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Channel: 東京里山農業日誌
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八王子市 懐かしき八王子市内などを巡る(4/4)

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 南原台団地を過ぎると、八高線の高架を通りました。八高線とは、八王子と高崎を結ぶ鉄道です。途中、川越を通ります。以前、高崎に行こうと思って八高線に乗ったのですが、何度も乗り変えて失敗しました。一直線に高崎に行くのかと思っていたら、飯能や川越で乗り変えるのです。今は分かりませんが、当時は不便な線でした。

 八高線の上を通る高架より  周辺が変貌していたMさん宅       石川入口交差点
  

 高架を通り過ぎてすぐの所にMさんの家がありました。Mさん宅には私の子供と同じ年齢の女の子がいて、同じ保育園に通っていました。いつもエプロンをして通園の送り迎えをしていました。当時私は車を持っていなかったため、雨の日に時々Mさんの車に乗せてもらっていました。とても気さくな方で、今でも当時のことを感謝しています。残念ながらご不在のようでした。25位前、Mさん宅前は広大な畑が広がっていました。しかし、住宅で蜜集するなど変貌していました。

  ムラウチ電気で休憩        休憩してアイスを食べる      大和田市民センター
  

 Mさんの家を通り過ぎて、石川入口交差点に出ました。いつもどおり、車の行き来が多い交差点です。その交差点に出て、一路八王子駅方面に向かいました。その途中にムラウチ電気がありました。八王子に引越しした頃、このお店でよく買物をしました。電気製品のほとんどはこの電気店で買ったように思います。次に、ムラウチ電気の北側にあるムラウチホビーに行ってみました。このお店では、家具や園芸用品などをよく買いました。

             ハヤなどの魚をよく釣った浅川、ある時傷ついた鴨を連れ帰る


 ムラウチホビーのすぐ隣にある大和田市民センターにちょっと寄りました。当時、このセンター内に小さな図書館があり時々本を借りました。大和田市民センターを過ぎて、どんどん歩くと浅川に着きました。この川でよくハヤなどの魚を釣りました。
 娘とハヤを釣りに行った時のことです。傷ついた鴨を偶然見つけたのです。すぐに応急手当をして、家に連れ帰りました。捕まえた時、とても痩せていて飛べませんでした。野犬などに食べられなく、私に捕まって幸運な鴨でした。毎日餌を与えていると、だんだん元気になりました。ある時娘が餌をやっていると、突然窓から飛んで逃げてしまいました。鴨の世話係をしていた娘はとてもがっかりしていました。そんな、鴨の事件がありました。

  大和田橋の焼夷弾跡印      タコさん公園のタコ      やっと八王子駅に到着
  

 浅川に架かっている大和田橋を歩きました。その歩道には、戦時中の爆撃で落とされた焼夷弾の痕跡がわざと残してあります。この橋を渡っている人のうち、何人がこの焼夷弾について知っているでしょうか。焼夷弾が落ちた個所が分かるように別色タイルが張り付けてあるのです。大和田橋を渡り、タコさん公園で休憩後、しばらく歩いて、今回の目的地である八王子駅に到着しました。八王子駅からバス乗り、南陽台の我家に帰りました。

            今回ウォーキングした、懐かしき八王子周辺


上関町 城山桜まつりを楽しみ、長島をあちこち散策(1/2)

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 昨日28日、3週間ぶりに上関に行きました。今回は、最初に城山の桜まつりに行きました。桜まつりは20~28日で、最後の28日がメイン日です。混雑のため車は城山に駐車できず、近くの学校校庭に停めました。その校庭から歩いて桜まつり会場に行きました。会場に着くと屋台が10店位ありました。着いたのが昼だったため、肉うどんと餡マンを食べました。

  桜まつりのバンフ      屋台がたくさんある会場     肉うどんなどを購入
  

 上関の河津桜を見たのは3年ぶりのことです。それは上関ウォーキングをした時で、上盛山から下山して城山に来たときです。その日は確か、桜まつりが終わった次の日思います。まつりは終わっていましたが、散り際の綺麗な桜を見ることができました。しかし、小雨が降ってきたため早々に帰らなければなりませんでした。そのため、桜をのんびりと鑑賞できませんでした。

               上関城山の八分咲きの河津桜



 上関は古来瀬戸内海の宿場町であり関所でした。そのため、たくさんの史跡が残っています。また、田布施町にも近いため上関と関わる史跡も数多くあります。例えば、去年秋に田布施町郷土館で開催した「富永有隣と明治維新に関わる人達」の展示物のうち、幕末に起きた加徳丸事件は上関と深い関わりがあります。

   芝生に座って河津桜を鑑賞          城山から大星山方面を見て
 

 城山では、うどんを食べたり、河津桜や水仙を鑑賞したり、桜の蜜を吸うメジロの写真を撮ったり、海を眺めたりしながら時間をつぶしました。そして、次に長島の北にある中の浦海水浴場に行きました。冬のため施設は閉鎖されていましたが、海は一年中解放されています。綺麗な海辺を見たり、砂浜の上を散策しました。

    長島中の浦海水浴場の砂浜、向かい側に大星山,光輝病院,尾国を見て

上関町 城山桜まつりを楽しみ、長島をあちこち散策(2/2)

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 上関の中ノ浦海水浴場を出ると、山深い道を通って、白井田に行きました。白井田はこれまで何度か行ったことがあります。直近は6年前に来ました。それより10年位前も、まだ東京に住んでいた頃にバイクで来たことがあります。その頃、中ノ浦の山の西側斜面にはたくさんの棚田がありました。そして、その棚田を歩いたことがあります。しかし今、棚田があった場所は雑木林になっています。とても棚田があったとは思えません。

   白井田の細い道      旧白井田小学校の校門   校門から白井田街を見て
  

 なつかしい白井田に着きました。多くの海辺の街と同じように、生活道路がとても狭く入り組んでいます。昔はせいぜい牛や馬が通れる道で十分な道幅でした。そのため、今のようなモータリゼーションには合いません。白井田の細い道をどんどん上がると、旧白井田小学校の校門に着きます。その校門から見下ろすと、白井田の街全体を見下ろすことができます。校門の南側には広々とした校庭が広がり、その上には旧校舎が建っています。ですが、前回私が来たときよりも、校舎は傷んでいました。10年以内に全壊するのではないでしょうか。昭和20年代には300人もいた生徒、20年位前に統合される時には7人まで減っていたそうです。

         広々とした校庭を見下ろすようにある、旧白井田小学校校舎


 懐かしの旧白井田小学校を出ると、ふたたび白井田の港に戻りました。街から突き出るようにある山上にある新宮大明神に行ってみました。急な坂道を登ると、すぐに頂上の広場に着きました。どの町にもあるように忠魂碑が建っていました。ところで、戦後この白井田に近い海岸で、沈没している回天が発見されたとの事です。戦時中、潜望訓練をしている回天が故障で沈没したようです。この周辺の海は、回天や潜水艦の訓練海域だったのでないでしょうか。

