最初、古道の入口を間違えました、そこで、旧竹尾小学校に戻ってから再度入口をあちこち探しました。すると、旧竹尾小学校入口から20mくらい下がった場所に入口がありました。入口を示す道標は無かったのですが、少し入った場所にお地蔵様が見えたからです。お地蔵様から山奥に道が続いていました。
旧竹尾小学校校庭から見下ろした集落、桜が植樹
古道入口のお地蔵様には、六丁と刻まれていました。古道はこのお地蔵様の向こうに続いているに違いありません。しばらく山道を進んでいると、崖のような山裾に次のお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様には予想通り五丁と刻まれていました。五丁のお地蔵様近くに、この集落のと思われる墓地がいくつかありました。
お地蔵様 六丁 お地蔵様 五丁
北緯 33°55'40.89 東経 33°55'37.91
東経 132°00'58.95 北緯 132°00'57.72
五丁のお地蔵様付近の山道は、とても切り立っています。元々は尾根道だったのでしょうが、永い間踏まれたりして浸食されたのだと思います。また、雨の水が削ったこともあると思います。
いろいろな山を歩いていると、人が歩いた道がどんどん浸食されているのをよく見ます。例えば、神奈川県の丹沢山系は、都心に近いこともあり登山客がとても多い山です。あまりに登山客が多いため山道が窪んで使えなくなり、脇に新たな登山道が作られている箇所が所々ありました。この竹尾の古道はいったい何年使われてきたのでしょうか。
永い間歩かれたため、龍泉寺に続く侵食された古道
切り立った古道をしばらく進むと、次のお地蔵様(四丁)がありました。この付近に来ると集落が見えなくなります。この古道はとてもよく整備されています。竹尾の方々が日々草刈りなどの整備を怠らないからでしょう。さらに進むと、その次のお地蔵様(三丁)が見えてきました。この付近から急に山深くなります。
お地蔵様 四丁 お地蔵様 三丁
北緯 33°55'34.94 北緯 33°55'33.33
東経 132°00'54.54 東経 132°00'51.07
どんどん歩いていると、急坂になりました。急坂になった場所に立派な二段の石垣がありました。かつて家か作業小屋が建っていたに違いありません。今は、柱などの形跡すらもありません。相当昔に朽ちたか移築したようです。その石垣の横を登ると、お地蔵様(二丁)がありました。ところで、これらのお地蔵様には皆、同じような花が生けられていました。おそらく、同じ方が生けたのではないかと思われます。
お地蔵様 二丁 昭和32年と刻まれた道標
北緯 33°55'33.44
東経 132°00'48.58
この付近に来ると龍泉寺が見えてきました。そして、石段となりました。その石段を登ると、古道の終わりを示しているのか石の道標がありました。昭和32年と刻んでありました。少なくとも昭和32年まではこの古道が使われていたことが分かります。
最奥部の田んぼは猪で荒らされているものの、綺麗に整備された田んぼ
石段を登り坂道を登ると龍泉寺に着きました。お地蔵様(一丁)があるはずなのですが、見あたりませんでした。龍泉寺のどこかにあるはずです。いつか探してみようと思います。龍泉寺から同じ古道を歩いて引き返しました。お地蔵様(五丁)近くの脇道を歩いてみました。少し下ると、誰もいない廃家がありました。廃家横の道をどんどん下ると、広々とした田んぼが広がっていました。しばらく歩くと、旧竹尾小学校が見える舗装道に着きました。次に竹尾の奥じょうに行くことにしました。
竹尾地区を上から見た図(航空写真)
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田布施町 竹尾地区のお地蔵様などを調査(2/3)
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