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Channel: 東京里山農業日誌
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田布施町 楽しかった城南宿井ウォーキング(3/4)

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 別所池近くでの楽しい昼食休憩が終わると、別所薬師堂に向かいました。別所薬師堂は7月にお大師講を見学した所です。今回訪問することを地元の方に事前に言っていたため、お堂の扉が開いていました。このお堂は、江戸時代の文献にも出てくるほどの古いお堂です。数百年前から今まで、このお堂で今もお大師講が開かれています。とても貴重な無形文化だと思います。

              別所薬師堂;7月お大師講に参加


 別所薬師堂の隣りには、荒神様,地鎮様,そしてお稲荷様の三つの祠があります。この祠群も江戸時代の文献に載っているほど古いものです。昔は別々にお祭りをしていたのではないかと思います。今は9月にまとめて、湯立ての神事としてお祭りがされています。とても珍しい神事です。やはり数百年の由緒ある神事ではないかと思われます。

          別所薬師堂で休憩         左から荒神様,地鎮様,そしてお稲荷様
 

 別所薬師堂を出ると、来たコースを戻りました。そして、別所池の堤防を歩き、城南方面を見下ろしながら太子堂に向かいました。このお堂は最近改築されたようで、元々あったお堂を縮小したようです。元々の屋根の頂上にあった瓦が、お堂の傍に置いてありました。昔は立派なお堂だったのでしょう。

                  快晴の中、別所池の堤防を通って太子堂に向かう


 太子堂近くの道は、田布施から光市へ抜ける旧道です。この旧道を歩いて次の史跡に向かいました。次の史跡は地蔵が刻まれた祠です。この祠の由来などは分かりません。面白いのは、祠の向きが道ではなく南側に向いていることです。なぜこの方向を向いているのか謎です。

    太子堂に到着        旧道を通り祠に到着       田んぼの道を光喜庵に
  

 この祠の謎については今後の課題です。この祠に限りませんが、史跡の由来を知っている方に巡りあうことはなかなかありません。このため、祠,お地蔵様,石碑,お堂について調査するには時間がかかります。次に光喜庵に向かいました。

              今回ウォーキングした城南宿井方面コース



田布施町 楽しかった城南宿井ウォーキング(4/4)

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 光喜庵にはかつて尼さんが住んでいたそうですが、今は小さなお堂だけが残っています。尼さんがいなくなった理由の一つは太平洋戦争です。物資が無くなり、里の人が尼さんに施しをする余裕がなったことです。そしても、もう一つの理由が戦後教育や高度成長にあると思います。仏を信じる人が少なくなったことや、施しを受けなくても仕事で充分食べていけるようになったことではないかと思います。

                 光喜庵に着いて、少しの間休憩


 ところで、光喜庵に安置されているお地蔵様は異形です。それもそのはず、素人が作った仏像だからです。その素人の仏像を安置した理由は、ある時お地蔵様が盗まれたためのようです。盗まれては困るお地蔵様を別の場所に安置し、盗まれてもよい素人作りのお地蔵様を安置したのです。

   田村知義墓所に向かう    田村知義のお墓         彼岸花を見ながら歩く
  

 光喜庵の近くに、田村知義のお墓があります。そのお墓を訪れました。田村知義は戊辰戦争中、奇兵隊で活躍した人です。さらに、明治維新後は宿井村村長として、地元に貢献しました。冨永有隣もほぼ同じ頃に奇兵隊に関わって活躍しました。富永有隣は明治33年にに、田村知義はその一年後に亡くなりました。

   富永有隣顕彰碑         末岡精一顕彰碑         瓜迫の観音堂
  

 光喜庵を出ると、しばらく歩いて富永有隣顕彰碑に行きました。私は、今年になって何度もこの碑に行きました。昭和13年に建立されたこの顕彰碑はとても巨大です。遠くから見るとそうでもなですが、間近に行くと見上げるような大きさです。その顕彰碑の下には吉田松陰との出会いの文が刻まれています。

  冨永有隣の墓所         城南公民館に向かう       城南公民館に到着
  

 冨永有隣の顕彰碑の隣りには、有隣の義甥の末岡精一の顕彰碑が建っています。プロイセンに留学し、帰国後に明治憲法の土台を作ることに貢献しました。さらにその近くの瓜迫観音堂を見学した後、冨永有隣の墓所を訪ねました。そして、瓜迫農業公園に戻って休憩しました。休憩後、ひたすら城南公民館に向かって歩きました。今回はとても良い天気で、楽しいウォーキングでした。参加された方々、お疲れ様でした。

              今回ウォーキングした城南宿井方面コース

田布施町 郷土館 冨永有隣と明治維新に関わる人達の展示会を開催

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 1ヶ月以上をかけていろいろと準備した「冨永有隣と明治維新に関わる人達」の展示会が10月1日から始まりました。田布施郷土館オリジナルの展示会のため、いろいろと苦労がありました。去年の11月展示の「写真に見る岸宰相と故郷田布施」企画展は、それまでのノウハウを生かすことができました。今回の企画は、ほとんどが初めての試みでした。

   自作した略年譜や図面     説明版や写真を飾る    会場中央展示の衝立の書
  

 冨永有隣に関わる資料は郷土館所蔵以外のものも展示しました。そのため、所蔵していると思われる町内の方々を訪問して、事前に所蔵の確認をしました。残念ながら、所蔵が不明になってしまったり破棄されてしまった物もありました。所蔵が確認できたものは、所有者の了解を得て、展示会初日の数日前に郷土館に運び込みました。

    古文書,遺物,説明版,扁額などの資料を分かりやすく展示中のN館長とHさん


 展示の準備中であっても、郷土館への訪問者は絶えません。そのつど、展示会の準備を中断しては郷土館内を案内しました。中には、宿題をしたり歴史を勉強するために来た小学生達もいました。丁度いい機会ですので、出来立ての富永有隣に関わる説明資料を渡しました。小学生達は興味をもったのか、その資料の必要な個所を切り抜いてはノートに張っていました。展示準備中の富永有隣資料を見に来る生徒もいました。

    有隣愛用の品々        展示物を見学する方々    歴史を勉強する小学生達他
  

 冨永有隣に関わる展示会の準備が終わったのは、30日午後遅くでした。田布施町内の史跡位置図、奇兵隊(第二奇兵隊)などに関わる年表、人物関連図,そして説明版は何度も作り替えました。そして、展示物の並びや、文言の一字一句などについて何度も議論しました。手作り感溢れる展示会で、来館していただいた方々に喜んでいただけると思います。なお、会場が狭いため展示できなかったものや、解読できる時間が無く展示できなかった古文書などが少なくなかったのは残念です。

  郷土館入口の案内       有隣書の掛け軸の数々    奇兵隊使用の銃や資料
  

 初日の10月1日はあいにくの大雨でした。事前にお知らせしていた新聞社の記者の方々が見えました。そのため、来館者や記者の方々を並行してご案内しました。そして、指摘があればその都度修正しました。例えば、富永有隣と国木田独歩の出会いについての説明版を追加しました。
 私個人の意見ですが、幕末の歴史に興味がある方にとっては、とても見がいのある展示だと思います。特に、奇兵隊士の遺墨や写本した資料,幕末に読まれた孟子や中庸解などの古文書,多くの有隣宛ての手紙などは興味をそそられると思います。

