続く土井の内の八日薬師堂は平和六十四ヶ所霊場です。土井の内の通りに面して建っています。この薬師堂から東に向かう道は、真っ直ぐ行くと平生の竪ヶ浜へ向かいます。90°曲がって北に向かうと柳井の余田に向かいます。その交差点に石の道しるべがあり、すぐ近くにこの薬師堂があるのです。昔はほとんどの人が歩いていました。柳井や平生方面から田布施に来た人は、この薬師堂を拝んだのではないかと思います。
土井の内の八日薬師堂 薬師堂の内部、薬師観音を安置
土井の内の八日薬師堂を過ぎると、真っ直ぐ竪ヶ浜方面に進みました。県道を横切って田んぼの中を灸川に向かいました。途中、法寺坊の墓地があります。江戸時代、ここには焼場があったそうです。この方寺坊の墓地に沿う様に薬師川(かつて田布施川の本流)が今でもわずかに流れています。今の田布施川を作った江戸時代、運河として掘川を掘削したそうです。その堀川と薬師川の交差点に船回しと呼ばれる船の向きを変える池がありました。江戸時代、田布施の物資はここから船に積まれて海に向かいました。
かつて田布施川の本流だった薬師川をどんどん下る
薬師川は元々田布施川の本流で、江戸時代川幅が10m位はあったのではないかと思われます。古地図には波野市と天神の間に、かつての薬師川が描かれています。この薬師川はよく氾濫したようで、江戸時代初めに、定井出から川尻にかけて人工の川(今の田布施川)が掘られました。新しい川のため新川と呼ばれました。
薬師川と灸川の合流地点に着くと、熊毛南高等学校に向けて灸川を堤防沿いに歩きました。そして、天神に向かって戻りました。
牛車が出たり市が立っていた、かつてはとても賑やかだった天神の菅原神社
天神に着くと、菅原神社境内に入りました。私が幼児の頃、祖母に連れられてこの神社のお祭りに来たことがあります。とても賑やかで、牛車が出るなど絢爛豪華だったことを覚えています。今は牛車が無くなり、代わりに子供が引く御神輿になっています。寂しい限りですがこのご時世、仕方のないことなのでしょう。この神社付近ではかつて、田布施市と呼ばれる市場が開かれていました。今でも、その田布施市を示す恵比寿様の祠が祀ってあります。
田布施市を示す恵比寿様の祠 平和六十六霊場札所のお地蔵様
天神にはかつての田布施町役場がありました。今、保育園がある場所です。この周辺は、古い白壁の家が少し残っており、田布施町商店街が賑やかだった往時を偲ぱせます。当時のの街並みが少し残っています。
ところで幕末に、お坊さんが中心になって作られた奇兵隊がありました。円立寺にその部隊が集まっていたそうです。しかし、経費の工面が難しくなり、石城山の奇兵隊に吸収されたそうです。今回時間が迫っていたため、その円立寺はスキップしました。本番ウォーキングでは訪問しようと思います。
フランス食堂で昼食兼休憩 田布施川沿い砂田のお地蔵様
次にフランス食堂向かいのお地蔵様に行きました。このお地蔵様は平和六十六番ヶ所霊場です。お地蔵様横に打ち付けられた板にそのことが書かれていますが、今は黒く変色して読み取ることが困難です。なお、平和六十五番ヶ所霊場は大恩寺です。昼食も取らないで歩き続けたため、お腹が空いてきました。お地蔵様向かいにフランス食堂がありました。ここで昼食兼休憩を取りました。
モニュメントが立つさくら橋を渡り、交流館に戻る
食事が終わると、田布施川方面に行きました。この付近は砂田と呼ばれ、かつてはよく田布施川の氾濫がよくあったようです。この付近に、名古屋で有名な輪中のような屋敷跡があります。川が氾濫しても浸水しないように、石垣などで敷地を高く積み上げてあるのです。どんどん歩いていると、デイサービスセンター サポートたぶせ横のお地蔵様に着きました。ここは田布施川氾濫に関わるお墓やお地蔵様があります。田布施川の堤防に上がると、ひたすら出発地点の交流館に向かいました。お疲れさまでした。
今回調査した、商店街東回りコース(波野市,天神周辺)
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田布施町 波野市,天神周辺ウォーキングのための調査(3/3)
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