夕方、風がありませんでした。これは伐採木や枯れ枝を焼却するチャンスですので、たき火をしました。最初に不要な段ボール箱を積み、その上に細かい枯れ枝を積みました。そして、ライターで火を点けました。火をつけた直後は炎は小さかったのですが、だんだん枯れ枝に燃え移りました。
不要な段ボール箱に着火 枯れ枝に燃え移る だんだん大きくなる炎
このところ、日が長くなったことを感じます。12月であれば、5時を過ぎるとすぐに暗くなったものです。2月になると、わずかに暗くなる時刻が遅くなります。それだけ燃やす時間を多くとれます。
枯れ枝に燃え移った炎の上に、伐採した幹などの太い木を重ねました。すると、炎がだんだん強くなります。燃え盛る炎をぼんやりと見ていると、時間を忘れます。3月位まで、風が無い日を狙っては伐採した木々を焼却しようと思います。それでも、すべての木を燃やすには時間が足りません。
暗闇の中で燃え盛る炎
たき火で伐採木などを焼却
田布施町郷土館 小学生達が古民具学習のため来館
田布施町内の小学3年生達が、郷土館に古民具などの学習のためやって来ました。麻郷小学校の生徒達をかわきりに、東田布施小学校,城南小学校,そして田布施西小学校の順に生徒たちがやってきました。たまたま、郷土館では町制60周年を記念した思い出の写真パネル展を開催しています。展示された写真の中に、各小学校の古い校舎の写真もあります。今回来館した子供達が通う校舎は皆鉄筋ですが、写真の校舎はどれも木造です。
町制60周年を記念した思い出の写真パネル展などを見学する小学生達
郷土館内での学習内容は大きく二つあります。一つ目は田布施町の古い民具の学習です。私は、昭和までに使われていた古い農業用具やその使い方などについて説明しました。例えば、昔は牛を使って耕していたこと、車が無いため歩いて移動していたこと,ニワトリを飼って卵や肉を食べていたことなどです。子供達は驚いているようでした。
二つ目は、田布施町出身の岸佐藤元宰相の学習です。この田布施町が、二人も総理大臣を、しかも兄弟宰相を輩出したことを誇りに思って欲しい、との願いでほんの短い時間でしたが説明しました。子供達の目にはどんなに映ったでしょうか。
熱心に学習する子供達 歩いて郷土館に来る小学校も
上関町 皇座山に行き、四階楼などをミニ散策(1/2)
知人と上関町を散策しました。まずは、皇座山に行きました。山頂近くの駐車場に車を置いた後、頂上に歩いて行きました。夏と違って草が生えておらず楽々歩くことができました。頂上近くまでの小道は綺麗に刈られていました。地元の方々が道を綺麗に掃除したようです。夏場は作業するには酷なため、冬場に作業されているようです。
駐車場傍の白雲稲荷神社鳥居 皇座山頂に到着 山道で見つけた赤い実
ね
山頂から平群島方面を見下ろしましたが、曇り空のため四国までは見渡せませんでした。その代わりに、平群島や八島などの島々は良く見渡せました。山頂から戻ると、駐車場傍にある巨大な白雲稲荷大明神の赤い鳥居をくぐりました。そして、たくさんの鳥居をくぐって白雲稲荷大明神に行き着きました。その途中、すれ違った方が1人おられました。たった1人で白雲稲荷大明神を清掃されたようです。参道が綺麗に掃き清められていました。
赤い色で染められた白雲稲荷大明神の御社内部
白雲稲荷大明神の御社の中に入らせていただくと、ご神体と思われる巨岩がありました。ご神体を拝んだ後、あらためて海を見下ろしました。御社から下は断崖絶壁で、はるか下の方には海が広がっています。去年ウォーキングした平群島がよく見渡せました。平群島に向かうフェリーから、この御社が小さく見えたことを思い出しました。
ご神体の巨岩 御社から見下ろした平群島 たくさんの鳥居
御社から、元来た道を通って駐車場に戻りました。次に展望台に行こうかと思いましたが、時間がないためそのまま上関町に降りることにしました。ところが、皇座山から上関町に直接降りる道があるのですが工事中でした。そのため、尾国までいったん戻って上関町に行くことにしました。
今回散策した皇座山と上関町
上関町 皇座山に行き、四階楼などをミニ散策(2/2)
皇座山から降りて上関町に降りると、四階楼に行きました。久しぶりの四階楼です。四階楼に入ると、Uさんがいました。今日は勤務日のようです。私とUさんが談笑しているうちに、仲間達は四階楼をいつの間にか見学し終わって一階に戻ってきました。私は慌てて、四階までざっと見学しまた。四階楼を出ると、昼食のためレストラン瀬里家に行きました。
久しぶりの四階楼ステンドグラス 四階楼1階で和む仲間達
レストラン瀬里家に着くと、混んでいるようでした。眺めが良い2階は予約でいっぱいだったそうで、1階で食事をすることにしました。頼んだのは海鮮の天ぷら定食でした。その天ぷらが来る前に、アジなどの刺身が出ました。こりこりしてとても美味しかったです。このレストランは決して交通が便利な場所にあるわけではありません。しかし、口コミなどでだんだんリピーターが増えたのに違いありません。魚料理をそれほど食べない私にとって、美味しく食べることができる貴重なレストランです。