              郷土館入口から見た展示会場、右は富永有隣肖像画

我家前の垣根剪定

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 我家前の垣根を剪定しました。しばらく剪定しなかったため、葉や枝が無駄に伸びてしまいました。この伸びた葉や枝をざっくりと剪定しました。ついでに、垣根の間に生えた、蔓性の雑草も刈り取りました。剪定はあまり得意ではありませんが、素人なりに剪定しました。

                  剪定前の垣根、剪定バリカンを用意


 剪定に使用したのは、剪定バリカン(ヘッジトリマー)です。ワニのように突き出た二本の刃が交互に動いて刈り取ります。この機械は、効率的に枝を刈り取ってくれます。垣根の中にバリカンを入れると、枝がどんどん刈り取られます。そして、刈られた枝が下に溜まります。時々、剪定バリカンを止めて、溜まった枝を取り除きました。取り除いた枝は、いずれたき火で燃やします。

 剪定バリカンで刈取り      ざっくり刈り取られた垣根    端から端に向けて刈り取り
  

 今回刈り取った垣根は、車が通りにくくなった箇所です。この冬の間に、片方も刈り取りつもりです。最低、二年に一度は刈り取りが必要のようです。元々は低かった垣根、今は枝が伸びすぎるので管理に往生します。ですが、春になった新芽が出た垣根は新緑が見事です。

              雨水が通る溝に沿うように、垣根をざっくりと刈り取り

ヒマワリの種を収穫、天日乾燥

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 ヒマワリの種を収穫するのを忘れていました。先日の雨で、種が傷んでいるようでした。二週間ほど前に収穫すれば良かったのですが、とにかく、ハサミで花柄をすべて切り取りました。

      首が重そうなヒマワリの花柄          首元をハサミで取り収穫
 

 収穫したヒマワリをよく観察すると、ヒヨドリの仕業でしょうか、くり抜くように種を食べられていました。ヒマワリはハムスターの餌としても販売されています。野鳥にとっても美味しい食べ物なのでしょう。収穫したヒマワリは、花柄を南の向けて寝かせ、しばらく天日乾燥させることにしました。

   鳥にくり抜かれた種      種の幾何学的模様        天日乾燥中の種
  

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(1/8) 寺田屋,伏見

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 田布施町郷土館で幕末の長州藩志士だった冨永有隣の展示会を開催していますが、たまたま京都市の幕末・明治維新他の史跡を家族と一緒に巡る機会を得ました。10月2日~4日の3日間です。歴史好きの息子が、コースをセッティングしてくれました。まず、2日の夕方17時に京都駅に着くと、息子が待っていてくれました。家内が京都に着くのが19時頃なので、それまでの間に寺田屋と伏見に行くことにしました。

             薩摩寺田屋騒動と坂本竜馬襲撃の寺田屋、当時の趣あり



 まず、京都駅から近鉄京都線に乗り丹波橋へ、京阪本線に乗り換えて中書島駅に着きました。中書島駅を降りると、北に向かって真っ直ぐ歩きました。すると、宇治川源流に着きました。橋を渡って左折してすぐの所に寺田屋跡がありました。当時の趣を保った建物が再建されていました。

  柳が映える宇治川源流      近くに伏見土佐藩邸跡     会津藩駐屯地跡
  

 寺田屋騒動は薩摩藩内での公武合体派と尊王派の対立ですが、結局薩摩藩は薩長同盟を結んで討幕することになりました。寺田屋騒動で粛清された人が生きていたら、どんな気持ちだったでしょうか。ほぼ討幕一本だった長州藩(一時、俗論派などが政権を握りますが)と違って、公武合体から討幕へと傾いて行った薩摩藩の心中はどんなものだったのでしょうか。
 なお、この寺田屋では、坂本竜馬が襲撃されています。当時の重要人物は、天誅などの暗殺から逃れるすべを各自工夫していたと思います。その一つは、お龍のような信頼できる伴侶を持てるかだったと思います。竜馬は、お龍が命をかけることができるほど、心身ともに男前だったのに違いありません。桂小五郎と幾松もそうですが、ともに命が結ばれた二人だったと思います。熱い志と恋が明治維新を成功させたとも言えます。

      御香宮神社の伏見の戦碑、ここから伏見奉行所に砲撃(〇:佐藤栄作書) 

 寺田屋の次に薩摩藩が陣を張っていた御香宮神社に向かいました。その道すがら、今は幼稚園になっている会津藩駐屯地などを通りました。鳥羽伏見の戦い当時の、幕府軍陣地から討幕軍陣地へ向かって歩きました。途中、民家に当時の弾痕跡がありました。討幕軍陣地(薩摩軍)の一つであった御香宮神社に着くと「伏見の戦碑」がありました。その石碑を読むと、佐藤栄作書と書かれていました。こんな所に佐藤栄作の書があるとは思いませんでした。

  御香宮神社の祭り提灯      京都タワーを見上げて     家内と合流し夕食   
  

 御香宮神社は3日からお祭りのようで、たくさんの出店が準備されていました。本殿には見守りの方々がおられました。その方にお聞きすると、相撲大会も開催されるとのことでした。御香宮神社を見終わると、近くの桃山御陵前駅から京都駅に戻りました。そして、家内と落ち合って夕食を取りました。そして、京都駅傍のホテルに向かいました。眺めの良い8階の部屋でした。

        今回歩いた伏見周辺、当時の幕府軍陣地から討幕軍陣地へ散策

平生町 こびとのおうちえん、般若寺を訪問

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 一昨日久しぶりに、平生町にある「こびとのおうちえん」をMさんと一緒に訪れました。訪問時、おうちえんのOさんは魚をさばいているところでした。去年Oさんに平生の大岩をいくつか案内していただきました。そのせつはお世話になりました。なお、私がさしあげたシイタケ用原木には、今シイタケが生えているそうです。
 ところで、おうちえんに着いた頃、数人の男の子が枝にぶら下った柿を取っているところでした。、柿をもぐために加工した竹竿は作ってもらったようです。その竹竿を使って器用に柿を落としていました。柿は禅寺丸でしょうか。ニワトリさんは、いつもはおうちえん周辺を自由に駆け回っていますが小屋の中でした。山羊も元気でした。

    おうちえん周辺景色     柿を落としている子供達    ニワトリさんは小屋の中
  

 普通の幼稚園や保育園の遊具は、ブランコ、シーソー、つるつるお山などです。しかし、おうちえんでは、見ところそのような遊具らしきものは見当たりません。遊具と言えば、使い終わった木切れ,子供用手作り一輪車,木からぶら下った紐,古道具などでしょうか。子供達はそれらを器用に使ったり、広場に絵をかいたり、鬼ごっこしたり、ターザンごっこをしたり、自分たちで楽しそうに遊びを見つけていました。

         ターザンごっこ、地面にお絵書きなど、各自工夫して遊ぶ


 与えられた遊びではなく、自分たちで遊びを見つけ工夫するのは良いですね。しかも、時間割や規則などもゆったりとしているようでした。でも、しっかりと大人達に見守られているのです。昭和30年代以前の遊び方のようにも見えました。とても懐かしい風情でした。私も、子供達の輪の中に入って少し遊びました。子供達の昼食頃、おうちえんを出ました。お昼タイムになったので、Mさんと平生町でアジ定食を食べました。とても美味しかったです。

  広場でお絵書き遊び   童心に戻り子供達と遊ぶMさん    美味しかったアジ定食
  

 お昼を済ませると、般若寺のFさんを訪問しました。般若寺は、2年位前のウォーキングで来て以来です。般若寺のいろんな場所を案内していただきました。さらに、お浄めまでしていただき、ありがとうございました。Fさんは90代目ご住職です。肩に重責がかかっているのでしょう、般若寺にまつわる故事や熊毛王などについて熱く語っておられました。

