戎ヶ下の横断歩道を渡ると、泊団地の公会堂に行きました。この公会堂に来たのは、ウォーキング時にトイレを使わせていただけないかどうかの調査です。調査の結果、事前に泊団地の自治会長さんに届けを出しておかないと使えないようでした。このため、本番のウォーキング時には、この公会堂を使わなくても済むルートを検討しようと思います。
続いて、浜城の妙躰神社に行きました。この神社の石鳥居には明体神社と記名されていました。どちらが正しいのでしょうか。続いて、近くにある千代稲荷大明神に行きました。かつて、浜城は火事に悩まされていたそうです。この神社を建立したら火事がピタリと止んだとの言い伝えがあります。
泊団地の公会堂 浜城の妙躰神社 千代稲荷大明神
本番のウォーキングでは、10月に登った城山頂上で絶景を眼下に昼食休憩をとる予定です。今回の下見では、あちこち寄り道し過ぎたため時間が無くなりました。このため、城山に登るのは止めました。代わりに、千代稲荷大明神近くの小道に腰かけて、陽だまりの中で昼食休憩をとりました。
昼食休憩をとった、浜城の千代稲荷大明神近くの小道
昼食を済ませると、浜城の集落内を散策しました。そして、亘理南山の石碑を見学しました。亘理南山は、江戸時代後期幕末の漢学者です。その生徒たちが明治時代になってから、先生だった亘理南山を偲んでこの石碑を建てました。すぐ近くにある大日如来のお地蔵様も見学しました。続いて蓮輪に入りました。
浜城の亘理南山の石碑 米出の上関審判勘場跡
蓮輪公会堂の向かい側にお地蔵様がありました。何年か前に撤去されたとのこと。今は、その跡だけが残っています。続いて米出に向かいました。そして、江戸時代に代官屋敷だった上関審判勘場跡に行きました。今はN家の屋敷になっています。屋敷内を訪問しましたが留守のようでした。上関審判勘場跡近くの田んぼは、一面ガマが覆われていました。ガマの穂が弛んで、風に合わせて穂先が飛んでいました。
ガマの穂が田んぼ一面を覆う、向こうの山は城山
次に、蓮輪の高台にある天王社に行きました。広場の周りには、TMKPからいただいてきたと思われる桜の苗木が何本も植えられていました。続いて鳥越に入り、浮島神社分神と柿本大明神の祠に行きました。その昔、浜明神と呼ばれていました。浜明神を出ると法界様のお地蔵様を見ました。そして、今回の下見の最後の訪問地として鳥越のお大師堂に行きました。かつて、このお堂の中にはこつり地蔵が安置されていました。咳を直すお地蔵様として慕われていたお地蔵様でした。今は、周防大島の帯石観音に鳥越地蔵として安置されています。
蓮輪の天王社 鳥越の浮島神社分神 鳥越のお大師堂跡
予定では、鳥越バス停でバスに乗って平生に戻る予定でした。しかし、平生まで歩いてみることにしました。最初、寄り道して八海公会堂近くにあるお地蔵様を拝顔しました。そして、江戸から明治にかけてあった渡船場跡を見ました。その後、国道188号線をひたすら平生に向かって歩き続けました。歩きながら、日が長くなったことを感じました。
今回、麻郷詣り順路を下見ウォーキングしたコース
田布施町 麻郷詣り順路ウォーキングの下見(2/2)
受粉用の柿(禅寺丸)の苗木を植え付ける
一昨年、甘ガキの苗木を植え付けました。去年は小さな実を付けましたが、全て落下してしまい収穫ができませんでした。柿は小さなうちはなかなか実りません。このため、受粉用の柿(禅寺丸)の苗木を植え付けました。今年は無理としても、来年は美味しい柿の実を収穫できると思います。植え付けた場所は比較的日当たりが良い場所なのですが、梅が占領して日陰になっています。この梅の木を伐採しました。
伐採した梅の古木 伐採した梅の幹 受粉用柿の説明書
梅を伐採すると、近くに穴を掘りました。そして、根に付いた土を払って、周りの土と一緒に穴に埋めました。足でしっかり踏んだ後、水をたっぷりかけました。この受粉用の柿は、実は小さいものの甘く美味しく食べることもできます。たくさんの実が成るため、晩秋にはたくさんの鳥がやってきます。この柿は古い品種で昔は庭によく植えられていました。ほっておくと大木になります。
梅を伐採した近くに植え付けた受粉用柿
田布施町 麻里府 上組 中村荒神社の探索
先月調査して探し当てることができなかった麻里府上組の中村荒神社を再度探索しました。まずは中郷のT氏を訪ねてその場所をお聞きました。しかし、その場所がなかなか理解できず何度もお聞きしていると「私がいっちゃげよう。」とのこと。ご高齢にもかかかわらず案内していただけることになりました。本当にありがとうございました。
T氏の後を追って妙見神社へ向かう 1ヶ月ぶりに来た妙見神社
T氏は上組の妙見神社に向かって山を登り始めました。ところが、T氏は杖を忘れて来たとのこと。私は急遽、太い笹茎を切って杖の代わりにとお渡しました。ところで中村荒神社は、のちに住吉神社となった明神社跡の近くにあるとばかり思っていました。ところが、今は妙見神社に置いてあるとのことでした。それを聞いて初めて、中村荒神社が移されていることを知りました。そして、「中村」は人の名前ではなく、中村条(じょう)と言う地区名であることも知りました。
妙見神社の裏山に置かれた中村荒神社の祠
