大恩寺を出ると土井の内に行きました。ここには、薬師堂があります。中には立派な薬師如来像があり、薬師和讃が書かれた板もありました。近所の方々は、この薬師堂に集まって薬師和讃を唱えるのでしょうか。よくは知らないのですが、この和讃は薬師如来の徳を唱えた御詠歌のようなものではないでしょうか。
土井の内の薬師堂 旧薬師川右岸を散策 灸川の堤防沿いを散策
薬師堂のすぐ近くに、石の道しるべがあります。ここから左に向かうと余田に、右に向かうと平生と刻んであります。かつてはここが、柳井からの道と平生からの道の合流地点だったのでしょう。薬師堂をすぎて、旧薬師川を通って灸川に向かいました。法寺坊の墓地横を通りすぎると、堀川に出会います。この薬師川と堀川の合流地点には、かつて船回しと呼ばれる池がありました。海から堀川を上げ潮に乗ってきた船が、ここで舳先を回転させるのです。ここで荷を降ろして新たな荷を積み込みます。そして、同じ堀川を引き潮に乗って再び船は海に向かったのです。
江戸の昔、田布施の一本松や波野市などを流れていた薬師川の痕跡
船回し跡を過ぎると、どんどん旧薬師川右岸を進みました。やがて、灸川に突き当たります。ここに来ると、かつての薬師川の川幅を実感できます。今は小川程度の水しか流れていませんが、今の田布施川を築く前は相当な水量だったと思います。江戸時代以前の田布施はこの薬師川の氾濫に悩まされ続けてきました。しかし、江戸時代に定井手から人工的に田布施川を築いてからは、水のほとんどが田布施川に流れるようになり氾濫が少なくなりました。
江戸時代と同じ流れの灸川 かつて平生と田布施を結んだ石橋
灸川には立派な石橋が残っています。この橋は、かつて竪ヶ浜から田布施に来る人が渡っていた橋です。江戸時代初期、竪ヶ浜沖はまだ海で平生も海の底でした。地名「竪ヶ浜」は、かつて海岸だったことを明確に示しています。竪ヶ浜方面からくる人は、荒木の山沿いの道を経由してこの橋を渡りました。そして、薬師川沿いに田布施に向かったのです。
昔は賑やかだった天神様 レトロなポスト発見! 田布施市の祠
石橋の近くに、ぜみ(清水)が湧く岩があります。かつてこの付近は海岸近くでしたので、山から染み出る岩清水は貴重だったのではないでしょうか。岩清水を見た後、来た道を戻って天神様に行きました。そして、田布施市の祠(通称:恵比寿様)を見学しました。その近くに、懐かしいレトロな郵便ポストがありました。
幕末に僧錬隊の駐屯地だった円立寺
次に、円立寺に行きました。ここは、幕末元治元年(1864)に結成された僧錬隊が駐屯していました。お坊さん達が結成した奇兵隊と言ったところでしょうか。経費の関係で長続きしなかったようです。なお、円立寺は月性(柳井の妙円寺十世住職)の叔母(織江)が嫁いだお寺です。海防論者の月性に影響を受けて、僧錬隊を結成したのかも知れません。
なお、吉田松陰や杉家の菩提寺である泉福寺の十世住職大敬は月性の叔父にあたります。吉田松陰と月性はお寺のネットワークを通じて知り合ったのではないでしょうか。吉田松陰は、月姓の海防論などに影響を受けたと思われます。
人工の川、田布施川 さくら橋のモニュメント
円立寺を見学すると、次にフランス食堂前のお地蔵様に行きました。このお地蔵様は平和霊場六十六番札所です。板にそのことが書かれていますが、文字が今にも消えそうなほど薄くなっています。次に、国森の古塚に行く予定でしたが、うっかり忘れてしまいました。2月の本番ウォーキングでは忘れないように訪問しようと思います。これで、今回の下見ウォーキングは終わりです。参加された方、お疲れさまでした。
ところで26日から10日ほど、私は東京の我家に行きます。時間があれば東京をウォーキングしようと思います。
下見で歩いた田布施町商店街周辺の史跡コース
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田布施町 商店街周辺の史跡を訪ねてウォーキングの下見(3/3)
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