です。このあたりでかつて、波野市と呼ばれる市があったのです。次に、天神近くの恵比寿様の祠にも寄りました。この祠近くで田布施市があったことの証です。かつて、天神祭が行われる日に市が開かれていたようです。田布施庁舎がここにあった頃、天神祭と市で相当な賑わいだったことでしょう。雑貨や農機具などいろいろな物が出されていたそうです。出店する人、買う人などが大勢集まっていたそうです。

          波野市の祠                   田布施市恵比寿様の祠
 

 次に、田布施街の東のはずれにある菅原天神社に行きました。私が子供の頃、牛車が出るなどとても賑わっていたことを覚えています。祖母に連れられて平生人島から歩いてこのお祭りを見に来ました。祖母と二人だけのお楽しみでした。祖母と歩いた道を今でも覚えています。その昔、天神様の境内には松の大木が這うように生えていました。しかし、松食い虫にやられてみんな枯れてしまいました。残念です。でもソテツだけは昔のまま残っているのが救いです。菅原天神の裏にひっそりとある祠も今回丹念に見ました。

                牛車が出るなど、とても賑やかだった菅原天神社


 菅原天神を出ると、大波野に向かいました。そして、線路を横切って八幡八幡宮に行きました。遅い時間のため誰もいませんでした。本殿に置かれたお守り類は売り切れでした。破魔矢が10本位売れ残っていました。
 この神社で面白い発見をしました。車が出入りする近くの建物は何だろうと近づくと、なんと南平和十五番霊場札所でした。びっくりしました。十一番ヶ所霊場が麻郷の戎ヶ下です。十二~十四番霊場はどこなのでしょう。新たな謎が出てきました。 

   菅原天神社裏の祠      大波野の八幡八幡宮     南平和十五番霊場札所
  

 八幡八幡宮を出る頃にはだいぶ日が傾いて暗くなってきていました。次に、八和田の稲荷社に行きました。稲荷社に向かう小道を探し当てて、暗くなった山道を進みました。周りは竹藪だらけです。竹がきしむ音が不気味に響きます。粉雪が舞う中、稲荷社に着きました。石鳥居に宝暦十年(1760年)と刻まれていました。江戸時代中期にはこのお稲荷様があったことが分かります。

       八和田の稲荷社              灸川沿いの田んぼにある流れ恵比寿
 

 暗くさびしい稲荷社を出ると、最後のお詣りをしました。灸川に沿う田んぼの真ん中にある流れ恵比寿です。ここがかつて海だった頃に宮島から流れ着いた恵比寿様の伝説がある祠です。この頃になると、夕日がだいぶ傾いて日が暮れそうでした。急いで我家に戻りました。あまりに寒かったのか頭が少し痛くなりました。痛みが取れないようならば、明日は一日家で過ごそうと思います。

              今回お詣りした麻里府~西田布施方面

田布施町 大波野,小行司,城南の神社などをお詣り

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              小行司の多賀神社


 お正月もこれで三日目です。今回は、田布施町の残った地域である大波野,小行司,城南を中心に神社などをお詣りしました。実は小行司は大波野内の一地区なのですが、知らない方が多いようです。

   坪曽近くの祠           惣津の金毘羅社         惣津の妙見社
  

 小行司が大波野の理由は江戸時代に遡ります。当時の町村合併では、各村の石高がなるべく均一になることが求められました。当時隣接していた塩田村や余田村と合併させると、これらの村の石高が増え均一性が崩れます。そこで、当時石高が少なかった大波野村と合併しました。今の大波野は、小行司,上段,惣津,坪曽などから成っています。