妙見神社に着くと、中村荒神社の祠を探しました。すると、裏山の斜面に置かれていました。なお、祠は妙見神社にあるが、ご神体は上組公会堂に置かれていることを通りすがりの方にお聞きしました。中村家が中村荒神社のお世話をできなくなったため、いったんは妙見神社に移すも、高い場所にあるためお年寄りが通えず、ご神体だけ上組公会堂に移したとのことでした。
中村荒神社の祠 妙見神社軒下の亥の子
ご神体は上組公会堂に
今回の調査で、下画像の赤い矢印のように中村荒神社が移ったことが分かりました。今、石の祠は妙見神社に、ご神体は上組公会堂にあります。
ところで、妙見神社の軒下で面白い物を見つけました。亥の子です。この麻里府でも、かつては亥の子が行われていたようです。T氏は亥の子をしているのを見たことがあるとのこと。亥の子を引っ張る鉄の輪はすっかり錆びていました。今は使われないまま忘れ去られています。
上組の中村荒神社の移り先
日野市 平山城址公園~八王子市 絹の道方面をウォーキング(1/3)
2月1日、八王子の我家の周りを散策しました。1時間程度歩くつもりが、30kmも歩いてしまいました。最初、私が田んぼで稲作りをした懐かしい里山を散策しました。残雪のため田んぼのあちこちが白くなっていました。この場所はかつて道路が通る予定でしたが、自然保護活動のかいあって東京都指定の八王子堀之内里山保全地域となりました。
残雪の東京都指定八王子堀之内里山保全地域
八王子堀之内里山保全地域のあちこちをのんびりと散策しました。田植えをした場所,仲間と下草刈りをした場所,小動物保護活動をした場所などを周りながら、その頃のことを思い出しました。この近くの木の上に鷹が営巣したことがありました。
もうすぐ田起こし 雪が残った田んぼ サンショウウオ保護区
八王子堀之内里山保全地域を山深く入って、日野市の平山城址公園東園に入りました。以前は、笹が一面に茂っていて歩くことができませんでしたが、今はウォーキングしやすいように手入れされています。3年前山口県に帰る時に仲間と散策しました。今は、冬のため葉が落ちて見通しが明るくなっていました。
日野市の平山城址公園東園
平山城址公園東園の展望台でしばらく休憩しつつ遠望を楽しむと、東京薬科大学裏にある平山城址公園西園に行きました。大学の裏側を通りながら公園の池に行きました。池の近くに、雪だるまがありました。近所の子供か、大学生が作ったのに違いありません。
東京薬科大学の裏道 池近くの雪ダルマ 平山季重を祀る祠
平山城址公園西園の池の周りを散策した後、尾根道に出ました。そして、源平合戦を戦った平山季重を祀る祠に行きました。今この地域は平山と呼ばれ、鎌倉時代初期にこの平山季重等の一族が治めていました。この山一帯は平山城址公園として、市民の憩いの場所となっています。
長沼公園展望台から八王子方面を遠望
平山城址公園から長沼公園へ行きました。以前は、尾根伝いに長沼公園に行けたのに今は通れません。個人の家が尾根筋にあるため、今は通行不可となっています。大きく迂回しなければならないのは残念です。長沼公園では展望台の休憩椅子に座って休憩しました。この付近は20年位前、子供達と犬を連れてよく散歩したルートの一つです。
今回散策した、平山城址公園~絹の道などのルート
田布施町 麻郷 蓮輪の金毘羅社天井板の保存作業
蓮輪の金毘羅社を初めて訪れた時、半ば壊れかけた高い石階段を登りました。その山の頂上広場にブロック塀作りのお堂のようなものがありました。蓮輪の方にお聞きすると、地元では金比羅さんと呼んでいるそうです。かつては立派な屋根付きの建物があったとか。しかし、台風か何かで倒壊して以降再建されることなく、今のようなブロック塀作りのお堂になったそうです。近くに礎石の跡があります。
かつてはとても立派な建物だった金毘羅社、今はブロック塀のお堂
このお堂の床に、かつての建物の天井に飾られていた天井板が束ねて無造作に置かれていました。その天井板は半ば朽ちて、アリなどの虫が巣食っていました。蓮輪の方のご了解のもとに、郷土館に持ち込み保存処置をすることにしました。
ビニール袋で郷土館へ 束ねた板の紐をほどく 虫に食われて穴だらけ
ビニール袋に入れて郷土館に持ち込み、すぐに防虫処理しました。そして、一週間経った今回、ビニール袋から天井板を出してみました。すると、ヤモリが生きて出てきました。ヤモリを野外に逃がした後、刷毛で板についたゴミ類を取り去りました。ざっと見て、干支の絵が書かれているようです。俳句や漢詩のような文字は書かれていませんが、絵師と思われる名前がどの板にも書かれていました。
干支と思われる絵が描かれている天上板、鳥と虎
汚れを取っていると、なんとか文字が読める板がありました。大正十年三月十七日の日付が書かれた板が一枚だけありました。これでこの金毘羅社の建立か再建のおよその時期が特定できました。この頃、蓮輪では神舞が参加でした。建立か再建時の祝いに、地元の神舞が披露されたかも知れません。当時の蓮輪は勢いがあったのでしょう。
板から出てきたヤモリ 刷毛で汚れを取る 大正十年三月十七日の日付
刷毛で汚れを取ると再びビニール袋に入れました。防虫剤,乾燥剤,そして脱酸素剤も入れておきました。今回は17枚の天井板の保存作業をしましたが。50枚位の天井板がまだ残っています。近々、その板も保存処理する予定です。
保存作業が終わったら、写真を撮るなどして調査します。そして、どんな絵が描かれているか、絵画の作者は何処の誰かなどを調査しようと思います。現存する他の建物(例:浮島神社)の天上板とも比較検討しようと思います。
