8月下旬に種芋を植え付けたジャガイモ(品種:おきな)の収穫をしました。茎や葉が枯れ始めたため掘り上げました。これから霜が降りると、枯れた茎や葉が溶けるように小さくなり芋の場所を特定することが困難になります。そのため、急いで掘り上げました。
スコップを根本に差し込む 出てきたジャガイモ 大きめのジャガイモ
掘ってみると、今年は比較的に大粒のジャガイモばかりでした。茎を3本程度に間引きしたのが良かったようです。収穫したジャガイモは三つに分けました。一つは我家で食べる分,二つ目は東京の家内に送る分,そして友達などにおすそ分けする分です。実は三日前に一株分掘り上げて食べてみました。大粒のジャガイモは空洞があることが多いのですが、ありませんでした。しかも、ほくほくして美味しいジャガイモでした。
東京八王子市に住む家内に送るジャガイモ
ところで、先月種まきした小麦がようやく発芽しました。すべてではありませんが、朝日に照らされて芽が光っていました。一週間後にはすべての種が発芽していると思います。今月末には初の麦踏みをすることができると思います。なかなか発芽しなかったので気をもんでいましが杞憂でした。
朝日に照らされキラキラ光っている小麦の芽
秋ジャガイモの収穫、小麦が発芽
皇帝ダリヤを分茎、さてどうなるか?
5月に皇帝ダリヤをいただいて移植しました。なかなか花が咲かないと思っていたら、11月に薄紫色の花がたくさん咲きました。婆様がとても気に入ったようなので、増やせないかと思いました。茎を分割すると増えるとの話を聞きましたので、ダメ元で茎を切断して植えてみることにしました。
皇帝ダリヤの茶色く硬い茎、2~3節ごとに切断
今は12月の冬なので、植えるには適さない季節だと思います。今考えれば、秋口に茎を分割して植えれば良かったかなと思います。切断した茎を畑に1m位離して植えてみました。たぶん、冬の間に枯れるか腐るかと思います。ダメなら、来年の夏に試みようと思います。さて、枯れるか,腐るか,なんとか生き残るかどちらでしょう。
2~3節ごとに切断した茎 上の節が少し見える程度に埋める
我家の裏山斜面の下草刈り
我家の冬支度をキューピッチでしてます。その支度の一つが、我家の東と北隣りの山の下草刈りです。プロの人ならば2~3日で済ませられると思いますが、このところ午前中だけ作業をしています。最初に、今年の1月に陽光桜を植えた東側斜面の下草刈りをしました。
笹刈り用のチップ刃 東側斜面の南端を刈取り 終わった東側斜面の南端
草刈り用のチップ刃を笹刈りに使うと、すぐに刃がもろくなるようです。そのため、高価ですが笹用のチップ刃を使っています。ただ、去年から使い続けている刃のため、サクサクとは刈れません。新品の刃は回転を遅くしても刈れますが、古くなると、回転数を上げないと思いように刈れません。そのため、時々刃を研磨しています。
陽光桜を植えた東斜面の下半分を刈取り終了
山の下草刈りで一番困るのは、崩れやすい急斜面のため足で踏ん張りにくいことです。刈取り作業をしていると、時々よろけそうになります。特に、隠れた切株に刃が当たってキックパックする時です。ところで、隣りの山から竹が侵入していたことが分かりました。まだ、細い竹なので数日中にノコギリで切り倒そうと思います。
竹が新入した東尾根 笹が生える東斜面の上半分 東斜面の上半分刈取り完了
笹や小枝を長く時間刈取りしていると、笹用のチップ刃でも切れが悪くなります。そんな時はディスクグラインダーで一つ一つのチップを研磨します。普通の研磨では砥げないため、チップ研磨用のダイヤモンド砥石を使用します。鉄を研磨する時は激しく火花が飛びますが、チップは火が出ないのでどの程度磨けたのか分かりにくいのが難点です。年末までに山全ての下草を刈れると良いのですが、今年も無理かな。これから、シイタケ用の木を伐採,桃などの剪定,たくあん作り,白菜漬けなどが並行するので、また午後は史跡調査をしたいと思うので、しばらくは忙しい日々が続きそうです。
下草刈りが進行中の東側斜面
田布施町 麻郷 教念寺跡などを散策
このところ午前中は農作業をして、午後は史跡調査探訪に出かけています。今回は最初に、麻郷浜城にかつてあった教念寺跡を調査しました。江戸時代の記録に、麻郷にこの寺があったことが記載されています。永禄6年(1563年)に建立され、明治4年に麻郷から牛島に移転しました。ちなみに、教念寺建立後50年位以内に、大恩寺(1570),正信寺.円立寺.誓立寺(1586),専福寺(1592),龍泉寺(1615)などが建立されています。今、教念寺跡地には何も残っていません。五輪石や土台跡もありません。古そうな墓石が二基立っててるだけです。
教念寺跡、古そうな墓石が二基 教念寺跡近くの祠
町作りと寺の建立はほぼ同じ時期が多いと思われます。それを考えると、今の田布施の街並みより浜城周辺の方が歴史が古いのかも知れません。明治以前、浜城や米出は賑わっていました。周東地区の主要官庁でもあった上関審判勘場の跡や漢学者亘理南山の石碑にその名残を見ることができます。明治の初めになっても賑やかで、三階建ての呉服屋などがありました。