   大畠瀬戸と周防灘が見える仁王門      眼下に見える平生町を説明するFさん
 

 般若寺の各所を案内していただいた後、お茶などをいただきました。お接待、感謝いたします。その後、本堂横を通って展望台に行きました。この展望台は最近開墾したとのこと。土穂石川,新庄,赤子山,平生方面が見渡せました。そして、その向こうに周防灘があり、さらにその向こうに姫島,国東半島,湯布院岳などの山々が見渡せました。光市と田布施の境界の千坊山や呉麓山もくっきり見えました。


               般若寺の展望台から、平生町方面を見下ろして


 今から千年ほど前、この展望台からは広大な海が見えました。般若寺がある上関半島は、かつて島だったのです。しかし、江戸時代に干拓されて平生の海は後退し、今は平生湾しか海が見えません。海の痕跡は、溜池である天池(あまいけ)として残っています。

                 今回訪問した、こびとのおうちえんと般若寺

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(2/8) 三十三間堂,南禅寺

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 二日目最初、約50年ぶりでしょうか、三十三間堂に京都駅から歩いて行きました。この日は、雲がほとんど無い秋晴れでした。京都駅を東へ歩いて、鴨川を渡りました。都会にも関わらずとても綺麗な流れでした。魚や野鳥がいそうでしたが見えませんでした。橋を渡っていると南側に新幹線が走っているのが見えました。
 三十三間堂近くに来ましたが、入口が分かりませんでした。どうも反対側に来てしまったようです。近くの方から、東側を回り込んで歩いていくと良いと教えていただきました。東側を回り込むと、三十三間堂を囲む朱色に塗られた建物がとても綺麗でした。教えていただいて良かったです。

 秋晴れの京都駅をスタート    綺麗な鴨川を渡る       三十三間堂を囲む建物
  

 しばらく、三十三間堂の東側を回り込みながら歩いていると、時間があれば訪れてみたいお寺がいくつかありました。三十三間堂の入口は北側にありました。入口には観光バスが駐車できるような広場がありました。拝観料を払い中に入りました。さすがに、修学旅行生や外国の方々が多く来ていました。150年前、幕末の志士達もここを訪れていたのでしょうか。弓の使い手はここで通し矢をしたのでしょうか。

            三十三間堂の西側軒下、ここで北から南側に向かって通し矢


 三十三間堂内は撮影禁止でした。そのためか、数多く安置された仏像をじっくり見ることができました。創建されたのは平安時代後期平清盛の頃で、その約30年後に鎌倉時代となります。平安時代最後にふさわしい建物だと思います。創建当時はこれらの仏像は金色に輝いていたでしょう。戦国時代や幕末動乱期を含む900年間、この建物が残ったのは代々のお寺の方々が大切に守ってきたからだと思います。

   三十三間堂東側       東京板橋の修学旅行生達     三十三間堂入口側
  

 三十三間堂の東側を歩いていると、修学旅行中の仲良しグループがいました。声をかけて家族写真を撮ってもらいました。そして、お返しに彼らを撮ってあげました。東京板橋区から来た生徒さん達でした。

    南禅寺の勅使門        南禅寺の巨大な三門        苔がいっぱいの庭
  

  約50年前、私も修学旅行でここを訪れたことを思い出しました。当時、お寺や仏像にまったく興味がありませんでした。こうして私が三十三間堂のような伝統ある建物を深く鑑賞できるようになるには、数十年の月日が必要でした。他の方々はどうなのでしょうか。
 今から150年前、維新の志士達もここを訪れたのでしょうか。勤王,討幕,佐幕などに忙しくて、拝観する余裕は無かったのでしょうか。それとも、密かに願かけにでも来たのでしょうか。次に南禅寺に行きました。

                 三門に続いて現れた巨大な法堂


 南禅寺の勅使門を入って、すぐに巨大な三門が出迎えてくれました。東大寺ほどではありませんが、圧倒的な大きさです。この三門はいったん通り過ぎて、法堂に行きました。これまた巨大な伽藍です。
 ふと足元の庭を見ると地表は苔で覆われていました。梅雨の時期に訪れると、その美しさが分かるのではないでしょうか。次に南禅寺内の南禅院に向かいました。

                 今回訪れた京都の町並みとコース


京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(3/8) 水路閣,吉田松陰詩碑

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 南禅寺の法堂近くに水路閣があります。お寺の境内に突如として、レンガ造りのアーチが現れるのです。このアーチの建築物を見ていると、ローマの水道橋を思い出さざるをえません。はるか二千年前のローマの水道橋の小型レンガ版です。林の中で木漏れ日を浴びる水路閣は、見事に南禅寺境内に溶け込んでいました。

          木漏れ日を浴びる、ローマ水道橋の小型レンガ版水路閣


 水路閣の上に登ると、琵琶湖の水が勢いよく流れていました。昔教科書で習った、琵琶湖の水をトンネルを通して流している水道橋です。まるで、ウォータースライダーの水のように流れていました。ところで、水路閣のアーチはカップルの撮影場所として特別の人気があるとのこと。着物を来たカップルや二人連れなどが、アーチ下で写真を撮っていました。

水路閣を流れる琵琶湖の水     落ち着いた南禅院        南禅院の室内
  

 水路閣を見学し終わると、すぐ上にある南禅院を見学しました。落葉が無数に落ちている池はとても風情がありました。ここを散策すると、とても心が落ち着きます。四季折々の風情を楽しめる場所の一つではないかと思います。

   南禅寺の三門          急斜面の階段を上る    三門から法堂を見下ろして
  

 続いて、少し前に通過した三門に戻りました。そして、拝観料を払って三門を上りました。とても急な階段でした。足を踏み外したら大変です。手すりを持ちゆっくりと階段を上がりました。三門の上に出ると、遠くまで見渡せました。ただ、廊下板が外側に向かって少し傾斜しているため、さらに、私の靴下が滑るので少し怖かったです。少しばかり怖かったものの、京都の街並みがすばらしくよく見渡せました。

       南禅寺の三門の上から、京都の素晴らしい街並みを見ている家内


 この頃から左足のアキレス腱が痛くなりました。靴が合わないのか、固い道ばかりのためか、下り坂が良くないのか分かりません。歩けない訳ではないのですが、やれやれ困ったことです。
 次に、南禅寺を出て、地下鉄東西線蹴上駅に向かい電車に乗りました。関西なので、エスカレータの右側に立ち止まり並びました。そして、次の東山駅で降りました。

  川沿いに平安神宮へ    平安神宮の朱色の大鳥居   図書館前の吉田松陰詩碑
  

 東山駅を降りると、川沿いに平安神宮に向かいました。今回は平安神宮が目的ではなく、大鳥居横の図書館前にある吉田松陰の詩碑です。昔、京都は文化の中心地でした。吉田松陰は何度も京都を訪れたり通過しました。彼は、萩を出たあと、京都や江戸はおろか、青森まで旅をしています。さらに海外に密航しようとまでしました。いったい何が吉田松陰をつき動かしたのでしょうか。単なる好奇心だけではない何か、危機感,使命感,焦燥感のようなものがあったに違いありません。