    新宮大明神への急な坂道          真下に海がよく見渡せる新宮大明神
 

 白井田を出ると、峠を越えていったん蒲井に出ました。10年以上前、この峠で畑仕事をしているお婆さんに出会いました。この峠周辺にはサツマイモを中心とした広大な畑があったとのお話しを聞きました。その畑近くを今回通ってみましたが、畑はすべて藪に覆われていました。そのお婆さんの畑も藪に覆われていました。
 蒲井を通過すると四代に行きました。私は何度もこの四代に来たことがあるので、周辺の海は見慣れていました。初めて四代に来た仲間は、周辺の見事な海の景色を楽しんでいました。四代に着くと、車を降りて休憩しました。しばらく休憩すると、室津に戻りました。そして、四階楼のUさんに逢いました。そして、5月のウォーキングなどについて談笑しました。四階楼を出ると、道の駅に行きました。道の駅でいろいろお話を伺うと、上関町には史談会と呼ばれる会と朝鮮通信史に関わる会の二つのグルーブがあることに気が付きました。今後いろいろ交流できればと思います。道の駅を出ると、田布施に戻りました。

              今回散策した上関町のルート

収穫した小麦を、いつものように製粉

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 一昨年の11月に種まきし、去年の夏に刈取りし、脱穀機で脱穀し、そして天日乾燥し貯蔵した小麦をいつものように製粉しました。これまで何度か製粉したため、貯蔵した小麦は半分位に減りました。今後も製粉しますが、今年夏に収穫する小麦まではもちそうです。小麦の貯蔵は意外に難しく、ゆだんするとすぐに虫が湧いてしまいます。そのため、去年から専用の貯蔵タンクを使っています。さらに、乾燥剤と脱酸素剤を小麦と一緒に入れています。なお、脱酸素剤は、専用のものは高価ですので、私はホカロンを使用しています。

   貯蔵タンクの小麦      製粉機の上に小麦を       最初は荒く製粉
  

 パンに使う分だけの小麦を貯蔵タンクから取り出し、製粉機の上に入れます。そして、製粉を開始するのですが最初は荒く製粉します。そのため、回転臼の隙間を少し開けておきます。トウモロコシの場合はさらに隙間をあけておきます。最初は、製粉すると言うよりも小麦を砕きます。

   最初、砕いた小麦      3回臼を通した小麦      5回臼を通して製粉完成
  

 小麦を砕いた後、だんだん回転臼の隙間を狭め通します。私は5回通せば十分かなと思いますが、8回程度通せば完璧です。なお小麦の糠が残る全粒粉ですので、どんなに製粉しても市販の小麦粉のようにさらさらはしません。細かい網でふるって濾すことによって、つまり糠を取り除くことによって、市販に近いさらさらした小麦粉になります。
 私が栽培している小麦はパン用です。そのため、ほとんどをパンにして食べています。時々すんとんにしています。全粒粉のため、フランスパンのような硬さで茶色の糠味が残るパンに仕上がります。美味しいとは言えませんが、バターなどを付ければそれなりに食べることができます。なお、市販の強力粉を混ぜれば市販のパンに近づきます。
 
              製粉が完了した小麦粉(全粒粉)

青梅市 青梅丘陵をウォーキング(1/2)

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 2月中旬に東京の我家に行きました。その14日に、家内と東京都青梅市の青梅丘陵をウォーキングしてきました。青梅市は家内と最初に住み始めた思い出の町です。その青梅を去ってから30年の月日が経っています。その青梅がどうなっているのか、確かめる意味でも懐かしの青梅周辺を散策してみました。
 まずJR青梅駅ですが、駅舎は昔のままでした。しかし、ロータリー周辺はすっかり変わっていました。賑やかなデパートだった長崎屋の建物は閉鎖されていました。周辺もなんとなく静かで、以前より活気が少ないように感じました。この街に住んでいたのは数年でしたが、私は青梅市の登山クラブに入っていました。その仲間達といろいろな山に登ったり、市の運動会などに参加していました。そして、この街で長女が生まれました。

   昔のままだった青梅駅の駅舎       たくさんの蒸気機関車がある鉄道公園
 

 駅前の長崎屋跡の周辺を歩いてみました。無くなっていたお店や、逆にまだ残っていたお店がありました。青梅市はレトロを題材にしている町です。かつては甲州街道の宿場町だった青梅市、今は昭和初期の雰囲気を意識的に残している街です。昭和初期の映画の看板がたくさんありました。
 街を抜けると、青梅丘陵に登りました。丘陵の一角に、蒸気機関車や電車がたくさん展示された鉄道公園があります。子供達が小さい頃、この公園によく来ました。そして、チンチン電車など、子供向けの遊具などでよく遊びました。

  青梅丘陵の金比羅社     千手観世音菩薩碑      歩きやすい青梅丘陵
  

 青梅丘陵のウォーキングコースは舗装されていないため、足に優しい歩きやすい道です。昇り降りもそんなにありません。園児でも楽々に歩くことができます。また、入口は車が通れないようにゲートがあり、管理人の自動車だけが通れるようになっています。軽自動車ならば楽々通ることができます。
 永山公園を下に見ながら歩いていると、金毘羅社のお堂、続いて千手観世音菩薩碑などがあります。このコースは、昔から使われている尾根道のようです。しばらく明るい道を歩いていると、眼下に青梅市の街並みが見えるようになります。

        眼下に青梅市の街並みが広がる青梅丘陵ウォーキングコース

青梅市 楽しかった青梅丘陵ウォーキング(2/2)

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 青梅丘陵をどんどん歩いていくと、JR青梅駅やその周辺の景色がどんどん後退していきました。そして、青梅市街の西側が姿を現してきました。この付近まで来ると、多摩川の曲がりくねる様子が良く分かるようになります。また、街もだんだん狭くなり、多摩川の渓谷が見えるようになります。

            曲がりくねる多摩川が姿を現し、町並みも狭くなる


 多摩川を見下ろしながら歩いていると、開けた場所に出ました。以前は、木が茂っていて展望がなかった場所でした。計画的に高い木が伐採されたのでしょう。暖かい日差しが道や山に降り注いでいました。寒いだろうと着込んできたため、汗ばんできました。伐採されているため、遠くの山々がよく見通せました。地図を見ながら、あの山は何だろうと言い合いながら、のんびりとウォーキングを続けました。

             伐採され明るい日差しが入る、山裾や道


 青梅丘陵の第4休憩所で昼食休憩をとりました。第1,第2休憩所では青梅市街の喧騒がわずかに聞こえてきますが、ここまで来るととても静かです。弁当を広げてのんびりと談笑しました。この休憩所は道が曲がった場所にあり、景色も比較的良い場所です。土日はウォーキングする人がよく通過していますが、今回は一人だけしかすれ違いませんでした。