レストラン瀬里家で、海鮮定食をいただきながら談笑
瀬里家での食事が終わると、デッキに出て海を見下ろしました。そして、上関大橋袂にある吉田松陰の石碑を見学しました。ここの石碑が嬉しいのは、原文,読み下し文,そして現代文の三つが石碑として建てられていることです。上関町は史跡が密にあります。
瀬里家から海を見て 吉田松陰石碑を見学 道の駅で買い物
吉田松陰の石碑を見学し終わると、上関町道の駅に行きました。そして、海産物を中心に買物をしました。私は、たまたま見かけたビワアイスを食べてみました。しかし、これは大失敗でした。食べていると体の中からじわじわと冷えてきました。冬にアイスを食べるのは止めた方がいいですね。道の駅を出ると、田布施に向かって帰りました。途中、神花山古墳近くで祠を見学しました。恵比寿様の祠です。
今回散策した皇座山と上関町
平生町 沼~宇佐木~田布路木方面ウォーキングの再再下見
2月は平生町のMaxValuから柳井市の土穂石川方面に向かって、史跡を見学しながらウォーキングします。前回、再下見をしましたが、気が付かなかったお地蔵様や祠があることを後日知りました。今回、そのお地蔵様や祠の位置を確認するため再再下見に行ってきました。こんなに何度も下見に行くのは初めてのことです。
江戸時代からあるお地蔵様 道端のお地蔵様 海前寺跡の祠
最初に江戸時代の地図に描かれているお地蔵様を確認しました。記録によると、元々は屋根が無かったのですが、ある大雨の時にお地蔵様がある家に雨宿りに来たそうです。そのため、村人が可哀そうに思って屋根をつけたそうです。その話は、平生町の紙芝居になっているとか。
波トタンの小屋に一時避難している子安観音とお稲荷様
続いて、小さな石屋根に入ったお地蔵様を確認しました。そして、次に子安観音に行きました。しかし、いくら探しても子安観音様がないのです。そのため、たまたま近くで畑仕事をしていた方に聞きました。すると、がけ崩れで建物が斜めになったため、今は波トタンの小屋に避難しているそうです。その波トタン小屋を探して、はれて子安観音様を確認することができました。毎年8月10日、秀巌寺のご住職様に来ていただいてお祭りをしているそうです。
改道記念碑 宇佐木コミュニティーセンター 伊佐木保育園跡
子安観音の隣りにお稲荷様がありました。どうして二つが一緒にあるのか聞きましたが分からないとのこと。元々は別にあったのでしょうが、何らかの理由によって一緒になったようです。最近は、世話をする人がどんどん減るため、このように一つの個所に集める例は少なくありません。
万徳寺を過ぎ,改道記念碑,宇佐木コミュニティーセンター,そして宇佐木保育園跡を過ぎて、我家に戻りました。下見をすればするほど、さらに別の史跡があることに気が付きます。
再再度下見で調査したコース
我家に、無線式のワイヤレスチャイムを導入
無線式のワイヤレスチャイムを我家に取り付けました。取り付けた理由は、宅急便などの配達物が来ても耳が遠い婆様には聞こえないことです。チャイムは玄関で鳴るのですが、婆さまはの部屋は玄関から離れています。さらに、婆さまは耳が遠いためテレビを大音響で見ているのです、そのためチャイムが聞こえないのです。帰宅後の私が、いつも再配達の手続きをしなければなりません。
取り付けたワイヤレスチャイム
電気屋さんに行っていろいろ探していると、比較的安価なワイヤレスチャイムを見つけました。電池で動作するうえに、距離が50m離れていてもチャイムが鳴ります。また、電池が無くなりかけると警告が出ます。さっそく購入して我家に取り付けました。婆さまの手元に置いておけば、音に気が付かないはずはありません。あるいは、私が裏山で野良仕事をしている時でもワイヤレスチャイムをポケットに入れておれば、宅急便が来ても気が付きます。
説明書に書かれた設置方法 左がチャイムのボタン ポケットに入る大きさ
真冬の我家で咲いている数少ない花
真冬の今、我家で咲いている花はわずかです。一番鮮やかに咲いているのは花色が赤と白が腑になった椿です。子供の頃、学校帰りに椿の花を取っては蜜を吸っていました。僅かな甘みが美味しかったものです。今の子供は、汚いといって吸おうともしません。今の世の中は、だんだん人間と自然との距離が開いているようです。そのうち、古典などの和歌や俳句などに歌われている季節感が、日本人から失われていくのかと思うと少し悲しく思います。
赤と白が腑になった椿の八重の花びら
我家には、白色の椿もあるのですが、まだつぼみのままです。ところで、椿以外の花を探してみると三つありました。一つ目は菜の花です。菜の花は春の花のはずですが、暖冬の影響か咲いています。二つ目は黄花のオキザリスです。そして、タンポポです。寒いのか、タンポポは背が低いまま咲いていました。暖かくなるほどに背を高くして咲きます。
暖冬のためか菜の花 黄花のオキザリス 背を低くして咲くタンポポ
タマネギの雑草取り、その邪魔をするリンちゃん