賑わいの変遷や政治的な理由などにより、お寺が移動することはよくあったようです。明治初期多くのお寺が廃寺になりましたが、教念寺の場合は廃寺ではなく牛島への移転の道を選んだようです。来年は八島をウォーキングする予定ですが、再来年は牛島をウォーキングして教念寺を訪れたくなりました。
蓮輪のお地蔵様跡 蓮輪お志荷様の祠 井神山中の祠
地元でもこの地にお寺があったことを知る人はほとんどいません。わずかな名残として、 この場所を教念寺藪と呼んでいます。ところで、教念寺への細い道の途中に祠がありました。何の祠か分かりません。近くに住む同級生Kさんを訪ねましたが分からないとのこと。Kさんの御母堂に聞いてみるとのこと。これら山や藪の中の祠は、忘れ去られる運命のようです。続いて、蓮輪のお地蔵様跡やお志荷様の祠を訪ねました。そして、麻郷井神の山中にある祠も訪ねました。近所を散策している方に聞きましたが、祠があることすら知らないようです。
丘上の眺めが良い場所に建つ荒神様の祠
続いて助政の祠を訪ねました。以前から祠があることを聞いていたため探しました。焼場跡から古道に入り探しました。すると、意外にも麻郷小学校前の信号機から東50m位の丘上にありました。眺めの良い場所です。そして、その南の道向かいにも小さな祠がありました。たまたま庭木を手入れしている方に祠についてお聞きしました。すると、両社祠ともに荒神様とのこと。それぞれ別の班が管理しているとのことでした。
道向かいの小さ目の荒神様 助政の荒神様から鳥越方面を眺めて
丘上に立つ荒神様は、10月15日に当屋の家に皆が集まり飲み食いのお祭りをするとのこと。どの荒神様の祭りも、その昔は当屋の家に集まっていました。しかし、最近は当屋の家ではなく集会所に集まることが多くなりました。助政のこの班では今でも当屋に集まる習慣が残されているようです。片方の小さな荒神様はお祭りをしていないそうです。
その後、別の山中の古道跡を歩いていて道に迷ってしまいました。藪をかき分け倒れた竹をまたぎながら古道跡をどんどん歩いていると、ひょっこり麻郷幼稚園前に出ました。この付近はたくさんの犬がいるようです。吠えるのでここを退散することにしました。
麻郷地区の山を中心に散策しましたが、歩いたわりには成果少なし
田布施町 麻郷 浜城(浜城バス停留所前)のお地蔵様
郷 浜城のお地蔵様(北緯33°55'21.66 東経132°03'03.34)
2015.8.23 調査資料より
浜城の国道188線の南側沿いの浜城バス停留所前に、ブロック作り建物の中に一体のお地蔵様が安置されています。お地蔵様は台座の上に立っています。このお地蔵様に特に名前はないとのこと。不思議なことに、その隣に空の同建物が建っています。
左は、お地蔵様が安置された建物 右は、空の建物
今から60年位前、今のようなブロック作りの建物ではなく、四本の立派な石柱がお地蔵様の屋根を支えている建物だったとのこと。また、このお地蔵様は明治時代にKI氏他三名が発起人となって建立したとのこと。建立後100年以上も経っており、建立された理由の詳細は伝わっていないが、海か港での事故に関わるらしい。徳が高いお地蔵様とのことだが、どんなご利益があるか伝わっていません。
建立して以降、KI氏の親族であるK氏がお守りしています。昔は巡礼者が来ていたそうです。数年前まで、K氏が千防さんにお願いして8月24日の裏盆にお勤めをしてもらっていました。千坊さんが来ても、部落で集まるようなことをしなかったため、お接待はしなかったそうです。部落の人はこのお勤めのことを知りません。今、K氏以外に部落の人はお参りしていません。
平成6年頃の国道188線沿いの拡張工事で、道路が広げられ歩道が整備されました。工事前は細い歩道でした。道路を広げるために、K家,O家,そしてN家が土地を提供しました。道路の歩道を作るためにK家は井戸が無くなりました。その工事中に、工事車両が屋根を支える石柱やお地蔵様などを誤って壊してしまいました。お地蔵様の傍に、壊れた四本の石柱の残骸が残されています。このお地蔵様の台座に建立した三人の方の名前が刻まれていたとのこと。しかし、この台座も工事車両が壊してしまったとのこと。
壊れたお地蔵様は、城南の石屋に一時的に預かってもらったそうです。そして、お地蔵さまを補修してもらったとのこと。壊れた石柱の代わりにブロックを使い、その上に屋根を載せてあります。台座はコンクリートを塗って修復したため、建立した三人や建立日付が分からなくなりました。今、セメントが塗られた台座側面上部に「明」の文字が確認できます。明治の「明」ではないかと思われます。また、正面上部に「三」の字が確認できます。「三界万霊」と刻まれていたのか、または何かの番号だと思われますが確認できません。K氏が主に修理費用を出したそうで、修理のため4,5軒回り3万円かかったとのこと。お地蔵様,台座,そしてブロックで建物を建てて以降、今に至っているとのこと。
