般若寺火祭り後、朝鮮通信使についての講座がある上関町総合文化センターに急ぎました。着いた時、すでに講座は始まっていました。空いている席にそっと座りました。講座の途中で雨森芳洲の話が出た時には嬉しくなりました。本を読んだことがあるのですが、朝鮮通信使と雨森芳洲の外交交渉の苦労話が印象に残っています。
上関町総合文化センターの朝鮮通信使資料展示会場
朝鮮通信使が始まる前、豊臣秀吉の朝鮮侵攻がありました。元々朝鮮通信使が始まった理由は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の戦後処理のようです。朝鮮半島から連れてこられた人々を見つけて連れ帰る事業だったとか。その後続いた朝鮮通信使、雨森芳洲は朝鮮の日本に対する不信感をどう払拭するかなど苦労したようです。
朝鮮通信使装束のパネル
朝鮮の歴史観には中国を中心とした中華思想が色濃くありました。実際、当時の朝鮮は清の冊封体制に組み込まれていました。一方、中華秩序の外にいた日本は中華思想がありません。朝鮮と日本のこのような歴史観の違いからくる軋轢は今も色濃く残っていると思います。そんな中、雨森芳洲の外交と交流の考え方は今でも通用するのではないかと思います。また良好な人間関係の築き方も示唆していると思います。
朝鮮通信使パネル群1 朝鮮通信使パネル群2 朝鮮通信使講座