去年の秋に苗を植え付けたタマネギの草取りをしました。このところの暖冬の影響でしょうか、だいぶ雑草が生えていました。このままにしておくと、春になってタマネギは雑草に埋まってしまいます。生えている雑草は、主にハコベ,スズメノカタビラ,ナズナ,そしてホトケノザです。これらの雑草はそのままにしておくと、春にびっしりと畑を覆いつくします。そのため、まだ小さい今のうちに摘み取っておく必要があります。
タマネギの畝周辺に生えた、いろいろな雑草
私がタマネギの雑草を取っていると、猫のリンちゃんがやってきました。私が草を抜こうとするとじゃれつくのです。冬は小動物がいないのでリンちゃんも暇なのでしょう。私が畑で何をしているのか気になってやって来たようです。やれやれ、リンちゃんがいると除草がなかなか進みません。
横から顔を出して、草取りの邪魔をするリンちゃん
都心、御茶ノ水で人間ドッグ,秋葉原周辺を散策
2月8~15日、三ヶ月ぶりに東京に行ってきました。一番の目的は、私の人間ドックです。去年も同じ頃に人間ドックに行きました。その時は、ついでに頭のMRI検査も受けました。一昨年は、胃カメラで辛い検査を受けました。今回は、人間ドックだけのため気が楽でした。
早朝5時頃に起床して、5:30頃のバスで都心に向かいました。こんなに早く起床するのは久しぶりのことです。かつて横浜まで通勤していた頃、毎日このような早朝出勤でした。定年後の今、家族のために一生懸命働いている若い人を見ると、心の底から応援したくなります。
早朝のJR御茶ノ水駅界隈
人間ドックを受けたのはいつもの三楽病院です。今回は、糖が多めであることと、カルシウムが不足気味であるとの結果が出ました。やはり、甘くておいしいスイーツやお菓子は体に良くないようです。
人間ドックが終わると、病院を出て昼食を取りました。レストラン「お茶ノ水テラス」で、とても美味しいチキンとベーコンのグリル焼を食べました。料理の美味しさ,お店の作り,メニュー,調理場の動き.スタッフの声掛けや動きなどをよく観察すると、さすが都心と思いました。田布施だけで食事をしていると、料理に対する感覚が麻痺してしまいます。たまに都心で食事をすると、都会と田舎の差を感じます。
人間ドックを受けた三楽病院 食事をしたお茶ノ水テラス 明治大学
食事が済むと、かつて学生時代を過ごした御茶ノ水界隈を散策しました。明治大学前にはたくさんの高校生達がいました。今、就職率で勝ち組の明治大学は人気なのでしょう。この私も40年位前この大学を受験したのですが、とんだ災難で失敗しました。今でもその災難を思い出します。次に、江戸時代に創建された湯島の聖堂を訪れました。今回は好天に恵まれて大成殿がとても見事でした。
青空に映える湯島の聖堂大成殿
湯島の聖堂内に孔子像があります。この孔子像は昭和時代に中華民国から贈られたとのこと。傍らに、漢文,読み下し文,現代語訳と思われる説明文がありました。史跡が好きな私としては、若い頃にもう少し漢文などの素養を身につけておけば良かったと後悔しています。湯島の聖堂を出ると、お決まりのように秋葉原の秋月電子などの電子部品店を見て回りました。そして、かろうじて残っている昭和の秋葉原界隈を見て回りました。
湯島の聖堂孔子銅像 電子部品の老舗秋月電子 散策した秋葉原界隈
光市 虎ヶ岳ウォーキングのための下見(1/3)
先日、麓を調査した光市の虎ヶ岳を実際に歩いて下見をしてきました。ざっとした感想では、史跡を巡るよりも登山に近いウォーキングでした。予定の時間をオーバーしたため、だいぶコースを短縮しなければなりません。ややきつめのウォーキングで、ほど良い疲れが残りました。たまには、このような山に登るウォーキングも良いと思います。広々とした虎ヶ岳から見下ろした光市内や周防灘は素晴らしいものがありました。
常安寺の入口門 常安寺の本堂 常安寺隣りのお堂
最初、9時半に田布施町交流館に集まりました。そして、私の車に全員4人が乗って常安寺に向かいました。伊藤公記念館を過ぎて、中国自動車下をくぐってすぐの道を左に曲がって、山の中に入りました。10分程度走ると常安寺に到着です。車をそこに置いて、最初の目的地である常安寺をお参りしました。ご住職の奥様のご了解を得て本堂内を見学しました。なかなか立派な本堂でした。常安寺は曹洞宗のお寺です。
見事な萬松山常安寺の本堂内
ご住職の奥様はとても気さくな方でした。遠距離通学する中学生の娘さんがいるとのこと。この付近の著明なお寺は山奥にあるため、子供達は通学が大変のようです。さて、常安寺を見学すると、いよいよ虎ヶ岳ウォーキング下見の始まりです。登山道入口に入ると、うっそうとした林に入りました。登っていると、滑り台のような岩を水が滑り落ちる滝がありました。観音滝です。夏ならば、その滝のしぶきで涼しく感じると思います。
虎ヶ岳登山口の標識 水音が響く観音滝 ひっそりとした隠田跡
観音滝を過ぎて、どんどん急坂を登っていると石垣が現れました。この石垣はかつての隠田跡とのこと。江戸時代、年貢を逃れるために作られた秘密の田圃だそうです。こんな場所で、恐る恐る田んぼを作っていたのでしょう。今も昔も、税金を払いたくないのが人情です。
展望所から北を見て 虎ヶ岳の尾根に到着 尾根をひたすら頂上に向かう