               柳井方面が良く見える、妙見社傍の鉄塔からの景色


 さて、今回は坪曽近くの祠を最初に訪れました。何と言う祠なのでしょう。大波野まだ調べていない史跡などがたくさんあります。今後の課題です。次に、惣津の金毘羅社に行きました。曲がりくねる山道を登ると、石の鳥居が迎えてくれました。かつて、ここで大波野神舞を披露したこともあったそうです。あまりに山の上なので、今ここで舞うのはまれなのではないでしょうか。続いて、金毘羅社のさらに上にある妙見社に行きました。ここまで来ると景色が開けており、傍にある鉄塔からの景色は素晴らしいものがあります。

    上段の名もなき祠        上段集会所(日光寺)         平和第xxx番の木札
  

 ところで、妙見社から下山するときに山道を間違えてしまいました。どんどん下っていると、ため池がありました。さらに道を降りると目の前は上段でした。気を取り直して迂回し、惣津に戻りました。続いて、上段に行きました。途中、名も知れない祠がありました。そして、どんどん進んで上段の集会所(日光寺)に行きました。この集会所にはかつて尼さんが住んでいたことがあるそうです。

      上段の女体社        上段の天神社           上段の祠
  

 この集会所の下を見ると木札が一枚落ちていました。その木札を見ると、平和第xxx番と書かれているではありませんか。xxxがどうしても読めません。そこで、たまたま持って来ていた平和八十八ヶ所霊場表をみました。すると、「四十五番仁光寺大羽野」と書かれていました。その前が大和町佐田で次が余田ですので、これに違いありません。日光寺と仁光寺、よく似ています?

     上段の御旅所      ためいけ傍の鳥居と祠       急斜面上にある祠
  

 次に、上段集会所から女体社に行きました。不思議で妖しい名前です。上段の方に聞きましたが、その由来を知っている方は誰もいません。さらに、女体社の上の方にある天神社に行きました。女体社と天神社の間は全て石段にです。採石場があった岩永地区の石が使われたそうです。上段集会所近くに慶長xxと刻まれた祠がありますので、安土桃山時代にはすでに人が住んでいたようです。

             小行司多賀神社から見下ろした田布施や平生湾方面


 上段の次に小行司に行くことにしました。その道の途中に御旅所がありました。やや傾いているので、今は使われていないようです。塩田と上段の境に近くにあるため池の祠を訪れました。文政年間に建てられたと思われる、立派な石鳥居が建っています。その祠と向かい合うようにある祠にも行きました。その祠、見上げるような急斜面上にあるため登っていると足が引きつります。その祠、傍に壊れた瓦などが散乱していました。

   天寿の松を祀る鳥居     小行司の多賀神社      お祓いを受ける参拝者
  

 ため池を過ぎると、峠の道を右に曲がって小行司に行きました。途中、生野の集落を過ぎました。最初、多賀神社に行きました。ここからは、余田,田布施の街並み,平生湾,そして馬島など周防灘の島々がよく見下ろせます。さきほどまでいた坪曽や惣津も見えました。上段は山陰に隠れて見えませんでした。

   郷江の荒神社1?         郷江の荒神社2?       市明の荒神社
  

 多賀神社にお詣りする前に、天寿の松と夫婦松を祀った鳥居を見ました。そして、その傍にある山桜の大木を見ました。この付近は標高300mほどで、雪が溶けずに残っていました。久しぶりに雪を手に乗せてみました。多賀神社に着くと、意外にも参拝する人が多くいました。お賽銭をあげるのに順番待ちでした。宮司さんもいて参拝客にお祓いをしていました。

                  石城山の城南側麓に鎮座する石ノ口八幡宮


 多賀神社の次は小行司の神社を訪れました。最初、旧小行司小学校跡地の近くにある郷江の荒神社に行きました。ただ、祠が二つあり、どちらが荒神社から分かりませんでした。今度来たときに地元の方にお聞きしよう思います。そして、次に旧小行司小学校跡地からにこにこパーク側に500m位進んだ場所にある市明の荒神社に行きました。この荒神社は石鳥居も建物もなかなか立派です。数年前に、周りの樹木をすべて伐採したようです。見晴らしがとても良い山の上にあります。