今回汚れを取った、蓮輪の金毘羅社天上板17枚
日野市 平山城址公園~八王子市 絹の道方面をウォーキング(2/3)
都立長沼公園の展望台で少しの間休憩しました。しかし、寒いのですぐに出発しました。趣ある蒲田鳥山を通り過ぎて芝生の斜面に来ました。雪が積もると、ここは絶好のソリの遊び場となります。子供達がソリで滑った筋がたくさん付いていました。子供が小さい時に何度が連れて来たことがあります。スキーもできそうな場所です。
焼き鳥の蒲田鳥山 絶好のソリの遊び場
長沼公園を過ぎて今度は、私がボーイスカウトの副隊長をしていた頃に活動場所の一つだった絹ヶ丘を訪れました。今は堀之内に移っていますが、この公園の傍にボーイスカウトの倉庫がありました。この公園で、子供達を相手にゲームをしたり,工作をしたり,料理したり,スポーツなどをしたりしました。今回訪れたのが平日のためか、お年寄りが散策しているだけの静かな公園でした。
絹ヶ丘団地、雪が残る静かな公園
ボーイスカウトの行事の一つに奉仕がありました。大晦日、この公園傍の白山神社を清掃するのです。階段を含む境内を掃き掃除したり、ゴミを持ち帰ったりするのです。このように普段から神社仏閣などに関わっていれば、大人になってからもふるさとの史跡などに親しみを持つことができるのではないかと思います。今の子供達はお正月にしか神社に行きません。ふるさとの成り立ちにもっと興味を持って欲しいと思います。
大晦日清掃した白山神社 公園内の稲荷神社 絹ヶ丘から見た景色
絹ヶ丘団地のあちこちを散策した後、北野台団地の小道を歩きました。そして、北野台団地を見下ろせる高台にやって来ました。この場所から下を見下ろすと、団地の巨大さを実感することができます。どこまでも家が続いているように見えます。昭和30~50年代に次々に作られた団地、地方からたくさんの若者がやってきてここに住み始めました。今、この団地に住んでいる方々も高齢化しています。
大海原のように、どこまでも家が続く北野台団地
幕末、八王子から町田を経由して横浜まで古道が通っていました。「絹の道」と呼ばれる古道です。その古道の途中に道了堂跡があります。今は、そのお堂も礎石だけを残しています。当時絹商人が毎日のようにこの古道を通って、絹を横浜まで運んでいました。町田駅近くの広場にも「絹の道」石碑が建っています。
高台にある道了堂跡 礎石などが残る 雪に埋まった古道
久しぶりに道了堂跡を見学しました。次に、絹の道史料館に向かうことにしました。古道の趣を今に伝えている道を歩きました。途中の日陰は雪が溶けずに残っていました。滑らないようにそろそろと注意深く歩きました。とても静かな古道です。
今回散策した、平山城址公園~絹の道などのルート
早春の華、福寿草が開花
3年前、我家に植え付けた福寿草が咲きはじめました。今年は、去年より2週間遅れの開花です。もともとは東京都棡原村(ゆずりはらむら)の古老にいただいた福寿草です。東京八王子の我家で増やし、山口県に移植したものです。山口県の我家に根付いて良かったです。
今年も開花した福寿草 花の下に葉が展開中
東京から苗を持ち帰った後、三ヵ所に植え付けました。しかし、この一ヶ所だけしか根付きませんでした。その他は,日陰の関係や風雨の関係などで根付かなかったようです。とても、繊細な植物です。今回咲いた福寿草、しっかり肥料をやって来年はさらに多くの花が咲くようにしようと思っています。
パラボラアンテナのような福寿草の花びら
田布施町 たくさんの来客、牡蠣(カキ)まつり!2015
去年の牡蠣祭りは、私が東京に行く日でした。このため、テントを覗いただけでお手伝いできませんでした。今年は最初から最後までお手伝いをしました。8:30に行くと、長い行列がすでにできていました。牡蠣が大好きな方が多いのですね。
9:00販売開始にも関わらず、8:30にもうこの行列
持ち場に着くと、持ち帰り用牡蠣の袋詰めを手伝いました。大きめの牡蠣を六つ、小さ目の牡蠣を四つ袋に入れます。そして、秤で量って計1kgになるように調整しました。効率的に袋詰めできるように、今年は流れ作業で袋詰めをしました。
牡蠣の袋詰め作業 瀬戸貝の掴み取り 漁師飯の販売
持ち帰り用牡蠣の販売所の隣りは、瀬戸貝の掴み取り販売のようでした。先端が赤く塗られた棒を引くと「当たり」となるくじ引きも同時にしていました。「当たり」を引き寄せると、瀬戸貝が特別に多くもらえるのでしょうか。瀬戸貝の掴み取り販売所の隣りは、漁師飯の販売をしていました。また、お味噌汁も販売していました。私は昼食休憩中に漁師飯とお味噌汁をいただきました。とても美味しかったです。
お味噌汁を作っている方々 漁師飯を作る方々 漁師飯をよそる方々
牡蠣や漁師飯などは広場のテントで販売していましたが、イチゴ等などは田布施交流館で販売していました。これまた賑やかでした。去年は牡蠣販売だけのようでしたので、去年より賑やかさが倍になったように思います。ところで、婆さまからイチゴを買ってくるように頼まれていたのですが、うっかり忘れてしまいました。
田布施町の特産品などを販売中の方々
持ち帰り用牡蠣は、お昼前には完売しました。最後の牡蠣を購入された方は、偶然にも私の高校生時代の同級生でした。持ち帰り用牡蠣の販売が終わると、牡蠣小屋(牡蠣をその場で焼いて食べるテント)に回って手伝いました。空いた席を見つけては、行列して待っている方々をその席に誘導するなどのお手伝いです。