隠田跡には四か所程度の石垣がありました。四段か五段の棚田だったのではないかと思います。隠田跡を過ぎた頃から、昇りが急になりました。息を整えながら時間をかけ、ゆっくりと登りました。しばらくすると、見晴らしが良い展望滝に出ました。下界を見ながら休憩をとりました。さらに登ると、ようやく尾根に出ました。もうすぐ虎ヶ岳頂上です。
今回下見をした虎ヶ岳のウォーキングコース
光市 虎ヶ岳ウォーキングのための下見(2/3)
尾根に出てしばらく西方面に歩くと、見晴らしが良い広々とした虎ヶ岳頂上に到着しました。眼下正面に光市街を一望に見渡すことができます。東の方向を見ると、柳井市の琴石山,光市の石城山,平生町の大星山,上関町の皇座山,田布施町の行者山や呉麓山などがくっきりと見えました。西を展望すると、下松や徳山市街がよく見えました。もちろん、周防灘も見えました。その周防灘のその向こう側に、四国や九州の山々がうっすらと見えました。
虎ヶ岳頂上から見下ろした光市街や島田川
頂上に着いたのは12:00頃でした。まだ時間的余裕があると思ったため、虎ヶ岳から烏帽子岳まで行きました。片道30分位です。しかしながら、アップダウンが意外に多く疲れてしまいました。やっとの思いで烏帽子岳に着きました。烏帽子岳頂上はやや狭く10人以上が座るには狭いと思いました。さらに西方面に10分程度歩くと、下松の名前のもとになったと言われる降松神社や妙見石祠があります。しかし、行くのは止めました。烏帽子岳で景色を堪能した後、30分位かけて再び虎ヶ岳頂上に戻りました。
狭い烏帽子岳頂上 アップダウンが多い尾根 烏帽子岳と虎ヶ岳を往復
虎ヶ岳頂上に戻ると、絶景を楽しみながら昼食をとりました。これまで何度も田布施周辺の山に登っているため、どれがどの山かすぐに分かります。お互いに山の名前を言い当っこしました。虎ヶ岳頂上は広々としているため、大人数でも座ることができます。本番ウォーキングでは、この虎ヶ岳頂上で昼食休憩を取ることに決めました。なお、烏帽子岳やその向こうの降松神社へは、1時間以上のロスとなるため、本番ウォーキングでは割愛することにしました。
絶景を楽しみながら昼食休憩を取った虎ヶ岳頂上
頂上を午後14時頃に出発しました。虎ヶ岳頂上から渓月院に向けて、だらだらとした下り尾根を歩きました。思っていたよりも尾根道は展望がありません。同じような林の中を延々と歩くため飽きてしまいます。下る途中で定光寺方面や観音寺方面へ下る道が分かれていました。しかし、迷わず渓月院へ下りました。
展望が無い林の中を、延々と渓月院に向かって下る
尾根道から分かれ、周防の森方面へ下る道がありました。その道の200m先に展望台があるとのことで下ってみました。しかし、だいぶ高度を下げないと展望台がないことが分かりました。展望台からまた元の尾根道に戻らなければならないため、展望台へ行くことは諦めることにしました。この虎ヶ岳尾根は歩きがいのあるルートです。土日の休日には多くの人が虎ヶ岳に登るようですが、すれ違った人が一人だけでした。
今回下見をした虎ヶ岳のウォーキングコース
光市 虎ヶ岳ウォーキングのための下見(3/3)
虎ヶ岳をさらに下ると、岩嶽展望台に出ました。この展望台は、鉄塔下の見晴らしが良い場所です。下を見下ろすと、だいぶ下まで降りてきたことが分かります。南方面には島田川がうねるように流れているのが遠望できます。この展望台からは、一気に下りの傾斜がきつくなります。体が流されないように足で踏ん張りながら下りました。
展望が良い岩嶽展望台 夕日を背に下山 やっと渓月院に到着
この頃になると、日がだいぶ傾いてきました。夕日を背に浴びながら山を下りました。しばらく歩き続けていると、やっと目的の渓月院に到着しました。渓月院は山深い場所にあるため、日差しは屋根にしか当たっていません。風は吹いてはいなかったのですが、着いた時にやや肌寒く感じました。
やっとの思いで到着した渓月院、屋根にだけに日が当たる
ご住職の奥様にお願いして、渓月院本堂を見学させていただきました。とても古いお寺だけに年月を感じました。虎ヶ岳を無事に下山できたお礼をお祈りしました。このお寺の境内に池があるのですが、1444年創建時にこの池から霊亀で出てきたそうです。そのため、山号を霊亀と付けたとのことです。
立派な渓月院本堂 左:荒神様,右:金毘羅社 島田川支流を散策
霊亀で出てきたと言われる池に太鼓橋が架けてあるのですが、渡るとゴトゴトと音がしました。人が歩いたことが分かるように、わざと音が出るようにしてあるそうです。泥棒避けに良い工夫かも知れません。渓月院を出ると、荒神様と金毘羅様に行きました。金毘羅様は近年使われていないようで何の表示もしてありませんでした。渓月院で聞かなければ、金比羅様であることが分からないところでした。
周北第二十三番札所 綺麗に掃除されたお地蔵様 周北第二十八番札所
金毘羅社を過ぎると、島田川支流に出ました。そして、右岸を1km位上流に向けて歩きました。川にたくさんのオシドリが浮かんでいました。近づくと飛んで逃げてしまいました。