                今回訪れた京都の町並みとコース

田布施町 少年少女発明クラブ 楽しい、釘とビー玉の工作

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 約一ヶ月ぶりに少年少女発明クラブがありました。今月は、私が工作を企画・指導しました。今回の工作目的は、子供達に工具をどんどん使ってもらうことです。そのため、ビー玉が釘のガイドに沿って左右に落ちる遊具を作ってもらいました。いわゆるパチンコ玉が釘に沿って落下するような遊具です。
 最初、二人に一枚の板を渡しました。その板をノコギリを使って切る作業から入りました。子供達が加工しやすいように、少し高価でしたが桐の板にしました。

 私が見本として作った作品    ビー玉,釘,板を受け取る    さあ、ノコギリで板をカット
  

 ノコギリで板を切る前にものさしで線を引きます。その線に沿ってノコギリで板を切るのです。まっすぐ板を切ることは、簡単そうですがなかなか難しいようです。 ノコギリを使っている子供達を見ると、上手な子とそうでもない子がいます。普段ノコギリを使ったことが無い子は、どうしても線からだんだん外れてしまいます。今回は、線から外れてもよいのでとにかくノコギリをたくさん体験してもらいました。

  指導員と一緒に板を切る       一人で板を切る       切断面を綺麗に研磨
   

 何とか板を切っても、切断面は不連続です。そんな時は、木工用ヤスリで磨きます。そして、次に釘を打ちます。ビー玉が、釘に沿って滑るように落ちるには、ビー玉直径の1/2の長さ位の間隔で釘を打つ必要があります。釘をどのように打つか、釘を打つ前に板に下書きすると良いです。思い思い好きなように釘打ちデザインしてもらいました。

             釘をどのように打つか、板に下書きしてから釘を打つ


 子供達を見ていて面白いことに気が付きました。打たれた釘は、その子供の個性をよく表しているのです。きっちり等間隔に釘を打つ子供は几帳面なのでしょう。多少釘の間隔が不規則な子供は作業が早いようです。見ていると、男女の差ではなく個人の差のようです。このような個性を持った子供達が社会に出た時、どんな大人になるのか楽しみです。

 ものさしで、釘打ちデザイン    釘を打つ場所を下書き     どんどん釘を打つ   
  

 板に釘を打つ個所を下書きすると、どんどん釘を打ちます。今回一番多く使う工具は金槌です。人が生活する上で、打つ行為はよくあります。代表的なものは、包丁でトントン野菜を切る行為です。肩,腕,指を上手に使わなければ、包丁を微妙に使い分けることができません。金槌をどんどん使って、腕や指を柔軟に使えるようになって欲しいと思います。

              見た目も大切です、釘を打ち終わって板を綺麗に飾る   


 今回は、工具をどんどん使ってもらうことが目的です。手順は子供達の自由にしました。そのため、最初に絵を書く子、いきなり釘を打つ子、下書きをして釘を打つ子、別の板に試し釘を打つ子など、さまざまでした。今回出来上がらなかった子は、次回作業を続行して完成します。次回の終わり、ビー玉が転がる様子をみんなで発表します。
 ノコギリを使い、金槌を使うだけの工作でしたが、予想した以上に子供達が夢中になっていたのは意外でした。家に帰って続けたい子供が数人いたため、釘と金槌を貸しました。

   絵を書いてから釘打ち    別の板に試し釘打ち     掃除してサヨウナラ、次回また
  

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(4/8) 池田屋,近江屋

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 吉田松陰の詩碑を見た後、平安神宮から京都市役所に向けて歩きました。ところで、京都市街は街路樹が少ないように思いました。神社仏閣周辺はは緑が多いのですが、市街はあまり緑が多くありません。大阪もそうですが、昔の都市は街路樹や花畑の考え方が少なかったのでしょうか。

   平安神宮の街路樹        こんな所に有隣館       がま口のお店
  

 市役所に向けて通りを歩いていると、「有隣館」と書かれた変わった建物を見つけました。八角形のお堂が建物の上にあるのです。私は「有隣」と言うと、幕末志士の一人である富永有隣を一番に思い出します。その建物に興味を持った私は、その建物に行ってみました。たまたま門横に立っている人がいました。お話をうかがうと、今日は休館日とのことでした。この「有隣館」は、中国古美術を展示しているそうです。いつか京都に再来する時があれば、訪れようと思います。

                まつひろ内で、がま口の部品を嬉しそうに見る家内


 この有隣館に行って分かったことは、「有隣」は論語の一説「徳不孤必有隣」から取ったことです。今、田布施町郷土館で「富永有隣と明治維新に関わる人達」の展示会をしていますが、富永有隣が愛読していた論語の一部を展示しています。おそらく、彼は論語などの漢詩に通じていたために、自らを富永有隣と称するようになったのではないでしょうか。

土佐藩の武市半平太の居跡     佐久間象山の居跡        桂小五郎の銅像
  

 論語「徳不孤必有隣」の意味は、「徳のある人の周りには、その徳を慕って人が集まる」との意味だそうです。他にも有隣を称している幕末の人がいました。例えば、明倫館で水戸学を教えた笠間藩(茨城県)加藤有隣です。彼は高杉晋作と交流があり、長州藩に招聘されたとのこと。

幕末志士が襲われた池田屋    象山と大村の遭難碑       坂本竜馬遭難碑
  

 さて、有隣館を過ぎて、家内が行きたかった店「まつひろ」に行きました。このお店は、がま口だけを扱っているお店です。色とりどりの大小さまざまな、がま口を売られていました。また、がま口を作る人のための材料も売られていました。この頃、少し歩き疲れたため喫茶店に入って休みました。
 続いて、土佐藩士の武市半平太の居跡や佐久間象山の居跡に行きました。武市半平太は土佐藩でも下士出身ですが、土佐勤王等を創設し幕末に活躍した一人でした。坂本竜馬とも親交がありました。

             三条名店街で色々なお店を散策、お土産を購入


 続いて、桂小五郎の銅像を見ました。そして、長州藩士などの幕末志士が新撰組に襲われた池田屋に向かいました。襲われて亡くなった志士達の名前が書かれていました。その後、佐久間象山と大村益次郎が襲われた場所に行きました。そして、坂本竜馬が襲われた近江屋にも行きました。この付近は幕末志士の史跡がたくさんあります。

 昼食を京料理「一の傳」で   最初の前菜盛り合わせ  京料理を堪能する家内と息子
  

 坂本竜馬や中岡新太郎が襲撃された近江屋付近はとても賑やかでした。その後しばらく、三条名店街で色々なお店を楽しみました。お土産を買うなど時間をつぶした後、京料理の「一の傳」に行きました。そして、個室でコース料理をいただきました。特に美味しかったのは銀だらの蔵味噌焼きでした。京料理を堪能すると、次に新撰組が駐屯していた壬生屯所跡に向かいました。

                 今回訪れた京都の町並みとコース

田布施町 麻里府 尾津西と中郷周辺ウォーキングの下見(1/2)

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 個人的には田布施町麻里府には何度も史跡調査に行きました。しかし、ウォーキングで皆さんをお連れしたことはありません。このため、11月に麻里府をウォーキングすることにしました。今回、事前調査のためのウォーキングをしました。最初、麻里府全てを一度でウォーキングするつもりで調査しましたが、とても回りきれないことが分かりました。麻里府は思っていたより史跡が多くあったのです。そのため、麻里府の上郷周辺は来年ウォーキングすることにしました。

 麻里府公民館の独歩碑     同地水田のぶほ詩碑      尾津西のお地蔵様1
  

 時々雨が激しく降るような不安定な天気でしたが、調査を強行しました。麻里府公民館に10:00に集合しました。最初、公民館にある国木田独歩の石碑、そして水田のぶほの詩碑を見学しました。次に、尾津西のお地蔵様を見学後、国道188号線を光市方面に桜川まで歩きました。そして、謎の無名石碑を見学しました。この石、石碑なのか単なる庭石なのか分かりません。ただ、石の前に花が生けることができる石棚があるため、かつては何かの石碑だったことは間違いないようです。隣りの家でお聞きしましたが、昔からある石で今となっては由来は不明とのことでした、残念!