その道路拡張工事中にお地蔵様を移動する話が出たとのこと。そのため、数m西へ離れた場所に新たな建屋をブロックで作ったそうです。傍のN家(広島在住とのこと)に同意を得ようと広島まで行ったが、以後連絡が取れなくなったとか。N家の同意がないため、お地蔵さんはそのまま今の位置から移動することができないでいます。以降、移動先予定の建屋は空いたままとなっているのです。
ところでK氏が嫁に来た60年前頃、K家周辺は広場で前は海岸でした。傍にN家の塩田がありました。その塩田は後に田んぼになり、さらに今の会社になりました。この近くの海側に塩浜の番人小屋が二軒あったそうです。隣に住むO家は浜城の海で牡蠣の養殖をしていました。何年位養殖を続けていたのかは分からないそうです。永大の工場が平生湾に来た頃に、牡蠣ができなくなったとか。その頃、八海でも海苔の養殖ができなくなったそうです。
KI氏の元に、大島から養子に来たKY氏(K氏のご主人の父親)は生菓子の職人でした。このため、K家では以降おまんじゅうを作っていました。「かとくや」と言いました。鳥越のK商店などにおまんじゅうを出していたそうで、卸しに歩く人が二人いたとのこと。
K氏のお話では「田布施地方史研究会第113号で記載している「鳥越のこつり地蔵」は、私もお詣りした。お胸(よだれかけ)をいただいて帰って、咳が出なくなって体調が回復したら、新しいお胸を作って返した。いただいたお胸も返した。自転車で平生に買うものに行く途中に寄っては拝んでいた。建物の三方にお胸がぶら下げきれないほど吊るしてあった。いただいて帰るときは、傷んでいない良いお胸を選んで持って帰っていた。こつり地蔵は、ただの石の像だったように思う。このような昔の素朴な信仰を子供達に伝えないから、今この話が忘れ去られている。」とのことです。
※2015.12.9 頃 お地蔵様は隣りの空の建物に移動
田布施町 麻郷 浜城(浜城バス停留所前)のお地蔵様(2/2)
昼から、お決まりの史跡調査に行きました。今回は麻郷助政の神花様を調査するためNさんの家を訪問しました。しかし、ご高齢でお休み中だったため、後日訪れる約束をしました。
次に麻里府、続いて泊団地を訪れました。その時、同級生のKさんから、「浜城バス停j前のお地蔵様が無くなっている。」と聞きました。そこで、本当かと思って帰り際にバス停に寄ってみました。すると、二つあった建物のうち、左側が撤去されており、右の空いていた建物にお地蔵様が移っていました。移る直前に、どこかに預けられていたのでしょう。
左の建物跡から、右の建物に引っ越したお地蔵さま
引越し先の建物の下にコンクリートが流し込んであり板で囲まれていました。つい最近、お地蔵様は引っ越したようです。そこで、引っ越したお地蔵様をよく観察しました。すると、以前は隠れて見えなかった台座の文字が見えました。台座の右側にお地蔵様の建立年月が刻まれていました。、明治二十五年四月です。正面には、三世万霊と刻まれていました。左側には建立した三名の名前が刻まれていました。建立年月など、以前の調査では分からなかったこのお地蔵様の謎が一つ解けました。
かつて尾根を支えていた石柱など きれいになったお地蔵様の周り
次の日、Kさんにお会いすると、お地蔵様を引っ越したとのことでした。なお、16日に平生町の直指院に来ていただいて性根を入れる儀式をするそうです。その日、時間が空いたらその儀式に行ってみたいと思います。なかなか引っ越しができなかったお地蔵様、無事引越しできて私は安心しました。
16日に性根が入るお地蔵様、やっとここに引っ越しできました
我家の裏山斜面の下草刈り(2/x)
今回は、我家の北側斜面の下草刈りをしました。こちらの斜面は傾斜がきついので、足がずり落ちそうになりながら刈取りをしました。下草刈りで一番困るのは、傾斜がきついことではありません。伐採した木の切り株が笹に隠れています。その切株に気がつかないで刈っているときに刃が当たることです。
左側に落ち込んでいる北側斜面、たくさんの切株
切株に刃が当たると、キックバックで草刈機が投げ飛ばされそうになるのです。草刈機が振り回されるので、体も投げ出されそうになるのです。実際に体が投げ飛ばされることはありませんが、草刈機が強く腰や腕に当たります。とにかく切株に注意しながら、山の下草刈りをしてます。
我家の後を見ながら下草刈り 下草を刈り取るとスッキリ
たくさんの切株や枝があるため、北斜面は一日では刈取りできませんでした。まあ、気長に下草刈りをすることです。疲れたなと思うと、どっかりと斜面に坐って青い空を見上げながら休むにかぎります。今年中になんとか山の下草刈りを終わられたいと思います。
日当たりが良い我家の北側斜面
田布施町 少年少女発明クラブ,発掘調査現地説明会,朗読会
