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Channel: 東京里山農業日誌
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この冬、最後のたき火 伐採木を焼却

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 このところ、すっかり春らしくなりました。去年の秋から続けてきたたき火も終わりです。まだまだ燃やさなければならない伐採木がありますが、この秋まで取っておくことにしました。これからは、野菜や花のは種まきなどの農作業が忙しくなるためお預けです。
 今時の子供はたき火をすることが無いようです。私が子供の頃は、勉強よりも大切なことの一つがたき火(風呂焚き)でした。小学4年生から高校3年生までの約8年間、ほぼ毎日のように風呂焚きをしていました。

  燃やし始めは乾いた板     次々に伐採木を焼却       枯れ枝も焼却
  

 風呂焚きの仕事は、およそ次のようなサイクルです。
  ・山に登って適当な木を見付けてノコギリを使って伐採する。
  ・伐採した木は、そのまま放置して乾かしておく。
  ・その後、乾いたことを確認して山からひきずり降ろす。
  ・ノコギリやナタを使って焚きやすい大きさにする。
  ・雨の日に備えて、家裏に木を溜めておく。
  ・溜めた木を使って、ほぼ毎日風呂を焚く。
  ・風呂を焚いた次の日、灰を取り出して畑にまく。

 以上のことは、すべて自分の責任でやらなければなりませんでした。ナタや鎌で指を怪我したことはたくさんありましたが、火事になったりボヤを起こしたことはありませんでした。子供には決して楽な仕事ではありませんでしたが、一方で楽しみもありました。燃える火を使っていろいろ実験することができました。例えば、火薬を作って実験したり、鉄を赤熱してナイフを作ったり、粘土で茶碗を作ったり、鉛などを溶かして加工したことなどです。

           燃え盛る炎を見ながら、子供の頃を振りかえることも


 今、たき火をしながら炎を見つめていると、子供の頃を思い出すことがあります。子供の頃の自分は、野山を駆け回っては実を食べ、川や海に出かけては海の幸を食べたりしていました。危険な事にもたくさん出会いました。・・・・・これらの経験が、今の私の血や心になっているような気がします。

            この秋まで、たき火はお預け


平成28年度 田布施町少年少女発明クラブ 開講式

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 今年も、田布施町少年少女発明クラブが始まりました。今日はその開講式です。去年は応募人数が少なかったのですが、今年は一転して多数の応募がありました。田布施町少年少女発明クラブは20年の歴史がありますが、クラブ始まって以来最多人数となりました。

  開講式に集まった方々    発明クラブ開講式の開始    発明クラブ指導員の紹介          
  

 私が少年少女発明クラブに参加したのは、つい2年前の開講式からです。参加したきっかけは、田布施町の発明クラブを作った森山先生に45年ぶりに再会したことです。先生は、中学生時代に私が所属していた科学クラブの顧問だったのです。先生は最初、柳井市の少年少女発明クラブを作ったそうです。その頃の苦労話を伺ったことがあります。

              並んで写真をとる子供達,保護者,指導員他


 その苦労の一つは、その活動が報道で紹介されたことがきっかけだそうです。報道で紹介後、とてつもなく多くの子供達が入ってきたそうです。子供10人に1人位の指導者しかおらず、とても困ったそうです。今も、柳井市は少年少女発明クラブが盛んです。
 ところで前任のM先生がご病気とのことで、やむなく私が主任指導員となってしまいました。今年の田布施町少年少女発明クラブ員はかつてなく人数が多いのですが、指導員共々頑張るしかないと思っています。とにかくこの一年間、子供も指導員も怪我なく楽しい工作ができればと思っています。

 資料をクラブ員に配布      資料に名前を記述     工作について説明する私
  

田布施農業工業高校の畜舎(羊小屋)を見学

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 昨日、少年少女発明クラブの開講式が終わった後、田布施農業工業高校に行きました。目的は、高校で飼っている羊を見学させていただくためでした。運よく、発明クラブで指導員をされているSさんがこの高校に勤めておられるとのことで案内していただきました。Sさん、羊を見せていただきありがとうございました。今は羊の毛刈りシーズンです。これからは季節が暑くなります。羊が熱射病にならないように、毎年この季節に毛を刈るとのことです。

               たくさん飼われている羊たち、そろそろ毛刈りの季節


 10年位前のことですが、私は高校生に昔ながらの米作りを教えていました。その高校生達は、農業高校の畜産科で学んでおりたまたま羊飼育担当だったのです。一方、私が所属していた農業支援ボランティアグルーブ(ユギ・ファーマーズ)内に羊の毛を織物にする織物チームがありました。その織物チームに指導者Uさん(内山さん)がいました。
 私のところに学びに来ていた高校生達に、せっかく羊を飼っているのなら織物を学んでみないかと誘ってみました。すると、好奇心旺盛な高校たちは、羊から刈り取った原毛を加工してマフラーにするまでの工程に挑戦してくれました。嬉しいことに農業支援ボランティアグルーブの仲間の一人として、内山さんは織物を高校生達に教えてくれました。ありがとうございました。そして、私もそのお仲間に加わって体験したのです。
 なお、Uさんは今、独立して山梨県道志村で織物工房「工房むめい花」を開いています。アメリカ先住民ナバホに伝わるナバホ織りも教えています。

  首から下を刈られた羊       羊たちを見学        生まれたての可愛い子羊
  

 考えてみれば、この田布施には羊を飼っている高校があるではありませんか。10年前のように、羊から刈った原毛を加工して何らかの織物を作ってみたくなりました。そもそも、郷土館には、通称「たぬきの糸車」と呼ばれる古い紡ぎ機が何台かあります。利用しない手はありません。まずは、原毛の油抜きから始めてみようと思います。

            羊小屋近くにある牛小屋も見学させていただく

絹さやエンドウ豆,スナップエンドウ,グリーンピースの支柱を立てる

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 去年の晩秋に色々な豆の種まきをしました。絹さやエンドウ豆,スナップエンドウ,グリーンピース,そしてソラマメです。芽が出た後、冬の間はなかなか大きくなりませんでした。しかし、3月中旬過ぎてからだんだん大きく成りました。よく見ると、ツルを伸ばしてぶら下がる枝を探しているように見えます。そう言えば、そろそろ豆のために支柱を立ててやらなければなりません。去年も今頃に支柱を立てました

