白井小介の顕彰碑のすぐ近くに国木田独歩の碑があります。国木田独歩が東京から麻郷高塔の吉見家に帰る時、この田布路木峠を越えました。その時、峠から懐かしい高塔山が見えたようです。もう少し歩けば吉見家に着くことがよほど嬉しかったのでしょう。彼の著作「帰去来」に書かれています。
高塔山が見えた田布路木峠に建つ、国木田独歩の碑
国木田独歩の碑を見終わると、田布路木から山田に向かいました。お地蔵様が100m位おきに並ぶ古い道を歩きました。しばらくすると、喫茶8カフェが見えてきましした。中に入ると、先客が2名いました。4名テーブルを見つけて座りました。そして、各人がコーヒーなど好きな飲料を頼みました。出てきた飲み物の器がとても素敵でした。私は、メニューに無かったココアを頼みました。暖かいココアを飲みながら談笑していると、体が温まってきました。
山田の喫茶店8カフェ テーブルに坐ってくつろぐ 私がいただいたココア
8カフェでしばらく暖まると、柳井市の井保庄に入り土穂石川に向かって歩きました。途中、恐竜公園の中に入ってみました。平日でしかも寒いためか誰もおらず、恐竜達は寂しそうに見えました。一頭の恐竜を撫でてやりました。土穂石川に出ましたが、川底は黒くヘドロの臭いが少ししました。どんどん土穂石川を上流に向かって歩き、国道188号線を横断して阿弥陀寺に行きました。山裾に広がる墓地をあちこち見学しました。この阿弥陀寺は昭和14年にお寺に昇格しました。それまでは阿弥陀堂で、防陽八十八ヶ所霊場の四番ヶ札所でした。
伊保庄の恐竜公園 土穂石川を上流に 阿弥陀寺のお堂
阿弥陀寺を出ると、少し歩いて古開作のお地蔵様を見学しました。とても立派な屋根付きのお地蔵様です。片野川傍で見かけたお地蔵様に似ています。もしかして、かつての柳井市街大火を弔うお地蔵様80体の一つなのでしょうか。周りに誰もいなかったため、聞くことができませんでした。しかし、花が活けてあるなど、地元で大切にされていることが分かります。
青色が印象的な、古開作の喫茶アップルミント
そのお地蔵様がある場所で周りを見渡すと、青色の建物が目立つ喫茶アップルミントがありました。3年位前まで伊保庄でお店を開いていたそうです。中に入ると暖かく、まきストーブがありました。燃えさかる炎は、見ているだけで暖かくなります。私はお腹が少しすいていたたため、パンとカフェオレを頼みました。頼んでいる間、自家製のパンやビザなどを焼いている立派な石釜を見せていただきました。耐火煉瓦を使って作った石釜のようでした。各人、お土産としてパンなどを購入していました。
アップルミントのまきストーブ パンやピザを焼く石釜 古開作のお地蔵様
下見の結果、2月のウォーキングでは山田には寄らないで、国木田独歩碑からすぐに土穂石川に行きます。そして、土穂石川の史跡をもう少し探訪してから、最後に喫茶アップルミントに寄ります。そして、周東病院バス停でバスに乗って平生に帰ることにしました。
今回、周東病院バス停に戻ったのですが、タッチの差でバスに乗れませんでした。残念!徒歩で平生まで戻りました。平生に着いた頃には薄暗くなっていました。ところで、今回は15.9km歩きました。2月の本番ウォーキングは、8km位の楽々な歩きになりそうです。下見に参加された方々、お疲れさまでした。
下見で歩いた、平生町 沼~宇佐木~田布路木方面コース
平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの下見(2/2)
今年も枯れ枝などを焼却
燃やさなければならない枯れ枝や枯れ葉がまだまだあります。今年も、これらの木々を焼却し続けます。伐採した木は、いったん乾かしています。そして、乾いた順に燃やしています。ただ、雨が降ったり風が強い日は燃やすことができません。そのため、5日位おきに燃やしています。暖かくなる4月初めまで燃やそうと思います。
今回の燃やし始めは、段ボール箱やダルマ
今回、最初に燃やした中にダルマがありました。亡き父親が元岸総理の岩国事務所秘書をしていた頃、国政選挙時に置かれたダルマです。選挙で元岸首相が当選したのでしょう、両目がく塗ってありました。元岸首相か,奥様か.又は誰かが塗ったようです。土に返ったダルマのように、少しずつ父親の思い出が消えていきます。
燃え盛る枯れ枝など 生木の葉も燃やす 暗くなっても燃やし続ける
過去のアナログデータをデジタル化、どうするか!
倉庫などを整理していると、昔よく聞いたLPレコードなどがポロポロと出てきます。最近、パソコン雑誌にアナログデータのデジタルデータへの変換方法がよく出てきます。そのため、私の思い出のアナログデータを年内に、なんとかデジタルデータへ変換してみようと思います。数年前に一度トライしたことがあるのですが、一番の難敵は磁気テープへ録画したアナログデータです。磁気テープが経年変化が傷んでいるようで、変換がうまくいかない場合がとても多いのです。
私がよく聞いた、音楽関連データ媒体の一部
音楽関係のアナログデータはそれほど惜しくはないのですが、映像データはなんとか変換したいと思います。特に、VHSと8mmビデオです。両方共に再生装置が売っていないので困ります。ただ、最近アナログデータからの変換専用装置も売っているようなので、検討する価値がありそうです。今から30年位前に撮影したビデオをもう一度見たいものです。
ところで、ビデオよりさらに古い8mmフィルムはなんと、今でも映写機が使用可なのです。カタカタ言いながら映像を今でも見ることができます。古い方が長期保存に適しているなんて、30年前は考えもしませんでした。
映像を記録した媒体の一部、再生が困難なのはVHSと8mmビデオ
田布施町 楽しかった交流館~才賀川~楠峠~竹尾ウォーキング(1/3)
午前中は曇りで午後は雨との天気予報で、天候がとても心配なウォーキングでした。そのため、途中雨が降ってくるようなことがあれば、一部の史跡などをスキップして歩こうと思っていました。しかし、それは杞憂でした。麻里府上組の大泉寺を過ぎた頃からパラパラと小雨が降ってきましたが、それでも去年下見したコースをすべてウォーキングすることができました。天候不順にもかかわらず、子供達も大勢参加した楽しいウォーキングでした。
長田の聖観世音菩薩堂 長田のお地蔵様 才賀川を上流に
朝10時に田布施町交流館に集合しました。そして、田布施町舎の横を通って長田に向かいました。曇ってやや寒かったのですが、談笑しながら歩いていると暖かくなります。最初の訪問個所は長田の聖観世音菩薩堂です。かつて、ここを起点に竹尾方面に向かって一日詣りが行われていました。今回は、この一日詣りのコースをウォーキングしました。
