一昨年サクランボの苗を植えたのですが、サクランボが数粒しか実りません。そして、日陰のためか、ちっとも大きく育ってくれません。このため、さらに庭木2本を伐採して、その場所に植え替える事にしました。
伐採前の庭木2本、左隣りの庭木は先日伐採
元々サクランボは八王子に住んでいた時に木を植えていました。そして、毎年数粒のサクランボの実を収穫していました。そのサクランボの味が忘れられず、この田布施の我家にも植えてみたのです。田布施は暖地のためかサクランボは育たないのでしょうか。少なくとも、今植えている場所は夏に日陰になるため、日当たりが良い場所に植え替えることにしたのです。綺麗な花も咲くついでに美味しい実を収穫するのは贅沢でしょうか。
根元をチェーンソーで切断 倒した庭(カイズカイブキ)
庭木を伐採すると、すぐに苗を植える穴を掘りました。そして、サクランボが植えてある山に行ってその小さな木を掘り上げました。植えた場所が良くなかったようで、あまり根が張っていませんでした。山からその苗を持って降りると、すぐに植穴に根を植えて土を被せました。今年来年の育ち具合を見て、ダメなようであればこの田布施に合ったサクランボを植えようと思います。あのサクランボの味をもう一度味わうことができたらと思います。
植穴をスコップで掘る 苗を植えた後、土を被せる
サクランボ苗を植替え
田布施町 麻郷 戦時中の軍事物資保管所(通称:集積所)について
かつて第二次世界大戦時、田布施町麻郷に軍の軍事物質を保管する地域がありました。今の高塔地区と旭地区で、通称「集積所」と呼ばれていました。この集積所を作る時、この地域に住んでいた方々は全て追い出されました。海軍の回天基地が平生の田名に作られる頃です。また、今の平生の角浜北のジョイフルから田布施に伸びる真っ直ぐな軍事道路が作られる頃のことです。
下の画像は、米軍が1946年に撮影した航空写真です。集積所の範囲や建物の配置がとても良く分かります。集積所の建物はどれも画一的でトタン屋根のようです。また、数も30軒以上です。これほど多かったことを初めて知りました。
米軍が1946年に撮影した集積所 番号は建物の番号
戦後昭和20年代後半に、当時の地名である藤尾,下山,そして惣田を分割したり合せたりして、今の高塔地区と旭地区ができました。高塔の名前は国木田独歩「帰去来」の高塔山から取ったことが分かっています。旭の名前は誰がいつ頃命名したのか分かりません。とにかく、かつての集積所の様子が分かりました。ちなみに国木田独歩が仮寓した吉見家があった地区は下山と呼ばれていたようです。なお、私の父親は建物(10番)を払い下げしてもらって住み始めました。
高塔にかつてあった集積所の建物 建物(10番)の構造が良く分かる
左:上画像の12番 右:上画像の10番 左:父親の叔母 右:父親
八王子市 堀之内周辺ウォーキング(1/x)
3日東京から山口県田布施町に帰ってきました。平日でしたので、バス,横浜線,新幹線,そして山陽本線は混んでいませんでした。
さて、東京に行った26日ですが、JR田布施駅で電車が来るまで駅掲示板に張られた田布施観光協会のポスターや「見て歩きマップ」を見ながら時間をつぶしました。その後、JR徳山駅から新幹線に乗り、横浜線に乗り、バスに乗って東京の我家に行きました。
JR田布施駅の掲示板 JR徳山駅で乗った新幹線 10月以来の我家
次の日は、大腸内視鏡検査のための準備の日です。苦い薬や決められた食事を取りました。家の中にいると飽きるため、近所をウォーキングすることにしました。最初に、我家近くにある御嶽神社に行きました。この神社は天文2年(1533)に建立された神社です。誰もいないこの神社で少しばかり日向ぼっこしました。
天文2年(1533)に建立された御嶽神社
続いて、私がよく世話をしたニンニク畑,私がお米を作った元田んぼ,そして何度も耕作した畑を見に行きました。元ニンニク畑は、山口県に帰る直前によく耕運機で除草しました。元田んぼは日当たりが良い田んぼでしたので、比較的多くお米が収穫できました。
元ニンニク畑 ここで稲作(元田んぼ) ポートレートを撮影した栗林
続いて、栗林に行きました。10年位前、この栗林でKaさんのポートレート写真を撮影したことがあります。ある事業を始めるための、カタログ又はポスターにするための写真です。彼女は、小学生時代に院内学校に通うほど健康がすぐれない女性でした。その後2,3度しか逢っていませんが、事業は成功したのでしょうか、病は再発していないでしょうか。少し心配しています。
直径21cmに育ったトチ 久しぶりのKoさん 小学生と稲刈りした田んぼ
栗林を過ぎると、私が10年位前に種から育てたトチの木を見に行きました。メジャーで測ると幹回りが21.3cmでした。まだまだ花を咲かせるほど育ってはいません。10年後には花を咲かせるような大木に育つといいのですが。
里山田んぼクラブが管理している田んぼや山裾
トチの木の近くの田んぼで、多摩丘陵の自然を守る会のKoさんに偶然に出会いました。少しばかり談笑しました。今年も冬水田んぼをしているようです。次に、田布施に帰る一年前、小学生達に田植え,草取り,そして稲刈りなどを教えた田んぼに行ってみました。この田んぼにやって来た小学生達は今、中学2年生のはずです。さらに奥に進んで、里山田んぼクラブのSiさん達が耕作している田んぼにも行きました。
ウォーキングした八王子堀之内近郊
田布施町 教育支援員スキルアップ研修会(東田布施小学校PTCA活動)に出席
東田布施小学校PTCAプロジェクトに関わる催物に出席してきました。その催物は、地域の子供達を育てる支援員などのスキルアップ研修会でした。そして、東田布施地域での子供達を育む活動の一部を見学しました。私が東京にいた頃に関わっていた、お米を作りそのお米を食べる体験,泥んこ運動会,学童クラブ,わら細工や竹籠作り,小動物保護活動などの活動に共通するものでしたのでとても良く理解できました。。
グラウンドゴルフ用具 グラウンドゴルフ体験 囲碁教室
主催者の挨拶が終わると、東田布施小学校PTCA(PTA + Community)の実際を見学することができました。最初にグラウンドゴルフに興ずる指導者と小学生達を見学しました。そして、初めてのグラウンドゴルフ体験させていただきました。ありがとうございました。年齢的なハンディが極めて少ない競技で、なかなか面白いと思いました。続いて囲碁教室に行きました。私が子供の頃、地域の方に将棋を習ったことを思い出しました。