午前中、少年少女発明クラブがありました。私が参加したのは、釘とビー玉の工作以来約一ヶ月ぶりです。これまで、発明工作をする子供達の支援や指導をしてきました。今回は、保護者や子供達の兄弟姉妹を招いての工作成果発表会でした。最初、子供達は作った工作を発表するためのシナリオを書くことから始めました。
工作の発表シナリオを書く 一人ずつ工作品を発表 発表を見る保護者など
発表するためのシナリオが書き終わると、子供達一人ずつが演台に立って工作した発明品について発表しました。ほとんどの子供達はまだまだ発表が苦手のようです。子供達の説明で足りなかった部分を、指導員は補いました。今年の活動は終わりですが、来年は田布施農業工業高校での活動です。高校生に教わりながら工作をします。時間が空けば、私も参加してみようと思っています。
発表を聞く、子供達,保護者,兄弟姉妹,そして指導者
少年少女発明クラブが終わると、すぐに図書館に行きました。N君の朗読会手伝いのためです。ですが、準備はほとんど完了してしました。図書館で食事を済ませると、すぐに城南の石ノ口に急ぎました。石ノ口発掘調査現地説明会に参加するためです。現地は10月のウォーキングで訪れた場所です。10月のウォーキングの再下見で説明を聞いていましたが、今回はさらに詳しい説明を聞くことができました。今回で3度目の石ノ口発掘調査現地でした。よく一緒にウォーキングする知人や歴史好きの知人もたくさん参加していました。
説明会の受付所 A:現代の田,B:古代の田跡 説明員による解説
石ノ口発掘調査現地は、古墳時代から江戸時代までの田んぼを中心とした遺跡とのこと。古代の田んぼ跡と現代の田んぼの説明や、古墳時代の丸隅型竪穴住居や川が流れた跡などの説明がありました。面白かったのは、川の跡に野菜などを洗った洗い場の跡やそれに付随する小屋の跡があったことです。野菜などを洗っている太古の人々の姿を想像しました。
たくさん方々が説明会に参加
発掘調査現地説明会が終わったのは15時頃でした。知人に分かれを言って、すぐに図書館に戻りました。残念ながらN君の朗読会が終わった直後でした。この時、私は大失敗してしまいました。雨でどろどろになった発掘調査現地からそのまま図書館に入ったたため、靴底に付いた泥で図書館の床や階段を汚してしまいました。その汚れ、T君が掃除してくれました。申し訳ありませんでした。
朗読会の片付け後、N君を含む仲間達とスイートメモリに行って談笑しました。朗読会は盛況だったそうです。私は参加できませんでしたが、N君や朗読会を支援した方々お疲れ様でした。
朗読会後、スイートメモリで談笑 私は手前のオレンジジュースを
我家の裏山斜面の下草刈り(3/x)
裏山の下刈りを続けていますが、時々草刈りの手を休めて木々を眺めます。今年は紅葉がとても遅いのです。ようやく山全体が紅葉してきました。我家の山に比較手多いコナラの葉が、ちらちら落ち始めています。
遅めの紅葉が進むコナラの林
一昨年苗を植えたメタセコイアも紅葉し始め、葉が茶色に染まっています。手で触ると、葉がパラリ落ちます。メタセコイアは、針葉樹にしては珍しく紅葉し落葉します。メタセコイアの周りはコナラなどの大木が茂っています。この冬に何本かのコナラを椎茸用に伐採しようと思っています。そうすれば、メタセコイアに日がよく当たるようになると思います。
紅葉したメタセコイアの葉 メタセコイアの葉、触ると落ちる
天気が良かったので、山の頂上に寝転がって上を見上げました。すると木々を通して空を見上げることができました。日がさしてポカポカ陽気で眠くなりました。30分位経ったでしょうか、目が覚めました。木々や落葉、鳥の声や風の音に囲まれて幸せな気分になりました。
寝転がって上を見上げると、木々を通して青い空と雲
ごめんね石油ストーブさん、いらっしゃい石油ファンヒーターさん
婆様のガス消し忘れで、鍋を焦がすことがこれまで何度かありました。しかし、ガスコンロは消し忘れを感知して火が消えるので安全上助かります。
しかし、石油ストーブは消えません。今後の婆様のことを考えて、石油ストーブを買い替えることにしました。まだまだ使えるのに、石油ストーブが少し可哀そうな気がします。平生町の資源活用センターに行って捨てました。その捨て場には、たくさんの石油ストーブがうらめしそうに捨てられていました。ごめんなさいね石油ストーブさん達。
まだまだ使える石油ストーブ 捨てる二台を車に乗せて 捨てた資源活用センター
非論理的ですが、私は長年使った機械や道具には魂が宿っているような気がします。分かりやすく言えば愛着心なのでしょう。だから、私はいつまでも段舎利ができないのですが。
代わりに、新しい石油ファンヒーターが新入りとしてやって来ました。これから頑張って我家を温めてくれると思います。命を吹き込む儀式として時刻を設定しました。石油を入れて試しにスイッチを入れると、期待に沿うように温風が出てきました。10年位は頑張って欲しいと思います。
説明書を読む 時刻を設定 おお、温風が出る!