防陽八十八ヶ所霊場の第四十一番札所の宝樹寺
聖観世音菩薩堂を出ると、長田のお地蔵様を見た後に才賀川沿いの道を上流に向かって歩きました。しばらく歩いた後、いったん川を外れて防陽八十八ヶ所霊場第四十一番札所の宝樹寺に向かいました。宝樹寺を見学後、才賀川沿いの道に戻り、西田布施公民館近くにある防陽八十八ヶ所霊場第四十二番札所の太子庵に行きました。かつて、この太子庵にたくさんの巡礼者が訪れていたに違いありません。
宝樹寺横のお堂 西田布施公民館近くの太子庵 松尾の荒神様
太子庵を見終わると、再び才賀川に戻りました。そして、川を横断して松尾の荒神様に行きました。桜の大木が何本かありました。今でも8月にお祭りをしているそうです。続いて、防陽八十八ヶ所霊場第四十三番札所の瑞松庵に向かいました。当番で鍵を預かっておられるNさん宅に寄りましたが、ご不在でした。ところが幸運なことに、町会議員のSさんがおられました。Sさんのごはからいにより瑞松庵内を見学することができました。Sさんありがとうございました。
瑞末庵に到着 瑞松庵内で楽しい昼食 Sさんと談笑しながら
かつて瑞松庵には尼さんが住んでおられました。その尼さんは、田布施地方史の中に時々出てきます。その尼さんは、瀬戸地区のお店に買物によく来ていたようです。また合気道か何か体得していたようで、大の男を投げ飛ばしたと記録に残っています。小柄な人だったようで、男達を気安く近づけなかったのでしょう。瑞松庵には晩年の遺影が飾ってあります。
今回ウォーキングした、交流館~松尾~竹尾の史跡探訪コース
田布施町 楽しかった交流館~才賀川~楠峠~竹尾ウォーキング(2/3)
瑞松庵には立派な木像が何体かありました。単なる庵には見えません。もともとは何らかのお寺ではなかったかと思わせるような建物です。他の庵とは別格のような気がします。瑞松庵を出ると、ちらりと空を見ました。瑞松庵を出る時の天候でコースを変えようと思っていたためです。しかしながら、まだ雨は降っていませんでした。このため、予定のコースを歩くことに決めました。
たくさん食べて元気いっぱい、瑞松庵を出発!
瑞松庵を出ると、南植物試験地脇を通りました。ここは、植物研究者南氏が個人の土地に作った試験地とのことです。近年管理されていないようで、どんな樹木が植えられているのは見た目分かりません。マンシュウボダイジュだけは分かりました。試験地の地面を見ると、変わった種が落ちていました。マンシュウボダイジュの種です。まるで落下傘のように、枯葉がパラシュート代わりです。風に乗りくるくる回りながら種が落ちます。
マンシュウボダイジュの種 斎場近く、もうすぐ楠峠 麻里府上組の大泉寺
南植物試験地を通り、田布施平生合同斎場前の道を歩き、麻郷と麻里府の境である楠峠を越えました。楠峠を越えてすぐの所にあるテクノセブン前を通りました。2年ぶりに社長のM君に会えるかと思いましたが、残念ながら日曜日は休みでした。テクノセブンからすぐの所に、竹尾へ行く道と上組へ行く道が分かれています。天候が悪いながらも雨が降らないため、上組方面への道を選びました。そして、5分位歩くと大泉寺に着きました。
肌寒い曇りの中を大泉寺に到着、本堂を見学させていただく
大泉寺に着くと、ご住職はご不在とのことで奥様がおられました。ご挨拶すると、快く本堂を見学させていただくことができました。ありがとうございました。この頃から、曇空からポツポツと雨が降ってきました。大泉寺を足早に出ました。竹尾の旧バス停跡に着くころには小雨となりました。バス停跡内に入って雨具に着替えました。
竹尾旧バス停跡で着替え カッパを着て笠をさす 旧竹尾小学校跡に到着
ウォーキングに参加されたkさんは竹尾出身です。kさんから、バス停跡から旧竹尾小学校跡に向かう近道を教えていただきました。その近道を通って旧竹尾小学校跡に急ぎました。kさん、近道を教えていただきありがとうございました。
旧竹尾小学校跡に着くと、子供達がいっせいに走り始めました。えっ!何だろう?と振り返ると、子供達はブランコに向けて走っていたのです。子供達は、史跡を見るよりも遊具の方が楽しいのでしょうね。
今回ウォーキングした、交流館~松尾~竹尾の史跡探訪コース
伊佐里峠古道(井神~上組)の下草刈り 1/2
一昨年冬にその確認を失敗し、去年に確認をした伊佐里峠古道を整備することにしました。この古道はつい40年位までは歩かれていました。私の同級生達も、子供の頃に歩いたことがあります。さらにその昔は、重要な街道の一つでした。例として、高松八幡宮のお祭り時には、麻里府上組などに住む方々はこの古道を通ってお祭りに来ていました。逆に、室積の普賢様のお祭り時には麻郷に住む方々はこの峠を越えて竹尾を通ってお祭りに行っていたのです。
今使用中のチップソー 下刈り用のチップソー 下刈り用チップソーに交換
さらに、田布施地方史にも伊佐里峠に関わる記録が多くあります。例えば、上組に住む方々は伊佐里峠を通って、収穫したお米を米出に出荷したとのこと。また、この峠を越えて尾迫の市場に野菜を出荷していたとの記録があります。さらに伝説も残っています。例えば、麻郷の川添橋袂に建っている記念石碑。元々この石は、伊佐里峠にあった茶屋の椅子として使われていたとのこと。ある時、清三郎と呼ばれる力持ちが伊佐里峠から運んだとの話です(田布施地方史研究会誌27号)。この話は今、「五人力の清三郎」として紙芝居になっています。
伊佐里峠に持って行くため混合ガソリン作り、最初エンジンオイルを入れる
ところで、今年初めて積雪がありました。ようやく冬らしい季節になりました。その雪が舞う中で、伊佐里峠での下草刈りの準備をしました。笹などの硬い草や小枝を刈るため、下草刈り用のチップソーを購入しておきました。その下草刈り用のチップソーに取り替えました。さらに、予備の混合ガソリンを作っておきました。3回分給油できる量です。実際には、3回も給油することは無いと思います。
ところで、麻郷側からは伊佐里峠までは難なく行くことができます。そのため、峠から大泉寺までの古道の下草刈りとなります。なお麻里府上組の班長様に、この下草刈りについて事前にご了解していただきました。ありがとうございました。
次にガソリンを入れる 左:ガソリン,右:エンジンオイル 完成した混合ガソリン