習字を教える地域の方 見学する参加者の方々
私が小学生の頃はクラブ活動だけしかありませんでした。このため今回の催物に出席するまでは、田布施での子供達を育む地域活動がどんなものか具体的によく知りませんでした。スポーツセンターでよく行われているサッカーやバレーのように、学区を跨いだ活動のようなものなのかなとも思っていました。今回の参加で地域での活動の現状がよく分かりました。
私が東京に住んでいた時の活動は、幼稚園,小学校,中学生,高校生,大学生と、幅広い年齢層を対象にしてきました。小学生だけでなく、いわゆる未成年層を対象としていました。
手芸を楽しむ小学生達、見学者の方々も興味津々
その後、お習字,手芸,手品の教室を見学しました。その他にも教室があるようでしたが、今回は全てを見学できませんでした。今の時代、地域が積極的に子供達に関わらないといけないようです。この少子高齢化や情報化社会では、昔のように兄弟間で,友達間で,そして親子間などで遊びや伝統を伝えることが難しくなりました。私は、今のところ発明クラブや麻郷ふるさと会で子供達と触れ合っていますが、さらに何ができるか考えてみようと思います。
楽しい手品教室 招き猫のお話 質疑応答など
八王子市 堀之内周辺ウォーキング(2/3)
田んぼで少し時間をつぶした後、京王堀之内駅に向かいました。途中、堀之内寺沢里山公園にある管理棟に行きました。この公園付近はその昔自然が豊かだったのですが、20年位前に住宅開発のためすっかり自然が無くなってしまいました。管理棟は元々は茅葺き屋根の古民家だったのですが、公園化後の管理棟を立てるために壊さざるを得なかったのです。つまり補償金をもらうために古民家を壊したのです。趣のある古民家だったので、とても残念に思います。
かつて古民家だった管理棟 管理棟の裏山を散策
管理棟は寺沢里山楽友会が管理しています。その管理棟の裏山を散策してみました。すると、かつては自然がいっぱいだった山が巨大な団地に変わっていました。その団地、フェンスで囲まれて入ることができませんでした。この裏山を超えると中央大学に行くことができましたが、フェンスがあるため山を越えることができなくなっていました。仕方なく、元来た道を引き返しました。
龍生寺の阿弥陀堂、お地蔵様がたくさん安置
管理棟に戻る途中に龍生寺阿弥陀堂があります。久しぶりにお詣りしました。田布施町にある薬師堂,毘沙門堂,そして阿弥陀堂などは施錠がしてありません。このため、自由にお詣りできます。しかし、東京近隣のお堂はしっかり施錠してあります。不逞のやからが多いのでしょう。格子を通してしか仏像を見ることができませんでした。
八王子第5団の建物 寺沢里山楽友会の耕運機
阿弥陀堂の坂上には、かつて私が所属していたボーイスカウト八王子第5団の建物があります。寄ってみましたが、平日のため誰もいませんでした。この建物の前で、子供達を相手にいろいろな工作をしたり調理をしました。坂を下りて、管理棟に戻りました。そして、寺沢里山楽友会の耕運機置き場前を通りました。ここに置いてある耕運機2台のうち、ディーゼル耕運機を田植え前に借用したことがあります。
北八幡神社から見下ろした、隙間が無いほどの巨大な団地
耕耘機置き場を過ぎて、北八幡神社に行きました。20年位前でしょうか、この神社から北側を見ると山が削られて団地が造成されていました。そして、その造成に追われるように発掘が行われていました。その発掘現場は今、隙間が無いほどの巨大な団地に変わっていました。
北八幡神社境内 北八幡神社近くのお地蔵様
この堀之内寺沢地区はここ20年でずいぶんと変わりました。かつて、この地域は酪農が盛んでした。酪農を主体とする農家や農地を保全する活動の支援をしたことがありますが、結局のところ地主さんなどの意見統一ができず失敗に終わりました。北八幡神社の北側に、都市住民と農家の間に緩衝地域を設ける計画もありました。しかしながら、開発圧力に抗することは難しいことでした。とは言え、私が田んぼや畑をしていた場所を含む広い地域が東京都指定の八王子堀之内里山保全地域として残ったのは成果の一つだったと思います。
ウォーキングした八王子堀之内近郊
八王子市 堀之内周辺ウォーキング(3/3)
北八幡神社を出ると、次に保井寺に行きました。行った理由は、新選組の一隊員のお墓を見るためです。その隊員は斉藤一諾斎(いちだくさい)です。あまり有名ではない新選組隊員です。その理由の一つは、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗れて以降に入隊したからではないでしょうか。
新選組斉藤一諾斎(いちだくさい)の墓地がある保井寺
斉藤一諾斎は遅く入隊したため、あまり武功を立てることができませんでした。その後、彰義隊に入り仙台で降伏しました。明治7年に62歳で亡くなったそうです。同じ新選組隊員斎藤一(はじめ)とよく間違えられるとのこと。亡くなる前、この地域の寺子屋で教育にあたったそうです。
斉藤一諾斎の墓 たくさんのお地蔵様 懐かしの寺芝会館
その保井寺墓地の上の方に、ひときわ目立つ金毘羅供養洞があります。その供養洞前に、何故かワニの石像が2体置いてありました。その近くに説明板がありました。その説明を読んで初めて金毘羅の意味が分かりました。金毘羅は、インドにおいてワニの化身神(クンピーラ神)の漢字の当て字なのです。金毘羅がワニの化身神であることを、どれほどの人が知っているでしょうか。
堀之内芝原公園(通称:古墳公園)
続いて、寺芝会館前を通りました。15年前(2000年)に寺芝会館の広場で収穫祭を開催したことがあります。この頃は、住宅の開発前でしたので周りは畑ばかりでした。私は、もちをついたり、サンマを焼いたり、写真を撮るなどしました。子牛を連れてきて子供達に触れ合ってもらいました。今は広場も無くなり、なんとなくさびしい会館に変わっていました。
堀之内芝原公園の頂上 人型モニュメント?の公園入口
続いて堀之内芝原公園に行きました。この公園は、この地区で多くの縄文遺跡など出土したことに由来します。それを意識して公園化したのではないかと思います。公園の中央は、円墳を模しているように思えます。なお、この地域から出土した遺跡は多摩センター駅近くにある東京都埋蔵文化財センターに納められています。堀之内芝原公園を散策している頃、下剤薬のためお腹がグルグルしてきたため我家に帰りました。さて次の日は、大腸内視鏡検査です。