長い行列になって、牡蠣を食べるのを待っている方々
空いた席や空きそうな席を目ざとく見つけては、行列して待っている方を誘導しました。1~3名の方は比較的楽に席に誘導できました。しかし、5名以上になるとまとまった席がなかなか空きません。8名で待っている方は、8名のまとまった席がどうしても空かず、やむを得ず4人と4人に分かれて座っていただきました。
牡蠣を食べる受付 空いた席を見つけ誘導 家族団らんで牡蠣を食べる
牡蠣の中には、焼いてもなかなか口が開かないものがあります。そんな牡蠣をこじ開けるお手伝いもしました。また、テーブルを拭いたり、牡蠣殻がいっぱいになったバケツを回収したりしました。ずっと立ちっぱなしで動き回っていましたが、日ごろのウォーキングの成果のためかそれほど足腰が疲れませんでした。
美味しく食べていただけるよう、牡蠣をこじ開けるなどのお手伝いも
午後1時頃に牡蠣が底をついたため、牡蠣を食べる受付は終了しました。そして、しばらくした後、スタッフ全員で牡蠣祭りの後片付けをしました。最初、テント内のテーブル類をたたみ、続いてテントなどを折りたたみました。そして、トラックにテーブルやテントなどの備品を積み込みしました。最後に、「来た時よりも綺麗に!」と、広場をくまなく歩き回って小さなゴミなどを拾い集めました。
無事に牡蠣祭りが終わって良かったです。スタッフのみなさん、お疲れさまでした。
テントなどをみんなで後片付け 備品類をトラックに回収
日野市 平山城址公園~八王子市 絹の道方面をウォーキング(3/3)
道了堂の見学を終わると、絹の道史料館へと向かいました。途中の道は、所々雪が積もっていたため注意深く歩きました。何百年も使われた道なのでしょう、削られたように道が窪んでいます。静かな古道をもくもくと歩きました。
何百年も使われた結果、削られたように窪んだ古道「絹の道」
30分ほど歩くと絹の道史料館へ続く広い道に出ました。その道を200mばかり進むと絹の道史料館に到着します。この資料館は、絹でもうけた豪商の家を改築したものです。石の階段を登ると立派な門が現れました。この門をくぐって史料館に入りました。
資料館への合流地点 絹の道史料館 資料館の立派な門
久しぶりに絹の道史料館に入りました。以前は土足で館内を見回ることができましたが、今は靴を脱いで供えつけのスリッパを履いて入ります。展示物は以前とあまり変わっていませんでした。絹で財をなして豪商の生活用品や絹織物などについての史料がたくさん展示されています。
絹の道史料館の内部、スリッパをはいて館内を見学
絹の道史料館を見学し終わると、諏訪神社を訪れました。この神社は、絹で財をなした豪商の寄付で再建されたとのことでこの地域で中心的な神社です。立派な石垣や石鳥居が建てられています。山に囲まれ、今はとても静かな境内になっています。お正月に地元の方々がたくさんな参拝するのでしょう。
静かな諏訪神社 名も知れぬ祠 派手なゲームセンター
諏訪神社を見学し終わると、ひたすら我家に向かって足を進めました。途中名も知れない祠,お地蔵様,記念碑,道標,そして道祖神などに出会いました。途中、派手なゲームセンターがありました。昔、私がよく遊んだゲームがないかどうか探しましたがありませんでした。
偶然発見した由木の薬師堂、周辺にたくさんのお地蔵様
我家に近づいた頃、近道をしました。ふだん使わない道です。その道を歩いていると、薬師堂があるではありませんか。石碑には、金峰山永林寺と刻まれていました。子供が小学生の頃、このそばの道をよく通りました。こんな所に薬師堂があることに、今迄気が付きませんでした。
この薬師堂から500m位歩いて、ようやく我家に着きました。歩いた距離は約20kmでした。1時間程度歩くつもりが6時間近く歩いてしまいました。心地よい疲れで、我家に着くと家内が帰るまでの間少し寝ました。
今回散策した、平山城址公園~絹の道などのルート
田布施町 麻郷 江良碧松のお墓参り
先月郷土館で、自由律俳句の周防3羽ガラス展を開催しました。その展示会中、H氏が中央公民館で江良碧松について講演されました。そのH氏の案内で、3人が江良碧松のお墓参りをしました。最初、草が生えていたら少しでも刈ろうとカマなどを持って行きました。しかし、あまり草は生えていませんでした。墓地には4基のお墓がありました。碧松の祖父祖母,先祖代々,そして息子二人それぞれの計四つのお墓です。
H氏のお話で一番印象的だったのは、「戦時中、亡くなった三男のお骨を持って碧松さんが田布施駅に降り立った時、同駅で戦地に向かう四男とすれ違った。」とのお話です。なお、三男が亡くなる前に次男が中国戦線で亡くなっています。※長男は夭逝。
江良家の墓地と、案内していただいたH氏
お墓参りの後、変わった種類の松を見つけてその松かさを収拾しました。近所の方に伺うと、南方方面から持ち帰った松らしいとのことでした。我家に持ち帰り、採種できたらと思います。
その後、江良碧松生家の近くを散策しました。そして、近所に住むNさんにお話をお聞きしました。すると昔、すぐ近くに百姓熱心なお爺さんが住んでいたそうで、普通に挨拶を交わしていたそうです。Nさんの大好きな詩「飲んだ水、みんな汗にしてはたらく」の作者がそのお爺さん(江良碧松)だったことを、後で知って驚いたそうです。
