田布施川往復ウォーキングも最後になりました。旧関戸橋跡から新関戸橋を越えて、さらに庄山橋を越えました。
川添橋〜八海公会堂のコースと史跡
庄山橋の次の橋は、川添橋です。この橋のすぐ近くに、田布施川工事の石碑が二本立っています。一つは明治時代、二つ目は昭和になってのものです。田布施川は江戸時代に掘られた人工の川です。洪水などが減った代わりに、常に浚渫工事が欠かせません。去年も庄山橋から旧人島橋跡近くまで浚渫工事が行われていました。
川添橋東側近くに立つ田布施川工事の石碑二本
この石碑近くに浮島神社があります。この神社の境内には江良碧松の句碑があります。江良碧松が生前、この浮島神社で俳句の集まりを催していたそうで、江良碧松が読んだ句が石に彫られています。
なお、この浮島神社は昔、ひねきり明神と呼ばれていました。お祭りで娘さんがお尻をひねきられる奇習(お尻をつねる)があったそうです。ひねきられると縁付きが良かったとか。この少子化の時代、結婚しない若者が多いようです。ぜひこの浮島神社で、娘さんはひねきられて欲しいものです。意外と功能があり縁付くかも知れません。結婚前の若者を呼ぶ、地域の町おこしに使えると思います。
川添橋を後にして、どんどん田布施川右岸の堤防を下る
旧人島橋跡に着きました。この橋は、最初文化9年1812年に架橋されました。そして昭和2年に再架橋されました。そして、それぞれ石碑が立っています。この人島橋、私が幼児の頃にはまだ欄干が残っていました。私が小学生3年生の頃になると欄干が無くなり手すりも落ちて無くなりました。そして、あちこちに大きな穴が開いてきました。その穴を避けながら恐る恐る通っていたことを覚えています。私が小学生6年生の頃、ついに渡ることができなくなりました。
この場所に人島橋が架かっていた 架橋記念の石碑の間にあるお地蔵様
人島橋架橋記念の二つの石碑の間に無記名のお地蔵様が立っています。八海地区の方に聞いたことがありますが、処刑された第二奇兵隊反乱兵を弔うためのお地蔵様とのことです。このお地蔵様から百メートル上流(反対側川辺が灸川河口)に、第二奇兵隊の反乱兵十数人が処刑された川原があります。この近くに住んでいる八海地区の方々はつい最近まで、この処刑場に近い土手を通るときは「息を止めて足早に通るように!」と昔から言われてきたそうです。何か霊気があったのでしょう。
2代目と3代目八海橋が見えてくる 2代目八海橋の残骸
旧人島橋跡を過ぎると、八海地区に入ります。田布施川右岸の堤防脇の道を進んでいるとどんどん日が沈んで暗くなってくるのが分かります。2代目八海橋を横切ると、今は跡形も無い初代八海橋跡近くに行きました。江戸時代、初代八海橋がまだ無い時代はここから対岸まで渡し船がありました。
当時の麻郷の人が平生に行く時は、ここで渡し船に乗るか、500m位上流にあった人島橋を渡ってから竪ヶ浜方面に行ってから平生に行っていたのではないでしょうか。この付近、当時は干拓されたばかりの土地が広がっていたに違いありません。
渡し船があった場所、その後初代八海橋が架橋
初代八海橋跡から右に折れて数十メートルの場所に八海公会堂があります。この公会堂の中に、初代八海橋の写真が額に入って飾られています。この公会堂の前に、お地蔵様が置かれています。江戸時代の天保8年1827年に安置されたと、八海地区の方々に言い伝えられています。この年に初代八海橋が架橋されたのでしょうか。このお地蔵様、毎年秋に千坊山光福寺のご住職が祀りにやってきます。
八海公会堂と隣りのお地蔵様 天保8年1827年に安置のお地蔵様
これで、八海をスタートして新開橋で折り返す田布施川往復ウォーキングの終わりです。住んでいる場所によっては、例えば田布施町庁舎近くのあいさつ橋をスタートして八海で折り返す往復ウォーキングも良いでしょう。歩くだけでなく田布施川沿いにたくさんある神社仏閣や史跡を訪れてみると、意外な田布施の歴史に触れることができます。
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八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。
(1/7)八海天神社〜こくぼ橋 (2/7)平生湾〜灸川河口
(3/7)川添橋〜旧関戸橋 (4/7)あいさつ橋〜新定位堰
(5/7)水戸橋〜詩情公園 (6/7)田布施町庁舎〜旧関戸橋
(7/7)川添橋〜八海公会堂
田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略
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田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(7/7) 川添橋〜八海公会堂
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