ウォーキングした八王子堀之内近郊
医療機関で検査後、八王子市内をのろりと散策
前日の制限食やお薬でお腹の調子が悪いまま大腸内視鏡検査を受けました。検査を受けるクリニックはJR八王子駅の北口にあります。朝9:00にそのクリニックに行きました。すると、11:00頃まで長々と苦行でした。1.0Lほどの苦い水と、その苦みを紛らわすために0.5Lお茶を1.5時間ほどかけて飲み干すのです。
JR八王子駅南口 賑やかな八王子駅北口 検査を受けたクリニック
本来ならば午後1番に検査開始だったようですが、順番が早まって午前中の検査となりました。時間になると、検査をする部屋に入ってベッドに仰向けになりました。そして、何らかの注射をしました。驚いたことに、いつの間にか寝てしまったのでしょうか?気がつくと検査が終わっていたのです。おそらく注射の成分に麻酔のようなものが入っていたのでしょう。痛みも何もありませんでした。あっけなく終わってしまいました。
大腸内視鏡検査後、近くの福伝寺をお詣り
検査後しばらくして医師との面談がありました。すると、大腸にポリープがあったため切除したとのことでした。そして、切除した傷口を直すために一週間ほどお薬を飲むようにとのことでした。10日後に今回の検査結果を送るとのことでした。やれやれ、こうして大腸内視鏡検査が終わりました。しかし、苦い薬を飲み続けたためか、しばらく舌の感覚が変でした。
子安神社の縁結びお札 交通安全の護符を購入 池の鯉に給餌
クリニックを出ると八王子市内を散策しました。最初に行ったのは福伝寺です。そして、その隣にある子安神社も参拝しました。この神社には普通のおみくじの他に、縁結びのお札があります。ハート型に切り抜かれた板に願いを書くようです。良縁を得たい人や恋人が欲しい人がお祈りするのでしょう。今さら縁結びと言われても、私には過去の話なので見るだけにしました。
子安神社の鳥居 市守神社,大鳥神社の鳥居
子安神社を出ると、市守神社,大鳥神社に行きました。その頃になると、お腹がすいてきたたため中華料理店に行きました。チャーハンを注文したのですが、味覚が回復していなかったためか美味しくありませんでした。そこで、今度はアイスクリーム店に行って思い切り甘いアイスを注文しました。すると、やっとのこと美味しい味を堪能できました。いつも味のことは無頓着の私ですが、この日ばかりは味覚の大切さを知りました。
お昼のチャーハン 1回目のお薬を飲む 甘ーいアイスクリーム
田布施町郷土館 江良碧松,種田山頭火,久保白船の周防三羽ガラス展を開催中
一昨日、小学校の生徒さん達が郷土館に勉強しに来ました。今回は、古い民具についての学習です。私は、10人ほどの生徒さんを担当し、古い民具について解説しました。私が子供の頃、どの農家も牛を飼っていて農耕用に使役していました。その農耕牛についても詳しく解説しました。その話を子供達は不思議そうに聞いていました。今の子供にとって、農耕牛は歴史の一つでしかないのでしょう。どの生徒さんも私が説明した内容をきちんとメモしていました。
手前は種田山頭火、向こう側は久保白船 江良碧松の作品など
郷土館では今、江良碧松,種田山頭火,久保白船の周防三羽ガラス展をしています。今日、江良碧松の5男さんと親戚の方々が展示を見るために来館されました。5男さんのお話では、碧松に厳しく農作業を躾けられたとのことです。私も、子供の頃に稲刈りや薪つくりなどを毎日手伝いました。昔の父親は厳しかったものです。昔の子供に比べて、今の子供は躾けが緩いように思います。
来館された江良碧松の5男さんとその親戚の方々他
展示されているのは、自由律俳句で周防三羽ガラスと呼ばれた、江良碧松,種田山頭火,久保白船に関わる作品などです。江良碧松の句が刻まれている三ヵ所の石の句碑の説明や、萩原井泉水が明治44に創刊した句集「層雲」の数冊も展示しています。江良碧松について、NHK放送で、タイトル「土と俳句・江良碧松の世界」として放送されています(昭和49年)。そのビデオがあれば、その映像もお見せしたいところです。残念ながら、そのビデオはありません。今日は、12名の方が来館されました。
自由律句集「層雲」 3ヵ所の石の句碑の説明 碧松に関わる本の一部
郷土館は今、外壁修繕工事中です。今日は、足場の仮設工事でした。そのため、車での出入りが不自由になりました。普通の自家用車ならば数台程度はOKなのですが、バスは工事が完了するまでは入れなくなります。館内で仕事をしていると、ゴリゴリとすごい音が響いてきます。2月中は騒音に囲まれます。建物を末永く安全に使えるようにするための大切な工事です。
足場を仮設した郷土館の煙突部と北壁部
歯医者,脳ドック,そして大学セミナーハウス近辺を散策
大腸内視鏡検査の次の日は、歯医者と脳神経外科に行きました。最初、JR八王子駅北口近くにある歯医者です。前歯の付け根を削って薬を入れました。あの歯を削るドリルのキューンという音は、いくつになっても嫌なものです。数日後、同じ歯医者に来ることになりました。歯医者が済むと、駅の北口を少し散策しました。天気が良かったため、空が真っ青でした。
JR八王子駅北口のビル街
続いて、野猿峠にある野猿峠脳神経外科医院に行きました。最近、頭痛がすることが多いための診療です。いろいろ症状を説明すると、MRIで検査することになりました。ドーナツ状の機械の中に入ると、10分位でしょうか頭上でキンキン音がしました。検査の結果、脳に異常は見当たらないとのことでした。姿勢がやや悪いので、首の付け根の筋肉が常に緊張状態になることが頭痛の原因ではないかとの事でした。少なくとも、脳みそや血管に異常がないことが分かってほっとしました。
野猿峠脳神経外科医院 近所の幼稚園バス ここに古民家があったのに
脳神経外科医院を出ると、周辺を散策しました。近くの幼稚園や送り迎えのバスを横目に大学セミナーハウスに向かいました。セミナーハウス前に、茅葺きの古民家があったはずなのですが無くなっていました。セミナーハウスの方に聞くと、四国のある会社に売ったそうです。古民家の管理費を捻出できなかったため売り出したそうです。ここでお茶会などをしたのに、本当に残念!
