4月1日、田布施町麻郷にある麻郷護国神社の慰霊祭へ約50年ぶりに行きました。この近隣では通称「招魂場」と言っています。私が小学生の頃、通学路の途中にこの麻郷護国神社がありました。このため、道草ついでによく寄っては遊びました。
慰霊祭に集まった方々 神主さんの挨拶で慰霊祭開始
私が小学生の頃の慰霊祭は、遺族の方々が今回よりたくさん来ていました。そして、境内の広場に並んでゴザを敷いて、炊き出しがあったのでしょうか、みんなで食事をとっていたように記憶しています。今回、さらに昔の慰霊祭の様子を聞きました。戦前にも慰霊祭があり、戊辰戦争や日清日露戦争で亡くなった方々を慰霊していたそうです。当時は、小学生達がこの広場に並んで慰霊していたこともあったそうです。
戦没した方々の慰霊をしておられる神主さん
この麻郷護国神社は、江戸時代に麻郷の米出にあった上関宰判勘場(11月のウォーキングで碑を見学)の管轄だった第二奇兵隊の殉難志士の神霊を慰めるたに祀られたのが起源です。慶応2年(1866)のことだそうです。当初は、戊辰戦争時に京都や東北を転戦している時に亡くなった第二奇兵隊の方々を慰霊した場所です。会津討伐のきっかけの一つになった奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵(第二奇兵隊軍監)もここで静かに祀られています。時代は流れ、現代はもっぱら太平洋戦争で亡くなった方々を慰霊する場所となっています。
小さな巫女さん達が舞う中で慰霊
慰霊祭をとりおこなっておられたのは高松八幡宮の神主さんです。小さな巫女さん達の舞は、去年の9月に行われた10年に1度の大祭で見て以来です。約50年ぶりに訪れた慰霊祭でしたので、ほとんどの方は知らない方ばかりでした。それでも、数名の方は知っている方でした。昔の慰霊祭の様子や麻郷の変わりぶりなどを聞かせていただきました。この神社、鳥越地区と旭地区の方々が掃除して、慰霊祭は高松八幡宮の神主さんがとりおこなっておられるそうです。
郷中会など代表の方々の玉串奉奠 立ったまま慰霊する方々
昔の慰霊祭は、露店が出たり,青年の踊りがあったり,ごちそうが出たりと、たいそう賑やかだったそうです。ある方が「だんだん年寄りばかりになってさびしいものだ。」とおっしゃっておられました。慰霊祭に来ている方を見渡してみると、確かにお年寄りばかりで子供はほんの数人でした。青年にいたっては一人もいませんでした。
慰霊祭が終わって、記念品でしょうか、いただく方々
私の亡き父親は当時の満州で、重機関銃を担ぎながら移動し、死ぬような悲惨な体験をいくつもしました。ソ連と中国の国境から逃げている開拓団の悲劇などをいくつも見たそうです。銃で撃たれたこともあったそうです(運が良く、当たらなかった)。何人もの仲間を失った上、終戦後数年間中国に潜伏してようやく帰国することができました。日本に帰る船中でも、祖国を見ることなく亡くなった方が少なからずいたそうです。今この世に生きている人達は皆、これら先人の苦難の上に立っていることを知っておく必要があると思いました。
境内広場の満開の桜 神社入口で、大勢の帰る方々
↧
田布施町 麻郷護国神社の慰霊祭
↧