小麦,紫大麦,オートミールの発芽が揃う
先日、種をまいた紫大麦とオートミールが発芽していました。種まきが遅かったため心配していましたが、綺麗に発芽していたので安心しました。また、麦の他に、絹さやエンドウ,スナップエンドウ,グリーンピースも発芽していました。ほとんどこの状態で冬を越します。そして、春になると食べられます。なお、ソラマメはまだ発芽していません。
発芽した紫大麦 発芽したオートミール 発芽した絹さやエンドウ
紫大麦やオートミールは食べるよりも種継ぎですが、小麦は来年も収穫してパンなどに加工して食べます。そのため、広い面積に種を蒔きました。先日はまだ発芽していない小麦もありましたが、だいぶ発芽が揃いました。近々麦踏みしなればと思っています。
発芽が揃った小麦、近々麦踏みをする予定
サトウキビの冬越し作業
今年は暖かい日が続いていますが、すぐに厳冬期がやって来ます。寒さでサトウキビが枯れてしまわないうちに、今年もサトウキビの冬越し作業をしました。作業と言っても、茎を切って暖かい場所に保存するだけなのですが。まずは、収穫しなかった残りのサトウキビの茎を伐採することから始めました。時々茎をかじっては甘い汁を楽しみながらの伐採です。
冬越しのため伐採したサトウキビ
次に、伐採したサトウキビの茎を一ヶ所に集めました。そして、押し切りで根本に近い茎をばしばし切断しました。なお、節が3本残るように切りました。節を2本以上残すことが重要なポイントです。節と節の間が生きて冬越しするのです。そして、来年の春に節から芽や根が出るのです。
伐採したサトウキビ 押し切りで茎を切断 節を2本以上付けて切断
沖縄のような暖かい場所では冬越し作業は必要ないようです。しかし、少なくとも山口県では冬の間サツマイモを保存するような冬越し作業が絶対欠かせません。サツマイモは温度と湿度が一定な芋穴に保存しますが、私はサトウキビを芋穴ではなく室内の暖かい場所に保管します。もちろん、保温と保湿が欠かせません。そして、私だけと思いますが、切り口に消毒剤を塗っています。数年前の冬越し時に切れ口から腐り始めたためです。その予防のためなのです。消毒剤を塗った切断面を乾燥させた後、特製保存箱に入れて冬越しするのです。
切り口に消毒剤を塗布 消毒剤塗布後、切り口を乾燥
日立時代に勤務、マニュアル開発部30周年同窓会ほか
この前、横浜で私がかつて勤めていた職場から同窓会パーティー開催の招待がありました。その職場は、13年位前まで所属していた日立のコンピューター開発のある部署です。その部署はコンピューターの操作説明書を専門に書く部隊でした。その部署が立ち上がる時から私は所属していたことになります。
その部隊に配属される直前、私は通産省が関わるICOT(第五世代コンピューター開発機構)に派遣されていました。その派遣から戻って、一時的にDC部(データコミュニケーション部)にいました。これから何の仕事をしようかなと思っていた時、このマニュアル開発専門部隊の立ち上げに巡り合いました。
専門部署立ち上げ時 パーティー会場 私とかつての同僚達
当時、説明書を書くのはコンピューターの設計者でした。そのため、分かりやすい説明書を書く余裕や工夫は望むべきもありませんでした。そこで、マニュアル開発専門部隊はユーザーの立場に立って説明書を書くわけですが、そのためにはコンピューターの仕様書をある程度は理解できる知識も必要でした。当初、ワープロさえない時代でしたので、紙に原稿を書いて写真などのレイアウトも手書きでした。
私はワープロが出始めてからブラインドタッチを覚えました。今でも、その時覚えたひらがな入力をしています。私は予算獲得の仕事も兼ねていましたので、年度初め前にコンピューター設計部署を訪ねては予算獲得交渉などをしました。今では懐かしい仕事の思い出です。そのころ、私は同僚達を誘っては、自分の子供達を連れてよくハイキングに行ったものでした。富士山,尾瀬,三浦半島などです。
同じテーブルの紹介 各自好きなものを取る 美味しそうなケーキも
今回のパーティーで嬉しかったことの一つが、一緒に働いていた女性達がそれぞれ立派な母親になっていたことでした。高校生,大学生,または社会人に立派に育てあげているようでした。
当時、私は仕事がそれほどできる方ではなかったこともあり、又上司から残業が少ないなど揶揄されることもあるなど辛い時もありました。会社を早期退職制度で辞めた後、私は180度違う病院の仕事に就くことにしました。早期退職を予感して夜間学校に通っていたことが、この時役に立ちました。今となってはその病院の同僚との交流も思い出です。