セミナーハウス近くを歩いていると、突然私の名前を呼ぶ声がしました。振り返ると、3年前まで私が勤めていた病院の看護婦Nさんでした。犬の散歩途中とのこと。彼女の娘さんも、私の娘と同様に外国人と結婚しました。今は、孫が2人いてとても賑やかだそうです。彼女は九州出身で、若かりし頃に山ガールでした。そのためか、病院勤務中に私と比較的話が合いました。立ち話でしたが、30分ばかり病院などの話で盛り上がりました。この夏、病院の盆踊りにでも行ってみようかと思います。
逆ピラミッド型で、今にも転がりそうな大学セミナーハウス管理棟
我家の裏山、椎茸(しいたけ)栽培用の原木を伐採
去年は、1月に椎茸用の原木を伐採しました。今年は、遅れて2月になりました。形が悪くて病気にやられているかも知れないコナラの木を伐採しました。根元がやや黒いうえに、幹にあちこち瘤があるので病気だと分かります。今年は、健康な原木を残して病気を持っているような原木を伐採することにしました。
伐採に使用する道具 倒す方向にロープ 倒す方向に横Vカット
原木の近くにはいろいろな木が生えています。うまく切らないと、倒れるはずの原木が他の木に寄りかかり倒れません。一昨年のことですが、倒れるはずの原木が他の木に寄りかかり倒れませんでした。数日後、ウィンチで引っ張るなどしてなんとか倒しました。その作業は大変でした。その失敗以降、ちゃんと倒すように心がけています。目的の方向の確実に倒すため、今は必ず手動ウインチを使っています。
倒したい方向に手動ウインチでぐいぐい引っ張る
私が木を倒す時に使う道具は、チェーンソー,保護メガネ,手動ウインチ,ロープなどです。あと、レンガを使います。ロープにレンガを結び付け、高い枝に向かって投げるのです。原木のなるべく高い位置にロープを結び付けたいからです。ロープを結びつけた後、倒したい方角の根元を横Vカットに切ります。そして、手動ウインチを使ってロープで倒す方向にぐいぐい引っ張るのです。
倒す側と反対側を切る 倒した原木、樹齢26年
今回倒した木は、私が16年前に巣箱を取り付けた場所近くです。16年前と言うと、私が大手電機メーカーのコンピュータ部門でバリバリ働いていた頃です。40歳中頃のことです。今後16年前のように、巣箱をたくさん作って木々に取り付けようと思います。そして、小動物が生活しやすい山を作りたいと思っています。
倒した原木は1ヶ月ほどそのままにして乾燥します。そして、1ヶ月後頃に椎茸菌を接種しようと思っています。倒した木の根元は、ひこばえが生えます。来年の春、ひこばえを1~2本程度に間引きします。すると、また10年後頃に原木として使えます。椎茸作りは10年ごとのリサイクル農業なのです。
倒した椎茸用の原木、1ヶ月間干した後に椎茸菌を接種
ピロリ菌検査と秋葉原の買物散策
30日はピロリ菌の検査です。早朝、起床すると家の周りが雪化粧していました。昨日は晴れていたのに、驚きの変貌です。積雪10cm位でしょうか、車は雪を背負って重そうでした。家の前を通る車の、何台かタイヤにチェーンをつけていました。今回、雨に強いウォーキングシューズを履いて東京に帰ったのは正解でした。雪を踏みしめながら病院がある中央線JRお茶の水駅に向かいました。
家の周りはすっかり雪景色 積雪約10cm
2ヶ月前にピロリ菌を退治する薬を飲みました。今回の検査で、ちゃんとピロリ菌が退治されているかを確認します。薬を飲んだ後、しばらくして小さな袋に息を入れました。この息の中にある成分を分析することによって、ピロリ菌が退治されているかどうかが分かるそうです。
検査は30分位で終わりました。10日後に検査結果が郵送されるそうです。もし退治されていなければ、再度退治する薬を飲むとの事です。病院傍の食堂で昼食を済ませ、秋葉原に向かいました。
JRお茶の水駅 お茶の水駅通り 検査を受けた三楽病院
病院から秋葉原には歩いて行きました。神田川沿いに歩きましたが、都心では雪はそれほど積もっていませんでした。雪混じりの強い風が吹いていました。神田川の堤防沿いの手すりにたくさんのカモメが休んでいました。いつもは元気に空を舞っていますが、今日は静かに休んでいました。いかにも寒そうに、眼を細めてじっとしていました。
神田川の堤防沿い堤防の手すりで、じっとしているカモメ
秋葉原に着くと、最初に秋月電子に行きました。ここで購入したのは小型ICアンプ組立てキットとイルミネーションLEDです。平日で雪混じりの強風だったせいか、いつもよりお客が少ないように思いました。そのため、今回はじっくとり店内を見ました。続いて、ラジオデパートなどに行って電子部品を購入しました。あちこちをぶらぶら散策しました。
秋葉原では必ず行く秋月電子 人通りが少ない秋葉原の通り
秋葉原で購入したのは下画像のような部品です。A:小型スピーカー,B:並四コイル,C:五球スーパーコイル,D:トランジスタ用トランスなど,E:OSCコイル,F:イルミネーションLED,G:SW付き電池ボックス,H:小型ICアンプ組立てキットです。これらの部品を使って、私が中学高校の頃に作ったラジオなどをもう一度作ってみようと思います。これまでもっぱらラジオなどを修理をしてきましたが、作るのもよいかなと思っています。
秋葉原で購入した電子部品の数々
収穫した小豆の脱鞘と唐箕選
去年12月に収穫した小豆を、鞘から外し唐箕で風選してゴミを取りました。最初に小豆を鞘から外すのですが、去年はくるり棒でたたいて脱鞘しました。今回は、収穫量が少ないため足で踏んで外しました。小豆の鞘を袋に入れて足で何度も踏みました。踏み終わると、袋から箕に移しました。。そして、網で濾すようにして小豆と鞘を分離しました。
鞘ごと小豆を踏む 袋から箕に移す 網で小豆と鞘を分離
小豆と鞘を分離しても、小豆には細かなゴミが混じっています。そこで、唐箕を使って小豆とゴミを選別します。その昔、私の祖母は箕だけを使って選別していました。風が吹くときに箕に入れた小豆を下に敷いたムシロに少しずつ落とすのです。重い小豆は足元に、軽いゴミは遠くに飛ぶのです。この方法は、風が吹かない日や雨の日には使えません。このような時、唐箕があるととても便利です。家の中でも小豆とゴミを選り分けることができるのです。今でも使えるとても便利な農具です。
唐箕を使って、小豆とゴミを選り分ける