江良家の4基のお墓 江良碧松生家(2015.6.15)
また江良家を継いだ四男の江良mさんが、私の父親の知人だったとのことを聞いて驚きました。父親と江良mさんは、森林組合で一緒に仕事をしていました。私の父親は森林組合長や農業委員長をしていたことがあり、10年位前たまたま帰省した私に、農林業の現状や農業委員の苦労を話してくれたことがあります。母親によると、父親は江良mさんの話をよくしていたそうです。
またさらに驚いたのは、碧松さんのお孫さんの一人が、私の母親の元同僚Kさんの息子さんのお嫁さんだと知ったことです。私は先日、そのKさんにお地蔵様のことでお話を伺ったばかりでした。世の中、狭いものです。
今回は単なるお墓参りのはずでしたが、知らなかったいろいろな事実を知ることができました。その後、Eさんの親戚宅(麻郷団地)を訪れました。碧松のことなど話しているうちに仲間数人が次々にやって来ました。そして、先日の牡蠣祭りや近況についてなどで歓談しました。
井神にある江良碧松の句碑
柳井市 伊保庄付近をウォーキング(1/3)
2月24日柳井市伊保庄の福井畑,畑,山近などをウォーキングしました。この場所を選んだ理由は、私の曾祖母~母親の故郷であり、Eさんの祖母の故郷だからです。私もEさんも、幼少の頃にこの地に来たことがあります。私が最後にこの地に来たのは、小学5年生の頃でした。東京国立市に住む叔母と一緒に来ました。今回ウォーキングするにあたって、去年の7月に下見に来ました。
伊保庄の賀茂神社 福井畑に向かう舗装道 道端の白花タンポポ
最初、伊保庄の賀茂神社をスタートにしました。この賀茂神社はとても立派で、去年のお正月に参拝しました。その昔、この周辺地域を荘園として治めていたようです。賀茂神社を参拝した後、発掘現場がある場所を回り込むようにして、最初は福井畑に向かいました。大星山の東側が福井畑で、西側は平生町大野になります。福井畑と大野はかつて、山道で結ばれていました。
福井畑にあるEさんの親戚、出会えて良かった!
福井畑の道を進んでいると、道が不安になってきました。そこで、道端で農作業している方に道をお聞きしました。しばらくお話をしていると、何とその方はEさんの親戚の方でした。話しかけなければ、そのまま通り過ぎたところでした。続いて、私の親戚であるY家を訪れました。しかしながら、世代が交代してかすかにしか覚えておられませんでした。曾祖母の世代を知っている方はおられません。残念ですが仕方ありません。
Y家傍の道祖神 しめ縄が張られた観音堂 福井畑の棚田
Y家傍に立派な道祖神がありました。そして、観音堂もありました。Y家のお話では8月20前後に近所が集まるそうです。そして、近所を歩いて回るそうです。かつての巡礼の名残かも知れません。今年の夏に再度来てみようと思います。福井畑の棚田を遠望後、隣の集落である畑(はた)に向かいました。
花咲く梅の間を歩く 竹藪をぬって愛宕社へ 鉄柵で囲まれた愛宕社
福井畑の道を一端下がると、Eさんの親戚傍に畑に向かう道があります。その道をどんどん歩いていくと畑に着きます。そして、畑の道をどんどん上に登ります。そして、愛宕社(通称:あたごさー)に向かう山道に入りました。途中から竹藪になりました。その竹藪の中をどんどん登ると、愛宕社の石の鳥居が見えてきました。ところが、猪が入らないように鉄柵で囲ってありました。もちろん人も入れません。
ウォーキングした柳井市伊保庄の福井畑,畑,山近の周辺
イチゴ(さちのか)苗を植え付け
先日の牡蠣祭りでは、イチゴなども販売されました。私は、うっかりしてイチゴを買い忘れてしまいました。このため、買うのもいいけど、自分で作るのもいいかなと思うようになりました。そこで、近くのDIYの店でイチゴの苗を売っているのを見つけて購入しました。イチゴの品種は、名前を知っていた「さちのか」です。
購入したイチゴの苗 イチゴの品種は「さちのか」
苗を四つ購入しました。これ位の数ならば、時々収穫してはイチゴの味を楽しめると思います。私が子供の頃、畑にイチゴが少し植えてありました。当時、バナナやイチゴは高価で、簡単に手に入る果物はみかんだけだったように思います。リンゴは木箱のすくもに入っていて高級でした。
私が子供の頃、果物屋さんに並んだフルーツバスケットが憧れでした。このバスケットの中にたくさんの種類の果物が入っていました。子供心に、病気になったらこのフルーツバスケットを買ってくれるかなあ?と考えたことがありました。
秋に植えた小松菜の跡に、イチゴの苗を植え付け
麦畑脇のひのきを伐採、国木田独歩吉見家仮寓碑
麦畑脇のひのきを伐採しました。このひのきは、一昨年枝を伐採した後に残していた木です。わき枝がだいぶ伸びてきたため、ばっさりと伐採することにしました。幹が太い為注意深くチェーンソーで切りました。いつものように、ロープを枝にかけて引っ張るようにして、倒す方向を決めました。
麦畑脇のひのき 枝にロープをかける チェーンソーで幹を切る
意外に幹が太くて、チェーンソーの長さと同じくらいでした。それでも時間をかけて幹を切りました。伐採したひのきは二本です。三本目を切ろうとしたところ、仕事の電話が入りましたので中断しました。同じ場所にしいたけ用の木もあり、それも伐採しようと思っていました。しかし、その木は後日伐採しようと思います。
ゴロンと横に倒れたひのき、後日輪切りにして薪用に