              支柱を支えるための棒を、X状に打ち込む


 私は、枯れた竹枝を挿して支柱として使っています。最初、その竹枝を支えるための棒をX状に畝に差し込みます。大きな風が吹いても倒れないように、木槌で叩いて棒を差し込みます。そして、それらの棒に横木を結び付けて固定します。次は竹藪に行って、枯れた竹枝を探します。適当な枝が見つかると、ノコギリで切って畑に持ち込みます。

    横棒を糸で結び付け固定           枯れた竹枝を横棒に結びつける
 

 何本かの竹枝を畑に持ち込むと、豆の株元に、豆を傷めないように竹枝の根本を差し込みます。そして、竹枝がぐらぐらしないように横棒に結び付けます。このような作業をしながら、絹さやエンドウ豆,スナップエンドウ,グリーンピースが登っていく枝を支柱として取り付けました。5月初めには美味しい絹さやエンドウ豆などを収穫できることでしょう。

                            豆が這い上がれるように、枯れた竹枝を次々に取り付け

草刈機の故障を修理:プライマリーポンプの交換

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 我家には、常時使う2台の草刈機があります。しかし、去年の秋に1台が故障してしまいました。ガソリンをキャブレターに送るプライマリーボンブからガソリンが漏れるのです。そのため、キャブレターにガソリンが送られず、エンジンがかからないのです。
 残りの1台が快調に動くため、直さずにいました。その1台も、いつ故障するか分かりません。故障したら草刈りができません。そのため、故障した1台の草刈機を直すことにしました。

   故障した草刈機       ガソリン漏れのポンプ     空気吸入口を外す
  

 ガソリン漏れを直すためには、フライマリーポンプを交換するしかありません。近くのDIYのお店に行ってプライマリーポンプを探しました。探してもなかなかありません。3店目でやっと見つけました。新品のプライマリーポンプを購入すると、さっそく故障した草刈り機の修理を始めました。まずは、まずプライマリーポンプが付いているキャブレターを取り外しました。

             取り外したキャブレターとプライマリーポンプ


 耕耘機のキャブレターはよく外しますが、草刈機は久しぶりです。注意深くブラスドライバーを使って外しました。外す前にガソリンタンクからガソリンを通すホースなどを外します。キャブレターを外して、プライマリーポンプをよく観察すると、ポンプは全体的に茶色に変色し、あちこちに小さなヒビが入っているように見えました。そのヒビの一つからガソリンが漏れるのに違いありません。

 ポンプをドライバーで外す    取り外したポンプ       購入した新品のボンプ
  

 キャブレターを外すと、今度はキャブレターに取り付けられたプライマリーポンプを外しました。キャブレターの四つのネジを外して、ゴムのようなポンプをこじるようにして外しました。太陽の光で透かせるようにして観察すると、無数のヒビが筋状に光って見えました。ボンプの交換時期に来ていたようです。DIY店で購入した新品のプライマリーボンプをキャブレターに取り付けました。

          キャブレターに取り付けた新品のプライマリーボンプ


 新品のプライマリーボンプを付けると、キャブレターを元のように草刈機本体に取り付け直しました。そして、ガソリンタンクからのホースを繋ぎました。そして、最後に、修理確認のためにエンジンをかけることにしました。まずは、タンクにガソリンを入れました。次に、ブラマリーポンプをしこしとこ押して、ガソリンをキャブレターに誘導しました。そして、コックをチョーク側に倒して始動ローブを数回引きました。すると、半年ぶりにエンジンがかかりました。これで、安心して2台の草刈機を使うことができるようになりました。

  ガソリンホースを繋げる      空気吸入口をセット        直った草刈機
  

田布施農業工業高校で、羊の毛刈りを見学

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 数日前、田布施農業工業高校で羊を見学させていただきましたが、今回は羊の毛刈りを見学させていただきました。久しぶりに見る羊の毛刈りでした。見学させていただき、ありがとうございました。
 50年位前、我家では羊を数頭飼っていました。昭和30年頃のことですが、父親と友人はわざわざ北海道まで羊を買いに行ったそうです。田布施農業高校の卒業生だった父親は先生と親しく、そのつてを頼って買いに行ったのでしょう。北海道から山口県まで、羊と同じ貨車に乗って帰ったそうです。昔は貨車に人が乗れたのですね。

 羊と2歳の私(昭和30年)    羊の毛を刈る小屋       見学に集まった方々
  

 羊を飼っていた理由は、羊毛の着物が高価だったためとのこと。羊の原毛と毛糸を物々交換したそうです。この田布施か柳井に、羊の原毛を扱う業者があったのですね。ところで、羊の毛刈りを見学中、ずっと雨が降っていました。雨にも関わらず、たくさんの方々(10人以上)が見学にみえました。小学生もいました。

                   羊の毛を刈り取っている高校生達


 さて、羊の毛を刈り取る時は羊を寝かせなければなりません。羊の両足を持って、横に寝かせるように倒します。昔は手動バリカンでしたが、今は電動バリカンで毛を刈るようです。細かな場所の毛はハサミで刈ります。ただ、羊は寝転がるのを嫌がります。時々ピクピク動きます。そのため、滑らかに毛を刈るのは難しいようでした。なお、羊の国オーストラリアでは、年に一度毛刈りの大会があるようです。その作業は神業のようです。刈られた原毛を広げると、羊の形をしている絨毯のように見えます。

                仰向けにして羊の腹側をハサミで刈取り


 羊小屋にも行ってみました。雨が降っているにも関わらず、何頭かの羊は外にいました。羊の毛には脂分が付いているため、雨は浸みこまないようです。もこもこした毛の間に手を差し込むと、とても暖かいのです。羊の毛に保温効果があることが実感できます。生まれたばかりの子羊が、母羊のお乳を飲んでいました。