草刈機や混合ガソリンの準備が終わると、その他の備品を揃えました。下刈り時に必要な、防護メガネ,防護服,帽子,軍手などを揃えました。その他、必要になると思われる、のこぎり,かま,砥石,くわなども用意しました。。弁当やお茶などは当日揃えます。気になるのは天候です。雨や雪は降らないようですが、風による寒さが心配です。
江戸時代から明治にかけて当時の麻郷村で行われていた一日詣り(南平和巡礼)で、この峠を越えていました。その巡礼コースに沿って、5月ウォーキングする予定でいます。なお江戸時代、麻郷村の一地域が今の麻里府でした。当時の麻郷村は広かったようです。明治22年に麻里府村として分村しました。
下刈りのために用意した備品類
伊佐里峠古道(井神~上組)の下草刈り 2/2
朝10時に高松八幡宮の駐車場に集まって、伊佐里峠(いざりがとうげ)を越える古道の整備をしました。最初、集まった4人で伊佐里峠に向かいました。沢筋を通って古道をどんどん登って伊佐里峠に着きました。伊佐里峠はその昔、茶屋があった記録があるように、狭いながらも何人かが腰を下ろすほどの平地があります。そこに荷物を下ろして、さっそく古道の整備を始めました。
井神から伊佐里峠に向かう 沢筋の古道を登る 伊佐里峠に着き小休止
古道がどの程度荒れているか分からなかったため、いろいろな道具を持って行きました。カマ、草刈機、のこぎりなどです。私は草刈機を使って枯れ枝などを刈りながら、伊佐里峠から上組に向かって古道をどんどん進みました。最初は快適に刈り進めたのですが、峠と大泉寺の中間地点頃からだんだん道の荒れがひどくなりました。倒木が道をふさいだり、嶮山のように木が古道に生えていて通る隙間がない場所もありました。放棄後40年近い月日を感じさせます。
草木を刈りながら進む 大泉寺に到着 大泉寺から峠に戻る
また、シダ類が膝上までびっしり生えている個所もありました。とにかく、草刈機を左右上下に振り回しながら少しずつ進みました。しばらく進むと上組の家々が見えるようになりました。さらに進むと墓地が眼下に見えるようになりました。大泉寺脇に抜けた時、ほっとすると同時に疲れが一気に出ました。ご挨拶しようと大泉寺に行きましたが、ご不在でした。小休止後、同じ道を通って伊佐里峠に戻りました。
伊佐里峠古道の下草刈りを終わり、伊佐里峠に戻って昼食休憩
戻りの道も大変でした。大泉寺から300m位がとても急な上り坂なのです。疲れた体に鞭打って登りました。しばらく登っていると、3人が待っていました。私がどんどん刈り進んで姿が見えなくなったたため、崖下にでも落ちたのか心配したそうです。伊佐里峠に戻り着くと、どっこいしょと座って昼食をとりました。峠は風が抜ける場所のようです。夏ならば、涼しい風が吹いて休むのに適した場所のようです。
整備した古道 伊佐里峠から井神に戻る 井神に到着
今回の整備により、伊佐里峠古道を歩くことができるようになりました。ただ、倒木が一ヶ所あったり、木が生えて通りにくい所が数か所あります。2月にもう一度、今度は麻里府上組側から整備しようかと考えています。再度整備すれば完璧です。その時、道に迷わないように赤リボンを古道に沿って取り付けようと思います。
整備の結果、南平和霊場七番ヶ所札所の長福寺から八番ヶ所札所の上組薬師堂や九番ヶ所札所の大泉寺へ歩くことができるようになりました。今回、その目的を果たすことができてうれしく思いました。3月に下見をして、4月に本番の南平和巡礼ルートウォーキングができそうです。
歩くことができるようになった伊佐里峠の古道
田布施町 楽しかった交流館~才賀川~楠峠~竹尾ウォーキング(3/3)
旧竹尾小学校跡地を出ると、次に7丁地蔵尊を見学しました。このお地蔵様から龍泉寺に向かって6丁,5丁,4丁とお地蔵様が続くのです。1丁地蔵尊は龍泉寺の楼門前に安置されています。つまり、お地蔵様を番号の少ない順番に進むと龍泉寺に到着するのです。7丁地蔵尊を見終わると、龍泉寺に向かって、次の6丁地蔵尊に行きました。
7丁地蔵尊を見学 山道を龍泉寺に向かう 4丁地蔵尊を通過
2丁地蔵尊を過ぎる頃、上の方に龍泉寺の楼門が見えるようになります。最後に石階段を登ると目の前は、楼門前の石階段です。楼門前の石階段途中間に1丁地蔵尊があります。1丁地蔵尊を過ぎて、最後の石階段を登りきると楼門に到着です。
1丁地蔵尊横の石階段を登りきると、そこは龍泉寺の楼門
6丁地蔵尊から楼門に着くまでずっと登り坂です。大人も子供も、楼門に着いた時は息をはずませていました。楼門で少し小休止してから、目の前の龍泉寺に入りました。事前に連絡してはいましたが、ご住職様のご好意で本堂に上らせていただきました。ありがとうございました。笠をたたんで、合羽を脱いで本堂に入りました。
雨の中、楼門に着いて小休止 約12km歩いて龍泉寺に到着
今回、龍泉寺に御祈願をお願いをしました。それは新年にあたり、今後ウォーキング中に交通事故などの災害に合わないための御祈願をしていただくことです。みなさん本堂に座って、ご住職に合わせてお祈りをしました。単に史跡巡りをするのではなく、寺社での御祈願や法要を体験することも大切だと思っています。今後も新年時などに御祈願をしていただこうと思います。子供達にとっても貴重な体験になると思います。
今後の健康ウォーキングクラブ無災害を、ご住職様に御祈願していただく
ご住職による御祈願が終わると、隣りの部屋でお接待を受けました。お接待ありがとうございます。私は、子供達の近くに坐り談笑しました。子供達はたくさん歩いたため、お腹が空いたようです。お盆に盛られたお菓子を食べていました。私も少しいただきました。子供の笑顔はいいですね。私も子供の頃はこんなだったのかと思いました。
御祈願後、ご住職様を中心に談笑
龍泉寺から、4台の車で田布施交流館に戻りました。今回のウォーキングは、いつ雨が降り始めるか気が気でないウォーキングでした。実際、途中で合羽に着替え、笠をさしながらのウォーキングとなりました。後で聞いたのですが、雨が降ったにもかかわらず子供達はウォーキングを楽しんでいたそうです。とにかく全員無事で、しかも楽しくウォーキングできて安心しました。参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした、交流館~松尾~竹尾の史跡探訪コース
我家の東庭に桃の苗木を植える
冬は果樹や樹木の苗木を植える時期です。この冬最初に植えた苗木は桃です。今2本の桃の木があるのですが、だいぶ年数が経っているため、そろそろ新しい桃を植えた方がよさそうです。桃が枯れてから苗木を植えると、桃の収穫が一時期絶えてしまいます。それを避けるため、5年ごとに桃の木を更新しようと思います。