伐採したひのきの年輪を調べてみました。すると、20年前に苗を植えたひのきでした。このひのきは、父が八王子の多摩御陵で集めたひのきの苗に違いありません。昭和天皇が葬られた御陵のひのきだと、父がいつも自慢していたひのきのうちの一本です。
伐採が終わると、すぐ近くにある国木田独歩の吉見家仮寓跡の石碑を見に行きました。今回は、逆の道を通って行きました。すると、すぐに見つかりました。この道ならば訳なく行けます。この道を知っていれば一昨年の田布施川沿い史跡巡り(その3)ウォーキングで見学できたはずでした。
20年前に植樹したひのき 国木田独歩の吉見家仮寓跡石碑
柳井市 伊保庄付近をウォーキング(2/3)
猪避けの鉄柵が神社の周りに張り巡らされていました。周りに座る場所がないため、やむなく愛宕社に入らせていただきお昼ご飯にすることにしました。鉄柵をこじるようにして神社内に入りました。去年の夏か秋に集落の方々が神社を掃除したのでしょう。広場も神社内も綺麗にしてありました。そして、猪避けの鉄柵が効したのでしょう、広場は荒らされていませんでした。
愛宕社の軒下に座ってお昼休憩
お昼休憩が終わると、鉄柵を再びこじるようにして出ました。鉄柵がちゃんと閉じていることを確認して、神社の裏を回り込むようにして山道を上に向けて進みました。山道の周りはどこも竹が生い茂っていました。しばらく進むと、大きな石壁の前に出ました。
竹藪の山道を進む 次々にお地蔵様 石壁前に到着
この石壁を、EさんとEさんの妹は覚えていました。私は思い出せません。ここは沢筋の道で水がチョロチョロと流れていました。昔、ここを歩いた時に沢ガニがたくさんいたそうです。今は寒い冬のためカニはいないようです。この石壁の前に立派なお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様は「文殊様」と言うそうです。私の母親も知っていました。
山道を通せんぼするようそびえる石壁、下はわずかに水が流れる沢
ここで行き止まりのように思いましたが、確か上に向かう道があるはずです。そこで、私1人が上に向かう道を探しました。竹や木々がジャングルのように生えて邪魔をします。そのため、なかなか上に向かうことができません。それでも無理して進むと、うつぶせに倒れたお地蔵様が一体ありました。上に向かう道は確かにあります。しかし、このまま進むには道が荒れて危険です。残念ですが、皆の安全を考えて道を進むのは止めました。私としては、いつか必ず走破してみたい衝動にかられます。
愛宕社から原に戻る 原で見つけたお堂 お堂の前にバナナ
愛宕社を通り過ぎて、原の集落をどんどん下りました。途中にお御堂がありました。中にはお地蔵様があるはずですが、扉が閉まっていて拝顔できませんでした。この原からは海が良く見えました。
原の集落から、周防大島方面の海を遠望
昔、福井畑の人が平生に行く時は、原を通って愛宕社を経由し、山近からの山道と合流する道を歩きました。そして、尾根を乗り越し平生に行きました。この道は県道扱いでした。今の熊毛南高校の前身の一つの平生女学校に、伊保庄から通っている方がいたそうです。それだけ、人の行き来がさかんな山道だったのです。
ウォーキングした柳井市伊保庄の福井畑,畑,山近の周辺
奈良天王大巖(通称:奈良の大岩)の重さを計測し形状探針調査
田布施町麻郷には通称「奈良の大岩」と呼ばれる巨大な岩があります。また、その大岩の近くに山から露出した大きな岩もあります。
先月2月、田布施町郷土館で周防三羽ガラス展を開催した時に、ある写真を見つけました。その写真は昭和49年に撮影されたものです。それは江良碧松が松吹く風句集を出した時に、この大岩の前で記念撮影した写真です。この写真に、「奈良天王大巖」と記載されていました。これにより、当時は「奈良天王大巖」と呼ばれていたことが分かります。大岩の東約300mにある天王社祠と何か関係あるのでしょうか。
7日、この大岩の重さを計測し、地下の大まかな形状を探針調査してみました。
巻尺を使って大岩の外周の長さを計測、20.4m
まず、重さを計測することにしました。大岩の重さを計測するには、大岩の体積を求める必要があります。その体積を求めるため、大岩の外周の長さを測定します。すると体積は次の式で求めることができます。外周の長さの実測値は20.4mでした。
半径r = L/2Π(パイ) = 20.4(外周の長さ)/(2*3.14) = 3.25m
体積v = 4/3 *Π(パイ)*rの3乗 = 4/3*3.14*3.25の3乗 = 143.72立法m
上記の計算の結果、大岩が真球だと仮定すると体積は143.72立法mです。
その体積に石の比重をかけると重さが分かります。大岩は組成から花崗岩と考えられます。花崗岩の比重は約2.7です。ちなみに、水の比重は1.0です。
重量トン = 体積*比重 = 143.72*2.7(花崗岩の比重) = 388.04トン
大岩の前で(昭和49年) 露出した大きな岩 竹重の天王社祠
〇:「奈良天王大巖」と記載
大岩がやや扁平な形をしていることを考慮しても、約200トンを下らないと推定できます。ピラミッドの石の重さ2.5トン、ストーンヘンジの石の重さ50トン、そして大阪城の石垣で最も重い石が120トンであることを考えると、この大岩を人が運んでくるのはまず不可能です。