   尾津西のお地蔵様2       謎の無名石碑         大谷忠之進の墓石
  

 続いて、立石墓地に行きました。この墓地は数年前に来たことがありますが、その時は藪でした。今回行ってみると、綺麗に刈り払われていました。この墓地に葬られている、加徳丸事件で殺害された薩摩藩士大谷忠之進の墓地に行きました。そのお墓はひっそりと立石墓地の中にありました。立石墓地を引き返すと、住吉神社に行きました。元麻里府小学校正面の山上にある石階段を登りきった所にお社があります。

                元麻里府小学校正面の山上に鎮座する住吉神社


 住吉神社を参拝すると、元麻里府小学校裏に行きました。そこには、井戸があるお地蔵様があります。私の考えでは、江戸時代は元麻里府小学校付近まで海岸でした。海岸近くは真水がなく、当時の人は真水を手に入れることが困難でした。そのような時、山裾のこの井戸は清水が湧き出る貴重な場所ではなかったのではないでしょうか。その貴重な場所に感謝してお地蔵様が安置されたのではないでしょうか。今、井戸には重い蓋がしてあります。かつて、このお地蔵様を世話するお婆さんが小学校上に住んでいたそうです。

 手前の井戸とお地蔵様    明楽寺に向かう道すがら       明楽寺に到着
  

 井戸持ちのお地蔵様を見学すると、一路明楽寺を目指しました。お寺に着くと、本堂を見学させていただけるようご挨拶しました。すると、最初に子供達が、続いて奥様が出てこられました。奥様と子供達は去年12月のキャンドルナイトでお会いしたことがあります。そして、息子さんの一人はこの夏、元麻里府小学校体育館での太鼓練習で会いました。

  感謝、ご住職様と奥様     本堂でお昼休憩         後片付けする子供達    
  

 ご住職の奥様は、高校生の時に僧職に就くことを志しされたそうです。そして、西本願寺でご住職と出会われたとのこと。西本願寺は、つい一週間ほど前に私が京都旅行した時に見学したお寺です。お接待に加えて、心温まるお話をお聞かせいただいて感謝します。ありがとうございました。
 この頃、ちょうどお昼になりました。ありがたいことに、明楽寺本堂でお昼休憩させていただきました。昼食後、明楽寺の向かい側の山にある招魂場に向かいました。

             麻里府の尾津西と中郷地区の下見ウォーキングコース

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(5/8) 壬生屯所,蛤御門

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 新選組の壬生屯所に着きました。着くと、新選組に関する説明が始まるところでしたので、加わることにしました。そもそも壬生屯所は八木家の建物だったそうで、八木家は元々は戦国時代の朝倉に仕えており、朝倉家が滅んだ後に縁あってこの壬生村に居を構えたそうです。
 新選組は、将軍警護の名目で清河八郎など浪士組として京都に来ましたが、その後別れました。そして、この壬生屯所で芹澤鴨一党を粛清しました。暗殺された時に芹澤鴨がつまずいた机が展示されていました。新選組が統制取れた組織になるまで、凄惨な闘争がありました。この頃、水戸藩,長州藩,薩摩藩など、方針を巡って粛清の嵐でした。日本に限らず、革命時は悲惨な粛清が起きます。いわゆる生みの苦しみです。完全無比とは言えないものの民主主義のありがたさが分かります。

                     新選組が居を構えていた壬生屯所跡


 新選組隊士が増えるにつれて、壬生屯所が手狭になりました。そこで、西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。実は西本願寺は長州藩と関わりが深かったための、あてつけと監視の意味があったそうです。長州藩は困ったことでしょう。新選組の壬生屯所跡から歩いて西本願寺に行きました。西本願寺の北側橋にその太鼓番屋がありました。今でも立派な建物です。次に門を入って西本願寺に行きました。巨大で立派な伽藍を見学しました。
 ところで、麻里府明楽寺の僧籍を持つ奥様は、この西本願寺に勤めておられたそうです。この伽藍のどこでご住職と運命的にお知り合いになったのでしょうか。

 西本願寺の太鼓番屋       立派な西本願寺の伽藍    西本願寺、5時閉門中
  

 五時になると西本願寺は閉門します。閉門直前に慌てて外に出ました。次は、新選組に粛清された伊東甲子太郎遭難地に行きました。大酒を飲ませて粛清したとのこと。脱退後、討幕派に寝返ったのが許せなかったのでしょう。この頃、新選組は強い相手には酒を飲ますなどして、ある意味卑怯な手を使って粛清していたようです。油断した相手も悪かったのでしょうが。伊東甲子太郎遭難地から、いったん京都駅近くのホテルに戻って仮眠しました。

  伊東甲子太郎遭難地       鳥丸御池近くで夕食      美味しいご馳走に舌鼓
  

 仮眠から目覚めると、次の幕末史跡を訪れることにしました。その前に腹ごしらえをしました。地下鉄京都駅から鳥丸御池駅に行きました。そして、降りた駅近くで夕食をとりました。薩摩料理のお店でした。
 夕食を食べ終わると、暗い夜道を京都御所に向かいました。途中、足腰をお守りする護王神社に寄りました。そして、私が一番見たかった蛤御門に行きました。門は幕末当時のままで、弾痕がたくさん残っていました。ここで長州藩は。会津藩と薩摩藩と戦ったのですね。この戦いで久坂玄瑞や来島又兵衛が亡くなりました。山口県民の私としては、深くため息をつかざるをえません。
 会津藩はこの頃が絶頂期だったのではないでしょうか。一昨年、会津若松市を訪問しましたが、苦難の史跡が多数ありました。長州藩は蛤御門の変で朝敵になりました。でも最終的に討幕を成功させたので無念を晴らしたことになります。一方、会津藩は最後には朝敵に貶められてしまいました。徳川に忠誠をつくし京都の治安回復に一生懸命頑張ったのに、悔しかった気持ちが分かるような気がします。

                  弾痕が多数残る、夜の蛤御門を入る


 蛤御門から御所の中は真っ暗でした。少し入ると、来島又兵衛が銃弾を浴びたと言われる場所がありました。来島又兵衛が撃たれたことにより、長州勢は一気に崩れました。今考えれば、もう少し、慎重に構えれば良かったのにと思います。池田屋で同志を一気に失ったため、憎しみのあまりの勇み足だったと思います。

     足腰を守る護王神社     弾痕が多数残る蛤御門    ホテルに戻りしばし休憩
  

 この戦いの敗北で長州藩は、薩摩藩と会津藩への憎しみがより強まりました。その一例として、田布施町では薩摩藩が雇った加徳丸が襲われ、薩摩藩士が殺された事件がありました。その後、薩摩藩とは疑心暗鬼ながらも同盟を結びました。この同盟以降、会津に対する憎しみだけは残り続けたようです。
 これらの事は、幕府以上に会津藩を追い詰めることに影を投げかけているように思います。これら戊辰戦争のことなどを考えながら真っ暗な御所の砂利道をしばらく歩きました。御所を抜けると、京都駅近くのホテルに戻り休憩しました。そして、明日も早朝から、京都内の幕末史跡をまわるため早めに就寝しました。