ゴミが完全に取れるまで、数回唐箕選を繰り返します。最初は弱めに風から始め、だんだん強めの風にします。弱めの風で軽いゴミを、強めの風で重いゴミを取り除くようにします。このようにして、小豆だけを選別します。
小豆を唐箕に投入 唐箕に入れた小豆 送風機のハンドルを回す
唐箕でほとんどゴミを取り除くことができました。しかし、どうしても取り除くことができないものがあります。それは、変色した小豆,虫に食われた小豆,形の悪い小豆などです。これらは食べるのに適さない小豆です。そのような小豆は、一粒一粒指でつ摘まみ出します。
今回収穫した小豆は、播種が遅れたため収穫量は多くありませんでした。しかし、ぜんざいを作るのには十分の量です。この27日、この小豆を使ってお汁粉を作り、みなさんに食べてもらうつもりです。去年作った水羊羹の要領で作ろうと思います。
変色した小豆、虫に食われた小豆などを摘まみ出す
埼玉県 長瀞周辺を日帰りバス旅行(1/3)
31日、家内と埼玉県方面を日帰りバス旅行してきました。朝、昨日の雪が残る道をバス停まで行きました。そして、京王北野駅でバスを待ちました。しばらく待つと、他の場所からお客を拾ってきた観光バスが静かにやってきました。最後に集客する場所は、JR八王子駅北口です。ここで全員が集合したことを確認すると、観光バスは埼玉県長瀞方面に向かって圏央道を走りました。圏央道から関越自動車道路に入り、しばらく走った後に高坂SAで休憩しました。そして、最初の目的地である宝登山神社に行きました。
日帰り観光バス 関越自動車道の高坂SA 宝登山神社の石階段
宝登山神社は思っていたより立派な神社でした。極彩色に飾られた建物は、日に当たってピカピカ綺麗に光っていました。石鳥居をくぐった後、長い石階段を登りました。そして、水で手を清めて参拝しました。この神社は観光スポットなのでしょうか、たくさんのマイカーや観光バスが駐車していました。
極彩色できれいな宝登山神社、たくさんの観光客が参拝
宝登山神社で、バイク用に交通安全のお守りを購入しました。バスに戻るには時間が余ったため、家内は近くのお店でお味噌を購入していました。ここでしか買えないお味噌だそうです。また、寒いのにもかかわらず味噌味のアイスクリームを購入していました。そして、バスの前で、出発時間になるまで舐めていました。私も少し舐めさせてもらいましたが、まあまあの味でした。
バイク用に購入したお守り バスの前でアイスを舐める家内
この付近は埼玉県長瀞です。今から14年前、私がボーイスカウトの指導者をしていた頃ここに一度来たことがあります。東北を一人野宿ツーリングをした直後、ボーイスカウトのキャンプでここに来ました。長瀞の川遊び,和同開珎のモニュメント,山でキャンプ泊などをしました。その14年前を思い出しながら、バスで走りました。宝登山神社から1時間位バスで走ると、宝登山ロープウェイに着きました。ここから、ロープウェイに乗って山頂に広がる蝋梅園を散策しました。
宝登山ロープウェイに乗車 宝登山頂上に到着 35年前に登った二子山
20代の頃、この周辺の奥秩父や奥武蔵の山々によく登りました。登る時間を稼ぐために深夜秩父駅構内でよく仮眠しました。早朝に起床後、一番バスに乗って山麓に行くのです。下の山行記録は、今から35年前に奥秩父の二子山に登った時の記録です。二子山は巨大な岩でできた山で、登攀(ロッククライミング)の練習によく使われます。
35年前、埼玉県奥秩父の二子山に登った時の山行記録
土曜日でしたので、ロープウェイは混んでいました。山頂に到着しましたが、日差しが強いにも関わらず風が強く寒いこと。山頂からは奥秩父や奥武蔵の山々が良く見えました。一番目につくのは武甲山です。セメント原料のため山麓がだいぶ削られていますが、その武骨な形は昔のままです。
宝登山山頂から見た奥秩父や奥武蔵の山々
田布施町 発明クラブ 今年度最後の工作(ジャイロカーの制作)
田布施町の発明クラブ、前々回はジャイロの原理を学ぶためにペットボトルを輪切りにし回転させて空中を飛ばしました。ただ、投げて飛ばすだけだとフルフル回って、ストンと足元に落ちてしまいます。しかし、回転させると意外と遠くに飛んで行きます。
今回は、このジャイロの原理を応用して車を作りました。自転車のように車輪が二つだけの車です。普通ならばゴロリとすぐに倒れてしまいますが、ジャイロ効果で簡単には倒れないのです。
今年度最後の工作開始の挨拶(田布施農工高校)
今回の工作は、ほとんどが半田付けでした。私が初めて半田付けを習ったのは中学生の時でした。今は小学生のうちから習うようで、うらやましく感じました。その半田付けで一番難しかったのは、超小型スイッチへの電線の半田付けでした。メガネを持ってきていなかった私はよく見えず大変でした。しかし、四苦八苦している子供達の何人かをなんとか支援しました。
ジャイロカーの制作開始 難しい超小型スイッチへの半田付け
私の子供が小学生だった15年位前、ミニ四駆が流行りました。はめ込みするだけで、車が出来上がるのです。おそらく今の子供達もはめ込んで作ることが工作と思っているかも知れません。このため、今回の工作のように、削ったり,接着剤でくっつけたり,半田付けしたり,ネジを回したり,左右の重さを五感でバランスをとったりすることなどは、もしかして初めての経験だったかも知れません。半田付けのコテやホットボンドで指を軽くやけどした子供もいました。今の時代、五感で感じる工作はなかなか経験できません。貴重な体験です。
工作する子供達と支援する方々 熱心に教えている高校生
今回の工作は、小学低学年生にはちょっと難しかったように思いました。しかし、高校生達の何人かが工作を支援してくれました。昔は、年長の子供が年少の子供を教えるのは当たり前のことでした。子供達を支援した高校生達にも得るものがあったのではないかと思います。
さて、ほとんどの子供達はなんとか完成しました。しかし良くできたジャイロ―カーでも、倒れずに40cm進むのが精いっぱいでした。半田付けやホットポンドで熱い思いをして手作りした武骨な車ですが、市販のモデルカーを作るよりも得るものが多かったのではないでしょうか。
苦戦してやっと出来上がったジャイロカー
埼玉県 長瀞周辺を、楽しく日帰りバス旅行(2/3)