   羊を起こして、今度は首回りの毛刈り       毛刈りをし、そして見守る生徒達
  

 私はもともと動物が大好きなため、このような高校に進んでも良かったのではないかと思うことがあります。そもそも、我家は牛を30頭近く飼っている牧場を経営していました。父親は獣医になって欲しいようでした。迷った末に、電気の道へ進みました。もう昔には戻れません。牧場を継いでいたならば今どうなっていたのだろうと、自問することがあります。

    雨降る羊小屋連      羊小屋内の親子の羊      母羊の乳を飲む子羊
  

上関町 八島ウォーキングの下見(1/x)

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 5月にウォーキングする予定の八島へ下見に行ってきました。朝9:45に室積港に集合しました。子供の頃八島によく遊びに行ったことがあるMさんに、八島を案内していただくことにしました。Mさん、ありがとうございました。乗船券売場で乗船券(片道580円)を購入しました。しばらく待っていると、上関港から「かみのせき丸」がやってきました。船は、上関港を出港後、いったん室積港に寄り、そして八島港に向かいました。

乗船券(片道580円)を購入   かみのせき丸に乗船      八島に向かって進む船
  

 30分位かみのせき丸に乗っていました。平郡島に向かう船より小さいためか、だいぶ揺れが大きかったです。八島に着くと、下船して乗船券を渡しました。ところで、下船した方々の何人かは車に乗ってどこかに向かうようでした。何事かとお聞きすると、古浦の八島神社のお祭りとのことでした。年に一度の機会です。最初巡る予定にしていたお寺などを後にして、お祭りがある八島神社に急いで向かいました。

                八島港に着いた、かみのせき丸


 八島港から古浦の八島神社まで約4kmです。港からの一本道を休みなしに歩きました。日差しがとても強いため、登りの道をどんどん歩いていると猛烈に暑くなりました。そのため、途中で上着を1枚脱いで歩きました。初夏のような熱い一日でした。歩いていると、去年楽しくウォーキングした平郡島が北東側に見えてきました。

  かみのせき丸を下船    古浦の八島神社へ向かう    途中、八島港を振り返る
  

 やっとのことで八島神社に着きましたが、お祭りは終っていました。残念!お祭り後、皆さんにお話しをいくつかお聞きすることでできました。その一つが、かつてのお祭り時、古浦から戎ヶ浦に向かって、海上御神幸の船が仕立てられていた話です。かつてのそのお祭りの写真を見せていただきました。

お神酒をいただいた八島神社    八島神社の本殿   同級生S(旧姓)さんのお兄さん
  

 この八島神社に出席しておられた方の一人に、たまたま私は声を掛けました。なんと、その方は私の高校時代の同級生S(旧姓)さんのお兄さんでした。このお祭りに合わせて、八島に帰省していたそうです。本当に奇遇です。さらに、一緒に八島ウォーキングの下見に来たEさんは高校生時代にSさんの住む八島を訪ねたことがあるとの事でした。お兄さんはすぐに、妹のS(旧姓)さんに確認の連絡を取っていました。私は高校時代のS(旧姓)さんの記憶がわずかに残っていたため、とても嬉しく思いました。

               お祭りのあった八島神社の本殿前


 八島神社では、お神酒をいただきました。そして、本殿内を見学させていただきました。いろいろお話しを伺うと、かつては古浦にも人家があったようです。そして、八島神社の前にある海岸に古浦港があったそうです。今古浦港は、夏の間だけキャンプなどのために臨時船が出ているとのこと。

              上関町の室積港から八島へ至る航路


 歴史的に見ると、戦国時代が終わった江戸時代初期、海の流通などで生計をたてていた人々が瀬戸内海の島々に住み着き始めたようです。そして、寺を中心とした檀家として幕府の支配下に置かれました。それらの島の一つが八島ではないかと思われます。ちなみに、私の先祖は村上水軍の一派で、柳井市の伊保庄山近に住み着いたとの言い伝えがあります。

 八島神社を出ると、神社の鳥居前に広がる古浦の海岸に出て昼食休憩をとることにしました。

                 八島港から古浦の八島神社へ向かう(約4km)

上関町 八島ウォーキングの下見(2/3)

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 八島神社の石鳥居を出ると、古浦の美しい海岸が目に飛び込んできました。八島神社で時間をつぶしたため、与崎方面の先には行くことができません。その手前で、昼食休憩をとることにしました。涼しい海風,潮騒の心地良い響き,そして暖かい日差しに囲まれて、皆で談笑しながら楽しく食事をしました。

             古浦の砂浜から見た与崎方面の島、白砂がきれい


 去年行った平郡島も良かったのですが、古浦の海岸線もなかなかのものです。漂着物が多かったのは少しばかり残念ですが、それを補って余るほどの綺麗な海岸です。与崎の北端はさらに絶景なのではないかと想像できますが、今回のウォーキングでは行くことができません。来年以降の課題です。

  振り返って見た八島神社     古浦の砂浜を歩く      与崎の手前で食事
  

 ところで、これほど立派な神社が何故八島港から4kmも離れた場所に孤立してあるのか不思議です。お年寄りにはつらい移動距離です。かつてのお祭り時に八島神社から神輿船が数隻も出ていたことから類推すると、昔古浦にはそれなりの集落があったのではないでしょうか。八島はハワイへの移民がとても多かったそうです。この古浦からも移民した方が少なくなかったのではないでしょうか。その後、何らかの理由で古浦では民家が絶えたのかも知れません。そのいきさつを知っている方が、八島に今何人おられるでしょうか。

               古浦海岸側から、与崎方面の島を背に


 私の祖母はアメリカで生まれました。ところが、祖母の母親(私の曾祖母)が現地で亡くなったため子供の頃に日本に帰ってきたそうです。祖母の姉はそのままアメリカに残りましたが、戦時中に日系人として収容所に入れられたそうです。その後、祖母の姉の子供2人(姉妹)は今、アメリカ人として暮らしているとのこと。八島から移民された方々も、私の祖母と同様に幾多の困難があったはずです。