 第4休憩所を過ぎて、こんもりした林の道      JR宮ノ平へと、雷電山への分岐点
 

 第4休憩所を過ぎてしばらくすると、こんもりした林の道を歩きました。さらにしばらく進むと、JR宮ノ平駅へ降りる道と、そのまま青梅丘陵を進んで雷電山に至る道の分岐点に着きました。今回は、JR宮ノ平駅へ降りる道を選びました。どんどん下りると、杉並木の道になりました。かつてJR宮ノ平駅は林業が盛んな地域でした。伐採した木を下すケーブルの跡がありました。しかし今、JR宮ノ平駅近くは住宅地として開発されたようです。私が住んでいた30年位前より住宅が増えていました。

              杉並木の快適な山道を、JR宮ノ平駅へ向かう


 無事JR宮ノ平駅に着いて電車を待つと、しばらくして電車がやってきました。そして、次のJR青梅駅でJR東京駅行きの始発電車に乗りえました。この青梅駅は青梅線東京行き電車の始発駅なのです。
 青梅に住んでいた頃、毎朝この始発電車に乗って山手線のJR田町駅まで通っていました。朝6時頃の始発だったでしょうか、始発に乗るため毎朝暗いうちに青梅の我家を出ていました。数年後に八王子に引っ越しましたが、その時も片道2時間の通勤をしていました。30~40歳代、よくもまあと思うほど遠距離を通勤していました。今たまに東京に行きますが、通勤途中のサラリーマンを見ると、30年位前の私の姿を思い出します。そのためか、通勤している人たちを見ると「頑張れっ!」と、つい応援したくなります。

            家内とのんびりウォーキングした、青梅丘陵コース

田布施町 賑やかだった第3回牡蠣まつり(麻里府グラウンド)

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 今年も、田布施町春の牡蠣まつりの季節がやってきました。去年は2月下旬に開催しました。会場は麻里府グラウンド(麻里府小学校跡地)です。麻里府は田布施町の南端にあり、JR田布施駅からは離れていますが、たくさんの方々が来場されました。ほとんどの方は車で会場に来られましたが、岩国から来たある方は、JR田布施駅から歩いて来たとのこと。途中で道に迷ったそうで、たまたま道を訪ねた町民に車で送っていただいたとのこと。そこまでして牡蠣を食べたいとの熱意に脱帽です。

      売り場に届いた立派な牡蠣          販売する牡蠣を1kg/袋ごとに
 

 さて、私は牡蠣の販売を担当しました。そのため、開場1時間前に会場である麻里府小学校跡地に行きました。到着してしばらくすると、たくさんの牡蠣が販売所に降ろされました。さっそく朝9時の販売開始に備えて、仲間と牡蠣を1kgごとに袋詰めしました。販売直前になると、購入したい方々が列を作り始めました。

                     朝9時、牡蠣の販売を開始


 去年は10m近い列が最初から途切れることがありませんでした。そのため、あっと言う間に売り切れてしまいました。今回、列はそれほど長くなりませんでした。そのため最初、牡蠣が売れ残るのではないかと心配してしまいました。しかし、それは杞憂でした。12時頃までには完売しました。

                  牡蠣まつり会場に展開する各販売店コーナー



 この牡蠣まつりのメイン会場である、牡蠣を食べるテントではたくさんの方々が牡蠣を直火で焼いて食べていました。テント内に入ると、美味しそうな匂いが漂っていました。家族で来た方々は談笑しながら、牡蠣を堪能していました。牡蠣の焼き具合をみたり、牡蠣をこじ開けたり、牡蠣殻を処分したり、家族に取り分けたりと、家族の絆を深めるにはとても良いイベントだと思いました。

交流館やRistorante NAKATAのコーナー      瀬戸貝の販売コーナー
 

 牡蠣で思い出すのは、私の子供時代のことです。当時は、お菓子がとても少ない時代でした。また、お小遣いもほとんどない時代でした。そのため、食べるものを野生のもので満たしていました。満たしていた一つが岩牡蠣でした。麻郷の米出などの海岸で遊んでいる時、お腹が空くと肥後の守と呼ばれる折り畳みナイフを使って岩に取りついた牡蠣をはがすのです。そして、はがした牡蠣の身を海水で洗って食べていたのです。販売している牡蠣と比べてとても身が小さいのですが、空いたお腹には美味しかったものです。

   並んだお客様方      焼く牡蠣をお客様に渡す       焼いている牡蠣
  

 子供の頃、海の幸を自由に獲っていました。当時、そもそも漁業権なるものを知りませんでした。牡蠣,キスなどの魚,海老,貝,海苔などを獲っていました。私が獲り方を鮮明に覚えているのは、砂海老とよんでいた海老です。レーキか竹箒のようなもので取るのです。砂に隠れた海老の体を見分けて手で押さえるようにして取るのです。そんなワクワクするような体験、今の子供達にもさせてみたいものです。

                    和気藹々に、牡蠣を焼きながら食べている方々


 12時頃になると、人手のピークが過ぎてきました。スタッフとしていただいた食事券を使って昼食をとることにしました。いただいたのは漁師飯と汁です。この二つは、好評のようで列になっていました。その最後尾に並んで待ちました。しばらくすると列が進んで、美味しい漁師飯と汁をいただくことができました。汁には瀬戸貝が一つ入っていました。担当の場所に戻って、仲間と談笑しながら舌鼓をうちました。来年も牡蠣まつりが続くといいなと思いました。

   漁師飯盛り付け      美味しい汁をいただく     左:漁師飯,右:漁師汁
  

 午後2時過ぎると、ぐっと人手が減りました。この頃、パックに入った漁師飯をいただくことになりました。私は婆様のお土産用に持ち帰りました。ありがとうございました。その後、牡蠣の販売コーナーのテントなどを片づけました。我家に帰った後、そのお土産用の漁師飯を婆様に見せました。すると、小腹が空いていたのか、「美味しい美味しい」と食べ始めました。婆様は牡蠣は苦手ですが、瀬戸貝は大好きです。そのため、瀬戸貝が入った漁師飯がとても気にいったようです。

                 漁師飯と漁師汁を美味しくいただく

光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(1/x)

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 2年位前の真夏に光市の石城山をウォーキングしました。今回、久しぶりに石城山(いわきさん)をウォーキングすることにしました。前回は小学低学年生が参加しましたので、オーソドックスな神社巡りと神籠石巡りをしました。しかし、今回は大人三人ですので、あまり歩かれない場所を散策することにしました。
 石城山は江戸時代以前、西の高野山と言われたほどの大規模な寺や宿坊があったそうて゜す。ちなみに、宿坊はお坊さんや一般人のために作られた宿泊施設で、僧坊はお坊さんだけのための宿泊施設だそうです。石城山では、神護寺を中心に18もの宿坊や僧坊がありました。今回、その宿坊や僧坊を探すため石城山の山中に分け入りました。