大権現の巨大石鳥居残骸  石ノ口八幡宮隣りの荒神社  防陽と平和を兼ねる八幡寺
  

 小行司の神社などのお詣りが済むと、大波野に戻って城南に行くことにしました。城南で最初に行ったのは石ノ口八幡宮です。石垣などがなかなか立派な神社です。石ノ口八幡宮本殿傍に荒神社があります。そして、本殿から境内を下った場所に八幡寺があります。その寺を見学すると、柱に木札が打ち付けてありました。読みにくいのですが、「平和第xx五番」と書かれていました。平和八十八ヶ所霊場表に書かれている「七十五番大師堂石の口」に違いありません。ちなみに防陽霊場の三十二番霊場札所でもあります。防陽霊場と平和霊場を兼ねているようです。

        幕末にハゼの実ろうを生産したであろうハゼの巨木と、それを守った祠


 ところで、石ノ口神社に行く前に宿井を通ったのですが、天行居近くの鉄塔がある場所に巨大な石鳥居の残骸があります。残骸の一部には「大権現」と書かれています。残骸と言っても粉々になっているのではなく組み立てることができそうです。何かの工事中に倒れたとのこと。かつて、この石鳥居の下をくぐって石城山に登っていたそうです。

    後西山の妙見神社      後西山の稲荷神社    木の井山古墳近くの妙見宮
  

 石ノ口八幡宮を出る頃にはだいぶ日が傾いてきました。急いで城南川西地区に行きました。途中、ハゼの巨木前を通過しました。せっかくなので、この巨木下にある祠もお詣りしました。この祠が、ハゼの巨木を伐採から守ったとの話が残っています。幕末を知る貴重なハゼの巨木とそれを守った祠です。

   蓮池寺境内の祠          田布施川沿いの祠      竹重の天王社
  

 城南小学校前を過ぎ線路をまたぐと、川西後西山の妙見神社に行きました。この神社は西山林道の途中にあり、後西山から舗装道路がこの神社まで続いています。途中、後西山の稲荷神社もお詣りしました。次に、木の井山古墳近くにある妙見社に行きました。山の中にあるにしてはなかなか立派な石鳥居です。この石鳥居には妙見宮と刻まれています。

              今回お詣りした大波野の惣津,上段地区


 続いて、蓮池寺に行きました。お寺なのですが、どういう訳か石の祠があります。神仏一体のお寺なのでしょうか。続いて、瀬戸の田布施川沿いにある祠をお詣りしました。そして最後に、元日お詣りするのを忘れた麻郷竹重の天王社に行きました。この頃になると、五時を過ぎていたため薄暗くなっていました。やれやれ!疲れた正月三が日でした。

                 今回お詣りした、小行司,城南地区

田布施町 第3回麻郷小学校昭和40年卒同窓会の第3回幹事会を開催

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 4日午後2時に、平生のジョイフルに小学校の同級生達7人が集まりました。1月8月に続く3回目の幹事会です。今回は、会員の住所確認や今後のスケジュールなどについて詰めました。集まった7人は、さながらミニ同窓会のように子供の頃の話や近況についてなど楽しくお話しをしました。
 この6月に参加可否を問う往復ハガキを会員全員に出します。8月初めに最後の幹事会をして、司会,受付,写真係などの分担を決めます。そして、第1回(2005年),第2回(2010年),に続く第3回同窓会を8月中旬に開催する予定です。同窓会ホームページもそろそろ更新しようと思います。

                        さながらミニ同窓会のように楽しかった、第3回幹事会

田布施町 竹尾地区のお地蔵様などを調査(3/3)