今回植えた桃の苗木 植える穴の深さを確認 苗を植えて土を被覆
桃の木の寿命は10~15年位でしょうか。今2本の桃の木がありますので、各桃を10年サイクルで5年交互に植え替えようと思います。10年経った桃の木を伐採しつつ、同じ年に苗を1本植えようと思います。今年植えた桃の木は、ちゃんと成長すれば再来年には実がなると思います。
日当たりが良い我家の東庭に植えた桃の苗
田布施町 少年少女発明クラブ ミニチュアカー制作(2/2)
2週間ぶりの少年少女発明クラブです。今回は、前回制作中だったミニチュアカーを完成させました。前回、ミニチュアカーは前進しかできませんでしたが、今回は、左右と前進ができるように工作しました。だんだん工作が難しくなっていきます。5,6年生にはちょうど良いかも知れませんが、3,4年生にはちょっと難しいかな。
最初、電線に熱収縮チューブを被覆する工作
ミニチュアカーを左右に動かすため、スイッチを2個使う電気回路を作ります。その前に、ボードに電線を差し込む線を半田付けしたり、その線に熱収縮チューブを被覆する加工をしました。前回体験している工作のため、子供達は半田ごてを器用に使いながら半田付けしていました。ところで、私が家で熱収縮チューブを被覆する時はドライヤーを使います。ですが、この工作では半田ごてをチューブに当てて被覆します。半田付けと熱収縮チューブによる被覆が終わると、いよいよ回路を作ります。
熱収縮チューブを被覆 回路を組む電線を加工 回路の組み立て準備完了
だんだん工作が難しくなります。右モーターを動かす回路と左モーターを動かす回路を作るのです。そもそも3,4年生にとって、「回路」と言う言葉は初めてかも知れません。確か、私が回路と言う言葉を習ったのは小学5年生の頃ではないでしようか。小学5年生の時に回路を組んで豆電球を光らせたのが最初だったように思います。信号器の赤青緑の光に見立てた豆電球を、三つのスイッチで光らせたと記憶しています。
二つのスイッチの繋げ方を子供達に説明する先生
二つのスイッチの回路を作ることは私には容易でしたが、子供達特に3,4年生には難しかったようです。私は、子供達に付いて説明しながら一緒に回路を作りました。ただ、今回使った回路ボードは裏配線の様子が分からないため、子供達には難しかったようです。むしろ、むき出しのまま半田付けした方が分かりやすかったなかと思いました。
配線に四苦八苦 先生に教えてもらいながら やっと配線完了
配線が終わると床にミニチュアカーを置いて試走してみました。配線が間違っていると、左右が逆に動いたり、そもそもモーターが動かなかったりします。そんな時は高校生のお兄さん達が丁寧に教えてくれました。
次に、みんなのミニチュアカーが完成した頃をみはからって、次の課題に取り組みました。それはLED(Light Effect Diode)を光らせることです。最初子供達は、LEDの向きや回路の組み方について教わりました。
LEDの向きや回路の組み方について教わる子供達
私が子供の頃、LEDはありませんでした。大学1年の時にLEDを初めて購入しました。数百円/個で決して安くはありませんでした。その頃のLEDはまだ明るくはなかったのですが、そのうっすらとした橙色の光を飽きずに眺めていたことを覚えています。LEDがこんなに身近になるとは、当時思ってもみませんでした。
工作が終わると、後片付けです。来月最後の工作があるのですが、その頃私は東京に行くので参加できません。3月の閉講式には参加しようと思います。
LED工作をする子供達 出来上がったLED回路 みんなで後片付け
いつもの仲間達と、ミニ同窓会
土曜日、午前の少年少女発明クラブが終わった後、平生町の喫茶レーガンに行きました。すると、いつもの顔ぶれが談笑していました。私は家に帰らずにそのままバイクで乗り付けたためお酒は飲めません。ただ、ワインの味見だけはしてみました。味見のお酒だけで顔がホカホカしてきました。
私が着いた頃からお食事会の始まりです。終わったのは午後4時過ぎだったでしょうか。延々と楽しい笑い声が続きました。途中、私の畑で秋に収穫したサツマイモを材料にした料理が出ました。お饅頭のようなおやきで、とても美味しかったです。今後も、こんな楽しいミニ同窓会が続けばと思います。ご馳走様でした。
ミニ同窓会に集まったいつもの仲間達
田布施町 町制60周年 思い出の写真パネル展示会
22日から田布施町郷土館で、町制60周年に関わる思い出の写真パネル展を開催しています。去年、町制60周年記念の冊子が町民に配られました。そして、各地域の公民館で思い出の写真展が開催されました。それらの写真の一部や郷土館所有の写真などを持ち込んで、田布施町全体としての写真展の開催です。中には、岸元首相や佐藤元首相のお国入りの写真も展示してあります。
郷土館玄関の案内 写真のジャンル分け どの写真を展示しようか
展示会の数日前から郷土館では準備を始めました。最初に、写真パネルを貼るボードを設置しました。そして、前日に展示する写真を選ぶことと、どのジャンルにまとめるかを検討しました。その結果、学校関係,海がある麻里府などの地域,山がある地域,商店会やお祭り,岸・佐藤元首相のお国入りなどのジャンルに分けて貼りました。
貼る写真を決めると、次々にボードに張り付け
展示会当日の早朝、写真にタイトルを張りました。こうして、思い出の写真パネル展の準備が完了しました。準備完了後1時間も経たないうちに、最初の方が見えました。そして、午前中に次々とお客様が見えました。みんな懐かしそうに写真を見ていました。その写真を説明している途中、貼ることができなかった他の写真もお出ししてお見せしました。
この展示会は、来月28日まで開催されます。この展示会をもって、田布施町郷土館の今年度のイベントは終わりとなります。今年度を振り返ると、何と言っても去年秋の富永有隣展が準備も展示中も片付けも一番大変でした。個人的に幕末史の勉強になったので、開催してとても良かったと思いました。
写真をほぼ貼り終わる あとはタイトルを張るだけ 展示館準備完了
平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの再下見(1/3)