   島の緑,空の青,そして波しぶきの白がとても映えていた与崎方面の島並み

 食事を済ませると、古浦港に行ってみました。ここから、昼食休憩をとった場所や与崎方面の島並みが見えます。そして、その向こう側に平郡島がうっすらと見えました。島の新緑,空の青さ,そして波しぶきの白のコントラストがとても映えていました。今回は、下見とは言え天候に恵まれました。5月15日予定の八島ウォーキング本番も今回のような好天だと良いのですが。

  古浦からしばらく登り坂     しばらく歩くと下り坂      砂洲のお地蔵様群
  

 古浦海岸の景色を楽しむと、八島港まで歩いて戻りました。途中、お祭りから帰る方々(車に乗車)とすれ違いました。1時間程度歩くと、砂洲でお地蔵様群に寄りました。

                    下見ウォーキングした八島のコース


上関町 八島ウォーキングの下見(3/3)

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 八島の中央部(大島と小島の間)のくびれた場所にある砂洲に、八十八体のお地蔵様が安置されています。一番が大師堂にあり、二番以降八十八番までのお地蔵様が約5mの間隔で順番に並んでいるのです。お地蔵さんをよく見ると、それほど古くはなさそうです。碑文の年代を見ると、昭和初期に安置されたようです。

         八島(大島と小島の間)の砂洲に安置された八十八体のお地蔵様


 八十八と言うと、四国が有名です。しかし、昔はほとんどの方は、四国を巡礼できるような時間も費用もありません。八島は四国と近いとは言え、決して豊かではなかったであろう島民は気軽には行けません。そこで、昭和初期に島民が島内で気軽に行けるよう建立したのではないでしょうか。お地蔵様を順番に見ていると、ヘリポートがありました。緊急時に使われるのでしょう。

八十八ヶ所起点、お大師堂   平郡島五十谷海岸と三島   波に合わせ油石が転がる
  

 お地蔵様を見回っている時、ふと北東の方角を見ると平郡島がよく見えました。去年ウォーキングした五十谷海岸や三島が良くみえました。八十八体のお地蔵様を見終わると、八島港に戻りました。
 戻る途中、入江の長い海岸線でとても珍しい現象を見ることができました。それは、地元で油石と呼ばれる丸い石です。西風が吹くと湾の構造上、波が大きくなるようです。その大きな波が、無数の油石を転がす音がよく響くのです。ゴロゴロッと。永い間転がった結果、石が丸くなったようです。海岸線はほぼ同じ大きさの油石で埋め尽くされていました。ところで、何故油石と呼ぶのしょう?
  
   ひなびた蛭子神社      八島ふれあいセンター     川口健治ミニ絵画館
  

 八島港に戻ると、少し休憩しました。続いて、八島に来たからには川口健治生家に行くことにしました。そこで、八島ふれあいセンターに行って、生家を聞きました。すると、生家は買われて他家になっているため、見学できないとのこと。残念!その代わり、川口健治ミニ絵画館を紹介していただきました。その絵画館は、会社の保養施設でもあるとのことです。しばらくして、絵画館のドアを開けていただきました。そして、中を見せていただくことになりました。見学させていただき感謝します。

        浄慶寺の窓(車窓か額縁のよう)から見下ろした、八島の家並み


 川口健治の絵を鑑賞すると、今度は狭い道を登って浄福寺(浄土宗)に行きました。しかしながら、三,四年前に廃寺になったようです。庭は雑草で覆われ、本堂内は埃が積もっていました。本堂内の「平成二十三年宗祖法然八百年」の旗がむなしく感じられました。この八島は檀家が少なくなり、お寺を維持することが困難なのでしょう。続いて、浄慶寺(浄土真宗)に行きました。お寺の暖かいおもてなしで、本堂内や川口健治の襖絵を見学させていただきました。ありがとうございました。

           浄慶寺から小中学校跡地に向け、急な狭い下り坂を降りる


 浄慶寺を出ると、小中学校跡地に向かって、急な狭い下り坂を降りました。あまりにも急坂のため、濡れて苔むした曲がり角で転げそうになる方がいました。小中学校跡地には創立100周年記念1974年の記念石碑が建っていました。私が大学4年生の時のことです。次に、忠魂碑を見学後、今回八島を案内していただいたMさんの祖母宅を見て、港に向かいました。そして、船に乗りました。思いのほか波が高くて、船尾にいた私は水しぶきで足やお尻が濡れてしました。

 浄慶寺から小学校跡地へ     八島小中学校跡地       帰りの船に乗り込む
  

 今回のウォーキングは下見とは言え、天候に恵まれ、八島神社のお祭りに遭遇し、そのお祭りで同級生のお兄さんに出会い、島のいろいろな史跡を訪れることができ、島の暖かい方々に出会えたりと、本当に充実した下見ウォーキングでした。自然に恵まれたこの八島で生まれ育った方々はとても幸せだと思いました。そして、うらやましく思いました。5月24日の本番ウオーキングでは、今回の下見を元にさらに楽しいウォーキングになればと思います。今回の下見に参加された方々、お疲れ様でした。
 
                港近くから見た、美しい八島の入江


 今回の下見後、江戸時代後期の記録(風土注進案)を調べてみました。当時は古浦にも人家があったことが分かりました。平郡島に東と西の集落があるように、八島は南と北(古浦)に集落があったのですね。八島には当時(西暦1840年頃)家が164軒あり、人口は692人(男性346人,女性346人)でした。しかし、今の八島の人口はわずか19人とのこと、たくさんの方々が八島を巣立っていったのですね。
 その昔、八島に住む方々は、大豆,粟,黍,稗を栽培し、そして漁業などで生計を立てていたようです。八島神社のお祭りの謎も少し分かりました。お祭り時、古浦の八島神社から八島港(蛭子浦)の蛭子神社まで、飾りたてた神輿船が数船往復したようです。おそらく、古浦の集落と八島港(蛭子浦)集落の絆を深めるための祭りだったに違いありません。また、城山と呼ばれる地区に、城があったようで古戦場でもあったようです。弥生時代にも人が住んでいたようです。この八島には、深い歴史が刻まれていることが分かります。

           今回下見ウォーキングした、八島港周辺

今年もソラマメが開花、ソラマメの思い出

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 去年の11月末にソラマメを播種しました。3月初め頃に芽が出て、気が付いたら花が咲いていました。本当は、小さな時に芯を取れば良かったのですが、遅すぎました。昨日深夜は雨風が強かったので、大麦の一部は倒れてしまいました。しかし、ソラマメは丈夫に育ったのか、倒れていませんでした。よかった!