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 去年竹尾方面のお地蔵様を調査した続きです。郷じょうを過ぎて、奥じょうに行きました。私が中学生だった頃、郷じょうにバス停がありました。このバス停から南に行くと麻里府、北に行くと国木でした。バス停があった峠道をよく自転車で通りました。当時は道路が舗装されておらず竹尾川に沿った曲がりくねった道でした。当時竹尾や麻里府上組に住んでいた同級生達は、苦労して自転車通学していたことを改めて思いました。

      龍泉寺への案内石柱              龍泉寺近く墓地傍のお地蔵様
                                                                      北緯   33°55'40.05
                                                                      東経 132°00'45.05
 

  奥じょうに行く途中にある龍泉寺への案内石柱を左に回って龍泉寺へ行きました。そして、お地蔵様二丁の一つ前の順番であるお地蔵様一丁を探すことにしました。ところで、龍泉寺へ行く途中に墓地があり、傍に立派なお地蔵様があることに前から気が付いていました。先日たまたま龍泉寺へ行く途中、このお地蔵様を拝んでいる人がいたので声をかけました。

    龍泉寺楼門下近くのお地蔵様              竹尾奥じょうの集落
              北緯   33°55'35.66
              東経 132°00'45.05
 

 その拝んでいた方はなんと、中学高校の同級生Mさんではないですか。あまりの偶然に驚きました。お地蔵様の由来を聞くと、Mさんの祖母の義母が昭和11年に建立したとのことでした。今でもこのお地蔵様に関わるささやかなお祭りをしてるそうです。前々から知りたかったこのお地蔵様の由来が分かって本当に嬉しく思いました。

                   竹尾奥じょうの中心近くにある観音堂


 龍泉寺周辺にお地蔵様一丁がないかどうか探しましたがありませんでした。再度龍泉寺を訪問してご住職の方にお聞きしようと思います。龍泉寺を出ると、竜泉寺案内の石柱を左に曲がって奥じょうに行きました。田舎好きの私は、趣があるこの奥じょうの集落がとても好きです。奥じょうを通って観音堂に行きました。

      観音様の新しいお住まい            新しいお住まいの中の観音様
             北緯   33°55'56.37
              東経 132°00'37.91
 

 先日、この観音堂のはす向かいに建立された小さなお堂に、観音様が引っ越ししていることを知りました。今回、その中に安置された観音様を拝ませていただきました。このご時勢、建物を維持するのは大変です。竹尾奥じょうの観音様は、安置するお堂が狭くなったとは言え地元に残ることができました。観音様をお寺に戻すなど、地域から手放さざるを得ない地域もあるのです。中には、皆が知らない所に撤去されたお地蔵様もあるのです。
 
       
   土台に「法界」と刻まれたお地蔵様         大城峠に安置されたお地蔵様
            北緯   33°55'56.31                              北緯   33°55'30.38
            東経 132°00'37.88                              東経 132°00'13.03
 

 新しいお住まいの左隣りに、以前からあるお地蔵様があります。背が高くなかなか立派なお地蔵様です。この場所は、国木,麻里府,麻郷の人々が普賢様のお祭りに行くために大城峠を越えて岩屋に行く時に必ず通る場所です。かつてたくさんの人々が、このお地蔵様に旅の安全を祈願したに違いありません。このお地蔵様の土台には、大きく「法界」と刻まれています。

                 大城峠に行く途中、ふり返って見た竹尾地区


 竹尾の観音様を拝むと、大城峠に向かいました。この峠は十字路になっています。この峠から東に降りると竹尾方面に,南に向かうとコバルトラインを通って峰尾峠や五軒屋方面に,西に降りると岩屋に,そして北に向かうと大峰峠に行きます。かつては千坊山尾根の中で大峰峠に次ぐ重要な峠でした。そのため、お地蔵様が安置されているのではないかと思います。竹尾にはまだまだ知らない山道があります。まだ知らないお地蔵様などの史跡が眠っていると思います。そもそも大城峠付近に、古代高地性集落が確認されています。古代から交通の要所だったのではないかと思われます。そもそも、何故「大城」と呼ぶのでしょうか。