ある橋の袂近くに周北第二十三番札所がありました。ここからは支流から分かれて、常安寺に向かってゆるい上り坂を歩きました。途中綺麗に掃除されたお地蔵様、そして周北第二十八番札所がありました。ここから200m歩いて、ようやく終点の常安寺に到着しました。歩きがいのある虎ヶ岳ウォーキングコースでした。本番ウォーキングでは、スタートを常安寺にして終点を渓月院にしようかと思います。下見に参加された方々、お疲れ様でした。
今回下見をした虎ヶ岳のウォーキングコース
長年使い続けたトラクターを修理・点検に出す
8年前、私がトラックで東京から輸送したトラクターを修理・点検に出すことにしました。きっかけは、畑を耕していると、ポタポタと冷却水が漏れるのに気が付いたからです。最初、油が漏れているのかと思いましたが、手に取って触ると冷却水でした。今は冬のためエンジンをかけてもすぐにオーバーヒートすることはなさそうですが修理は絶対に必要です。
トラクターの新品は400万円位します。ローダーを付けるとさらに+100万円します。そのため、少々費用がかかっても修理することに決めました。今回、クボタで修理ついでにあちこちの点検をしてもらおうと思います。このトラクターは田んぼにはまり込んで動かなくなるなど思い出のあるトラクターです。今も、畑を耕したり、物を運んだり、私の農作業に欠かせない農機です。
修理のため、クボタに運ばれる私のトラクター
平生町 楽しかった宇佐木,田布路木方面の史跡探訪ウォーキング(1/3)
心配していた天気、昨日は大雨でしたが今朝から快晴でした。晴れ男や晴れ女が多くいるので晴れたのでしょう。平生町のMaxValuを10:00にスタートしました。
最初の目的地は、江戸時代の平生町地図に掲載されているお地蔵様です。かつてはお地蔵様だけが安置されていましたが、いつの頃か屋根が建てられました。雨風が当たって地元の方が可哀そうに思って屋根や壁を建てたのでしょう。そのような逸話が残っています。
平生町MaxValuをスタート 秀巌寺に到着 前ご住職から解説
続いて、秀巌寺に行きました。このお寺は元々、大野毛利家の女性方の菩提を弔うお寺だったそうです。本堂で、前ご住職より大野毛利家創設に関わる吉見家についてその歴史を解説していただきました。いろいろお話しを聞かせていただき、ありがとうございました。吉見家は田布施町麻郷の高塔に屋敷がありました。吉見家があった高塔に住む私としては、とても興味がある解説でした。
現ご住職より、大野毛利家や吉見家などについて解説
次に秀巌寺の西側高台にある、大野毛利創設に関わる津和野城主吉見広頼の五女他の墓石を見学しました。吉見家は戦国時代に毛利家と戦ったそうです。結局吉見家は毛利の臣下になったそうですが、その後謀反の疑いなどで毛利家と騒動があったとのこと。その騒動後、吉見家が絶えないように吉見広頼の五女に吉川家の次男就頼が入りいったん吉見家を継ぎました。その後、その就頼が吉見家を出て初代大野毛利を創設したのです。
秀巌寺手水観音堂 大野毛利家墓所に向かう 大野毛利家墓所
続いて、秀巌寺裏にある手水観音堂に行きました。秀巌寺を出た後、海前寺跡にある大野毛利墓所に向かいました。海前寺跡には立派な石垣が残っていました。かつては、さぞかし立派なお寺だったことでしょう。ちなみに、海前寺は大野毛利城主を弔い、秀巌寺は奥方などの女性を弔いました。明治以降に海前寺が廃寺になってから、秀巌寺が海前寺跡にある城主の墓地も弔うようになったそうです。以上、吉見家,毛利家,吉川家,秀厳寺などの話は、その歴史をちゃんと整理しないとなかなか覚えられません。
子安地蔵とお稲荷さん 万徳寺に到着 万徳寺の本堂
海前寺跡や大野毛利墓所を見学すると、子安地蔵とお稲荷さんに行きました。子安地蔵は平生町の紙芝居になっています。お地蔵様とのことですが、形が変わった奇岩です。その石のある個所がお乳とのこと。昔はお乳が出なくて苦労した母親の話があります。このお地蔵様の前で、赤ん坊が無事育つように、お乳がよく出ますようにとお祈りしたのでしょう。また、お乳が出て困る母親と、逆にお乳が出なくて困る母親の出会いの場所でもあったのではないでしょうか。
万徳寺様のご厚意により、万徳寺内で昼食休憩
子安地蔵を見学すると、一路万徳寺に向かいました。万徳寺ご住職様の奥様のご厚意により、この本堂隣りの部屋で昼食休憩をさせていただきました。ご厚意感謝いたします。
このお寺は4年前に建て替えたとのこと。最初は寺門だけを建て替える予定だったそうです。ところが、創建後400年経っていた本堂も傷んでいることが分かり、本堂も一緒に建て替えたとのこと。400年後の人々は、建て替えられた2012年の史実をどうふり返るでしょうか。
今回歩いた、平生町の宇佐木、田布路木方面ウォーキングコース
平生町 楽しかった宇佐木,田布路木方面の史跡探訪ウォーキング(2/3)
万徳寺は早めの12時過ぎに出発しました。昨日の大雨とは違った快晴でしたので、冬にもかかわらずポカポカしていました。そのため、早歩きするとすこし汗ばんでくるのを感じました。宇佐木コミュニティーセンター横を過ぎてしばらく歩くと、白井小介の飯山塾跡に着きました。白井小介は第二奇兵隊を率いて幕末の戊申戦争で活躍しました。なお時間の関係で、白井小介の墓地へは寄りませんでした。