先日の平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの下見で、本番ウォーキング時に8カフェに寄らないことに決めました。その理由は、8カフェに行くとコース大きく迂回しなければならず、史跡を数多く巡れないことが分かったためです。そのため再度下見をして、終盤のコースを決めることにしました。ところで、昨日は晴天でしたが今回は散々な天候でした。天気予報では曇りだったのですが、終日小雨でした。終盤は手などが凍えました。
国木田独歩の碑 白井小介の顕彰碑 伊保庄西端の石碑
今回は、周東病院近くから歩き始めました。最初、前回の下見で確認した国木田独歩の碑と白井小介顕彰碑に行きました。ここからが、今回の再下見のスタートです。次に、周東病院前の地下道を通って旧道を土穂石川に向かいました。途中、南無阿弥陀仏と掘られた石碑がありました。その昔、この石碑の前をたくさんの人が通ったのでしょう。近くの古老にお訪ねすると、今の国道188号線は戦時中に作られたそうです。私が子供の頃、この旧道から柳井に向かって石橋がまだ残っていました。また、お店もたくさん残っていました。今は石橋も無くなり、さびしい通りに変貌していました。
門をくぐって阿弥陀寺を訪問
土穂石川に出ると、国道188号線を渡りました。そして、阿弥陀寺に向かいました。今回、詳しい話を聞くためお寺のチャイムを鳴らしました。最初、幼児をだっこしたご住職の奥様にお会いしました。しばらくしてお母様が来られ、少ししてご住職がご帰宅されました。このお寺は江戸時代にお寺になったとのことで、その前は阿弥陀堂があったそうです。その阿弥陀堂は、下見時に見たお堂のことであることが分かりました。来月の本番ウォーキング時に再度訪問することをお伝えして、お寺を後にしました。
火伏のお地蔵様 石桁製橋脚の古い橋 安永2年建立の大師堂
続いて、お地蔵様に行きました。このお地蔵様から喫茶アップルミントを見ると、煙突から煙が上がってあらずお休みでした。そのため、町を突っ切り土穂石川に出て上流に向かって歩きました。この付近の土穂石川の橋は、どれも橋脚が石桁でした。どれも古い橋のようでした。その古い橋の一つを渡って、いったん土穂石川を離れて住宅街を歩きました。しばらく進むと、T字路に突き当たりました。その突き当り近くに、屋根がある立派なお地蔵様がありました。大師堂安永2年(1773年)建立、と墨で書かれていました。
引き潮中の土穂石川右岸の土穂石、川の名前の由来
お大師堂を西に向かうと、再び土穂石川に出ました。しばらく上流に向かって歩いていると、川の右岸側の石垣からはみ出るように巨大な石が見えてきました。土穂石です。土穂石川の名前の由来になった石です。かつてこの付近が海であった江戸時代初期以前、海岸に突き出た岩だったのではないでしょうか。
今回再下見した、田布路木~土穂石川の史跡コース
田布施町 麻里府上組の大師堂,人丸様などの史跡調査
先日、麻郷の高松八幡宮から麻里府大泉寺へ通じる伊佐里峠を整備しました。そこで今回、4月にウォーキングする予定の、伊佐里峠から通じる麻里府上組の古道を中心に調査しました。そして、2年位前から探していた上組の人丸様をようやく探し当てることができました。
最初中郷のTさん宅に行って、お借りしていた麻里府の故事資料をお返ししました。次に上組に向かいました。そして、上組公会堂向かい側にお住まいのYさん(昭和13年生)をお尋ねしましました。なかなか在宅しておられない方なのですが、今回は在宅しておられました。そして、上組の山の中などをいろいろ案内していただきました。Yさんありがとうございました。
Yさん宅裏のお地蔵様1 Yさん宅後ろの大師堂 藪中を人丸様に向かうYさん
最初、Yさん宅の裏にある大師堂について教えていただくことになりました。大師堂に向かう途中、お地蔵様2体がありました。大師堂はYさん宅後ろにあるため、山を回り込むとすぐにありました。お話しを伺うと、大師堂はだいぶ前に倒壊してしまったそうです。再建するための費用がないため、屋根付きの小さな小屋作って大師堂にあった仏像を安置したそうです。元あった大師堂は、6畳位の立派なお堂だったそうです。なお、この大師堂から大泉寺方面に降りる急坂を横尾坂と呼んでいたそうです。確かに急な坂です。今は、笹が茂って通れませんが。
人丸様近くの、竹などが生い茂る薄暗い道
そして、かつての古道を教えていただきました。伊佐里峠から上組に続く古道は、大師堂前を通ってはるばる伊保木まで通じる往還道だったそうです。例えば高松八幡宮のお祭り時、上組の人達は先日整備した伊佐里峠の古道を通って麻郷に行っていたそうです。また、小行司出身で室積の学校に勤務していた先生が、この上組の往還古道を通って小行司に帰っていたそうです。つまり、室積~伊保木~上組~伊佐里峠~麻郷~大波野~小行司へと帰っていたとのこと。昔は徒歩しか移動手段がなかったため、当然のことだったのでしょう。今、車を使えば、室積と小行司間を毎日通勤することは不可能ではありません。昔日の感があります。しかし、今のような舗装道路ができてからは誰も古道を通らなくなりました。そのため、古道は廃道になってしまいました。
やっと探し当てることができた人丸様
次に念願の人丸様に行くことにしました。Yさんは山道を良く知っているようです。藪や竹が生い茂る獣道をどんどん歩いて、私を先導していただきました。Yさんによると、この周辺は崖崩れが多いため道が寸断されたり道が消えたりしているそうです。その道なき道を、藪を払いながら倒木を避けながら進むとお堂位の大きさの人丸様がありました。やっと巡り合いました。人丸様は、病気をした時などに糠団子をお供えすると治るとの言い伝えがあるそうです。Yさんの祖母様がそう言っていたとのこと。ところで、麻郷の鳥越にも人丸様があります。また大波野には人丸坊と呼ばれるお地蔵様があります。人丸同士、相互に関わりがあるのでしょうか。
後ろから見た人丸様 上組公会堂を目指す 立派な墓石
人丸様を出ると、元来た道を通らないで山を回り込むように上組公会堂に向かいました。これまた藪や竹が生い茂っていました。足元を見ると人家跡がたくさんありました。明治時代の記録を見ると10軒位の家が密集していたようです。しかし、昭和20年代頃から人丸様周辺から家がどんどん移転していったそうです。この周辺は、いつの時代からか横尾家が代々多く住んでおり、横尾じょうと呼んでいるとのことです。
Yさんに見せていただいた麻里府上組公会堂