                 竹尾地区を上から見た図(航空写真)

光市 伊保木の長福寺,大師堂,岩屋快山窯などを調査

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 先日、光市の五軒屋~伊保木~岩屋~かんぽの宿ウォーキングルートを調査しました。その時に時間が無くて調査できなかった長福寺と大師堂を調査しました。調査の時は五軒屋から伊保木へ行き、そして岩屋を通って室積に行きました。今回は竹尾から大城峠を越えて直接岩屋へ行きました。

         岩屋の一見長屋のように見える長福寺、左に接するように大師堂


 大城峠からの急坂をどんどん降りていると、岩屋集落の前にポツクリ出ます。そして、岩屋集落の一番上の方にある長福寺に行きました。最初、そのお寺の場所が分からなくてうろうろしました。そして、ある広場に大師堂の建物があることに気が付きました。その隣の長屋のように見えた建物が実はお寺で、防陽第四十九ヶ所霊場でした。大師堂の入口に、その番号が墨書きされた木札が打ち付けられていました。なお、龍泉寺と同様に霊場番号が一つ多いことが分かりました。

     防陽第四十九ヶ所霊場の大師堂        大師堂内のお地蔵様
 

 岩屋の方にお話を伺いました。すると、かつて岩屋で大火事があったそうです。その時、長福寺も焼けたそうです。住民は自分の家を再建するだけで精一杯で、長福寺は長屋風にしか再建できなかったとのことでした。今、ご住職さんはいないそうです。岩屋に古民家が少ないのは火事のためのようです。

                   見学させていただいた岩屋快山窯


 次に、せっかく岩屋に来たので窯を見せていただきました。伊保木には三軒の窯があるそうですが、二軒は海岸線付近に、岩屋に一軒あるとのこと。今回は、岩屋の一軒を見学させていただきました。私は窯については全くの素人のため、焼き物について少し教えていただきました。窯は1m立法位の大きさの電気炉のようでした。塩で色を付けているとのことでした。

    岩屋快山窯で制作された焼き物           かつての岩屋の街道、狭い!    
 

 岩屋快山窯のご主人は、若い頃に奥様と演劇をしていたそうです。いつしか、この岩屋が気に入って住み始めたとのことでした。もともとお店だった家(岩屋で唯一のお店だったとか)を改造して窯にしたそうです。ウォーキングで寄るときは、電話で知らせていただくと嬉しいとのことでした。このため、ウォーキングする数日前に電話しておこうと思います。ところで、防陽霊場表によると伊保木の慶宝寺と岩屋の長福寺の間にも大師堂が一つあることになっています。それがどこかどうしても分かりません。次回、調査しようと思います。

                  今回調査した光市岩屋周辺


エンジンチェーンソーの点火装置故障の修理(1/x)

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 去年の6月に呉麓山麓のひかり観音に鏡を取り付ける時、近くに茂る樹木を伐採しました。その時、私が持参したチェーンソーが故障してしまいました。原因は点火プラグに火花が飛ばないことでした。どうも火花を発生させるCDIの故障のようです。その後、安価なチェーンソーを1台購入しましたが、故障したチェーンソーを捨てるのが惜しくなりました。このため、故障を修理することにしました。

       CDIが故障したチェーンソー          始動ロープカバーを取り外す
 

 耕耘機のCDI交換作業は何度も経験しましたが、チェーンソーのCDI交換は初めてです。まず、チェーンソーを分解してCDIを交換することにしました。そのため、交換用CDIをDIY店で注文しました。数千円すると思います。「最近モデルチェンジしたチェーンソーなので交換用CDIは容易に手に入るだろう。」とのことでした。愛用していたチェーンソーは蘇るでしょうか。