この大岩がもし移動して来たとすれば、アメリカのセントラルバークの大岩で科学的に証明されている、氷河ぐらいしか考えられません。
鉄棒が斜めに深く刺さらない 大岩の山側は、地下に垂直に続く
次に、大岩の地下形状を調査しました。その調査方法は探針法です。細い鉄棒を地下深く差し込んで、地下形状をおおまかに掴む方法です。調査の結果、大岩の北側(山側)は地下に向かって垂直に繋がっているようです。一方、南側は大岩の真下裏に食い込んでいるようです。
この大岩は、古代において海に面していたと考えられます。この時、山側は山際だったため浸食を受けることがなく、南側は波打ち際に面していたために浸食された、と考えるのが一番合理的です。もう少し長い鉄棒で探針調査すれば、より地下の形状を調べることができると思います。
同7日、大岩近くに住むTさんにお話を伺いました。すると昔、大岩近くでビニールマルチを使ってタバコを栽培していたそうです。タバコの葉を収穫し終わったとき、廃ビニールマルチの処分に困ったそうです。その時、廃ビニールマルチを大岩下の穴または窪みに押し込んで捨てたとのこと。このことから当時、大岩の下に穴または窪みがあったことが分かります。今、大岩の下にはその廃ビニールマルチが半ば露出しています。
今後は、この大岩がなぜ全体的に丸いのかなど、さらに調査しようと思います。
大岩の真下裏に鉄棒が通る 南側は大岩の真下裏に向けて続く
森山先生 発明クラブ退任の挨拶
去年の今頃45年ぶりに森山先生に会いました。それから約一年後のこの7日、田布施町にある喫茶スイートメモリーで森山先生の発明クラブ退任の挨拶がありました。森山先生は私が中学生時代の担任でもあり、科学クラブの顧問でした。特に科学クラブでは3年間お世話になりました。
科学クラブ3年間をかけて、ホバークラフトを制作しました。中学一年生の時は、バイクを分解してエンジンを取り出す作業。二年生の時は、竹トンボのように板でプロペラを作り、胴体も作りました。三年生の時は、胴体にエンジンを載せてプロペラを取り付けました。夏休みにはエンジンを動かして試運転をしました。その時の爆音をよく覚えています。数センチ空中に浮かび上った時、とても嬉しかったことを覚えています。
今回、森山先生は足が不自由とのことで退任されます。発明クラブは20年前に森山先生が作ったそうです。これまで本当にご苦労様でした。
発明クラブ退任の挨拶をされる森山先生
柳井市 伊保庄付近をウォーキング(3/3)
原の集落を下って、次に山近の集落に行きました。すると、山近の集落下にお堂がありました。私はこの道をバイクで何度か通り過ぎたことがありますが、今回まで気が付きませんでした。お堂の入口に掲げられている木札を見ると「南陽霊場第七番札所」と書かれていました。
原の下り坂を散策 もうすぐ山近集落 南陽霊場第七番札所
防陽霊場はほぼ調べあげましたが、南陽霊場はまったくの手付かずです。おおまかですが、南陽霊場は防陽霊場とほぼ平行にお堂があるようです。防陽霊場では曽根直指庵が二十三番霊場ですが、同じ曽根にあるお地蔵様は南陽霊場三十八ヶ所霊場です。南陽霊場は伊保庄,阿月,上関,佐賀,平生と蜜にお堂があるのではないかと思います。南陽霊場はおそらく、平生から田布施を回って柳井へ戻るのかも知れません。なお、南陽霊場の八十八ヶ所札所は柳井市の金剛寺です。
お堂の中を拝見 正覚寺の梅 小川筋のお地蔵様
お堂の見学が終わると、道を散策しながら斎藤牧場の牛達を見学しました。ほとんどは肉牛用の和牛のようでしたが、別棟にジャージー種の牛がいました。この牛は乳量は少ないのですが、乳質が良いのが特徴です。特に脂肪分が多いと聞きます。チーズなどに使うようです。牛達を見学し終わると、正覚寺に行きました。ピンク色の梅が綺麗に咲いていました。お寺を出ると、川に沿って歩きました。川横に立派なお地蔵様があり、隣に倒れた石碑がありました。
伊保庄の海岸に行く、久しぶりの海
駐車している賀茂神社にそのまま向かわないで、久しぶりに海の砂浜を散策することにしました。砂浜を歩くのは上関史跡巡りウォーキング以来のことです。柳井南小学校近くの堤防を越えると、柳井湾を前にして砂浜が広がっていました。私は、砂浜を寝ころんで空を見上げてみました。潮騒が静かに聞こえました。山もいいですが、海もいいものです。
砂浜に寝ころぶ 長い砂浜を散策 賀茂神社の御旅所
子供の頃、ここによく泳ぎにきました。そして、この砂浜で投げ釣りしてキスなどの魚を釣りました。長い砂浜をのんびり歩きながら貝殻などを拾いました。海岸から舗装道路に戻ると、賀茂神社に向かいました。賀茂神社参道入口の石鳥居の横に御旅所がありました。しかも、三つもありました。
今度は、阿月方面を散策してみたいと思います。寺院がいくつもありますし。幕末にかかわる史跡もたくさんあります。
ウォーキングした柳井市伊保庄の福井畑,畑,山近の周辺
田布施町 麻郷 奈良周辺を散策
昨日は鳥越地区周辺を散策したため、今回は奈良地区周辺を散策しました。奈良に行く途中、奈良の大岩(奈良天王大巖)に寄りました。すると、大岩の下に露出していた廃ビニールマルチが整理されている途中でした。
せっかく来たので、先日と同じように、大岩の地下を鉄棒でより詳しく探針調査してみました。すると、大岩の底に小さな空間があるかも知れないことが分かりました。鉄棒を大岩の底に向かって挿していくと、ある所から急に抵抗がなくなりスルッと鉄棒が入るのです。近所のDIYのお店で、数mの鉄棒を購入してさらに探針調査してみようと思います。