今の横尾じょうは、Yさんが住んでいる上組公会堂東側にしか住居がありません。今でも上組に、横尾姓の家が何軒かあります。上組公会堂横に出ると、道から目立つ墓石を見学しました。Yさんによるとアメリカに行って成功した人が帰ってから作った墓石ではないかとのことでした。Yさんと同じ姓の名前で、昭和6年に建立と刻まれていました。
右:荒神様,左;地鎮様 成川岩金横尾中村各じょうの、左:荒神様,右:地鎮様
続いて、上組公会堂を見学しました。中に入ると、右に荒神様、左に地鎮様が祭られていました。かつては、成川、岩金、横尾、中村の各じょうで、順番に神様を回していたそうです。しかし、上組の住民が少なくなったため、今では回さないで年に一度お祭りをしているだけだそうです。中郷では今でも回しているようですが、上組では回すことができなくなったようです。そのような話は、田布施のあちこちから聞きます。時代の流れに抗えないものの、数百年も続いてきた古い民間信仰が、次々に絶えていくのは寂しい気持ちがします。
なお、4月伊佐里峠を越えるウォーキング時に、一部上組の古道を歩く予定にしています。
今回調査した、麻里府上組の横尾じょう岩金じょう周辺
平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの再下見(2/3)
土穂石川に寝そべっているように見える土穂石を見終わると、しばらく上流に歩いて橋を渡りました。そして、反対側の川岸に行って、下流に向かって20m位歩きました。そこには、かつて営業していた石風呂の屋敷がありました。裏口になるのでしょうか、入ると左手にお堂がありました。そして、屋根下に入ると営業時の石風呂の写真が展示してありました。周防大島などに石風呂跡がありますが、人々が石風呂を楽しんでいる写真を展示しているのはここしかないと思います。
古い看板に「石風呂」 展示中の石風呂の写真 土穂石神社
石風呂は一種のサウナです。熱くなったドームのような石風呂に入って、湿った海藻を体にたたきつけるのではないでしょうか。田布施町麻郷の鳥越に石風呂と呼ばれる地区があると聞きました。その昔、田布施にも石風呂があったのでしょう。ちょっとした港には石風呂があったのではないでしょうか。
今、お風呂と言うと湯船に入ることを指します。火を風呂底に当てて湯を沸かすためにはどうしても鉄板が必要です。昔は鉄板は貴重でした。せいぜい盥に湯を入れてつかっていたのではないでしょうか。大勢が湯船につかりだしたのは、江戸のような都市が始めだと思います。一般に普及するようになったのは明治以降のことではないかと思います。それまでは、石風呂が一般だったのではないかと思います。湯船は意外と歴史が浅いようです。
防陽八十八ヶ所霊場の第八十七カ所札所の欣慶寺
石風呂屋敷を見終わると、小高い丘に登りました。そこには土穂石八幡宮があります。神社に土穂石の名前が付いていることから、神社が建立される前から土穂石が知られていたようです。つまり、古代にはすでに土穂石があって、石に神様が宿っているとされたのでしょう。土穂「つつぼ」の意味は何なのでしょうか。柳井一番の不思議な石です。意外にも、石と神社は関係があります。例えば、田布施の石ノ口八幡宮や八尋石八幡宮も石に関わりがあるのです。はるか古代の岩信仰が神社になったのではないでしょうか。
大師堂への石段 防陽,平和,周陽霊場 賑やかな新庄保育園
土穂石八幡宮の隣りに欣慶寺があります。このお寺は、防陽八十八ヶ所霊場の第八十七番札所,平和八十八ヶ所霊場の第四十九番札所,そして周陽八十八ヶ所霊場の第四番札所となっています。これらの巡礼ルートは、元々は防陽八十八ヶ所霊場が基礎になっているようです。その順番を辿ると、真言宗のご住職が自分のお寺を一番札所として巡礼していたことが分かります。例えば、平和霊場は千坊山光福寺が第一番札所です。千坊山光福寺の先代のご住職が始められたようです。
土穂石八幡宮の巨大な石鳥居、工事で石脚が少し破損したため補強中
い
欣慶寺を出ると、新庄保育園横を通りました。保育園の園児達に手を振ると、園児達がニコニコして手を振ってくれました。少し歩くと土穂石八幡宮の巨大な石鳥居に着きました。倒壊した田布施宿井の石鳥居以上の大きさのようです。工事で石脚が破損したそうで、石脚2本共に支えがしてありました。
こんな巨大な鳥居をどうして立てたのでしょうか。重機がない昔は大変な工事だったと思います。が実は簡単で、最初に土を山のように盛ってから鳥居を構成する石を運び込み、組み立て終わると土を取り除いたとのこと。この方法ならば簡単です。古墳の巨大な石室も同じ方法で作られました。古代から受け継がれた知恵が使われていたのです。
今回再下見した、田布路木~土穂石川の史跡コース
平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの再下見(3/3)
土穂石八幡宮を出ると、再び土穂石川に戻って土穂石の真上に行きました。川の上から土穂石を見下ろすと、巨大な生き物の背中のようにも見えます。石の端は大きくはがれています。古代にはさらに巨大な岩だったのに違いありません。この岩の上に乗ると、目の前は川面です。昔は洗濯をしたり野菜を洗うのにちょうど良かったのに違いありません。
土穂石の右岸下にある巨大な土穂石、そして松尾芭蕉の句碑
ところで、土穂石にしても田布施町奈良の大岩にしても、数万年前の氷河期には山に突き出た岩山だったかも知れません。氷河期は今より100m以上も海岸が低かったため、瀬戸内海はなく柳井や田布施は渓谷だったはずです。そのような時代を越えて、今もある岩は不思議な存在です。古代の人々が大きな岩に不思議な何かを感じてもおかしくありません。岩に由来する神社は、太古の時代からの自然に対する崇拝が今に引き継がれたものではないかと思います。さて、土穂石の上には松尾芭蕉の句碑がありました。江戸時代の人々も土穂石に関心を抱いていたのでしょう。
雨の中、土穂石川を下る 韓国家庭料理:幸せの味 初めて食べたちぢみ
続いて、土穂石川の土手を川下に向かって歩きました。今回は終始小雨でした。風はそれほど吹いていなかったにも関わらず、手袋をしなかったためか寒さで手などが凍えました。そこで、近くで体を温めるお店を探しました。すると、川沿いに韓国の家庭料理のお店がありました。私は初めてのお店でした。さっそく中に入って料理を注文しました。
韓国の家庭料理を楽しむ、今回の再下見参加者
