日光寺内でお地蔵様などを見ていると、改築した時の記録などが書かれた木札が天井に掲げられていることに気が付きました。一番大きく書かれていたのは、今から100年位前の大正元年(1912年)の改築でした。当時は、日光坊と呼ばれていたようです。
さらに、古い木札が掲げられていました。その木札は代々住職をしていた尼僧の戒名のようです。一番古いのは、今から約300年前の享保9年(1724年)に亡くなった「釈〇〇信女」と書かれている方です。戒名に釈が付いていることから浄土真宗と思われます。また、尼僧名が多いことから、言い伝えどおり尼僧が住んでいたことが分かります。
〇内に書かれているのは「釈〇〇信女 享保九年〇〇」
さらに安永年代(1772~1781)ですが、亡くなった方が多かったのか、又は住職の入れ変わりが多かったことが分かります。江戸時代からずっと大正時代までの長い間、日光坊と呼ばれていたようです。庵と坊の違いはなんでしょうか。ところで、江戸時代は日光坊のあった場所は石城山の山麓にあたります。当時、石城山には神護寺があり、たくさんの僧坊がありました。もしかして、神護寺に関わる尼僧の僧坊が日光坊だったのではないかと、思いを巡らせてみました。果たして事実はどうだったのでしょうか。
上段の荒神様 ため池傍の賽様 ため池脇の石碑
今回、日光寺を訪れて史実が一つ明らかになりました。それは、この日光寺が平和第四十五番霊場だったことです。それを示す木札があったのですが、これまで私一人ではどうしても読めませんでした。しかし、私が太陽光線を木札に斜めに当てると、かすかに文字が浮き上がったのです。木札を手にしている私には読めないのです。この木札は、二人いないと読めないのです。今回の下見での大収穫でした。とても嬉しかったです。
上のため池に繁殖したアゾラ 急階段上の祠 岩永地区のお地蔵様
日光寺は今、上段地区の集会所になっています。かつては、ここで尼僧が住んでいて上段地区のおつとめをしていたのでしょう。麻郷は昭和50年頃まで尼僧(尼さんとも、おびいさんとも)がいました。上段地区では、昭和10年以前に尼僧がいなくなったようです。その理由はなんでしょうか。日光寺を出ると、Y氏の家を訪ねました。そして、いろいろ上段の歴史について教えていただきました。ありがとうございました。続いて、荒神様や賽様などに行きました。そして、帰りに岩永の荒れた山の中を通りました。
M君の経営する花卉栽培ビニールハウスを見学
下見を終わって岩永から朝市に戻る途中、同級生のM君に会いました。彼はフラワーパークに卸す花卉栽培をしているそうです。その温室を見せていただきました。さらに、明日捨てる予定との花を、各人一つずつ鉢をいただきました。ありがとうございました。
これで2度にわたる下見が終わりました。すべてのコースをウォーキングすると、相当な距離になります。このため、本番ウォーキングでは誓立寺周辺の史跡を省略しようか思います。さて、あとは良い天気を願うだけです。
2回目の下見で歩いた上段地区のコース
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田布施町 大波野周辺ウォーキングの下見2 (2/2)
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