ポカポカ天気の万徳寺本堂前で
白井小介は政治的な手腕はあまりなかったようですが、山縣有朋と同様戦術的なセンスがあったようです。そのため山縣有朋と戦場の親友だったのではないでしょうか。実際、白井小介の顕彰碑に山縣有朋の名前が刻まれています。戊辰戦争末期、今の新潟長岡の小千谷で岩村などと共に河井継之助と一時交渉したようです。しかし、交渉は決裂して北越戦争に突入しました。この交渉決裂は新政府にとって痛手となったようです。司令官だった松下村塾生時山直八が戦死しています。
白井小介の飯山塾跡 青空にピンクの梅 白井小介顕彰碑に向かう
白井小介の飯山塾跡を見学し終わると、田布路木峠の十心庵に行きました。ところで、この十心庵はいつ建立されたのでしょうか。実は5~600年前から江戸時代にかけて、麻里府の中郷に十心庵があったとの伝承があります。十心庵は念仏道場のような場所だったそうで、古い地図によりその場所も分かっています。昭和の初め、その跡に灯篭のようなものがあったそうです。田布路木の十心庵は、麻里府から移転した十心庵ではないでしょうか。近隣で同じ庵名をつけるはずがありませんので。しかし、今となってはその事実の詳細は分かりません。
国木田独歩石碑前で 国木田独歩石碑 阿弥陀寺に到着
十心庵を見終わると白井小介顕彰碑に行きました。そして、すぐ隣の国木田独歩の石碑を見学しました。国木田独歩の書いた帰去来に、田布路木峠からふるさとの高塔山が見えたとの記述があります。当時、その高塔山の麓近くに独歩が仮寓していた吉見家がありました。吉見家から初代大野毛利が出たことを独歩は知っていたでしょうか。なお、明治過ぎ、この吉見家に泥棒が入ったのですが、すきを見て奥方が薙刀で泥棒に切りつけたとのこと。そして、深手を負った泥棒は通報により警察に捕まったそうです。明治になっても、吉見家には戦国時代の気風が残っていたことが分かります。
土穂石川を上流に向かって歩く
国木田独歩の石碑を過ぎると、周東病院前で188号線下の地下通路を通りました。そして、旧道に出ました。続いて、かつて旧道に通じていた橋跡を見ました。その後、188号線を渡って、阿弥陀寺に行きました。江戸時代、阿弥陀堂があり防陽八十八ヶ所霊場の第五番札所でした。明治以降、正式なお寺になりました。阿弥陀寺を出ると、土穂石川を上流に向かって土穂石を目指して歩きました。
今回歩いた、平生町の宇佐木、田布路木方面ウォーキングコース
平生町 楽しかった宇佐木,田布路木方面の史跡探訪ウォーキング(3/3)
土穂石川を上流に歩き、途中の橋を渡って川の左岸に回りました。回った理由は、土穂石を対岸から見るためです。左岸を上流に歩いているとT字路に突き当たりました。右に行くと柳井駅、左に行くと田布施に行きます。そのT字路脇に大師堂がありました。中に立派なお地蔵様が安置されていました。江戸中期の安永年間(1770年代)に建立と墨書きされていました。
土穂石川名の由来となった土穂石
大師堂のお地蔵様を拝むと、T字路を左折して田布施側へ向かう道を歩きました。しばらく歩くと、再び土穂石川に出ました。少し歩くと対岸の川底に巨大な土穂石が現れました。この土穂石は古代から人々の注目を集めたに違いありません。川の名前になり、近くの土穂石八幡宮阿の名前にもなっています。古代において、土穂石は海岸の波打ち際にあったのではないでしょうか。そして、神が宿る神聖な岩とされたのではないでしょうか。ところで、田布施町の八尋石八幡宮や石ノ口八幡宮の名前の由来となった石は、残念ながら今どこにあるのか分かりません。
土穂石川の石風呂 松尾芭蕉の句碑 アップルミントに到着
土穂石を見終わると、土穂石川を100m位登ったところにある橋を渡り、土穂石川の右岸に出ました。そして、今度は右岸を下流に向けて歩きました。すると、すぐの場所に石風呂があります。営業していないのですが、貴重な写真が展示されていました。石風呂は湯船がない時代の、いわゆるサウナの近い風呂です。江戸時代はあちこちでこのような石風呂がありました。貴重な史跡ですが、営業していなくても維持管理がとても大変だと思います。
史跡を見終わり、最後に着いたアップルミント
この土穂石の石風呂は、営業していた最後の石風呂のようです。なんとか石風呂を体験してみたいと思いますが、とても難しいことでしょうが。石風呂の写真を見終わると、土穂石川を下りました。すると、松尾芭蕉の句碑に出ました。そして、その場所から見下ろすと真下に土穂石をあります。この場所から見下ろすと、巨大な亀の甲羅を見ているようです。数万年前の氷河期、柳井は渓谷だったはずです。その頃の土穂石は、赤子山の峰にから突き出た岩山だったのではないでしょうか。
アップルミントを出発 周東病院バス停到着 バスに乗ってMaxValuへ