南側から眺めた奈良天王大巖
大岩を過ぎると、近くの山を散策しました。そして、あちこち竹藪を歩いて奈良地区公会堂前に出ました。そこから、どんどん南西方向に行き農道を越えて溜池に行きました。溜池の入口に「溜池記念碑」がありました。その近くに「二ヶ池遺跡」案内の看板がありました。その遺跡を見ようと、道を進みましたが途中で笹が生い茂り通れなくなりました。この遺跡に行く人は皆無なのでしょう。この道を進むと、楠木の斎場に出るそうです。
奈良地区公会堂 溜池記念碑 二ヶ池遺跡案内の看板
二ヶ池遺跡は、道をもう少し事前に調査して行こうと思います。続いて、奈良地区にお住まいのYさんの軽自動車に乗って、西法寺に向かいました。このお寺は、かつて安寿さんが住んでいたいました。建屋の痛みがひどく、平成10年に住民の協力で建て替えたそうです。
南平和霊場六番札所の西法寺
この西法寺は南平和霊場六番札所です。かつての七ヶ所巡りが行われていた頃の六番目の札所でした。しかし、いつしか、この西法寺と井神長福寺の七番ヶ所札所が巡礼から外されました。外された時期と理由を知りたいと思います。イザリ峠が使えなくなったことが一つの理由ではないかと思われます。
西法寺のお地蔵様 地元の方々の写真
昔は歩いて巡礼していましたが、いつしか車で巡礼するようになりました。すると、車が通れないイザリ峠は避けられたのでしょうか。それとも、西法寺と長福寺の安寿さんが亡くなり、世話する人がいなくなり巡礼ルートから外されたのでしょうか。何か理由があるはずです。明日は、井神の長福寺周辺を調査しようと思います。
今回、調査した竹重、奈良地区
田布施町 麻郷の伊佐里峠,井神,助政などを散策(1/2)
昨日に続いて、A君と一緒に麻郷を散策しました。今回は最初、麻里府との境にある伊佐里峠を探しました。去年は麻里府側から登って失敗しましたが、今回は事前におおまかに道を調べていたため無事峠に着きました。それでも、途中で道を間違えてしまいました。去年と同じように失敗かと思いましたが、尾根を伝いながら探して、やっと見つけました。A君、山中をあちこち藪こぎさせてすみませんでした。
麻郷側の道を登る 頂上から麻郷側 頂上から麻里府側
道を登っている時、下画像のF地点で道を間違えました。そして、山の頂上C地点に着きました。この頂上は、去年到達した場所です。そこで今年は尾根沿いに南方向(去年は北方向)に進んで、ついに伊佐里峠(D地点)を発見しました。そして、伊佐里峠から麻里府方面への道をどんどん下っていきました。しかし、歩くのを邪魔をするように道に木が生えていました。今回は下る道を確認して、Uターンして麻郷に戻ることにしました。ちなみにA~Bは舗装道路。
今回歩いた、伊佐里峠,井神,助政方面の道
昔の資料によると、明治時代頃にはこの峠に茶屋があったそうです。実際に峠に立ってみると、狭いながらも茶屋がかろうじてあってもよい広場がありました。また、避けなくても人が十分すれ違うことができる幅の道が続いています。かつての、街道を思わせる伊佐里峠の道です。笹などが少なければ今でも十分ウォーキングできます。
思っていたより広かった、かつて茶屋があった伊佐里峠
来年は再度この峠に来て、麻郷から麻里府まで完走しようと思います。意外に歩きやすい山道です。そして、再来年は皆さんを連れてこの峠を歩いてみようと思います。その昔、巡礼者は麻郷詣り(南平和霊場巡り)で、七番ヶ所霊場の井神長福寺を出た後、伊佐里峠を越えて八番ヶ所霊場の上組観音堂まで歩いていました。
途中、イノシシのぬた場 青空に映える梅
伊佐里峠から戻る時、高松八幡宮へ降りました。正規の道ではないため、途中イノシシのぬた場を通ったりしました。無事に高松八幡宮に着いた後、お地蔵様の件でHさんを訪ねましたが留守でした。次に江良碧松句碑に行きました。伊佐里峠など休まず歩いたため、この頃になると少し汗ばみました。次に井神から助政方面に向かいました。
途中寄った江良碧松の句碑、梅が綺麗に開花
田布施町郷土館 16mm映写機を動かす
田布施町郷土館にNHKの方が来館されて、元宰相岸信介についての資料を調べておられます。当館倉庫に当時撮影した16mmフィルムが何本か保管されています。16mm映写機が田布施町庁舎にまだあることが分かり、さっそく郷土館に持ち込んで50年ぶり位に映写してみることにしました。私は、かつて8mmの撮影や映写をした経験があります。その経験がとても役に立ちました。ビデオテープと異なり、フィルムをカム送りするため独特のカタカタ音が出ます。16mmの音声は、35mmフィルムと同じで光学式です。8mmは磁気方式です。
超ひさしぶりの16mm映写機 元宰相岸信介へのインタビュー映像
インタビューしているのは徳川夢声
8mm映写機の要領で16mmフィルムをセットして電源を入れると、なんと映像が映るではありませんか。カタカタ音を出しながら、かつての映画を思わせるような白黒映像が映りました。そのレトロ感が懐かしく、うれしくなりました。明日は、私が持っている8mm映写機を持ち込んで写す予定です。私が撮影した8mmフィルムで、最初に試してみようと思います。私の20代が閉じ込められている8mmフィルム、ちゃんと映写してくれるでしょうか。
壁に映像を映す。カタカタ言いながら映写