                今回訪れた京都の町並みとコース

田布施町 西の寺子屋 亥の子(いのこ)と石臼を体験

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 田布施町 田布施西小学校の「西の寺子屋」に関わる子供達が、郷土館で亥の子(いのこ)と石臼の体験をしました。「西の寺子屋」は地域の子供達を育成する会です。私はこれまで、石臼が使えるように取っ手などを修復しました。今回、亥の子を担当しました。朝、郷土館長のNさんと一緒に、亥の子頂頭部の穴に差し込む御幣部分を修復したり八本の紐を亥の子に繋いだりしました。

 亥の子に八本のひもを繋ぐ    御幣を付ける棒と穴       御幣を付けた亥の子
  

 亥の子は、今では極めて珍しい風習になってしまいました。実質絶えています。私が知っている範囲では、柳井市の平郡島の平郡東小学校で行っているぐらいなものです。今やこの風習を見たことがある方は、90歳以上に限られます。それは昭和一桁代にほぼ絶えてしまったからです。今、町おこしや商店会などで復活又はなんとか保存している町があると聞きます。
 亥の子を体験する前に子供達に、亥の子と子供の関係や由来などについて解説しました。そして、八人一組で亥の子を動かしてみることにしました。しかしながら、最初は力の入れ具合が分からず、亥の子が綺麗に動きませんでした。しかし、だんだん亥の子歌に合わせて動かせるようなりました。親も子も初体験の亥の子でした。

             80年位前に絶えてしまった亥の子を体験する子供達


 亥の子を郷土館の外で体験している間、もう一つのグループは郷土館内で石臼の体験をしました。事前に担当指導者が、石臼で挽くための大豆を炒ったり、石臼を専用の台に乗せるなど準備しました。私も、石臼がずれないように釘を打ったりしました。準備が完了した頃の午後3時に子供達がやってきました。

   左は上臼、右は下臼      使える状態にした石臼       大豆を炒るなど準備
  

 石臼は、昭和初期頃まで各家庭で使われていた豆などを製粉する道具です。水車で回す大型の石臼もありますが、今回子供達に体験してもらったのは家庭にあった手回し式の石臼です。一人で動かしたり、二人で動かしました。今の製粉機はモーターで回すため効率的ですが、人の手で回す石臼はなかなかすぐには粉になりません。その昔、この石臼を回すことで、我慢したり辛抱したりするような心が養われたと聞きます。

                     初体験の石臼、うまく回せたかな


 子供達が大豆を石臼で製粉したきな粉、最後にみんなに均等に配られました。私が子供の頃、このきな粉に砂糖を少し入れて牛乳に混ぜて飲んでいたように記憶しています。今回体験した亥の子と石臼は、子供達にどううつったでしょうか。少しでも昔の生活を想像できたらと思いました。

    石臼を綺麗に掃除    きな粉をみんなで分ける        最後に終わりの挨拶
  

田布施町 麻里府 中郷周辺ウォーキングの下見(2/2)

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 明楽寺を出ると、招魂場に行きました。以前、麻里府にも招魂場があると聞いたことがあったのですが、どこか分かりませんでした。明楽寺でその場所を聞いて初めて、その場所が分かりました。山道をうろうろ探しながら歩いると、山の頂上に招魂場がありました。麻里府地区の方々の名前が彫られた石碑が並んでいました。麻郷の招魂場は毎年4月1日に催しがありますが、この招魂場は同じようにあるのでしょうか。

                 山の頂上にあった、麻里府地区の招魂場


 招魂場からは南側の下り道を降りました。最近は招魂場を訪れることが少ないのでしょう、倒木が道をとおせんぼしていました。山道を降りると、今度はあつまんだ地蔵尊に行きました。このお地蔵様は南平和第十番札所です。かつては、ここをたくさんの巡礼者が訪れていました。
 次に、近くに住むHさんに中郷集会所を開けていただいて荒神様を見学しました。Hさんありがとうございました。とてもきれいに管理された集会所でした。続いて、雨乞い岩に行きました。

   あつまんだ地蔵尊        中郷集会所とHさん      雨乞い岩へ坂を登る
  

  雨乞い岩はこの1月に麻里府在住のKさんに教えていただきました。岩へは半ば崩れかけた急な山道を登ります。しばらくして雨乞い岩に着きました。その昔は中郷を見下ろすことができる絶景地ではなかったかと思います。しかし、今は倒木が邪魔をし、かつ竹藪に囲まれて展望はありません。雨乞い岩を降りると、雨の中を明楽寺の前身と言われる十心庵跡に行きました。今、その場所はただの高台で庵を思わせるものは何もありません。

    雨乞い岩に到着        十心庵跡に立って       住吉神社の前身跡
  

 次に、麻里府で一番尊ばれている住吉神社の前身だった明神社跡に行きました。その明神社は岩の上にありましたが、江戸時代に大水でご神体などが海に流されたそうです。その流れ着いた場所近くの山に新たにお社を建てました。それが今の住吉神社です。その明神社の名残の礎石を今でも見ることができます。

              今回の下見ウォーキングの最後、BerryBerryで休憩


 予定では、明神社跡を見てから上郷を歩く予定でした。しかし、時間がありません。来年、上郷を中心にウォーキングすることにしました。明神社跡からはスタート地点に帰りました。途中、久しぶりにBerryBerryに寄って楽しい休憩時間としました。11月の本番ウォーキングでも、皆さんとBerryBerry寄って休憩するつもりです。BerryBerryを出ると、麻里府公民館に向かって歩きました。途中、移動販売車を見かけました。私は、ゼリーを二個買いました。

      移動販売車を覗き込んで購入         麻里府の海岸で夕日を見る
 

 移動販売車に分かれを告げると、麻里府の海岸に出ました。小学校時代に臨海学校でこの海岸に来ました。着替えは、当時木造だった麻里府小学校でした。海岸で夕日を鑑賞しながら波打ち際を歩きました。そして、麻里府公民館に付きました。下見に参加された方々、お疲れ様でした。

            麻里府の尾津西と中郷地区の下見ウォーキングコース


京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(6/8)

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 夜に京都御所を巡った次の朝、ホテルで朝食をとりました。バイキング方式のため、サラダ,ハム,卵,パン,ジュースなどを選びました。気分よく朝食を済ませると、バッグ類を受付に預けて京都駅を出発しました。最初に行ったのは京都霊山護国神社です。幕末・明治維新関連の歴史が好きな人ならば一度は訪れる場所です。坂本竜馬など維新の志士たちが祀られています。

   私が選んだ朝食     到着した京都霊山護国神社   特操の碑 〇:佐藤栄作書
  

 京都霊山護国神社に到着しましたが8:00前でした。そのため、開門の8:00まで周りを散策しながら観察しました。すると、特攻隊の碑でしょうか「特操の碑」があり、その右下に佐藤栄作書とありました。こんな所にも佐藤栄作の書があるのですね。明治100年時の内閣総理大臣でしたので、明治維新や戦没者に関わる書を多く依頼されたのでしょう。

                 坂本竜馬墓地付近から京都市内を見下ろして


 門が開くと、拝観料を払って中に入りました。すると山の斜面に明治維新に関わる勤王討幕の志士達のお墓や慰霊碑が所狭しと並んでいました。一番目につくのは、やはり坂本竜馬と中岡慎太郎の墓地でしょうか。二人の銅像が建っています。近江屋で二人は暗殺されました。大政奉還直後で、誰が犯人かいろいろ説があります。