宝山山頂で、日向ぼっこしながら家内と仲良くお弁当を食べました。弁当は観光会社からいただいたものです。山頂は雪が残りまだまだ寒かったのですが、椅子に座って満開の蝋梅を見ながら量も味も美味しくいただくことができました。家内がどこからか味噌汁を購入してきました。お腹が温まる味噌汁でした。
日差しが強い宝山山頂 美味しかったお弁当 雪が残る山頂
お弁当を食べた後、周りに広がる山々の景色を楽しみました。双眼鏡を持って来なかったことを少し後悔しました。景色を楽しむと、山頂に植えられた蝋梅園を散策しました。最近まで、黄梅と蝋梅を取り違えていました。色が黄色なので、黄梅とばかり思っていたのです。説明文を読むと、蝋でできているように見えることから蝋梅と呼ばれたそうです。黄梅は別にあるそうです。
真っ青な空に広がっていた蝋梅の花
お弁当を楽しく食べたり、周りに広がる山々を指さしながら眺めたりしているうちに、時間が過ぎていました。蝋梅を楽しむ時間はあまり残されていませんでした。足早に蝋梅園を見ながらあちこちを散策しました。昨日の雪のためでしょうか、舗装されていない散策道はじくじくに濡れていました。時々転びそうになりながらロープウェイ乗り場に急ぎました。
蝋梅園を楽しむ家内 急ぎ足で着いたロープウェイ乗り場
ロープウェイ乗り場を降りると、すぐにバスに乗りました。そして、1時間ばかり揺られました。今度は渓谷の見事なつららを見るとのこと。つららがある場所は、これまた私にとって懐かしい街道でした。
かつて私は、バイクでこの付近の民俗調査に来たことがあります。印象深かったことがあります。ダム工事現場近くに住むお年寄りをインタビューした時のことです。それは、「都会のために何故私らが犠牲にならなくちゃいけないんだ?」との言葉でした。筵に座って蕎麦の脱穀をしていた老夫婦は、工事完成までに移転を迫られているとの話を聞かせてくれました。工事中のダムはその後、現滝沢ダムとして完成しました。水不足の埼玉や東京に水を送りつつ、同時に発電もしています。訪れた時、その老夫婦だけが集落に残って茅葺屋根で暮らしていました。平成8年に移転が完了したとのことですが、私が訪ねた老夫婦はその後どうなったのでしょうか。
奥武蔵の道端にバスを駐車 バスを降り、渓谷に向かって下る
バスを降りると、谷に向かう道路をどんどん下りました。そして、川が流れる渓谷に降り立ちました。その渓谷の川の反対側の岸壁を見上げると、巨大なつらら群があちこちにぶら下がっていました。つららの芸術と言ったところでしょうか。夜はライトアップするそうです。谷底に降り積もった雪を踏みながら、渓谷沿いに広がるつらら群を楽しみました。
渓谷沿いにぶら下がる巨大なつららを楽しむ家内
埼玉県 長瀞周辺を、楽しく日帰りバス旅行(3/3)
渓谷の底をを少し歩いてみました。この渓谷のつららは「三十槌の氷柱」と呼ぶそうです。全てのつららが自然にできたものと思っていたら、一部は水を上から流して作るそうです。夜ライトアップされた渓谷はさらに綺麗ではないかと思います。しばらく渓谷を歩きましたが、日差しがまったく当たらないため次第に寒くなってきました。休憩所で薪が燃やされていました。その周りにはたくさんの人が群がっていました。みなさんも寒かったようです。
渓谷をしばらく散策 つららを撮影する家内 火で体を温める方々
つららの渓谷を出ると、最後の訪問地に移動しました。そこは酒造所でした。日本酒「秩父錦」を作る、地元で比較的有名な酒造所「秩父館 酒づくりの森」です。ここで作られたお酒は、ほとんどが地元で消費されるとのこと。
最後の訪問地「秩父館 酒づくりの森」
最初、お酒を造る工場を見学しました。そして最後に、いろいろなお酒が置いてあるお店に案内されました。私と家内はお酒が飲めません。このため、地元で作られた漬物や菓子などを眺めました。何人かの方はお酒を購入したようでした。「秩父館 酒づくりの森」を出ると、バスはひたすら都心に向かいました。私と家内はJR八王子駅で降りました。
酒造所内を見学 利き酒をする方々 JR八王子駅でバス下車
JR八王子駅でバスを降りると、夕食をとることにしました。家内のお気に入りの場所で夕食をとったのですが、注文の仕方がかわっていました。最初に番号が付いたカードを取り、空いたテーブルを自分で探してその上にカードを置きます。これで席を確保したことになります。席を確保すると、お盆を取って料理前に並びます。そして、店員さんに何を食べたいか言うのです。すると、店員さんは注文した料理を次々に摘まんでお盆に乗せてくれるのです。
席を確保後、料理前に並んで店員に注文する家内
注文した料理がすべてお盆に並ぶと、料金をその場で払います。そして、確保したテーブルに自分でお盆を運んで食べるのです。いつの間にか、こんな注文方法ができていたのですね。田布施に住んでいると、時代の流れに取り残されているような錯覚に陥りました。夕食を食べ終わると、少しばかりウィンドショッピングして我家に帰りました。
選んだ料理の数々、下が私、上は家内 LEDでライトアップされた八王子駅
田布施町 楽しかったJR田布施駅周辺の史跡巡りウォーキング(1/3)
1回目の下見、2回目の下見を経て、ようやくJR田布施駅周辺の史跡巡りウォーキングをすることができました。数日前の天気予報では雨でしたが、晴れ間が見える良い天気に恵まれました。交流館に集合した後、JR田布施駅を中心に時計回りにいろいろな史跡などを巡りました。今までのウォーキングの中で、最も多い30ヶ所以上の史跡などを巡るとても密度の濃いウォーキングでした。史跡についてガイドしたり、タイムスケジュールを気にしながら歩いたのでいつもより疲れました。
江良碧松の句碑を過ぎて 真光寺をお詣り 真光寺本堂を見学
最初に訪れたのは田布施庁舎前にある江良碧松の句碑です。この句碑をスタートにウォーキング開始です。次に、田布施庁舎前からそびえるようにある真光寺を訪問しました。そして、境内にある無漏田遠慶(むろたおんきょう)の石碑を見ました。そして、真光寺のご厚意で本堂を見学させていただきました。
無漏田遠慶を称える石碑を説明 詩情公園の坂道を登る
真光寺を出ると、吉田菊之進の石碑を見学しました。吉田菊之進は明治時代、現熊毛南高校の前身である吉田裁縫所を作りました。この石碑は田布施町内で一二を争う立派な石碑です。次に元宰相岸信介のお墓詣りをしました。続いて詩情公園に行きました。