定年を過ぎた今、昔を思い出すことがよくあります。入社した時はテレビジョン関連の開発や販売、続いてソフトウェア開発,ICOT(第五世代コンピューター開発機構),マニュアル開発,そして病院勤務の時代、それぞれが我が身になったと思います。仕事と並行して神奈川山岳連盟やボーイスカウトにも所属し、地域の子供達や青年に自然の大切さを教えたり借りた田んぼで米作り体験をする活動をしたりしました。
定年後の今、縁あって郷土館でふるさとの民俗を研究調査したり史跡を紹介する仕事、あるいは地域の子供達の工作指導などをしています。また、ウォーキング団体の会長として毎月史跡を巡る健康ウォーキングを主催してます。今も昔も、それぞれ良い仲間達と出会っているように思います。ありがたい事です。
パーティーが終わった後、全員の集合写真
田布施町 麻郷 浜城(浜城バス停留所前)のお地蔵様(3/3)
16日麻郷浜城のお地蔵様の法要が執り行われました。私は用事があったため出席できませんでした。そのため、数人の仲間に参加していただきました。Eさんには写真撮影や映像を撮っていただきました。ありがとうございました。法要を執り行ったのは平生町の直指院のご住職様です。私が幼児の頃、直指院には尼さんがいました。その尼さんに、利口になるようにとよく頭をさすってもらっていました。
見守られながら法要開始 法要をするための仏具 磨かれた立派なお地蔵様
ただ、このお地蔵様の法要、地元の方の参加がとても少なかったそうです。私がこの法要のことを知らせて参加した方が3名、地元の方が3名、それにご住職様です。近くにある八海地区のお地蔵様の法要には20人位来ていたでしょうか。最近、お地蔵様が撤去されることが少なくありません。少子高齢化の時代、お地蔵様のお世話をする方がめっきり減りました。放置されたお地蔵様もあります。この時勢、お地蔵様も減らざるをえないのでしょう。さびしいことではありますが。
お地蔵様の法要を執り行っておられる直指院のご住職様
田布施町郷土館 クリスマスツリーを飾る
年末の倉庫掃除をしていると、懐かしいクリスマスツリーセットの丸筒を見つけました。その筒には購入日付が書いてありました。1994年12月24日です。確かクリスマス当日に聖蹟桜ヶ丘のデパートに買いに行きました。デパート内はとても混んでいたことを覚えています。娘(小学5か6年生頃)と一緒に買いに行ったはずなのですが、娘に問い合わせると覚えていないとのこと。娘は別のプレゼントか何かに夢中だったので覚えていないのでしょう。このクリスマスツリーはその後、あまり飾られることはなく不遇でした。
ツリーセットが入った丸筒 丸筒からツリーを取り出す H氏と一緒に組み立て
このクリスマスツリー、丸筒に納められてから何年経ったでしょう。せっかくなので、郷土館に飾っててみることにしました。たまたま、紙芝居原稿の添削会議に来ていたH氏と一緒に組み立てました。豆電球はもう光らないだろうと思っていました。電源を入れてしばらくすると、光った上に点滅し始めました。このクリスマスツリーを飾った星や人形などは無くなっていましたが、とにかく光ったので嬉しくなりました。断捨離しなくて良かったと思います。明日100円ショップにでも行って、飾りに使えるものを買おうと思います。
クリスマスの雰囲気が出ているかな?クリスマスツリー
白菜漬けとたくあん漬けの準備
今年も白菜漬けとたくあんを作ることにしました。最初白菜を収穫しました。9月初めに種まきをし、11月始めには食べられるほどに成長しました。農薬を使っていないので、いくつかの白菜は穴だらけになっていました。穴だらけになっていない白菜2個選んで漬けることにしました。収穫した白菜は包丁で切れ目を入れた後、手で二つに引き裂きました。そして、2日程度干すことにしました。2日後頃に仮漬けをします。仮漬けだけでも美味しいのですが、1~2週間後本漬けをします。
白菜を収穫 包丁で切れ目を入れる 手で二つに引きり裂く
白菜漬け、年々作る量が減ってきました。一昨年は食べる量以上の白菜漬けを作ってしまったため、春先にだいぶ捨ててしまいました。漬物は、家によって、個人の好みによって、美味しさが違います。自分で食べる分には、仮に美味しくなくても食べることができます。しかし、差し上げるには勇気がいります。そのため、我家でだけ食べきる量に落ち着いてきました。
