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Channel: 東京里山農業日誌
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田布施町 波野市,天神周辺ウォーキングのための調査(2/3)

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 伏木観音堂を出ると、丘を降りて祇園観音堂に行きました。この観音堂はかつて防陽八十八ヶ所霊場でした。しかし、ここ何年も管理が行き届いていないようです。お堂の扉を開けて中を見ましたが、ホコリが溜まって掃除がされていないことが分かります。ここ何年もお世話する人がいないようです。世話をする人が無くなればこのようなるのは仕方ありません。

    手入れがされていない祇園観音            畳の上には埃が溜まる
 

 祇園観音はその昔、上に建物があったようです。礎石のようなものがありました。四角い建物の前にひさしのようなものがあったようです。建て替えたのでしょうか。それとも、焼けたか何かで今の場所に移築したのかも知れません。時間があれば、近くの人に聞いてみようと思います。
 次に、祇園観音から八坂神社前の十字路に出ました。そして、商店街の中心道路を歩きました。しばらくすると、お地蔵様がありました。立派な屋根がありますが、その由来などは分かりません。やはり時間があれば、近所の方に由来などを確認しようと思います。

       観音堂跡?の礎石              商店街の中心路に立つお地蔵様
 

 この商店街は、かつてとても賑やかでした。私が小中学生の頃、まだその賑わいが残っていました。食堂,電気店,金物屋,タネ屋,建材店,ふとん店などが軒を並べていました。これらのお店に同級生が何人かいました。我家は、この通りにあった上田無線でよく電気製品を買っていました。私が小学校2年の夏、テレビが我家にやって来ました。テレビと電蓄が合体した珍しい白黒テレビでした。そのテレビで初めて、海亀が産卵している映像を見ました。この商店街は、田布施町庁舎が天神から今の場所に移った頃から賑やかさがなくなってきたように思います。

                  賑やかだった頃の趣が残る古い店


 商店街道を歩いていると、石の鳥居が目に入りました。鳥居の向こうに小さな祠があります。ここは、波野市と呼ばれる市場がかつてあった場所を示しています。江戸時代、この波野市はとても有名だったとのこと。余田、竪ヶ浜など近隣からたくさんの人が買い物に来て賑やかだったそうです。その市場の名前が、今の「波野市」として残っているほどです。なお、石の鳥居はどこからか移築したものだそうです。移築した時に、元々刻んであった文字が削ったとのこと。文字をなんとか読み解けば、元々置かれていた場所が分かるかも知れません。

   この前で、かつて波野市が開かれる              大恩寺の飢民の碑
 

 続いて、田布施町の史跡では外せない、大恩寺の飢民の碑に行きました。元々は境内の東側にあったそうです。江戸時代享保17年(1732年)にウンカが大発生して稲が全滅したとのこと。そのため食べるものが無くなり、3割位の人が飢えて亡くなったとか。今の人口に当てはめると、5,000名の人が亡くなったことに相当するような、とんでもない飢饉えだったようです。その後、明和元年(1764年)に当時の大恩寺のご住職がこの飢民の碑が建てたとの記録があります。この飢饉を機に、大波野の神舞が始まったり、亡くなった民を弔う大師堂などが建てられたようです。平生町の佐賀には、小さな子供達が次々亡くなったことを弔うために建てられたとの言い伝えがある大師堂があります。
 去年、田布施の田んぼに小規模ながらウンカが発生しました。直径数mのサークル状に稲が枯れていました。大恩寺を出ると、次に土井の内の薬師堂に向かいました。

            今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)


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