             昨日の雨風に倒れていなかったソラマメ


 子供の頃、ソラマメはあまり好きではありませんでした。ソラマメの豆を炒ったものが、おやつだったからです。とにかく硬いのです。口の中で何度もゴリゴリと咬まないと、砕けないのです。豆を咬んでいると、祖母が「いい音して咬んでいるねえ」と言ったことを思い出します。その頃、祖母は総入れ歯だったのです。硬い豆を咬んでいる私を、うらやましく思ったのでしょう。
 今の私の年代になると、入れ歯をしたり、差し歯をする方が少なくありありません。私は、この数年間歯医者に行ったことがありません。行ったとしても、歯垢を取る時くらいです。時々、あの硬かったソラマメを思い出します。さすがに今は炒ることはせず、もっぱらソラマメご飯にしています。

               綺麗に揃って咲いたソラマメの花

田布施町 生き生き大学 奇兵隊に関わる史跡巡り(1/2)

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 田布施町の、とあるお寺のご住職様が催されている生き生き大学から、奇兵隊に関わる史跡を巡る講師を依頼されました。郷土館の職員は月曜日お休みなのですが、町民サービスが大切な仕事であることを考えればお断りする理由はありません。講師を快くお引き受けしました。朝10時に介護老人保健施設そよかぜに集合しました。遠く岩国市から来られた方もいました。

 史跡巡りに使用したバス     冨永有隣顕彰碑        田村知義功徳碑
  

 最初、マイクロバスで行くのかと思っていたところ普通サイズのバスでした。私はバスの前方に乗って、運転者さんに進む道のアドバイスを所々でしました。最初に行ったのは、城南瓜迫にある冨永有隣顕彰碑です。ここで、吉田松陰と有隣の関わりや幕末時の有隣の行動などについて解説しました。続いて、城南宿井にある元奇兵隊員の田村知義功徳碑に行きました。明治初期、田村知義が初代の城南村村長になったことなどを説明しました。また、富永有燐とのエピソードなどについても説明しました。

  石城山山頂に到着     奇兵隊駐屯地跡に向かう    第二奇兵隊志士顕彰碑
し  

 続いて、光市の石城山に登りました。山頂にかつてあった神護寺に、室積の普賢寺が移ってきた第二奇兵隊が駐屯していました。当時山頂は西の高野山と言われたほどで、神護寺を中心に18もの宿坊や僧坊がありました。隊員は、その宿坊や僧坊に分かれて泊まっていたようです。明治初期の廃仏棄釈政策によって、石城山の神護寺は廃寺となり平生町に移っています。今、宿坊や僧坊は跡形も無くなり、それを示す木柱だけが寂しく立っています。

            石城山の次に駐屯した専福寺と第二奇兵隊駐屯碑


 続いて、第二奇兵隊が石城山の次に駐屯した専福寺に行きました。お寺に到着すると、岸信介書の第二奇兵隊駐屯碑の説明をしました。この周辺で当時の奇兵隊士は訓練をしたようです。近くの田畑で耕耘機を使って耕していると、当時訓練で発射した弾丸がロータリーの刃にカチカチと当たることがあるそうです。その時見つかった弾丸(ミニエー銃)の一部が、郷土館に保存されています。

   専福寺の本堂      奇兵隊員が使用した井戸    専福寺本堂に向かい合掌
  

 第二奇兵隊駐屯碑を説明すると、奇兵隊員が使用していた井戸に行きました。井戸は三つあり、専福寺側から、飲み水専用、食器などの洗い専用、そして馬を洗うための井戸専用と別れていました。奇兵隊の説明が終わると、このお寺と国木田独歩との関わりについて説明しました。次に、国木田独歩の波野英語塾跡と吉田菊之進顕彰碑を訪れる予定でしたが、お昼にさしかかったためやむなくスキップしました。そして、昼食をとる詩情公園に向かいました。

               奇兵隊緒隊に関わる史跡を巡ったコース

田布施町 生き生き大学 奇兵隊に関わる史跡巡り(2/2)

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 昼食は詩情公園でとりました。各人好きな場所に陣取ってのお昼休みです。私は一人階段に座って、配られたお弁当を食べました。ご馳走様でした。美味しかったです。
 食べていると、とても困ったことが起きました。それは、食べている私の周りに鳩が何羽か寄ってくるのです。その鳩たちの目を見ていると、御飯をくれそうな人かどうか人定めしているようなのです。鳩と目が合うと、どうしようかと迷ってしまいます。しかし、ぐっと我慢して何もやらないでいると、諦めたのか他の人の所へ飛んで行きました。たかが鳩ですが、鳩と私の目力勝負でした。

               鳩達に囲まれながら、楽しい昼食時間


 昼食時間は約30分でした。午後1時に再びバスに乗り込んで、次の史跡に行きました。行ったのは、円立寺です。この寺は元治元年にお坊さんたちが結成した奇兵隊緒隊の一つである僧練隊があった場所です。門の前に僧練隊の石碑が建っています。本堂は焼失してしまったため、今は新しい本堂が建っています。この円立寺に、柳井市の月性の親族が嫁いでいます。続いて、上関審判勘場跡に向かいました。

 昼食後、再びバスに乗車   円立寺の僧練隊石碑      上関審判勘場跡
  

 上関審判勘場跡にバスが着くと、門の前までみなさんと行きました。そして、審判勘場について説明しました。例えば、元々は四代にあり、続いて上関に移り、最後に麻郷米出に移ったことを説明しました。そして、現代の三権分立と代官制度の違いについても説明しました。また、米出や浜城がいかに江戸時代から明治にかけて発展していたか、そして発展した理由についても解説しました。

