偕楽園に着いて回りを見渡すと、神社があることに気が付きました。時間も十分あるので、この常盤神社をお詣りしてから偕楽園に行くことにしました。この神社、奥宮が無く建物の様式が比較新しいので最近建てられてのかな?と思っていたら、その通りで、明治になってから徳川光圀と徳川斉昭を祭神として仰ぐ神社として建てられたとのこと。戦時中に焼けて再興したことも新しい理由のようです。
道端の大日本史記念碑 常盤神社の鳥居 常盤稲荷の巨木にタッチ
常盤神社の広い境内に入ると、右奥に常盤稲荷神社がありました。常盤神社と常盤稲荷神社の関係は何なのでしょう。常盤稲荷神社入口に巨木があり、その幹に縄が張ってありました。巨木が大好きな家内が、さっそくその巨木の幹にタッチしていました。境内を散策していると義烈館に気が付きました。こんな館が偕楽園隣にあることを初めて知りました。来なければ気が付かないところでした。
常盤神社境内横の義烈館
さっそく義烈館に入って見学しました。私以外は歴史に興味がないのか、館外でトイレ休憩することになりました。中に入ると、順路は反時計回りでした。最初は水戸藩の成り立ちからの説明がありました。私は戦国時代の関東の歴史も多少知っているのですが、かつて水戸周辺は佐竹氏の領国でした。佐竹氏は小田原の北条氏などと戦っていました。その佐竹氏の城跡を水戸藩が利用したのです。
水戸藩の成り立ち 絶えた水戸の焼き物 250年かけた大日本史
その佐竹氏ですが、室町時代頃から水戸で勢力を張っていたのですが、江戸時代初めに水戸から今の秋田県(久保田藩)に移封させられました。極寒でしかも領地も減りました。つまり水戸を徳川に奪われたのです。その恨みなのでしょう、戊辰戦争時秋田以外の東北列藩は東北列藩同盟でまとまりましたが、秋田県だけは新政府軍側についたのです。そのため、東北列藩同盟側から侵攻されました。幕末期に倒幕になるのは、長州の毛利氏とよく似ています。戦国の恨みが時を超えたのです。
義烈館内の展示の数々
この義烈館に、明国から日本に亡命した朱舜水が掲示されていました。朱舜水の話は聞いたことがあるのですが、徳川光圀が保護していたことを初めて知りました。豊臣時代、日本は朝鮮半島で明と戦いました。その戦いの結果、日本が破れると共に明の力も弱まりました。結果として清が勃興して明が滅びました。その時、朱舜水は母国である明を去って日本に亡命したのです。かつて敵だった明の遺臣朱舜水の亡命を日本が受け入れたのが歴史の面白い所です。
最後の将軍徳川慶喜 明から亡命の朱舜水 東北のかなめ水戸藩
朱舜水が日本に亡命した頃、日本人を母に持つ鄭成功が、台湾を拠点に明の復興のため戦った話が超有名です。結局のところ明の再興はなりませんでしたが、歌舞伎「国姓爺合戦」として今に残っています。
水戸藩が作った巨大な太鼓と銅製大砲