詩情公園から田布施の街並みや遠くの山々を遠望
詩情公園に登ると、田布施の街並みを見下ろしました。目の前に田布施庁舎、さきほど行った真光寺も見えました。遠くを見ると、以前ウォーキングで行った柳井市の三ヶ岳と琴石山,平生町の赤子山,田布施町の行者山や石城山などが見えました。遠望を楽しみながら少し休憩しました。
詩情公園の椙山稲荷神社 公園の遊具で遊ぶ 定井出のお地蔵様
遠望を楽しむと、詩情公園の上にある椙山稲荷神社にお詣りです。そして、その神社から降りた場所に小さな公園があります。小学2年生のAちゃんを含む数人が、大好きな滑り台を滑りました。Aちゃんにとっては、史跡巡りより遊具の方が楽しかったかな?詩情公園を降りて、田布施川の橋を渡りました。そして、定井手のお地蔵様前に行きました。ここはかつて、台風時の増水で田布施川が決壊した場所です。
新定井堰の取水口 田布施川沿いを下る 田布施川堤防改築の石碑
江戸時代、定井手から八海方面に向けて真っ直ぐに田布施川が掘られました。江戸時代から昭和20年代にかけて、何度かこの付近で決壊したようです。ここは、人間が自然をコントロールすることの難しさが分かる場所です。昭和20年代後半に、今ある新定井堰が築かれました。近くにあるお地蔵様は、決壊時に亡くなった方々を弔うためではないかと思われます。新定井堰の数十m下流に田布施川堤防改築の石碑があります。
定井手から田布施川沿いに下り、龍護寺に向かう
江戸時代以前、田布施川は薬師川として田布施町商店街の真ん中を流れていました。そして、灸川に合流していました。さらに昔の古代は、一本松や瀬戸地区などは海岸線でした。さらに瀬戸から城南にかけて海でだったことが遺跡から分かっています。瀬戸の稲荷山古墳が作られた頃、今の田布施西小学校方面は海が満ちていたはずです。江戸時代,中世,古代に思いをはせながらウォーキングを続けました。
今回歩いたJR田布施駅周辺史跡巡りウォーキングコース(時計周り)
==========健康ウォーキングクラブ==========
田布施町 楽しかったJR田布施駅周辺の史跡巡りウォーキング(2/3)
定井手から田布施川沿いに堤防を歩き、龍巌寺に向かいました。日曜日のため、田布施幼稚園はお休みでした。いつもは子供達の声で賑やかですが、今回はとても静かでした。龍巌寺のご厚意で、本堂を見学させていただきました。ありがとうございました。ご住職がご不在でしたので、下見の時にご住職から聞いたお話をみなさんに説明しました。
龍巌寺に到着 田布施駅の陸橋を渡る 円満寺を見学
龍巌寺を出ると、田布施中学校横を通ってJR田布施駅に行きました。そして、トイレ休憩をしました。風もなくポカポカ陽気でした。休憩が終わると、駅傍の陸橋を渡って上ゲに行きました。そして、しばらく歩いて円満寺に行きました。円満寺の敷地内には上ゲの公会堂があります。ご住職がおられない円満寺ですが、上ゲの方々がこのお寺を守っているのではないかと思います。
波野英語塾跡の石碑 田布施高等洋裁学院跡 御嶽教田布施稲荷教会所
円満寺を過ぎると、国木田独歩の波野英語塾跡の石碑を訪ねました。垣根に囲まれた石碑は、注意深く見ないと通り過ぎてしまいそうなほど目立ちません。この英語塾は明治24年に開設されましたが、生徒がなかなか集まらず半年後に閉鎖されました。当時の田布施はまだ英語を必要としなかったのでしょう。一方、明治22年に吉田菊之進が開設した吉田裁縫所は盛況で、今の熊毛南高校に引き継がれ今に至っています。
JR田布施駅周辺史跡巡りウォーキングに参加した方々(八坂神社境内にて)
波野英語塾跡の石碑を見学後、田布施高等洋裁学院跡を見ながら、八坂神社(祇園宮)に向かいました。途中、御嶽教田布施教会所の建物横を通りました。建物があちこちが傷んでいました。最近お世話する人が少ないのでしょうか。八坂神社で少し休憩しました。そして、高台にある境内から田布施の街並みを見下ろしました。
八坂神社の石階段 大内公園に向かう 大内公園の広場
八坂神社から町並みを遠望すると、石階段を下りました。そして、次の訪問地である大内公園に向かいました。この公園、私が小学校の頃に麻郷から遠足で来たことがあります。この公園は今も、東田布施小学校の生徒達の遊び場のようです。
お接待を受けた伏木観音堂内
ところで、このウォーキングをするあたって伏木観音堂でお接待を受けることとなりました。大内公園を出て12:30頃に伏木観音堂に着くと、3人の方が待っておられました。全員が座ることができるように、テーブルが置かれ座布団が敷いてありました。しかも、暖房が入っていました。ありがとうございました。
お接待を受けつつ、昼食をとるウォーキング参加者の方々
伏木観音堂内に入ってテーブルを前に座ると、お接待の品々をいただきました。本当にありがとうございました。先月ウォーキング中に訪れた大畠の薬師堂に続いてお接待を受けました。
これまで、私が調べたお接待品の中で一番多かったのはささげ御飯とお茶でした。実際、一昨年にウォーキングした上関町の御汗観音堂ではささげ御飯をいただきました。近年はお菓子が多くなりました。その昔、御飯やお菓子のような物ではないお接待もありました。例えば、巡礼者が多かった明治・大正時代には、自宅に無料で宿泊していただくこともお接待の一つだったのです。
今回歩いたJR田布施駅周辺史跡巡りウォーキングコース(時計周り)
==========健康ウォーキングクラブ==========
田布施町 楽しかったJR田布施駅周辺の史跡巡りウォーキング(3/3)
伏木観音堂でお接待を受けた後、丘を降りて祇園観音堂に行きました。ここは、不思議な場所です。大日如来のお堂があると共に、近くの小さな屋根の下に荒神様のような石が安置されています。さらにその近くに、かつて立派なお堂があった跡もあります。大日如来のお堂はあちこちが傷んでいます。このお堂をお世話する方が亡くなられているとのお話をお聞きしました。
祇園観音を訪問 長岡商店の古い建物 波野市の祠を訪問