                国木田独歩の詩碑を見学している方々


 上関審判勘場跡を出ると、麻里府公民館に向かいました。公民館に着くと、国木田独歩の詩碑前に行きました。皆さんが揃うと、かつてはこの詩碑が馬島が目の前に見える海岸際に合ったことを説明しました。そして、国木田独歩の青春時代に大きな影響を与えた、麻里府での出来事などについてもお話をしました。
 そして、最後に麻里府海岸の砂浜に皆さんをご案内しました。砂浜に立って、海岸から見える馬島,牛島,祝島などを見ながら、幕末に起きた加徳丸事件について解説しました。今回のテーマが奇兵隊ですので、この加徳丸に関わった上関の義勇隊について、そのてん末を説明しました。、

  国木田独歩の詩碑      老健そよかぜに帰着       楽しく合唱後、解散
   

 麻里府公民館でバスに乗ると、一路麻里府中郷、西田布施国木などを経由して介護老人保健施設そよかぜに戻りました。途中、岸・佐藤両宰相の生家、そして正信寺を車窓から見ました。そよかぜに到着すると、お茶をなどをいただき一服しました。そして、歌を合唱して解散となりました。みなさんお疲れさまでした。
 帰り際、お土産をたくさんいただきました。私の母親の分までいただいて、本当に感謝いたします。帰宅後、母親に手渡すととても喜んでいました。ありがとうございました。

                奇兵隊緒隊に関わる史跡を巡ったコース

家内にタケノコ,タマネギなどを送る、各公民館に挨拶回り他

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 我家の竹林では今、タケノコがどんどん出ています。「雨後の竹の子」のたとえのとおり、次から次へと出ています。今回、小さなタケノコを選んで東京に住む家内へ送りました。去年の今頃にもタケノコを郵送しました。食べるタケノコは、なるべく小さなものが良いようです。竹林に行って地面を歩きながら、足裏に地下からコツンと当たるタケノコを探します。その周りの枯草を取り除くと、タケノコの頂頭が覗きます。そのタケノコを掘って新聞紙に包んで家内に郵送しました。その他のタケノコは不要なため、全て蹴り倒しました。

   枯草を除くと、タケノコが顔を出す        掘ったタケノコを新聞紙に包む
 

 タケノコを掘り終わると、次に去年の秋に苗を植え付けたタマネギを収穫しました。今の時期のタマネギは葉がまだ青々としています。玉もまだ大きくありません。しかし、今収穫したタマネギは、玉も葉も両方食べることができるのです。タマネギを畑から抜いた後、土で汚れた表面の皮を取ると、真っ白で美味しそうなタマネギになりました。

      抜いたばかりのタマネギ           新聞紙で包んで東京に送る
 

 次に、しいたけの収穫をしました。しいたけは、そろそろ収穫時期が終了です。はたして、少ししか収穫できませんでした。この春最後の生しいたけと、この冬に乾燥させた干ししいたけの両方を東京に送ることにしました。そして、タケノコのあくをとるための糠も一緒に送ることにしました。糠は平生町でもらってきました。

    左:生しいたけ,右:干ししいたけ          平生町でもらってきた糠
  

 東京に送るタケノコ,タマネギ,しいたけ,そして糠が揃ったため、段ボール箱にそれらを詰めました。段ボールが少しばかり大きかったため、隙間に新聞紙を丸めてギューギュー詰め込みました。箱詰めが終わると、紐で縛って宅急便で東京に送りました。明日の夕方着くとのことです。

          タケノコ,タマネギ,しいたけ,そして糠を詰め込んだ段ボール箱  


 午後は、中断していた田布施町各地の公民館や図書館への挨拶回りを再開しました。郷土館のパンフレットと名刺を携えての挨拶回りです。西田布施公民館を訪れた後、麻里府公民館に行く時に西田布施の国木を通りました。たまたま恩師のM先生宅脇を通っていると、先生の姿が見えました。寄って少しお話し伺いました。自作のカンナを見せていただいたり、戦時中の高射砲のモーターを見せていただいたり、工作部屋などを見させていただきました。ありがとうございました。
 次に、草刈り中だった元郷土館館長のNさん宅にも寄りました。その後、麻里府公民館に行ってM館長と談笑しました。これで、田布施町のすべての公民館にご挨拶をしました。今後は、光市や柳井市など遠方の史料館などにご挨拶に行きます。

               工作部屋前で、にこにこ顔の恩師M先生

古い松下製トランジスタラジオ AT-110の修理(3/x)

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 朝から大雨で外に出ることができません。ジャガイモの土寄せ、夏野菜用の畑作り、草刈りなど、しなければならない農作業は山のようにあります。しかし、雨が降っては何もできません。そのため久しぶりに、休んでいたトランジスタラジオの修理を再開しました。前回は、ラジオを構成する部品を調査しましたが、今回から修理に入ります。

  6V電源供給の定電圧器    6V電源をラジオに接続   イヤホンとSP切り替え端子
  

 まずは、ラジオの音が全く聞こえない故障の原因を調査しました。そこで最初、定電圧器から6Vをラジオに供給しました。そして、スピーカーに出力トランスから音声電流が来ているかをチェックしました。たまに、イヤホンとスピーカー(SP)切り替える端子の接続不良のためスピーカーに電流が来ていないことがあるためです。チェックの結果は、異常なしでした。

             故障したトランジスタラジオの裏蓋などを開いてチェック中


 続いて、これまた多い故障の一つである。電源スイッチをチェックしました。このラジオは音量兼電源スイッチです。そのため、音量つまみをよく確認しました。カチカチと何度もスイッチを入れたり切ったりしてみました。すると、あるタイミングでラジオに電源が入るではありませんか。音声が聞こえない故障原因の一つが分かりました。音量つまみの電源スイッチが汚れて導通していなかったのです。 そこで、このスイッチの接触部を掃除すると、電源が入りラジオが聞こえるようなりました。

       電源スイッチを切った状態               電源スイッチを入れた状態
 

 ラジオが鳴るようになったので、その受信範囲を調査しました。ラジオの裏蓋に張られていた規格を見ると、540~600kHzです。そこで、SGから標準電波を出してみました。すると、低い方は520kHzでした。高い方は1,670kHzでした。この範囲ならば、規格値を包含してるため問題ありません。ただ、雑音が大きいことと、やや音量が小さいので、次回さらに精査しようと思います。