  仁王門下方にあった宿坊:立石坊跡        立石坊下の宿坊:胎蔵坊跡
 

 まず初めに、仁王門から下に伸びる古道(ほぼ獣道)を降りました。降りてすぐの場所に立石坊があった平らな場所に行きました。その場所には何も残っていませんでした。柱などの木材類はこの150年の間に土に返っていました。また、礎石のようなものは探しましたが分かりませんでした。土に埋まっているのか、もともと無かったのかも知れません。そして、瓦がないか探しましたが、全くありません。当時、宿坊は全て茅葺きだったのでしょう。

              藪に囲まれた、山本坊跡近くの古道


 立石坊下の胎蔵坊に行ってみましたが、立石坊と同じように何もありませんでした。数十年間も育つ杉が空に向かって何本も立っていました。さらに古道を降りると、棚田と思われる石垣がいくつもありました。もしかして、この場所でお米を作っていたのではないでしょうか。ちなみに三国志城の故谷さんは、石城山の南水門傍の山本家の出とのこと。18もの宿坊を維持するには、食料,通信,荷駄などに関わる人々がいたはずです。山本家の先祖は山本坊に住み込んで、神護寺に関わる仕事をしていたとの話を聞いたことがあります。

  棚田だと思われる石垣      弐檀坊を示す木柱      イノシシのぬた場
  

 山本坊付近は広い田んぼだったように思えます。棚田のような遺跡が数多くみられます。いつの時代の棚田かは分かりません。石積みの方法を見ると、神籠石のような石積み工法ではないので、古代の石垣ではないように思えます。神護寺が創建されて以降に作られたのではないでしょうか。
 古道をさらに下っていると、不思議な道が見つけました。最初、こんな場所にどうして道があるのかと思って、その道をたどって行くと、ぬた場に着きました。その道は、ぬた場でパタリと消えていました。その道をよく見ると、イノシシの蹄跡が無数にありました。この道は、実はイノシシが行列になってぬた場に通う道だったのです。

  一条坊を示す木柱        北水門の神籠石     北水門の北谷坊を示す木柱
  

 イノシシのぬた場を過ぎてすぐの場所に一条坊を示す木柱がありました。これまで発見した、宿坊を示す木柱はどれも朽ちていました。どの木柱にも墨書きの跡がありました。書かれている内容は、「神護寺 宿坊跡 〇〇坊」と統一されて墨書きされています。ある木柱に、この柱を建てた日付が書かれていました。しかし、「〇〇年二月」としか分かりませんでした。
 幕末の頃、この石城山に第二奇兵隊が駐屯していました。18ある宿坊に分散して泊まっていたのでしょう。当然、これらの奇兵隊員の世話をする人や家族もいたはずです。その家族の一つが山本家だったのではないでしょうか。谷さんが亡くなった今、確認するすべはありません。

           石城山を分け入って史跡を散策したコース


光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(2/x)

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 一条坊跡から100m位降りた所に、北水門の石垣がありました。この石垣は、比較的崩壊が少ないように思います。どの石垣もそうですが、崩壊が近づくと膨らんできます。それは、土圧や水圧が石垣にかかるからです。現代では崩壊を免れるように、石垣の角度や水抜き穴などが厳密に決められています。古代においては、防御面だけしか考慮して作られなかったのではないでしょうか。約900年後の戦国時代に作られた石垣は、見栄えや堅牢性などの点で見事です。戦国時代の石垣は、世界に誇れると思います。

               朝鮮式石積み工法で作られた、石城山の神籠石


 この石城山の神籠石(国指定史跡 石城山神籠石)は、朝鮮から伝わったとされる石積み工法で作られていることが判明しています。つまり、古代朝鮮半島の戦乱期(高句麗,新羅,百済など)でさかんに作られた石垣の作り方です。山の周りを鉢巻のように石垣で囲んでいます。さらに、この石垣の上は版築工法で土がかためられています。版築工法は、中国の万里の長城の作り方の一つです。石城山の神籠石は、古代において中国や朝鮮半島から伝わってきた技術です。渡来した人たちが、当時の日本に伝えたのでしょう。

  塩田方面に下る十王口      西水門に到着         西水門の石垣を調査
  

 北水門を出ると、神籠石に沿って西水門に向かいました。途中、塩田に降りる十王口を下ってみました。下った理由は、大日如来岩と獅子岩を見るためです。しかし、いくら下っても大日如来や獅子を彫った岩はありません。それらしき自然の岩を、大日如来岩と獅子岩に見立てているようです。少しがっかりしました。気を取り直して、西水門に向かいました。

                  西水門を見下ろす崖の上に坐って昼食休憩


 西水門は三段の石垣から成っています。素人の私が見て、東水門や北水門と比べてやや粗雑に作ってあるようにみえます。石の大きさがばらばらで野積みのように見えます。また上から転がった岩がごろごろしていますし、水門の大きさなどが貧弱です。この石城山の神籠石は突貫工事で作ったのではないでしょうか。村人も無理に駆り出されたのかも知れません。

   最下段の石垣に降りる       小さ目の西水門         休憩所跡に向かう
  

 この石垣が作られた7世紀、朝鮮半島は戦乱続きでした。最終的に日本(倭)と百済の連合軍は、新羅と唐の連合軍に破れました。石城山の神籠石は、唐と新羅の連合軍が日本列島に攻めてくるかもしれない頃に作られたようです。防御を固めるのは急務のはずだったはずです。
 東アジアの戦乱の結果は、その後の世界をほぼ決定づけました。つまり、唐やそれに続く、宋、明、清は東アジアの盟主(中華)として19世紀までずっと君臨し、朝鮮半島は常に属国として冊封体制に組み込まれることになりました。そして、その中華体制から外れた日本です。古代ローマ帝国とその周辺の蛮族などとの関係によく似ています。ローマ帝国が中国、近蛮族が朝鮮、遠蛮族が日本と言ったところでしょうか。しかし、蛮族だったはずのフランク族(英語の「frank 」,日本語の「フランクな」の語源)は、その後フランスなどになり、今は世界をリードしています。これだから歴史は面白いのです。

              石城山に分け入って史跡を散策したコース

光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(3/4)

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  西水門を過ぎて、急な上り坂を登りました。休憩所跡までに屏風岩と亀石があるはずです。すっばり切れ落ちた屏風岩はあったのですが、亀石はありませんでした。おそらく、大きな長方体のような岩がそれではないかと思います。昔の人が、大きな岩を、一番似ている物に例えて名付けたのでしょう。亀石を過ぎてすぐの所に開けた場所がありました。ここにはかつて休憩所の建物がありました。しかし、今は単に物見平になっています。ここからは、光市がよく見下ろせます。先日歩いた虎ヶ岳の頂が良く見えました。晴れた日には周防灘が良く見えるのではないかと思います。