続いて、田布施町商店街の通りに出て、屋根付きのお地蔵様を拝みました。そして、商店街の古い建物を鑑賞しました。100歳のスイマー長岡さんの古いお屋敷傍を通りました。かつて、このお屋敷は筵や縄などの商品を扱っていたようです。近くにある波野市の祠も見学しまた。この祠は、江戸時代に「波野市」と呼ばれる賑やかな市場が開かれていた生き証人です。その市場の名前が、この地域の名前「波野市」として残っています。
大恩寺の飢民の供養塔 土井の内の薬師堂 堀川の船回し跡
続いて波野市の大恩寺に行き、飢民の碑(供養塔)を見学しました。江戸時代の享保17年(1732)の大飢饉で田布施周辺はたくさんの方々が亡くなりました。この飢饉やその後の天明の飢饉で亡くなった方を弔うため大波野神舞が舞われるようになったとのこと。このころ各地でお地蔵様やお堂が建立されたようです。
次に、竪ヶ浜と余田への道の分岐点を表す道しるべ石柱を見学し、近くの土井の内の薬師堂をお詣りしました。そして、旧薬師川の右岸堤防跡の道を歩きました。途中、法寺坊の墓地がありました。
旧薬師川の右岸堤防跡をのんびりと散策
法寺坊の墓地を過ぎると、旧薬師川と堀川の合流地点に着きます。ここは、江戸時代に船回しと呼ばれる船溜まりの池がありました。堀川から登って来た船が、ここで舳先を回転させていた場所です。今、船溜まりの池はありません。続いて、灸川に向かって広々とした田んぼの中を旧薬師川の右岸堤防跡の道を歩きました。
薬師川の立派な石橋 菅原天神社の石碑群 旧型の赤いポスト
旧薬師川が灸川に合流する場所近くに、立派な石橋があります。この石橋は、竪ヶ浜と田布施を結ぶかつての幹線道路に渡されています。石橋を渡ると、岩清水が湧き出る岩場があります。大切にされてきたのでしょう、その岩場には屋根付いています。旧薬師川を戻ると、次に菅原天神社の境内のいろいろな石碑を見学しました。
月性の叔母が嫁いだ円立寺、幕末に僧錬隊が駐屯
菅原天神社を過ぎると、田布施市の恵比寿様の祠を見学しました。この場所で、かつて市場が開かれていました。その市場の生き証人がこの祠です。続いて、円立寺に行きました。幕末の元治元年にお坊さん達が結成した奇兵隊のような僧練隊が一時駐屯していました。火災のため、今の本堂は幕末時の建物ではありません。
平和霊場六十六番札所のお地蔵様 ハミングロードを通って田布施交流館へ
円立寺の見学を終えると、元来た道を引き返して本町通りを歩きました。そして、フランス食堂向かいの平和霊場六十六番札所のお地蔵様を拝みました。ちなみに、平和霊場六十五番札所は大恩寺で、平和霊場六十四番札所は土井の内の薬師堂です。お地蔵様を拝むと、国森の古塚を訪ねました。
そして、田布施郷土館に寄ってトイレ休憩をとりました。しばらく休憩した後、砂田交差点から田布施庁舎方面に向かいました。途中砂田のお地蔵様を拝顔し、今回のウォーキングの最後としてハミングロードの童謡・唱歌BGMを聞きながら地域交流館に戻りました。今回参加された方々、お疲れ様でした。
今回歩いたJR田布施駅周辺史跡巡りウォーキングコース(時計周り)
==========健康ウォーキングクラブ==========
田布施町 麻郷詣り順路ウォーキングの下見(2/3)
来月予定のウォーキングの下見をしました。かつて巡礼されていた麻郷詣り南平和十一番霊場以降の順路を歩いてみました。まずは本番予定のとおり平生MaxValueに集まりました。そして、西浜バス停に移動しました。平生のバス路線は複雑で、徳山方面に行く時と、徳山から戻るときはバス停が異なるのです。今回の下見で初めて知りました。西浜バス停は平生クリニック傍にあります。西浜バス停からバスに乗って、戎ヶ下バス停で降りました。めったにバスに乗らないため、下車する時の支払いにも戸惑いました。自動的にお釣りが出るとばかり思っていたのです。
戎ヶ下バス停で下車 戎ヶ下大師堂に到着 大師堂内に安置された仏様
戎ヶ下バス停で下車すると、横断歩道を渡って南平和十一番霊場の戎ヶ下大師堂に向かいました。大師堂に到着すると、お堂の中を見学させていただきました。ここは数人の古老が今でも大切に守っています。中も外も綺麗に片付けてありました。今回は下見のため時間制限はありません。せっかくの機会ですので、大師堂横の山にある八十八番ヶ所巡りをしてみました。
八十八番ヶ所を巡る 戎ヶ下の成器堂跡 海産物加工所を見学
八十八番ヶ所のお地蔵様はどれも個性的な地蔵様でした。頂上に着くと休憩のための長椅子が置かれていました。造船所がよく見下ろせました。大師堂を出ると、かつての旧国道を歩きました。ちなみに、今の戎ヶ下の国道は戦後開通した新しい国道です。しばらく歩くと麻郷小学校の前身の成器堂跡がありました。次に、江戸時代に砂浜だった州の鼻に行きました。
海産物加工場で働く方々 並べられたサヨリの開き
ところで、州の鼻の海岸を散策していると、A君の知り合いの方に偶然出会いました。その方の案内で、近くにあるK海産物加工場を見学させていただくことになりました。A君とその方、そしてK海産物加工場の社長様に感謝致します。
その加工場では何人かの方々が忙しそうにサヨリの開きを作っておられました。そして、広場に出るとそのサヨリの開きが干されていました。さらに、たくさんの小魚の開きが天高く干されていました。田布施にもこんな場所があることに感激しました。
天高く干された小魚の開き
ところで、田布施地方史研究会誌第142号によると、江戸時代に州の鼻は隠密など罪人の処刑地でした。今金龍館跡近くにあるお地蔵様、かつては道の反対側に安置されていました。幕末期、このお地蔵様脇には処刑された首が並んでいたとのこと。罪人を弔う名も無きお地蔵様は、いつしか今の場所に移されました。そして今も、静かに弔いを続けています。
名も無きお地蔵様 〇は水場側の桟橋跡 戎ヶ下の菅原神社
そのお地蔵様を拝むと、かつて戎ヶ下と対岸の水場を結んでいた渡船場跡を見学しました。私が小学生の頃、この渡船場から水場に渡ったことを覚えています。この渡船場の最後の日、テレビ放送局が撮影に来たそうです。水場側にある桟橋跡が当時の名残をとどめています。続いて戎ヶ下の菅原神社を参拝しました。田布施町のタイムカプセルが納められていました。いつ掘り上げて開封するのでしょうか。次に、横断歩道を渡って泊団地へと向かいました。
今回、麻郷詣り順路を下見ウォーキングしたコース
==========健康ウォーキングクラブ==========