  坂本と中岡の銅像        長州藩志士達の列柱     大村益次郎の墓地
  

 この京都霊山護国神社に祀られているのは、さすがに長州藩の志士が多いようです。ずらりと何列にも並んだ列柱は壮観です。その列柱を見守るように、高杉晋作,入江九一,来島又兵衛,久坂玄瑞など長州藩を先導した志士が祀られています。

        長州藩の志士達を見守るように建てられた高杉晋作などの慰霊石柱


 京都霊山護国神社の一番上には、この慰霊碑を作ることに貢献した木戸孝允と妻幾松の墓地があります。幕末を生きぬいた木戸孝允は、明治になってから維新に命をささげた志士達を弔って回ったそうです。仲間達が多大な命を投げ出して作り上げた成果を、心の中で報告したのでしょう。

     木戸孝允の墓地       左隣の幾松の墓地      梅田雲浜の慰霊碑
  

 獄死した梅田雲浜の慰霊碑を最後に見てから京都霊山護国神社を出ました。明治維新はいわば革命です。その革命ためにどれだけの犠牲があったか、木戸孝允は誰よりも知っていたと思います。彼の晩年は、志士達の鎮魂のための行脚の日々だったそうです。例えば東北の地にも赴いて、暗殺された世良修蔵墓所を訪ね石灯篭を建てたとか。そして、この京都霊山護国神社の建立に心をくだいたとか。

                                      今回訪れた京都の町並みとコース

第5回 田布施町 ウォーキング大会の開催

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 第5回の田布施町ウォーキング大会が開催されました。私は、第2回第4回,そして今回参加しました。これまでの2回は古墳コース(9km)でしたが、今回は寺社巡り7kmコースに参加しました。当初私が先頭を歩くことになっていたのですが、A君に先頭をお願いしました。私はもっぱら、各史跡の解説と撮影をしました。

  ウォーキング大会受付     スタート前に準備体操   10時 ウォーキングスタート
  

 去年も天気が良かったのですが、今回はさらに雲一つない青空でした。歩いていると、各所の田圃で忙しく稲刈り脱穀をしている姿がありました。こうした秋の風物詩を見ながらの楽しいウォーキングでした。ウォーキングの途中にある史跡で立ち止まりながら、その史跡の解説をみなさんにしました。

      田布施町の木であるクロガネモチの大木を右後ろに見ながらウォーキング


 麻郷公民館に着くまで、市場跡、道路改道碑,田布施町の木であるクロガネモチの大木,江良碧松の生家,江良碧松の詩碑,道路改道碑,長福寺,高松八幡宮,西円寺,そして道路改道碑で立ち止まりました。青空の下、快適なウォーキングが続きました。

   西円寺を出発            麻郷公民館に到着      受付を済ませる
  

 中間地点の麻郷公民館に11:00ジャストに到着しました。ここで受付を済ませて、トイレ休憩です。7分程度休憩した後にスタートしました。南に箕山を見ながら、麻郷の田園の中を歩きました。しばらく歩くと長い石階段下に着きました。この石階段を登ると麻郷神社です。この神社はかつて麻郷護国神社と呼ばれ、幕末に命をささげた第二奇兵隊などの御霊が祀られています。ここは展望が良く、遠くに平生湾が一望できます。

                 長い石階段を登って麻郷神社に到着


 麻郷神社を出ると、国木田独歩吉見家仮寓跡碑前で立ち止まり、60年前の田布施町統合時まであった麻郷村立麻郷中学校跡碑を見ました。続いてどんどん歩き、浮島神社に行きました。ここには、力石に刻まれた江良碧松の詩碑があります。江良碧松の詩碑,浮島神社の奇祭ひねきり,そして南平和霊場第二札所である川添寮について解説しました。この浮島神社をもって最後の史跡解説は終わりました。あとはゴールに向かってどんどん歩きました。

    浮島神社に到着        ようやくゴールに到着       ゴールの受付
  

 なお、ウォーキング大会が終わると婦人会が出しているお店に行きました。そして、事前にいただいたチケットを出してうどんをいただきました。疲れていたためか、とても美味しいうどんでした。ご馳走様でした。食べながら雑談していると、運動場ではダンスが、続いて地区対抗の徒競走が始まりました。徒競走を見ていると、つい自分の地区を応援してしまいました。

                思わず応援してしまった地区対抗の徒競走


 今回のウォーキング大会は快晴に恵まれました。そして、時々涼しい風が吹いていたので、汗ばむこともなくさわやかでした。田んぼの農作業を見ながら、そして白菜やキャベツなどの畑を眺めながら歩き、秋をいっぱいに感じることができました。10月らしい快適なウォーキングでした。ウォーキングに参加された方々、そしてスポーツ大会に参加された方々、お店を出された方々など、お疲れ様でした。

              今回ウォーキングした、寺社巡りコース(7km)

田布施町 第4回史跡探訪 地方史研究会(1/2)

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 田布施町地方史研究会による今年で4回目の史跡探訪がありました。去年雨で中止となりましたが、今年は最高の秋晴れでした。中央公民館に集合して、9:00に出発しました。最初の史跡は、天王原古墳です。これまで何度も行きましたが、天井石が下斜面にずり落ちていることを初めて知りました。続いて、誓立寺に行きました。天正年間に織田信長との和解で、石山本願寺(今の大阪城)から毛利方のこの場所に一派が逃れてこの寺を建てたとのこと。

  天王原古墳の石室         誓立寺を見学       草に覆われた納蔵原古墳
  

 続いて、誓立寺に車を置いて納蔵原古墳に行きました。夏の間にすっかり草に覆われていました。石室への入口近くにスズメバチがぶんぶん飛んでいました。巣があるのでしょう。そのため、石室の中を覗けませんでした。誓立寺に戻って車に乗りました。そして、大波野溜池に行きました。すると、初めての光景に出合いました。溜池が空になっていたのです。今頃は田んぼに水が必要ないので、溜池を干すようです。

                 干されてほとんど水が無い、大波野溜池


 大波野溜池を見学すると、小行司に入り教円寺に行きました。このお寺の栃の木の大木跡を見たり、鐘突堂などを見学しました。このお寺の傍に、多賀神社への登り口があります。続いて、多賀神社へ行き、広場に車を駐車しました。車を降りて多賀神社に行こうとすると、フジバカマの花にとまって蜜を吸う、蝶のアサギマダラを見ました。アサギマダラは、台湾や中国本土と日本の約千kmを遠距離飛行する驚異的な蝶なのです。

  教円寺と立派な鐘突堂      蝶のアサギマダラ        多賀神社に到着
  

 アサギマダラをじっくり見終わると、緩い坂道を登って多賀神社に行きました。多賀神社の宮司さんが道を清掃しておられました。多賀神社を見学中、みなさんのお弁当をにこにこパークに取りに行きました。お弁当を持って多賀神社に戻ると、紙芝居の上演中でした。紙芝居が終わると、極上のお弁当を食べました。ご馳走様でした。

                    小行司に関わる紙芝居の上演


 昼食休憩が終わると、多賀神社傍にある夫婦松跡と天寿の松跡に行きました。去年5月のウォーキング時にも来ました。二代目の松を植えたそうですが、その松も枯れてしまったそうです。続いて、子桜の石碑と小野太市の石碑に行きました。小野太市の石碑の隣りに、折れた石碑がありました。たくさんの文字が刻まれていました。ぜひ調査したいものです。今度、拓本を取ってみたいと思いました。