松尾芭蕉の句碑を見学し終わると、最後の訪問となるアップルミントへ急ぎ足で行きました。真っ青な建物に着くと、暖かい室内に入りました。そして、各自の飲み物を注文しました。私はカフェオレを頼みました。30分位、休憩しながら談笑しました。もう少しゆっくりしたかったのですが、バス到着の時間が迫ってきたためゆっくりできませんでした。早歩きで周東病院バス停に向かいました。5分位待つとバスが来ました。久しぶりに回数券を取って乗車しました。ウォーキングに参加された方々、お疲れ様でした。
今回歩いた、平生町の宇佐木、田布路木方面ウォーキングコース
田布施町 麻里府 伊佐里峠古道をウォーキングのため整備
先月、伊佐里峠古道を麻郷側から整備しました。しかし、やっと歩ける程度の整備しかできませんでした。このため今回は、すたすた歩けるように道幅を広げたり道の邪魔をしている灌木を伐採するなどしてより整備しました。麻里府の大泉寺駐車場に集合して、古道の整備を始めました。チェーンソーの音などがうるさいかもしれないため、事前に大泉寺にご挨拶をしました。
伊佐里峠古道に出発 Ⅰ君の墓前でお祈り 灌木などを伐採しつつ前進
伊佐里峠古道に向かう前に、我々の同級生だった故Ⅰ君のお墓に向かいました。そして、墓前で冥福を祈りました。彼は18歳でした。今でも、彼のお葬式のことを思い出します。古道整備にかけつけてくれた面々も、彼の思い出を語ってくれました。
伊佐里峠古道の倒れた木々をチェーンソーで伐採・撤去
大泉寺側の伊佐里峠古道入口に、木が一本傾いて通行を妨げていました。私は、その木をチェーンソーで伐採しました。大き目な木をチェーンソーで次々伐採しつつ、伊佐里峠に登って行きました。一本だけとても太い杉の木が倒れていました。とてもチェーンソーですぐに伐採できそうもありません。仕方がないため、その木を迂回するように道を整備しました。
伊佐里峠広場で昼食休憩をとっている、いつもの仲間達
昼までになんとか整備が終わり、かつて茶屋が置かれていた伊佐里峠広場まで行って昼食休憩を取りました。風が通り抜ける峠のため、しばらくすると肌寒くなってきました。そのため、早めに峠を退散しました。この峠は、4月下旬(24日)予定の一日詣り巡礼ウォーキングで通過する予定です。伊佐里峠古道の整備に駆けつけてくれた方々、ありがとうございました。
談笑しながら休憩 大泉寺側古道入口に戻る 大泉寺に立ち寄り、ご挨拶
八王子市 懐かしき八王子市内などを巡る(1/x)
2月中旬に1週間(8~15日)ほど東京都八王子市に行ってきました。一番の目的は人間ドッグを受ける事でした。また、旧友に会ったり、家内とウォーキングなどをしました。そして、時間が空いた日には八王子市の周りをウォーキングしました。今回は、八王子市の我家から豊田方面をまわって八王子駅まで行きました。
八王子の我家近くの小麦畑、毎冬この畑で麦作
我家近くには東京薬科大学があるのですが、その大学前の道を歩きました。その道すがら麦畑を見ました。青空に映える麦の緑がとても素敵です。この畑では、毎年必ず麦を栽培しています。収穫した小麦をどうしているのでしょうか、おそらく烏骨鶏の餌にしているのではないでしょうか。その農家では、烏骨鶏の他に東京Xと呼ばれる東京特産の豚を育てています。
車が入れるFIOのお店 ユギ里山保全チーム Kさんの夢畑
麦畑を過ぎると、FIOのお店に着きました。このお店では、当時学生だった3人が自ら自然農法で作った野菜などを売っています。学生3人の頭文字を取ってFIOと名付けました。小岩井農場が、小野義眞,岩崎彌太郎,そして井上馨の頭文字を取って命名したようなものです。井上馨は長州ファイブの1人です。なお、FIOを支援している人の父親から、私はトラクターをゆずってもらいました。そのトラクターは今、山口県田布施のクボタで修理中です。
廃虚化した多摩テック 程久保5丁目でバスに乗る JR豊田駅に到着
FIOのメンバーに挨拶すると、次にユギ里山保全チームの畑に行きました。活動日のためメンバーがたくさんいました。そのメンバーとしばらく談笑しました。ユギ里山保全チームの仲間達は、私が東京を去る時にお別れ会ウォーキングを開催してくれました。
続いて、夢畑に向かいました。夢畑のオーナーのKさんは不在でした。この夢畑で15年位前に東京サンショウウオの観察会を開いたことがありました。残念なことですが、東京サンショウウオは今では姿を見せなくなってしまったとのことでした。数日後、東京から山口県に戻るため新幹線に乗っているとKさんから電話がかかってきました。
久しぶりに歩いたJR豊田駅前
夢畑を出ると、多摩テックの廃墟を横目に見ながら傍を歩きました。多摩テックに初めて来たのは、約40年前のことです。友達とゴーカートに乗った事を覚えています。今は、廃墟になって当時の面影はありません。多摩テック跡近くのバス停から、バスに乗ってJR豊田駅に向かいました。これまた久しぶりの懐かしいJR豊田駅でした。
今回ウォーキングした、懐かしき八王子周辺
八王子市 懐かしき八王子市内などを巡る(2/x)
JR豊田駅のロータリーを一周すると、駅前の本屋さんとマクドナルドは昔のままありました。一方、レストランやスポーツ店などは無くなっていました。今は無き豊田駅前通りのスポーツ店にはよく行きました。娘が小さい頃によく山などに連れて行ったのですが、当時は子供用のカッパが無かったのです。そのため、この豊田駅通りのスポーツ店で特別に娘用の黄色のカッパを注文したことがありました。ところが、娘の成長が早くて2年程度しか着ることができませんでした。