    休憩所跡から見た光市方面         石城山の月の峰:三角点がある
 

 休憩所からは周防灘が良く見えると言うことは、古代において大宰府方面から来る船が見えたはずです。石城山には狼煙台跡もありますので、狼煙の経由地でもあったかも知れません。ところで、休憩所跡から、石城山で二番目に高い月の峰に登りました。ここには国土地理院の三角点があります。一番高い高日峰ではなく、二番目に高い月の峰に三角点がある理由はなんでしょうか。眺望が良いからでしょうか。

            石城山の中で一番古いと言われる石城神社に到着


 続いて、第二奇兵隊本陣跡に行きました。ここには神護寺の本堂があったそうですが、今は何もありません。南側の山裾に岸信介書の第二奇兵隊の顕彰石碑があります。その顕彰碑を見た後、石城神社に行きました。この神社は、子供の頃から何度も来ました。ところで、今回は好運なことに宮司さんに出会いました。時々掃除に来るとのことで、普段着の宮司さんでした。塩田の石城山神社社務所に住んでおられるそうです。絵葉書5枚と石城神社の由来が書かれた紙を一枚いただきました。ありがとうございました。由来によると、敏達天皇3年(574年)に吉備屯倉の津史が来たことなどの経緯が石城神社の始まりとのこと。これが事実ならば、神籠石が築かれる前に神社があったことになります。

   石城神社の宮司さん    三国史城に降りる伊賀口     鶴ヶ峰下の祠
  

 石城神社で宮司さんのお話しを伺った後、神護寺跡を細かく散策しました。獅子の穴から消えて無くなったと言われる獅子頭を探してみましたが見つかりませんでした。しばらくあたりを散策した後、伊賀口を少し下りました。そのまま、降り続けると三国史城に着きます。しかし、途中で折り返して石の口方面に向かいました。石の口にはYさんの家があります。時々家に滞在されているようです。今回は、大木のはるか頭上に登っておられました。この大木を伐採するため登っているとのこと。石の口への下山道を聞きましたが、今は通れないそうです。
 石の口の下山道を無理して降りれば石ノ口八幡宮に着きますが、今回は止めました。ところで、石ノ口八幡宮の立派な石垣は、石城山の神籠石と何等かの関係があるのでしょうか。もしかして、石城山入口としての守り口,関所,又は物資などの流入をする重要な場所だったのかも知れません。この石ノ口八幡宮から南側の城南地区には、たくさんの古墳があります。山口県で最古の国森古墳、山口県で最大の石室をもつ後井古墳などたくさんの古代の古墳がありますので。

    石の口近くで咲いていた梅           石の口の幽界(墓所)
 

 明治以前、田布施町の城南地区と光市の塩田地区は同じ地域でした。そのため、石城神社の三つの御神輿はお祭り時に城南宿井に降ろされていました。つまり、宿井は石城神社の氏子だったのです。ところが、明治になってから石城神社は城南地区と切り離されました。つまり宿井の人々は石城神社の氏子ではなく、石ノ口八幡宮の氏子になったようです。かつて御神輿が休んだ御旅所は人知れず今でも宿井に残っています。また、お祭りの話は紙芝居として残っています。氏子域は変わりましたが、石城神社や石ノ口八幡宮など城南宿井吉井界隈の御社は、今も石城神社の宮司さんがお祓いしています。石城神社にあった三つの御神輿は、今は塩田の社務所にあるそうです。

           石城山に分け入って史跡を散策したコース

光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(4/4)

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 T氏の家の周りはとても良く手入れがされていました。一人でこの山中を維持するのはとても大変だと思います。家の横には各種農機具が置いてあったので、かつては家族多数で住んでおられたに違いありません。T氏の家を出ると石城大師堂に行き、駐車場前の舗装道に出ました。次に、南水門傍の廃家ビルとなっている展望所に行きました。その展望所は、私が子供の頃は観光名所でお店もありました。しかし今、暗い木立の中に幽霊屋敷のように建っていました。屋内にお店らしき跡も残っていました。

            とても綺麗に手入れされている、T氏の家とその周辺


 次に南水門に降りてみました。すると、すっかり土砂で埋まっていました。私が子供の頃は、立派な水門が口を開けていました。各水門の中で、一番大きく立派な水門だったと思います。この水門が土砂で埋まった理由は、駐車場や展望所に車を通すために水門のすぐ上に土を盛って道路を作ったためです。その道路の斜面が崩れて土砂となり、南水門をふさいでしまったのです。観光開発の失敗の一例です。
 南水門を見学すると、その谷筋の上流にあった山本宅跡を訪ねました。すると、かつてあった家や畑などが竹で占領されており、崩れた家跡がありました。

  廃ビルの展望所跡       土砂で埋まった南水門      東坊を示す木柱
  

 続いて、日本神社に向かう坂を登って高日峰に向かいました。残り時間が少なくなったため、眺望がとても良い高日峰には登らず東水門に向かいました。その途中に東坊跡を示す木柱がありました。さらに降りると、私が知っていた中岸坊跡を示す木柱がありませんでした。その近辺の笹薮の中を探し回ると、中岸坊跡を示す木柱が笹の下に倒れていました。私が発見しなければ、人知れず土に変えるところでした。

  笹薮の中に発見した中岸坊跡の木柱         東水門と版築石組
 

 中岸坊跡付近は、かつて上段方面に降りる波野口がありました。今その下り道は藪となっているため通れません。その中岸坊跡を北に向かうと、東水門とそれを取り囲む立派な石垣があります。この東水門周辺の石垣は、朝鮮式石積みと言われる工法を色濃く残しています。一種レンガのような石を、何段にも積んで作られています。そして、その上には版築工法で土が盛られているのです。

    朝鮮式石積みと言われる工法が良く分かる石垣、個人的に一番好きな場所


 東水門を見終わると、神籠石に沿って北門へ向かいました。北門にも石垣が残っているのですが、ここには古代に門があった証拠の巨大石が二つ残っていてます。門の礎石に使ったと思われる沓石です。人工的に刻まれたことが明確な石です。古代どんな門が設置されていたのでしょう。馬や荷馬車が通れるような巨大な門だったのでしょうか。

 東水門(山姥の穴)を覗く            北門跡に到着        この沓石が二つ
  

 ところで、江戸時代後期に書かれた風土記「防長風土注進案」に、石城山についての記録がたくさんあります。18の宿坊や神護寺について書かれています。そして、古代朝鮮半島の百済国にも石城山と呼ばれる山があったそうで、光市の石城山との関係を示唆している記述があります。さらに、百済聖明王についても書かれています。これらの記述の真意のほどは私にはよく分かりませんが、今回調査した石城山は、古代において朝鮮半島と深く関わりがあったことは確かなようです。

                 石城山の宿井口途中から東側柳井方面を見下ろした景色(古代は海)
         古代において石城山の東側と南側は海峡(唐戸水道とも)