白菜2個を二つに引き裂き、根元に切れ目を入れた白菜
続いて、たくあん漬けのための大根を収穫しました。大根も白菜との同じ9月初めに種まきをしました。今年は細めの大根なので、片手で引き抜けました。抜いた後、葉を切り落としました。そして、水を出しながら泥を落としました。すると、ほれぼれするような真っ白い大根が現れました。煮付けにしても美味しそうです。
大根を畑から引き抜く 葉をカットして取る 水で洗うと、まあ白いこと
洗った大根は。縄に挟んで吊るしました。乾いて曲がりやすくなるまで、2週間程度天日干しします。去年は巨大な大根だったため、干してもなかなか細くなりませんでした。今年は細めに育つ品種(新八洲)にして良かったです。
たくあん漬けは、白菜漬けと同様に一昨年作り過ぎて食べきれませんでした。そのため、春先にだいぶ捨ててしまいました。今年は、食べきることがでるように大根4本分のたくあんを作ることにしました。この位の量が我家には良いようです。
洗った大根を縄に挟む 2週間位、大根を吊るして天日干し
田布施町郷土館 年末の大掃除
あと10日ほどで年が変わります。去年と同様に、職場である田布施町郷土館の年末大掃除をしました。最初、各展示室の点灯しない蛍光灯の蛍光管を取り替えました。天井や展示ケース内の故障蛍光管は、脚立を使って二人一組で交換しました。それが終わると、展示物が納められている展示ケースのガラスなどを綺麗に磨きました。展示ケースは来館者が触ることがあるため、指紋などの汚れが付いています。その汚れやくすみなどを綺麗にしました。空拭き雑巾にどんどん汚れが付きました。
交換用の蛍光管 展示ケース内に入る私 展示物の位置を整頓
壊れて点灯しない蛍光管を交換する時に困ったことがありました。今では使われていないソケットのため、蛍光管を外すのに力がいることです。今の蛍光管はひねるだけで外れます。しかし、郷土館の蛍光管は強く押して外す方式のため力がいるのです。また。掲示板をぶら下げているのは専用の押しピンにも困りました。代えが無い特殊なピンのため、落ちたピンを探して取り付けました。
押しながら交換する蛍光管 碧松関連句集を整頓 展示室ケースのガラス拭き
掃除が終わったのは昼頃でした。その後、私はMさんから頼まれていた宿題をしました。その宿題は、海岸線や川筋が気候変動や干拓などによってどう変動し移動したかの資料です。その資料、郷土館にやって来たMさんに渡しました。この資料を元ネタにして、子供達に理解できる文章にしていただけると思います。
明日からしばらく、我家や裏山の掃除,漬物,年賀状書きなどで忙しくなりそうです。伐採などで出た小枝などはたき火で燃やそうと思います。
蛍光管を代え展示物を整えた、江良碧松の展示ケースを確認中
漬物樽を新規購入、白菜の仮漬けを開始
一昨日、収穫して軽く干した白菜を仮漬けすることにしました。ところが、去年まで使っていた漬物樽の縁にヒビが入っていました。樽を洗っていて気が付きました。毎年漬物石として重い石臼を乗せていたので無理がたたったのでしょうか。それとも、経年劣化なのでしょうか。大きなヒビではないのですが、重石を載せた後に漬物樽が壊れたら大変です。このさい、新しい漬物樽20型を白菜漬け用とたくあん用に2個購入することにしました。698円/樽1個でした。
縁にヒビが入った漬物樽 新しく購入した漬物樽 ビニール袋を樽に挿入
新しい樽にビニール袋を入れると、白菜を計量しました。塩分は標準では4%ですが、私は毎年薄めの3%にしています。そのため、白菜の重量の3%の食塩を白菜漬けに使用しています。計りで白菜を計量すると、白菜2個分の重量は5.68kgでした。すると、必要な食塩は170gとなります。薄めの3%のため、春までに食べきらなければなりません。春以降は保存できません。
白菜2個分重量5.68kgに対する食塩の必要量
計りで白菜2個の重さを計量 白菜漬けに必要な食塩170gを計量
必要な食塩170gを計量すると漬物樽に白菜を詰め込んでいきました。最後の塩振り用に、食塩を一掴み残しておきます。そして、白菜片に食塩をまぶしながら樽の底に押し付けるようにして、2個分の白菜を詰め込みました。白菜をすべて詰め込むと、別に取っていた塩振り用食塩を全体的にまぶしました。
塩をまぶしながら、白菜を樽の底に詰め込む