  夫婦松跡と天寿の松跡      子桜の石碑          小野太市の石碑を見上げて
  

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(7/8)

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 京都霊山護国神社を出ると、すぐ隣にある霊山歴史館に行きました。展示されている史実は特に目新しいものはありませんでした。しかし、池田屋事件などがジオラマで再現されていたり、京都の史跡を3D映像で見ることができます。幕末の歴史を学ぶための入門として訪れるのに良いと思いました。田布施町郷土館は狭いため、奇兵隊資料などを所狭しとぎっしりと展示しています。この霊山歴史館はたくさんの人がゆったりと学ぶことができます。


   霊山歴史館入口         館内各階展示の様子    時系列にゆったりと展示
  

 霊山歴史館を出ると、下り坂を高台寺に向けて歩きました。高台寺横のゆったりとした石階段を降りました。この小道は「ねねの道」と呼ぶそうです。カップルが歩くには雰囲気がとても良い小道なのだそうです。ただ、有名な清水寺も近いためか、カップルや家族連れなどで混雑していたため落ち着いた雰囲気はありませんでした。和服姿も多くみられました。その和服姿の方の何人かが外国語を喋っていました。海外からの旅行客なのでしょう。

              高台寺横の静かな下り階段とねねの道


 ねねの道を歩き、すぐの所に御陵衛士屯所跡がありました。新選組と別れた伊東甲子太郎が御陵衛士に任命され勤王を説きました。清河八郎らと共に江戸から将軍警護の名目で京都に来ましたが、佐幕一直線だった新選組にすべて粛清されました。佐幕しか考えられなかった新選組からすると、彼らは裏切り者で許せなかったのでしょう。当時の日本は、勤王,攘夷,佐幕,討幕などが錯綜し諸子百家状態だったのではないでしょうか。

    御陵衛士屯所跡       昼食にお蕎麦         賑やかな八坂神社前
   

 当時の京都は孝明天皇がお住まいでしたので、勤王の志士にとっては聖地にも等しい場所だったと思います。天皇をめぐって、各派の駆け引きが激しく繰り広げられました。尊王攘夷,公武合体,尊王討幕と目まぐるしく変わりました。誰もその抗争を止めることができず、幕府は京都所守護職を置くなどして治安に勤めましたが、尊王討幕の勢いを止めることができませんでした。そして、鳥羽伏見の戦いで決着がつきました。
 明治維新は必然的にできたのではなく、奇跡が起きたのに等しいと私は思います。その奇跡が起きなければ、日本が列強に分割されたり植民地になってもおかしくない歴史があったはずです。幕末は日本の歴史を決める、きわめて危ういターニングポイントだったのです。

 黒糖わらび餅で有名なお店     どれにしようか迷う   私がいただいた黒糖パフェ
  

 ねねの道を過ぎて、お昼休憩として蕎麦を食べました。蕎麦を食べ終わると、八坂神社前に出ました。この付近は、たくさんの旅行客などでとても混んでいました。その混雑したお店の中で、黒糖わらび餅で有名と言われるお店に入りました。その二階で、私は黒糖パフェをとても美味しくいただきました。甘党の私は来て良かったです。

  一人がやっと通れる通路    古都の風情あふれる街  左:台湾女性、右:お店の方
  

 甘く美味しい黒糖パフェを堪能すると、しばらく談笑後にお店を出ました。そして狭い通路を通りました。人が一人通れる狭い通路です。私はどこに行くのかさっばり分かりません。ガイド役の息子の言われるままにす進むだけです。しばらく歩いていると、台湾の女性が声をかけてきました。自分を撮って欲しいようです。私は中国語はさっばりで、息子が対応していました。ここは外国の旅行ガイドに掲載されているのでしょうか、いろいろな国の方が自取り棒を持ちながら撮影していました。

              今回訪れた京都の町並みとコース

岩国市 青潮短歌会 西岩国支部の方々を、古墳にご案内し解説

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 今回、青潮短歌会西岩国支部の方々を、田布施町と平生町にある古墳を中心にご案内しました。私の知っている田布施在住の一人が会員なのですが、その方の依頼により会の方々を古墳にご案内しその解説をしました。会の方々はJR田布施駅で待ち合わせ、田布施町郷土館で私と合流しました。最初、郷土館を見学していただきました。展示中の「冨永有隣と明治維新に関わる人達」を見ていただき、続いて岸・佐藤元宰相の展示室を見ていただきました。

  岸・佐藤元宰相の展示室      後井古墳近くに駐車     もうすぐ後井古墳
  

 郷土館を出ると、三台の車で後井古墳に行きました。後井古墳の少し手前で車を降り、古墳まで歩きました。後井古墳は今、地元の方々に秋葉神社として守られています。綺麗に清掃された道を登って行くと、後井古墳の石室前に着きます。石室前で古墳の年代などについて解説しました。そして、皆さんと一緒に石室内に入りました。皆さんは、石室の岩の大きさに圧倒されていました。

           後井古墳の石室内で、青潮短歌会西岩国支部の方々


 後井古墳を見終わると、田布施町の「ほりを」で昼食です。季節料理を美味しくいただきました。ご馳走様でした。続いて、皆さんのご希望でしょうか、田布施交流館で買物です。先日解禁のいちじくワインを購入された方がいました。ここでしか手に入らないで購入したとのこと。

 昼食をいただいた「ほりを」    田布施交流館で買物    平生町佐賀の白鳥神社
  

 続いて、田布施町から平生町に移動しました。そして、この7月の佐賀ウォーキングで行った白鳥古墳に行きました。最初に白鳥神社にお詣りした後、この古墳について解説しました。そして、この古墳の大きさを体感していただくため古墳を一周しました。なお、白鳥神社は白鳥古墳の後円部上にあります。

             神花山古墳入口、このそばにある舗装された山道を登る


 白鳥古墳を見終わると、次は神花山古墳です。道を少し戻って阿多田交流館前に車を駐車し、しばらく歩いて回天の慰霊碑を見てから神花山古墳に行きました。この古墳は山の上にあります。歩きやすいように舗装された山道を登りました。その道は綺麗に清掃されていました。

            神花山に葬られていた若い女性をかたどった巨大な像


 舗装された歩きやすい山道をほぼ登り切った所に巨大な像があります。この神花山古墳に葬むられていたのは若い女性です。その女性をかたどった巨大な像なのです。この女性は当地では女王とされていますが、巫女,王の妻,王の娘かも知れません。当時の髪型,装束などを参考に作られています。見上げると、首が痛くなるほどの巨大な像です。

 女性が葬られていた石室      阿多田交流館を見学     ベルゼで喫茶休憩
  

 神花山古墳に着くと、後円部に登って女性が葬られていた竪穴式石室を見学しました。この古墳からは海が見渡せます。この女性が子供の頃から眺めたであろう、海が見える場所に古墳が作られたのではないでしょうか。神花山古墳上で、この時代の出来事や古代の田布施や平生などについて解説しました。神花山古墳を下りると、車を駐車した阿多田交流館を見学しました。そして、最後にベルゼに行って喫茶室で休憩しました。その後、皆さんは岩国方面に向かって帰られました。参加された青潮短歌会西岩国支部の方々、お疲れ様でした。

          青潮短歌会西岩国支部の方々と巡った古墳などのコース

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