 古代朝鮮半島では、山頂を石垣で鉢巻状に取り囲む形式の城が多く作られたようです。朝鮮から渡来した人々の一部が、当時の田布施周辺に住んでこれらの技術を伝えたようです。渡来した人々が住んでいた言われる場所の一つが、平生町の海辺にある百済部地区です。
 当時、古代朝鮮国家と大和朝廷はさかんに行き来していました。古墳がとても多い当時の田布施は、その流通の一部を担っていたのかも知れません。その拠点などを守るため、石城山に神籠石が築かれたのではないかとも考えられます。当時の人々が、どんな言葉を話し,どんな衣服を着て,どんな船に乗って,どんな暮らしをしていたのかなど、そしてその後の日本にどんな影響を与えたのかなど、興味は尽きません。

             石城山に分け入って史跡を散策したコース

不要な家具や雑木などを畑で焼却

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 我家の2階を直すため、不用品を壊しつつ焼却しています。今回はタンスを壊して燃やしました。壊すときは金槌で叩き、バラバラに壊してから2階から落としました。そして、燃やす畑に運びました。タンスは、よく乾いていたため勢いよく燃えました。タンスを半分程度燃やし終わると、今度は伐採した木々の枝や幹を燃やしました。

   壊す前のタンス       よく燃えるタンス     時々水をまき、火を押さえる
  

 伐採した木々は、まだ完全には乾いていなかったためなかなか火が移りません。しかし、いったん燃え上がると煙を出しながら炎が上がります。火が強くなりそうな場合は、すかさず水をかけて炎を弱めました。このところ、午後4時頃にならないと風が弱まりません。暗くなると燃やせないため、焼却する時間は2時間程度しかありません。4月からいろいろと忙しくなるため、3月中になんとかすべての木々を燃やせたらと思っています。

               風が弱まる16~18時に焼却作業

田布施町 一日詣り巡礼ウォーキングの下見(1/2)

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 4月にウォーキングする予定のルートを下見しました。いつもより長い距離を歩きます。そのルートは、麻郷や麻里府で巡拝されていた約24kmにわたる南平和霊場ルートです。かつて麻郷詣りとか一日詣りとか言われていました。距離が長くて大変かと思っていましたが、いつも歩いているせいか意外に疲れませんでした。やや健脚向け、と言ったところでしょうか。
 田布施町交流館からスタートして、最初の霊場である本町関戸橋袂の南平和霊場第1番札所観音堂を訪れました。かつては立派な屋根の下にお地蔵様が安置されていましたが、今は倉庫に仮安置されています。続いて、田布施川をどんどん下りました。

 田布施町交流館スタート     南平和霊場第一番札所     川添橋の堰改築記念碑
  

 しばらく歩いて川添橋を渡りました。そして、堤防脇に建っている堰改築記念碑を見ました。左側の記念碑は伊佐里峠と関わりがあり、紙芝居「五人力の清三郎」に出てくる石です。次に、南平和霊場第二番札所である新川寮に着きました。傷んでいる建物ですが、今でも新川地区の方たちに守られている札所です。続いて、次の霊場がある三宅に向かいました。三宅橋を渡って10分位歩くと、南平和霊場第三番札所である薬師堂に着きます。この薬師堂は、残念なことに去年春に撤去されました。その場所は空き地になっています。

  南平和霊場第二番札所      三宅橋を渡り三宅へ    南平和霊場第三番札所跡
   

 南平和霊場第三番札所跡は何も残っていないため、跡を示す杭か表示板を置きたいところです。続いて、尾迫にある南平和霊場第四番札所の観音堂に行きました。この観音堂は南平和霊場の中で一番綺麗に手入れされています。尾迫の方々が丁寧に守っているのだと思います。観音堂の南側に生えていた樹木が伐採されていたため、とても日当たりが良くなっていました。

               南平和霊場第四番札所 尾迫の観音堂


 尾迫の観音堂を出ると、竹重地区にある南平和霊場第五番札所西遊寺に向かいました。西遊寺は今、西竹重自治会館です。お地蔵様などは会館内に安置されています。続いて、奈良地区にある南平和霊場第六番霊場西法寺に向かいました。かつてはお寺だった西法寺ですが、今は奈良地区の集会所の役割を果たしています。なお、奈良地区にはかつて西福寺もあったのですが、明治初期に廃寺となりました。

  南平和霊場第五番札所     南平和霊場第六番札所    南平和霊場第七番札所
  

 奈良地区の西法寺を出ると、井神の南平和霊場第七番札所長福寺に行きました。このお寺には昭和30年代まで尼さんが住んでいました。今は静かなお寺になっています。長福寺傍の高松八幡宮に行きました。本番ウォーキング時、高松八幡宮のトイレを使わせていただくことになりました。ありがとうございます。続いて、山越えをして麻里府の上組に向かいました。山越えするには、かつて歩かれていた伊佐里峠の古道を越えなければなりません。

   伊佐里峠を目指す      伊佐里峠から大泉寺に到着    南平和霊場第八番札所
  

 伊佐里峠の茶屋跡に着くと、少しの間休憩しました。水分を補修したり、お菓子を数個口に入れました。10分程度休むと、大泉寺に向かう古道を降りました。先日この峠を整備しておいたため難なく歩くことができました。足元の切株に注意しながら20分程度歩くと大泉寺に着きました。

                一日詣り巡礼ウォーキングのコース

田布施町 一日詣り巡礼ウォーキングの下見(2/2)

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 伊佐里峠から大泉寺脇に降りると、大泉寺に行かないで先に上組に行きました。南平和霊場の順番では、なぜか大泉寺ではなく上組の薬師堂だからです。薬師堂は山の中腹にあるのですが、本来の登り口は竹が生い茂っていました。そして、倒れた竹でとても通れません。さらに、下山ルートも草が生い茂って通れません。去年の1月には通ることができたのに困ったことです。上組の方々が取り付けた紐を伝いながら降りました。本番のウォーキングまでになんとか整備できたらと思います。

南平和霊場第九番札所大泉寺     南平和霊場第十番札所   麻里府公民館でトイレ休憩
  

 上組の南平和霊場第八番札所薬師堂から、旧道を通り大泉寺に行きました。大泉寺は南平和第九番札所です。かつての巡拝ではこの大泉寺で昼食休憩を取ったとの故事にのっとり、同じように大泉寺で昼食休憩を取りました。昼食後、大泉寺のご住職にご挨拶をしました。大泉寺を出ると、次の霊場である中郷八幡田地蔵尊に行きました。

               南平和霊場第十一番札所戎ヶ下大師堂


 八幡田地蔵尊を拝むと、トイレ休憩する予定の麻里府公民館に向かいました。BerryBerryに寄って休憩することも考えましたが、30分もの時間が取れるかどうか微妙です。当日の余裕時間で判断するしかないようです。麻里府公民館で休憩を済ませると、麻郷の南平和霊場第十一番札所戎ヶ下大師堂に向かいました。霊場の雰囲気が最も残っている札所です。