   受信範囲の規格         低い方は520kHz       高い方は1,670kHz
  

春爛漫、白,黄,橙色のヒナゲシの花が咲き始める

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 秋に種まきをしたヒナゲシが咲き始めました。ヒナゲシは「けし粒」の例えのように種が極小です。普通の種のように、種をまいて土を被せることができません。土の上に種をパラパラ播いてそれでおしまいです。土を被せることをしません。雨が降って自然に薄く土がかかるだけで十分なのです。そして、これまた極小の芽が出ます。雑草に弱いため、周りに生える雑草を何度も取り除かなければなりません。

  白花のヒナゲシの花      黄花のヒナゲシの花     橙花のヒナゲシの花
  

 冬の間に何度も世話をして今、ようやく花が咲くようになりました。今年は、白色,黄色,そして橙色の花が咲きました。まだ咲き始めたばかりで、株元をよく見ると次々につぼみが立ち上がっています。一週間後頃、ヒナゲシ開花の最盛期を迎えそうです。薄紙のような花びらが風に揺れながら咲いている可憐な姿が、私はとても好きです。しばらくは、ヒナゲシの花を楽しめそうです。

             次々につぼみが立ち上がっているヒナゲシの花


古いレコードを聴きたく、古く埃だらけのCOLUMBIA製電蓄を修理

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 若い頃に買い集めたレコードを久しぶり(40年位ぶり)に聴きたくなりました。最初、プレーヤー,プリアンプ,メインアンプ,スピーカーを探しました。しかし、プリアンプだけがどこにあるか分からず、探し出せませんでした。そこで、埃をかぶったままの電蓄を探し出してきました。この装置は音は悪いですが、すべてが一体となっているのです。もっと小さな、テントウムシ型の電蓄もどこかにあったのですが見つかりませんでした。捨ててしまったのかもしれません。

   倉庫から探し出してきた、埃をかぶったままの電蓄、最初回らず、直しても音が変!


 探し出した電蓄の埃を綺麗にはらって、捨てることができずに永い間保管していたレコード(EP盤)を鳴らしてみました。しかし、ターンテーブルが回らないのです。これでは音は出ません。ターンテーブルを取り外して、モーターを覗いてみました。やはり軸が回っていませでした。指を突っ込んで軸を回すと、ゆるゆると回り始めました。ミシンオイルを軸にたらすと回転がやや滑らかになりました。ターンテーブルを元に位置に戻して、レコードを回して針を降ろしました。すると、音は出ましたが全体的に音が低いのです。つまり回転数が足りないのです。やれやれ!

    電蓄の底蓋を外す       内部の電子回路など     レコードを回すモーター
  

 そこで、電蓄の裏蓋を取り外して、電蓄を分解して内部を見ました。すると、音を増幅する電子回路部とレコードを回転させるモーター部がありました。モーター部をよく観察すると、モーターの回転を45回転/分にする軸が、33回転/分になっているではありませんか。この軸部分を取り外して、正常な位置に変更すれば解決できることに気が付きました。さっそく軸を固定するピンを外して、軸を正常な位置にしました。

      軸を固定するピンを外す            軸を正常な位置にしてピンで固定
 

 軸を直して電蓄の電源を入れました。すると、ターンテーブルがゴロゴロ言いながら回り始めました。次に、カートリッジの針をレコードにゆっくりと落としました。回転がわずかに遅いものの、正常な音調の音楽を聞くことができました。LP盤も再生できました。
 これで、永い間保管していたレコードを聴くことができるようになりました。しかし、この電蓄は外部端子が無いため、録音装置につなぐことができません。音は悪いものの、しばらくはこの電蓄でレコードを聴こうと思います。

   ターンテーブルを戻す         回転数変更つまみ        LP盤もOK
  

田布施町 楽しかった、お遍路ウォーキング 24km

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 先月下見ウォーキングしたお遍路道をウォーキングをしました。ところで、スタートする直前に驚いたことがありました。集合場所に行く直前にセブンイレブンに寄ったのです。お昼のお弁当を買うためです。この時、ある方から声をかけられました。その方はなんと、保育園時代にアイドルだったFちゃんでした。嬉しいような恥ずかしいような、60年ぶり位の再会といったところでしょうか、とても驚きました。幸先の良い、一日のスタートでした。

 田布施町交流館をスタート    第一番札所観音堂      五人力の清三郎の石
  

 さて、今回歩くお遍路道は、数年前まで千坊山光福寺のご住職に先導されて巡礼していた南平和お遍路の道として使われていました。ここ20年位は、巡礼者の高齢化に伴って車を使って巡礼していました。さらにその昔は、ご住職の先代が先導して巡礼していたとのこと。

 左:浮島神社,右;新川寮    三宅薬師堂跡を出発     尾迫観音堂に到着
  

 朝、7時半に12名が田布施町交流館をスタートしました。最初に向かったのは、関戸橋袂にある第一番札所観音堂です。お地蔵様は仮安置されており、建物を再建することになっているそうです。次に田布施川を歩きながら、田布施川の成り立ちや流れの変遷について皆さんに解説しました。そして、川添橋を渡った場所にある堰堤記念石碑について説明しました。特に、五人力の清三郎伝説と関係がある石について詳しく説明しました。続いて、第二番札所新川寮に行きました。

            第四番札所尾迫観音堂に安置されたお地蔵様


 第二番札所新川寮に着くと、この寮にかつて尼さんがいたことなどを説明しました。次に、巡礼とは直接関係ないのですが、隣りにある浮島神社に行きました。そして、江良碧松に関わる句碑,自由律俳句,一夜会などについて説明しました。浮島神社を出ると、しばらく歩いて第三番札所だった三宅薬師堂跡に行きました。三宅薬師堂は昨年の冬、維持困難とのことで撤去されました。お地蔵様は千坊山光福寺に預けられています。続いて尾迫観音堂に行きました。