私は韓国の料理を食べるのは初めてです。聞いたことがある海鮮チヂミを頼みました。箸は金属製のようでした。軽いのでアルミ製かな?出て来たチヂミには魚介類がたくさん入っていました。ピザのように平らにしたお好み焼きと言ったところでしょうか。お腹が空いていたこともあり、とても美味しかったです。ご馳走様でした。韓国料理を食べながら楽しい会話をして、すっかり体が温まりました。小雨の中を帰路につきました。今回再下見に参加された方々、寒い中をお疲れ様でした。
今回再下見した、田布路木~土穂石川の史跡コース
水羊羹作りと、健康ウォーキングクラブ2016年度総会・新年会
年に一度の、健康ウォーキングクラブの総会を開催しました。その総会は、出席者各自一品持ち寄りです。そのため、私も一品持ち寄りしました。私は去年収穫した小豆を使った水羊羹をデザートとして持ち寄ることにしました。そのため、午前中は水羊羹づくりに専念しました。一昨年作った水羊羹の思い出しながら作りました。
小豆を塩水に浸してゴミ取り 小豆を手で擦って磨く 水をきってさらにゴミ取り
小豆をごとごと2時間程度煮た時、水分が蒸発して水がだいぶ減りました。そのため、水を追加しながら煮続けました。小豆が煮崩れした頃を見計らって、普通ならばここで裏漉しします。しかし、ミキサーを使って皮も綺麗に粉砕にしたため、よほど注意して味見しないとざらざら感はありません。
ゴミを取り除いて、綺麗になった小豆
しかしながら、水羊羹作りは結果として失敗しました。寒天の量が少なかったようです。砂糖を入れて混ぜ、さらに粉寒天を入れながら混ぜました。とろとろになったところで、トレイに移して冷蔵庫で冷やしました。数時間ご冷蔵庫から取り出して確認すると、固まっていないのです。がっかりしました。しかし、食べられないことはありません。恥ずかしながら、これを総会に持っていきました。次回は固まるように調理しょうと思いました。
小豆をぐつぐつ煮続ける 砂糖、粉寒天を入れる 冷蔵庫で冷やす
午後4時T邸で、去年に続いて今年度(2016年)の健康ウォーキングクラブ年次総会を開きました。最初、私が挨拶して2015年度のウォーキング実績などをお話ししました。そして、過去3年間のウォーキングを記録したアルバムをお見せしました。続いてTさんより、2015年度の会計報告をしていただきました。その次に私から、2016年度のウォーキング計画を説明しました。今年より、当クラブは5年目に入りました。
総会後、各自持ち寄った一品に舌鼓しながら新年会兼懇親会
総会が終わると、新年会兼懇親会の始まりです。各自が持ち寄った御馳走に舌鼓を打ちながら、楽しく談笑しました。隣部屋にいた子供達にもご馳走を分けました。終盤間際、私が作った流動性(笑)水羊羹を大きめのスプーンですくって小皿に盛り、皆さんに食べていただきました。
今年度も史跡巡りを中心とした楽しいウォーキングを計画しています。今後ともよろしくお願い致します。
健康ウォーキングクラブ 2016年のウォーキング計画(予定)
月 日(基本第3日曜日)
1月 17日 交流館~才賀川~楠峠~竹尾ウォーキング 実施済み
交流館~長田観音~地蔵尊~宝樹寺~太子庵~瑞松庵~
大泉寺~竹尾小学校跡~地蔵様巡り~龍泉寺
2月 21日 平生町~柳井市ウォーキング
平生Maxvalu~秀厳寺~万徳寺~国木田独歩碑~田布路木峠~
阿弥陀寺~土穂石川~周東病院バス停~(バス)~平生Maxvalu
3月 20日 光市虎が岳ウォーキング
渓月院~虎が岳~烏帽子岳~妙見社~常安寺~渓月院
4月 17日 南平和霊場巡礼ルートウォーキング (健脚向け)
約20km 7時間程度のハードな歩き
交流館~1:関戸橋観音堂~2:新川寮~3:三宅薬師堂跡~4:尾迫観音堂~
5:西竹重西遊寺~6:奈良西法寺~7:井神長福寺~井佐里峠~
8:上組薬師堂~9:大泉寺~10:中郷地蔵尊~11:戎ヶ下大師堂~
12:浜城大日如来~13:蓮輪千光寺~14:鳥越こつり地蔵尊跡~
八海地蔵尊~交流館 ※番号は南平和霊場番号
5月 15日 八島ウォーキング
上関港から船10:00発で~八島港10:35着~キャンプ場地蔵群~神社~
八島港17:10発~上関港17:45着 船片道580円
6月 19日 柳井市阿月周辺ウォーキング
阿月支所~克己堂~赤崎神社~造船所~宇積~世良修蔵碑~無動寺~
円勝寺~岩休寺~円覚寺~阿月支所
7月 17日 大波野,余田,新庄方面ウォーキング
東田布施公民館~灸川~極楽寺跡~明願寺~臥龍梅~積蔵寺~欣慶寺~
義経史跡~高林寺~安立寺~正連寺~福楽寺~上野寺観音寺~
名合八幡宮~余田税完納記念碑~東田布施公会堂
8月 お休み
9月 18日 田布施町麻里府上郷周辺ウォーキング
Berry Berry~明神社跡~妙見社~大泉寺~上組集会所見学~人丸様~
薬師堂~守屋大人碑等跡~Berry Berry
10月 16日 城南川西方面ウォーキング
城南公民館~稱名院~西山院庵(いんぎょうさん)~妙見社~
虚空堂~納所地蔵~蓮池寺~蓮成寺~城南公民館
11月 20日 古墳等を巡るウォーキング
交流館~稲荷山古墳~大田資直碑~東漸寺~国森古墳~
木の井山古墳~石走山古墳~後井古墳~御蔵戸古墳~稲荷社~
円満寺88ヶ所巡り~交流館
12月 お休み
注1)当日が雨天の場合、次週日曜日に延期します。次週日曜日も雨の場合は中止します。
注2)9月~11月は地域のお祭り等と日付が重なることが多いため、ウォーキングの日付やルートを変更することがあります。
我家の南側庭を整備、花畑か花壇に
先日、南庭のカイズカイブキを伐採しましたが、その南庭を大幅に変えようと思っています。今ナンテンなどが植えてあるのですが、それを花畑か花壇にしようかと思います。せっかくカイズカイブキを伐採して日当たりが良くなったので、夏向きの花を植えようと思います。そのため、今植えてあるナンテンなどを掘り起こしました。
明るい南側の庭 ナンテンの根を掘り起こす レンガも掘り出す
ナンテンは思いのほか、掘り出すことが大変でした。スコップでは無理だったため、石の多い工事現場などでよく使うツルハシを使って掘りました。根株を4個ぐらい掘り起こしました。次に、レンガを土中からすべて掘り出しました。父親がだいぶ前に花壇にしようとレンガで囲ったのに違いありません。そのレンガを掘り出して、新たな花畑か花壇に作り替えます。
土に中に埋まったレンガをすべて掘り上げ
掘り上げたレンガは脇に積み上げました。掘り上げたレンガを見ると、欠けたりセメントが付着したレンガがありました。どこかからもらってきたレンガではないかと思います。又は、戦時中に倉庫として使われたレンガだったかもしれません。私が子供の頃、高塔が集積所と言われていた時代のレンガが山裾に散乱していたのを覚えています。