                 下画像のCDI装置をDIY店に注文

葉物野菜,根物野菜など、冬野菜を楽しく収穫

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 我家は、ほぼ野菜自給100%です。毎日いろいろな野菜を収穫しては、少しずつ食べています。近日、私が関わるウォーキングクラブの年次総会を開き、その後新年会です。その時、我家の野菜をたくさん食べていただこうと思っています。その野菜を今回収穫しました。ただし、私は料理できないため料理していただくのですが。

    普通の九条ネギ        根が太い下仁田ネギ      きれいにした長ネギ
  

 最初に長ネギを収穫しました。今回収穫したのは九条ネギと下仁田ネギです。下仁田ネギは根が太く柔らかいので、手で抜こうとするとスポンと根が切れてしまいます。スコップで少し土を緩めて抜きます。私の大好きなネギです。ネギでは他に分葱とやぐらネギがあるのですが、今は寒さで葉が縮れており春にならないと収穫できません。

   ニンジンを丁寧に抜く       食べない葉をカット      美味しそうなニンジン
  

 続いてニンジンを収穫しました。今年はニンジンの発芽が揃って良く育ち、美味しいニンジンがたくさん収穫できました。発芽を成功させたことが良かったようです。まだまだ畑にはニンジンがたくさんあるため、しばらくはニンジンに不自由しません。

    チンゲンサイ              春菊               ホウレンソウ
  

 ニンジンを収穫すると、葉物野菜を収穫しました。チンゲンサイ,春菊,ホウレンソウ,白菜,そしてタアサイを収穫しました。春菊とタアサイはそろそろ終わりのようです。寒さで葉が一部茶色に枯れていました。ホウレンソウの葉をそのままかじってみました。ドレッシングをかければ、サラダとして十分食べることができそうです。大根,小松菜,キャベツ,京菜などは残り少ないため収穫しませんでした。

    秋ジャガイモ              太くなったカブ           ヤーコン
  

 続いてイモ類を収穫しました。まずは夏に種芋を植え付けた秋ジャガイモを収穫しました。皮が赤いアンデスと呼ばれる品種で、男爵のようにホクホクします。ただ、煮詰めすぎると溶けてしまいます。カブはだいぶ太くなってなっていました。収穫が遅かったためすが入っているかもしれません。最後にヤーコンを収穫しました。スライスするかきんぴらのようにして生で食べます。変わった味で、人により好き嫌いがあります。美味しくない梨のような味と食感です。下画像は今回収穫した野菜達です。明日,明後日,明々後日と仕事関連で忙しいため、夕方それらの野菜達をEさんに渡しておきました。みなさんに美味しく食べていただければと思います。

     A:九条ネギ,B:下仁田ネギ,C:チンゲンサイ,D:タアサイ,E:春菊,
     F:ホウレンソウ,G:カブ,H:ニンジン,I:白菜,J:ヤーコン,K:ジャガイモ

光市 西伊保木の正蓮寺を訪問

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 先日、光市伊保木の長福寺に行きました。今回は長福寺と慶宝寺の間にあるはずの大師堂を探すため再び伊保木に行きました。あちこち探していると、西伊保木のある集落の小高い丘の上に小さな庵のような小さな建物を見つけました。そこで、この集落の方にお話を伺うと古いお寺であることが分かりました。そこで、この集落で一番年長者のTさんを紹介していただきました。そこでTさんの家を訪問し、Tさんご夫婦にこのお寺についていろいろ教えていただきました。

                正蓮寺から見下ろした西伊保木の集落


 Tさんによると、昔このお寺に多くの方々が巡礼に来ていたそうです。そして、このお寺で宿泊することがあったそうです。小さなお寺ですので、実際にはこの集落の家々で分担して泊まらせてあげたとのこと。泊まっていただくことも一つのお接待で、いっさい宿泊費や食事代を取らなかったそうです。