この樽には白菜が4個入るようですが、2個で樽から少しはみ出る程度に収まりました。重石を載せると、樽の半分程度に縮むと思います。大晦日か正月過ぎた頃に、本漬けをしようと思います。具材として、昆布、唐辛子を入れることは決めているのですが、さらにいりこか鰹節など何を入れようか思案しています。あんちょこに白菜漬けの素を入れても良いかも知れませんが。
樽から少しはみ出る程度に詰める 重石を載せて2時間程度で少し縮む
今年も、年末のキャンドルナイトカフェ2015に参加
: 年末のキャンドルナイトカフェに行ってきました。昼間の大雨のためか去年のキャンドルナイトカフェよりも参加者がやや少ないように思いました。ですが、いつもの友達や知人と楽しく過ごしました。テント内は暖かく、フラダンスなどを鑑賞しました。
テント内でフラダンスを鑑賞しながら楽しく談笑
この日の昼間ずっと雨だったのですが、私は郷土館にいました。調査中の史跡について文書化したり、資料を読んだりしていました。平日の郷土館はお客さんの接待や説明などでなかなか自分の時間がとれません。今回は静かに自分の仕事?をすることができました。史跡を巡ったり調査することは比較的容易なのですが、それを文書化して検証し、記録として残すことはとても面倒です。遅々として進まないので気がせきます。
和ロウソクの実演 美味しそうなビザ タルトなども美味しそう
ところで、テント内では和ロウソクの実演がありました。この実演は、夏のはぜの実ロウソク祭りでもありました。溶けたロウに手を入れて、ロウソクの形状になるように丁寧に手で塗りつけるのです。溶けたロウは熱くないのでしょうか。感心します。その他、ピザ、タルト、コーヒー、そして豚汁なども販売していました。私は、体を温めるため最初に豚汁を食べました。
最後に珈琲をいただく Mさんと、片付けありがとうね愛息さん
豚汁の次に、ビザをいただきました。いつものピンク豚ビザ焼き器でビザが焼かれます。そのビザをいただきながらいつもの仲間と談笑しました。キャンドルナイトカフェが終わったのは19:30頃でしたでしょうか。誰かれとなく椅子が片づけられ始めたので少し手伝いました。そして、暗い中をバイクで我家に戻りました。帰ると、我家の玄関近くのリンの家からリンちゃんがのそりと出てきました。そして、ニャーニャー(お帰りなさい!)と鳴きながらすり寄ってきました。
キャンドルナイトカフェが終わり、片付けが進行中の大テント
150ccバイク SUSUKI Vecstar150のタイヤ交換・点検・修理
8年位前、それまで3台続けて乗り継いでいた250ccFreewayを150ccバイクのSUSUKI Vecstar150に買い替えしました。Freewayの製造中止のためです。Freewayはよく乗りました。関越自動車道を走った時、とても寒かったことを覚えています。この時、バイクで走っていたのは私だけでした。また東北を一人でツーリングしたこともあります。この時、東北自動車道でFreewayが故障してしまい大事故寸前でした。
Freewayから乗り換えたSUSUKI Vecstar150の前後タイヤが、今回ツルツルに減ってきました。このままでは、スリップするなどとても危険です。そのため、この際タイヤ交換と全面的な点検・修理をしました。タイヤ交換は、前輪2度目後輪3度目です。なお、ブレーキパッド摩耗時は自分で交換しています。
久しぶりの岩徳線 周防花岡駅で下車 修理を依頼したレッドバロン
東京に住んでいた頃は、近所にあったレッドバロンに保守・点検などを頼んでいました。田布施町にはSUZUKIのお店がないため、周南市にあるレッドバロンに頼むことにしました。そのため、田布施町からバイクに載って届け、修理が終わったら載って帰りました。
バイクを取りに伺う時、久しぶりに岩徳線に乗りました。なんと、ワンマンカーならぬ、ワンマン電車でした。危うく切符を出さないで駅のホームに降りるところでした。こんなひなびた電車があるんですねえ。うれしくなりました。
タイヤ交換、エンジンオイル交換、ベルト交換などの修理が完了したバイク
い
修理した個所は、前後タイヤ交換,エンジンオイル交換,オイルフィルター交換,ブレーキオイル交換,ベルト交換,ブレーキ調整などです。49,000km走っているため、妥当な修理のようです。これからも、このバイクには頑張ってもらわなけれでなりません。ちょっとした出費ですが、妥当な支出だと思います。普通自動車と同じ速度で走るならば,二人乗りするならば,そして高速道路を走るならば、SUSUKI Vecstar150が最小クラスのバイクです。
〇:49,000km 交換した前輪 交換した後輪