豊田の生協跡 多摩平の公園 旧科学技術大学(現首都大学東京)
豊田駅通りを過ぎと、かつて南原台団地に住んでいた頃によく通った道をたどってみました。最初に多摩平第七公園を通りました。そして、よく行った生協に行ってみました。すると、建物が閉鎖されており、生協は無くなっていました。とても狭い生協でした。次に、子供を砂場でよく遊ばせていた公園に行きました。当時はたくさんの子供が遊んでいましたが、今回はお父さんに見守られた子供二人しか遊んでいませんでした。
高倉小学校の校門 三つの穴のシンボル 40周年の八王子南高校
続いて、当時の科学技術大学に行きました。当時はまだ短期大学でした。そのうち4年生大学になり、今は首都大学東京の日野キャンバスです。当時、学園祭にはよく行きました。次に、子供達が通っていた高倉小学校前を通りました。当時の三つの穴のシンボルはそのまま残っていました。建物もほとんど変わっていませんでした。子供達が保育児や小学生だった頃、運動会で場所取りなどしたことを思い出しました。その頃撮影したビデオは、どこに行ってしまったのでしょう。どれかの段ボールに入っているのでしょうが。
葉が落ちて明るい高倉南公園、銅像もそのまま
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高倉小学校の近くに、家内が勤めていた八王子東高校があります。校門前を通ると、創立40周年の垂れ幕が張ってありました。そう言えば、私がこの近くの南原台団地に住んでいたころ、創立10周年を祝っていたことを思い出しました。高校の学園祭時には、よく来ていました。その時、高校生による芝居を観たりしました。校舎の間でレスリングをしていたのには驚きました。恐竜の張子に、子供が怖がって泣いていました。この界隈には思い出があります。
箱ブランコ公園 石のモニュメント 春に咲く藤棚
続いて、私が10年位住んでいた南原台団地に寄ってみました。当時あった箱ブランコは撤去されていました。この箱ブランコ、事故多発で日本ではもう見ることができないようです。楽しい遊具だったのに残念です。今はあたりさわりの無い遊具、と言うよりも置物ばかりで、子供は遊びがいがないことでしょう。その他、懐かしい石のモニュメントや藤棚などを見ました。
今回ウォーキングした、懐かしき八王子周辺
八王子市 懐かしき八王子市内などを巡る(3/4)
高倉南公園で少し休憩すると、隣りの南原台団地に行きました。この団地は10年位住んでいたでしょうか。そもそも、その前は青梅市に住んでいました。当時、私は横浜の会社に勤めていたのですが、青梅から横浜まで通勤するのは大変でした。そこで、少しでも横浜に近いこの団地に引っ越しました。ちょうど、家内もこの近くに通勤することになり、さらに保育園も近くに決めることができました。
昔とそれほど変わっていなかった南原台団地、〇に住む
この団地に決める時はなかなかしんどかったです。その理由は、この団地が公団だからです。わざわざ新宿まで行って申し込まなければなりません。さらに、抽選のため一発で決めることができません。確か引越しシーズンの3月に申込みしました。一度目は決まらず、二度目に新宿に行って決めました。決まらなければ、民間の賃貸マンションなどにしなければなりません。公団がダメの場合を想定して、八王子市内のアパートなどの賃貸物件を家内とあちこち探し回りました。当時なかなか決まらず、切羽詰まったように記憶しています。
団地の入口階段 公団内の遊び場 隣りの都営住宅
南原台団地をあちこち回りましたが、知っている人には誰も出会いませんでした。当時住んでいた方々は、家を買うなどして皆出て行ったのでしょう。私の家族もそうでしたので。周りの公園などを懐かしみながら散策しました。ついてに隣りの都営住宅にも行ってみました。平日でしたので、歩いている人はほとんどいませんでした。歩いている人は、デイサービスなど福祉に関わる方だけでした。
高層都営住宅 都営住宅内の遊び場 白砂公園
都営住宅の中で一棟は高層住宅です。最上段まで上がると足がすくむようでしたが、眺望がとても良く当たりを見回すことができます。私が南原台団地に住んでいた頃、この高層住宅で火事があったことがありました。その部屋から出た煙の跡が、白い壁にしばらく付いていました。当時は子供がたくさんいたように思いますが、今回来てみて子供の声がまったくしませんでした。当時は、平日でも子供を見かけました。やはり、少子高齢化は着実に進んでいるようです。
子供達が通っていた南原台保育園
都営住宅を抜けると、南原台保育園に行ってみました。年少組のころ、私の子供はこの保育園に通いました。お遊戯会、運動会、そして毎日の送り迎えで何度も来た懐かしい保育園です。確か2年程度この保育園に通った後、二人一緒に通える別の保育園に変わりました。日当たりのとても良い保育園でした。
今回ウォーキングした、懐かしき八王子周辺