       正蓮寺前広場の墓地                正蓮寺から広場を見て
 

 正蓮寺にはかつて尼さんが住んでいたそうです。お寺の前は広場になっていて、賑やかに盆踊りをしていたそうです。今広場は墓地として使われています。お寺の入口には霊場番号が書かれた板が掲げられていました。しかし、風化が進んでいて番号は読めませんでした。お寺の中を見ると、右端に祠がありました。神仏一体のお寺にように思えます。昔のことをより知っているお年寄りがいないため、あまり深くお話を聞くことができませんでした。
 西伊保木から帰る途中、慶宝寺近くに住んでおられる嵯峨音頭保存会のOさんの家を訪問しました。夕方だったため、簡単に挨拶だけしました。伊保木公民館で毎年盆踊りをしているとのこと。かつては竹尾方面に踊りに行っていたそうです。また、室積でのお祭りでも嵯峨音頭を踊っていたそうですが、規制が厳しくなってから行かなくなったそうです。春先に再度訪れようと思います。

                   西伊保木の正蓮寺、右端に祠を安置

健康ウォーキングクラブの年次総会と新年会

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 私が代表の健康ウォーキングクラブの年次総会を開きました。最初に私の方から、会員や会費の状況を説明し、去年のウォーキングの振り返りと今年のウォーキング予定を発表しました。そして、Tさんから会費の状況を説明していただきました。ところで、下見ウォーキングに参加したい方が以外に多く、これからは何人かにお知らせして下見ウォーキングしようと思います。
 これらが終わると、新年会を開きました。今回は、特に美味しい牡蠣生ガキを蒸し焼きにして食べました。とても美味しく、牡蠣を何個食べたか忘れてしまいました。牡蠣を持って来ていただいたKさんありがとうございました。

                年次総会開催後、子供達も参加して楽しい新年会


 今回は一品持ち込みで、皆さん得意の料理や酒を持参したりしました。中には、開催直前までに得意料理を会場で調理した方もいました。本当にありがとうございました。途中、子供達が妖怪ウォッチの歌で踊ったりするなど賑やかな新年会となりました。私は用事で22時頃に会場を退散しました。2012年,2013年,2014年,そして2015年と、当ウォーキングクラブは4年目に入りました。今後ともよろしくお願いします。

       妖怪ウォッチを歌うY君             歌に合わせて踊るNちゃん
 

田布施町 発明クラブ 今年最初の工作

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 今年初めての発明クラブがありました。開催場所は田布施農業工業高校です。いつもの子供達が集まっていろいろ勉強しました。今回は高校生のお兄さん達が教える側に入りました。
 今回学習したのはジャイロです。いわゆるコマです。回転体が転びにくいことの体験をしました。私はジャイロと聞いて、コマを作るのかと思いました。しかし、違いました。ペットボトルを工作してのジャイロ効果体験なのです。

   回転する車輪は何故か転倒しにくい    矢印のように筒を回転させて遠くへ飛ばす
 

 私も子供達に混じって工作をしました。ペットボトルを二ヶ所で輪切りにする工作です。とても簡単な工作ですが、刃物であるカッターやハサミは慎重に扱う必要があります。その輪切りにして筒になったものを飛ばします。ジャイロと関係ないように思われますが、投げる時に筒をいかに回転させるかで飛ぶ距離が変わるのです。

                 完成後、運動場に一列になって加工した筒を投げる


 遠くへ飛ばすこつは二つあります。一つ目は筒の軸方向に投げること。二つ目は、投げる瞬間に筒を回転させることです。私は、投げる瞬間に筒を回転させることがなかなかできませんでした。そのうち、こつがつかめてきました。筒を回転させると、ジャイロ効果で筒が乱れずによく飛ぶのです。子供も大人も楽しく工作しました。どういう訳か、大人の方が飛ばなかったように思います。大人は力任せに飛ばそうとするため、くるくる乱雑に回ってストンと落ちるのです。このような工作は初めてでした。

     向こう側に一斉に投げる              投げた後、地上に落ちた筒
 

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