南平和霊場十一番札所の板    平和霊場十二番札所      南平和霊場第十三札所
  

 戎ヶ下大師堂は戎ヶ下の方々が大切に守っているようで、いつも綺麗です。毎日どなたかが掃除されているのでしょう。戎ヶ下大師堂を出ると、国道188号線の歩道を平生町方面に向かって歩きました。麻里府から麻郷浜城まで、固い歩道ばかり歩くためやや足が痛くなります。次に浜城の大日如来に行きました。お地蔵様は、綺麗なちゃんちゃんこを着ていました。続いて、蓮輪の南平和霊場第十三番霊場千光寺に向かいました。

   鳥越のこつり地蔵      八海公会堂前の地蔵様    旧人島橋跡袂のお地蔵様
  

 千光寺は田布施町でも最も古い寺の一つです。ただし今は、廃寺となっており正式なお寺ではありません。しかし、毎月決まった日に先代ご住職の娘さんが来ておられます。数年前に、巡拝のお札をいただいたことがあります。かつては巡拝時、各札所でお札が配られたのではないかと思います。次に、鳥越のこつり地蔵尊に向かいました。

               麻郷八海からは、田布施川沿いに交流館に向う


 こつり地蔵尊は、何年か前に撤去されました。そのため、今は跡だけが残っています。かつて麻郷詣りまたは一日詣りと呼ばれていた南平和霊場巡礼は、このこつり地蔵尊が最終霊場で、ここで解散していました。今回のウォーキングではここで解散しないで、八海の地蔵尊などを巡りながら交流館まで歩きます。そして、出発地点でもある交流館に戻って解散します。
 昔の人は、仕事でも買い物でも歩くことが日常でした。そのため、今回歩いた距離を平気で巡礼していました。車に慣れた現代人は、今回のコース約24kmを楽々歩けるでしょうか。

            一日まいり巡礼ウォーキングのコース

前庭にサトウカエデの苗木5本を植える

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 3年前にサトウカエデの苗を移植しましたが、今年もサトウカエデの苗を植えることにしました。植えた場所は、カイズカイブキを伐採した前庭です。カイズカイブキは常緑樹のため、夏は日陰となり涼しくて良いのですが、冬は廊下や居間が日陰となり寒くなります。そのため、落葉樹のサトウカエデの苗を植えることにしたのです。今は小さな苗ですが、10年位経てば、夏は日差しを遮り、冬は日差しを通してくれるでしょう。

    植える間隔を計測      植えるサトウカエデの苗      植穴をスコップで掘る
  

 サトウカエデを植えた間隔は3mです。小さな苗ですので、今はとても広いように思います。しかし、10年以上経てば枝が広がりますので、こんなものかなと思います。30年以上経てば、むしろ狭くなります。ただその頃には私はいないと思いますので、次の世代にバトンタッチするしかないと思います。とは言え、来月頃にちゃんと芽が出るか心配です。

               植え付けたサトウカエデの苗、ちゃんと芽が出るでしょうか


 サトウカエデを植えた理由のもう一つが、10年以上経って幹が太くなれば幹から出た樹液を煮詰めると砂糖が取れることです。いわゆ、メープルシロップです。3年前に植えたサトウカエデは今はまだ細い幹なのですが、去年試しに幹に傷をつけてみました。すると、意外にたくさんの樹液がボタボタと滴として落ちるのです。舐めてみると、ほんのりと甘みがあるような気がしました。シロップにするには、大量の樹液を集めて煮詰める必要があるようです。

      苗を植えると植穴に注水              苗を植えた間隔は3m
 


去年植菌したしいたけを、刈伏せ場から伏せ場に移す

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 去年しいたけの菌を植え付けた榾木を、仮伏せ場から伏せ場に移しました。私がしいたけの伏せ場に利用している圃場は竹藪と杉木立です。今回は、杉木立の圃場を利用しました。杉木立下は、一年中太陽の光が届かなく日陰です。また、雨が降っても直接榾木に雨が当たらないため濡れる事はありません。いわば、しいたけが育つには最適な場所です。

 榾木が倒れないように横棒     去年仮伏せした榾木        次々に榾木を移す
  

 移した後の榾木が倒れないように、二本の幹の間に棒を横に縛ります。棒を縛りつけると、去年仮伏せした榾木を次々に移しました。よく観察すると、しいたけ以外のきのこが生えている榾木がありました。しいたけ菌を植え付ける時に、しいたけ菌としいたけ菌の間が開き過ぎたのかも知れません。それでも、ほとんどの榾木は、しいたけと思われる白い菌が育っていました。

   育っているしいたけ菌       すべての榾木を移す     移した後の榾木
  

 今の時期はしいたけがよく出る季節です。次から次へと出るので、我家では食べきれません。そのため、友達などにどんどん配っています。去年までは毎年しいたけ菌を移植していましたが、あまりにしいたけがたくさん獲れるので、これからは一年おきに植菌をしようと思っています。そのため、今年は植菌をしませんでした。来年の冬に植菌をする予定です。これから初夏にかけてしばらくはしいたけを収穫でき、その次は秋に収穫できます。夏と冬は収穫が止まります。しかし、今年の冬は暖冬のためか正月にも収穫できました。しいたけは生き物ですので、毎日の観察が欠かせません。

              我家の自給用しいたけ栽培の圃場

ジャガイモの植え付け準備

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 事前に購入しておいたジャガイモ(メークイン,シンシア)の種芋を、明るい場所に置いて浴光催芽しておきました。3週間程度浴光して、小さな芽がたくさん出ていました。時期が少し遅れましたが、ジャガイモの種芋を植える準備作業をしました。大きな芋は、包丁で半分程度に切りました。

   灰と種芋(シンシア)               大きな芋は半分にカット     切り口に灰をまぶす
  

 小さな芋はそのままにしました。切断した芋は、切り口に灰を付けておきました。昔から切り口に灰をまぶしていますが、その効用は分かりません。おそらく切り口にばい菌が入らないようにとのことだと思います。最近では灰ではなく、消毒剤を霧吹きで吹き付けることもあるようです。それでも、10個に1個位は腐ってしまうようです。

                  切り口に灰をまぶして乾燥中の種ジャガイモ


 最初にシンシアを切りました。続いて、メークインを切りました。メークインは半分ほどが小さな種芋でしたので、切らないでそのまま種芋として使います。最も栽培されているジャガイモ品種は男爵です。私も数年前までは男爵を栽培していましたが、芽が深いため皮を剥ぐのが手間なのです。そのため今は、シンシアを必ず、その他のもう一種類のジャガイモを栽培しています。一昨年、四種類のジャガイモを栽培収穫して食べ比べしましたが、食味はどれもそう変わらないため、以降、二種類だけを栽培しています。ジャガイモの切断が終わると、乾燥しました。次に、ジャガイモを植える畑を耕しました。明日か明後日、今回切断乾燥したジャガイモを植えるつもりです。

