久賀島神社の階段を降りていると、複数の石をレンガのように積み上げた小さな塔に気が付きました。たまたま外におられた、傍に住んでいる方にお聞きしました。すると、元々はその塔の上に宝塔が置いてあったそうです。それが、転がり落ちてしまったまま放置されたそうです。塔の下を見ると、確かに宝塔の一部が無造作に転がっていました。宝塔を元通りにするためにはそれなりに費用がかかります。何らかの理由で氏子さん達の同意が得られないのでしょう。教えていただいた方の庭にソテツが植えてありました。そのソテツを見せていただきました。すると、たくさんの実が付いていました。昔の沖縄では、飢饉をしのぐためその実を毒抜きして食べていたとか。
かつてはとても賑やかな通りだった平生中心部を散策
明治時代、久賀島南の新市には大きな家が立ち並んでいたようです。時は流れて今、武家屋敷を思わせる太鼓橋あり立派な門が朽ち果てようとしていました。続いて、小川今藏宅跡碑とお地蔵様3を見ました。久賀島を回り込むようにして、久賀島の南側にある石段を登り法輪寺跡に行きました。なぜ法輪寺は廃寺になってしまったのでしょう。檀家数が少ないとか、ご住職が絶えてしまったとか、廃寺になる何らかの理由があったのでしょう。
久賀島神社横のソテツ 廃寺の法輪寺跡 旧郵便局跡の碑
続いて旧郵便局跡の碑に行きました。そして、昭和30年代に平生町でもっとも賑やかだった真覚寺前の通りを少し散策しました。私が幼児の頃、旅館、薬屋、下駄屋、氷屋など数え切れないほどのお店が軒を接して並んでいました。とにかく人通りが多かったです。狭い通りを、馬車がゆっくりと通っていたことを覚えています。乗客ではなく荷物を運ぶ馬車でした。幼児の私には馬車は巨大に見え、馬が歩く時のパカパカ言う音を今でも鮮明に覚えています。
熊川に架かる橋傍のお地蔵様4 雁木が今でも残る大内川
続いて南蛮樋跡横を通り、熊川に架かる橋の袂に安置されたお地蔵様4を見ました。さらに道を南に進むと大内川に架かる橋に着きました。その昔、国道はこの場所から大内川上流に向かっていました。橋から上流を見ると雁木がまだ残っていました。私が小学生の頃、雁木脇には酒造場の長屋が並んでいました。作ったお酒を船に乗せるために雁木があったのでしょう。
昭和30年代の平生町の面影を巡るウォーキングのコース
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昭和30年代の平生町の面影を巡るウォーキング(2/x)
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