レンガをすべて掘り上げると、耕運機であたりを耕しました。この春に何かの花でも植えようと思っています。球根がいいか、種がいいか、それとも果樹でも植えようかと考えています。
積み上げたレンガ 耕運機で耕す 耕し終わった南側の畑
我家の裏山から、伐採した木を降ろす。困った!トラクターが故障
去年から風のない日を選んでは、伐採した木や枯草などを焼いています。伐採したり焼いたりするのは比較的簡単なのですが、焼く場所まで運ぶのが容易ではありません。今回は、山で伐採した木を下まで降ろしました。チェーンソーで細かく細断してからちょっとずつ運んでもよいのですが、今回は山から一気に引っ張り降ろしました。
伐採してしばらく経つため、だいぶ木は軽くなっていました。その木に紐を巻き付けて、トラクターで引っ張り下ろすのです。木の重みで、たまに紐が切れることがあります。そのため、ゆっくりと慎重に引っ張ります。山から降ろすと、焼く場所まで、ずるずると運びました。乾いているのでよく燃えると思います。なお、先日伐採したカイズカイブキはまだ葉が青々しています。燃やすのはまだ先のようです。
山から降ろしたけやき 紐で結んで降ろす 慎重にゆっくりと引っ張る
この冬の間に、伐採したすべての木を燃やそうと思いますが、雨や風がある日、また仕事などで忙しい火は燃やせません。一部は来年に持ち越して燃やすことになるかも知れません。
しかし、困ったことがおきました。トラクター底部から何かの液体が漏れているのです。エンジンオイルかと思いましたが、指で液を触ってみたところ、冷却液のようです。前輪の故障は自分で修理しましたが、冷却液が流れる管の修理はとても出来そうもありません。よく使う農機具ですので、困ったことになりました。クボタに修理を頼まなければなりません。このさい点検・修理をしてもらおうと思いますが、お金がかかりそうです。しくしく。
紐でくくった木を、山から引っ張り下ろす
田布施町観光協会を訪問、ほか
仕事が休みだったため、田布施町観光協会の新たな事務所を訪問して来ました。入口右には「田舎暮らしの家 おいでえ」と、左には「たぶせIJU推進協議会、田布施町観光協会」と書かれていました。今は観光協会だけが入っていますが、4月から移住促進協議会の移住体験ツアーなどの事務所にもなると思います。今全国で若者の間で田舎志向が強いようです。この事務局が、都会から田布施への移住促進のメッカになるといいなと思います。
入口から見た事務局 「おいでえ」の表示 移住などに関わる研修室
事務局がある家に入って挨拶した後、しばらくして外に出てみました。私が気にいったのは東側の広い芝生だった庭です。近くの古民家に、古びた芝刈機が二台ありました。一つは手押し式、もう一つはモーター式です。手押し式は、あちこち錆びていました。試しに動かしてみると、かろうじて動きました。まだ使えるようです。試しに芝を刈ってみましたが、残念なことに雑草が絡みついて止まってしまいました。雑草を取らないと、芝刈機は使えないようです。
田舎暮らしの家 おいでえ 田布施町観光協会事務局
田布施町観光協会の事務局では、4月初めの「さくら祭り」の会場計画を立てていました。去年までは田布施町交流館前の広場で行われてきましたが、今年は詩情公園前の広場などを使って行います。担当の方々は苦労されているようです。会場の図面を開いては何度も検討していました。
さくら祭りが済むと、移住促進協議会の移住に関わるイベントがこの事務局で本格的に始まるのだと思います。
錆びるも動いた芝刈機 2階から見たスポーツセンター 忙しい観光協会関係の方々
話が変わりますが、私は40年近く東京に住んでいました。働きながらも、故郷の田布施の田舎暮らしが忘れられませんでした。自分が田布施で暮らすならばどんな田舎暮らしをしようかと考えながら、ホームページを作っていました。ブログを始める前のことです。下は、恥ずかしながら16年前(40歳代)の私が作ったホームページのある1ページです。
----------------------------------1998.8.1作成-----------------------------------
なぜ田舎暮らし
私はこれまで、絢爛たる都会生活や自然豊かな田舎生活の両方を経験しました。そして、いろいろな人とも交流を深めてきました。
常識的な事でしょうが、都会で暮らしてる人々は近代的で優れた生活をしています。そして、お金さえあれば必要な物はすぐに手に入ります。
しかしながら都会は、何かしら心にゆとりがなく喧騒的です。また、排気ガスなどの環境汚染,交通戦争,騒音と過剰照明などに囲まれた生活が当たり前となっています。子供も大人も、常に背中から押されて走り続けなければならないような、せわしない毎日です。また、建物や道路などのインフラは、健常者には効率的で快適であっても、お年寄りなど弱い立場の人には時として優しくありません。
一方で、文化的に一歩引いている田舎は、今やかつての貧困の痕跡はありません。人々は都会にない落ち着いた生活をしており、それに比例して他人に対して親切な人が多いような気がします。私がいろいろな山村を訪れた時、初対面の私を招き入れてお茶をふるまってくれた人が数知れずいました。都会ではありえないことです。
収入が多く豊かなはずの都会人の貧困な住環境、一方で収入が低いにもかかわらず田舎の豊かな住環境。いつから逆転してしまったのでしょうか。田舎には、まだまだ男尊女卑,村八分,そして談合的な文化が残存しています。しかし、世代が変わるたびに改善されています。
そして今、効率化され無機質な都会において、自然と共生できる田舎生活が見直されています。都会の中にせせらぎが作られ、田舎を模した公園があちこちで造られています。また、魚や水生昆虫が住める川作りが始まっています。これらのように、ちょっとした無駄が人に優しい潤いをもたらしていることが分かってきました。
私は、人間自身にも、無駄と思われるような生活やちょっとした寄り道が、人生に潤いを与えていると思います。そして、地位,学歴,収入だけで測られてきたこれまでの幸福度の指標が変わっていく、時代の転換期に今はあると私は思います。
私は、里山を探索・調査したり田畑を借りて耕作した経験などを元に、これから本格的な田舎生活をして、そのノウハウやメンタルな心得を体得できたらと思います。