      大きさがバラバラなメークイン         ジャガイモを植える畑を耕運
 

田布施町 麻里府 上組 薬師堂周辺のお遍路道を普請

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 先日、4月の一日まいり巡礼ウォーキングの下見をしました。その時、上組の薬師堂の昇り降りのお遍路道が竹や草で通れないことが分かりました。そこで、上組にお住まいの方の了解の元に、薬師堂前周辺のお遍路道を普請することにしました。大泉寺に車を駐車して、私は草刈機を持って、他の4名はノコギリや熊手などを持って薬師堂に向かいました。

            上組の薬師堂へのお遍路道を普請(主に草刈り)


 最初、上組のIさんを訪ねました。そして、草刈りする道を教えていただきました。ありがとうございました。薬師堂はH家の裏山にあります。なお、H家は私の同級生の家です。今は、その妹さんが主に御母堂の介護などで来ているそうです。一度、上組の道で立ち話をしたことがあります。

   倒れた竹を撤去   お遍路道から見上げた薬師堂   生い茂った笹を刈る
  

 お遍路道の東側と西側に分かれて普請しました。3名は、東側の登り道を整備しました。竹が生い茂ったり倒れた竹を、ノコギリで切るなどして歩きやすくしました。そして、私とEさんの2人は、西側の降り道を草刈りしました。草刈機を使って、生い茂った笹など刈取りました。これで、東側と西側のお遍路道が歩きやすくなりました。

            生い茂った笹などを刈取っているお遍路道


 道が歩けるようになると、少しばかり休憩しました。そして、ついでに守屋大人のお墓と言い伝えられている石や五輪塔などを見学しました。いつの時代に作られたのか分からない不思議な墓所です。薬師堂を出ると、本番ウォーキングで歩く道をトレースしました。途中、白いボケと思われる枝が落ちていました。周りをよく見ると、梅,ボケ,椿などの花があちこちで咲いていました。

守屋大人のお墓と言い伝えられている墓所     白いボケと思われる枝を発見
 

 ところで、本番ウォーキングで歩く上組の古道はかつては伊保木と麻郷を結ぶ往還道でした。上組では、一部民家の庭先を通っています。そこで、その民家に住むYさんに本番ウォーキング時に庭先を通ることの了解に伺いました。快く了解していただきました。Yさん、ありがとうございました。これで、4月24日の一日まいり巡礼ウォーキングのすべての準備が整いました。今回、お遍路道の草刈りなどにかけつけてくれた方々、ありがとうございました。
 車を駐車した大泉寺に戻ると、昼食を取ってから我家に戻りました。そして、ジャガイモの種芋を植え付ける畑を耕耘しました。そして、小麦畑の畝間も耕運しました。今は、小麦の緑がとても清々しい季節です。

              小麦の畝間を、耕運機で除草兼耕運

ジャガイモ(メークイン)の種芋を植え付ける

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 明日の天気予報は雨とのことです。そのため、急いでジャガイモ(メークイン)の種芋を植え付けしました。今年は、去年サツマイモを栽培した場所でジャガイモを栽培することにしました。早朝、耕運機を畑に持ち込み、続いて肥料や種芋などを一輪車で持ち込みました。最初、耕運機で畑を何度も往復しながら耕しました。耕し終わると、次にジャガイモの種芋を植える畝を作りました。

   耕運機で丁寧に耕耘     ジャガイモ用の畝       種芋と種芋の間に肥料
  

 ジャガイモの畝を作り終わった頃に、Eさんが自転車でやってきました。そこで、ジャガイモの種芋を植え付ける作業に入りました。種芋は50cm間隔で植えました。間隔が分かるように畝の溝にそって巻尺を引きました。その巻尺を頼りに50cm間隔で種芋を畝の溝に置いていきました。私は、種芋と種芋の間に肥料を置いていきました。

              巻尺に沿って、50cm間隔で種芋を畝の溝に置く


 種芋を植え付けしていると、今度はNちゃんがやって来ました。そこで、種芋と種芋の間に肥料を播くお手伝いを少ししてもらいました。種芋を置き終り、肥料も播き終ると、今度はその上に土を被せました。今後、芽が出て成長するごとに土寄せをします。最低2度の土寄せをします。そのため、あまり土を深く寄せることはしません。

 スコップで肥料を播く      三本クワで畝に土寄せ    美味しい納豆チャーハン
  

 土寄せが終わった頃、お昼のサイレン(音楽)が鳴りました。Nちゃんが納豆チャーハンを作って持ってくる間、小麦畑に肥料を播きました。この麦畑は肥料分が少なく痩せている畑です。一部の麦は分げつが少なく、背が低く、さらに葉の色が濃くありません。今回肥料を播いたため、葉の色が濃くなり、背が伸びると思います。
 肥料を播き終った頃、Nちゃんが持ってきた納豆チャーハンに舌鼓を打ちました。とても美味しかったです。ごちそうさまでした。ほど良い日差しの中で、楽しいお昼休憩となりました。ジャガイモの植え付けなど、お手伝いありがとうございました。収穫時には、ジャガイモを皆さんにお分けしようと思っています。

               暖かい日差しの中、小麦に肥料を播く

春キャベツの苗を植え付ける

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 ジャガイモの種芋植え付け作業が終わった後、別畑に春キャベツの苗を急いで植え付けしました。やはり、次の日に天気予報で雨が降ることが予想されたためです。午後一寝入りした後、むくりと起き上がり畑に向かいました。そして耕運機で畑を耕した後、春キャベツ用の畝を作りました。

  春キャベツ用畝に肥料      畝を盛り上げて整形      使用済み黒マルチを被覆
  

 春キャベツ用の畝ができあがると、肥料(発酵鶏糞,化成肥料)を播きました。そして、その上に軽く土を盛り上げました。続いて、平くわを使って畝を整形した後、使用済みの黒マルチを被覆しました。去年9月に秋キャベツに使用した黒マルチを再利用したものです。最後に黒マルチが風で飛ばないように、周りに土を乗せました。

 土を寄せて黒マルチを固定   事前に購入しておいた苗    黒マルチの穴に苗を移植
  

 春キャベツの苗は、近所のDIYのお店で事前に購入しておいたものです。キャベツの品種は「いろどり」です。12本がセットになった苗です。そのうちの10本を畝に植え付けました。苗と苗の間隔は約50cmです。植え付け後ジョロで水をまくのですが、次の日に雨が予想されたため水をまきませんでした。

                 約50cm間隔で春キャベツの苗10本を植え付け


 10本の苗を植え終わると、黒マルチを跨ぐように竹製のU字支柱を立てていきました。この竹製U字支柱は、作ってから4年経つため強く曲げると折れるものがありました。近いうちにU次支柱を作る必要があります。U次支柱を立て終わると、寒冷紗を被せました。そして、その寒冷紗の両サイドに土を寄せて固定しました。これで、春キャベツ苗の植え付け作業が終わりました。6月には美味しい春キャベツを収穫できると思います。

    竹製のU字支柱を必要本数指す          寒冷紗を春キャベツの畝で覆う
 

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