  奈良台川を上流に      竹重西遊寺のお地蔵様     歴代尼さんの墓地
  

 尾迫観音堂に到着直前、小中高等学校時代の同級生T君に偶然出会いました。高校卒業後45年ぶりの再会でした。少しばかり談笑した後、第四番札所である尾迫観音堂に行きました。地元の方が月に一度この観音堂に集まって活動しているとのことでした。建物が、とても綺麗に維持されていました。撤去される直前の、朽ちた三宅薬師堂と対象的です。

               南平和霊場第五番札所の竹重西遊寺


 次に、奈良台川を上流に歩き、第五番札所の竹重西遊寺に向かいました。到着するとTさんが、ドアを開けて待っていました。そして、お接待をいただきました。ありがとうございました。西遊寺内には、立派なお地蔵様が安置されています。西遊寺は今、西竹重の集会所としても使われています。西遊寺の西隣には、歴代の尼さんの墓地があります。 続いて、巡礼とは関係がないのですが、近くにある奈良の大岩(熊毛王国 謎の大岩)に向かいました。

                              南平和霊場お遍路ルート ※番号はお札所番号

ジャガイモの芽欠きと土寄せ、小麦の土寄せ

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 このところ農作業が全体的に遅れています。午後、3月に種芋を植えたジャガイモの芽欠きと土寄せをしました。そして、小麦の株元に土寄せをしました。最初にジャガイモの芽欠きをしました。8本位も芽が出ている株がありました。小粒なジャガイモを多く収穫したいのであれば、芽が多いほうが良いのです。しかし、私は大粒のジャガイモが好きですので、1株が2または3本になるようにジャガイモの芽を欠きました。なお、欠いた芽を捨てないで植えておくと、これまたジャガイモができます。

  ジャガイモの芽を欠いているEさん       芽を欠いて3本にした株
 

 ところで、一列のジャガイモは切った種芋をひっくり返して植えました。そのため、わずかに芽が小さいです。しかし、成長するにつれて差は無くなると思います。さて、ジャガイモの芽を欠き終ると、ジャガイモの株に土寄せをしました。これは、できたジャガイモが日に当たって緑化しないためです。緑化するとソラニンと呼ばれる毒が生成されるのを妨げるためです。ジャガイモの周りを耕運機で耕した後、三本クワを使って土寄せをしました。

             ジャガイモの土寄せをするEさんとAさん


 ところで、EさんとAさんがジャガイモの芽欠きと土寄せをしている間、小麦の土寄せをしました。去年は3月に土寄せしたのですが、今年は大幅に遅れてしまいました。ジャガイモの周りを耕耘し終わると、耕運機の抵抗棒を培土器に取り替えました。そして、小麦の土寄せ作業を始めました。なお、培土器は耕耘機が耕耘した土を両サイドに寄せる器具です。

 抵抗棒を培土器に交換    小麦の畝間を土寄せ     土寄せが終わった麦間
  

 私は小麦の畝間を90cmにしています。ところが、場所によって85cm位になっている場所があるようです。そんな畝間は、耕耘機のロータリーが小麦の株元を少しばかり耕して倒してしまいました。倒された小麦は枯れてしまうため、もう収穫できません。収穫の総量にはそれほど影響しない量だと思いますが、せっかく育てた小麦の一部が無駄になるのは残念です。来年は小麦の株間を95cmにすると良いかも知れません。
 今回、ジャガイモの芽欠き・土寄せ、そして小麦畑の草刈りを手伝っていただいたEさんとAさんご夫妻、ありがとうございました。

             小麦の畝間を、耕耘土寄せ中の耕耘機

田布施町 楽しかった、お遍路ウォーキング 24km(2/3)

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 大岩は巡礼ルートに含まれていません。竹重の西遊寺から北側を迂回するように300m位歩くと大岩に対面します。初めて大岩を見た方は、その大きさと形にびっくりしていました。大岩の前で、大岩に関する科学的根拠や奈良地区の伝説などを皆さんに説明しました。

               竹重の西遊寺の次に訪れた大岩


 大岩を触りながら周りを一周した後、次の札所である西法寺に向かいました。途中、幹線道路脇に立っている「熊毛王国 謎の大岩」の立て看板を通り過ぎました。ついでに、その立て看板横に安置されたお地蔵様を拝みました。この幹線道は、車が多い上にスピードが比較的出るため、中止深く道を渡りました。

 大岩を一周、次の札所に    立て看板横のお地蔵様    もうすぐ奈良の西法寺
  

 第六番札所である奈良の西法寺は、とても特徴的な建物です。この建物は、地元に住む棟梁指導の元に、地元の方々が協力して再建したそうです。そのため、手作り感あふれる西法寺なのです。地元の方が協力して再建している写真が展示してあります。そして、春に地元の方々が集まって、花祭りをしている写真が展示してありました。

    第六番札所 奈良の西法寺        第七番札所 井神の長福寺
 

 西法寺を出ると、次の札所に向かいました。この頃になると、予定より30分程度遅れが出てきました。説明が長かったのか、各札所で時間をとってしまったのが原因かも知れません。第七番札所である長福寺に着いた後、予定では高松八幡宮でトイレ休憩を取る予定でした。しかし、トイレ休憩を希望する方が無かったため、すぐに麻郷から麻里府に向かって山越えすることにしました。昨日雨が降ったため、谷筋には小川が流れていました。

             伊佐里峠に向かって、山道をもくもとと歩く


 麻郷側から伊佐里峠までは、距離は短いのですが登りが急です。一方伊佐里峠から麻里府大泉寺までは、距離は長いのですが緩い下りですので快適に歩くことができます。伊佐里峠に到着すると、立ったまま休憩しました。このとき、川添橋傍で見た石碑の話「五人力の清三郎」の伝説の話をしました。伝説では、この伊佐里峠に休憩用として置かれていた石を、茶屋のお婆さんに言われて清三郎が川添まで運んだとか。

 伊佐里峠に到着、休憩     森林浴しながら歩く    伊佐里峠の古道を抜ける
  

 第七番札所の長福寺から大泉寺まで、約1時間で山越えしました。私は、何度もこの伊佐里峠を通っているため、意外にすいすいと峠を越えることができました。大泉寺横の幹線道に抜けましたが、大泉寺は後にして先に第八番札所である上組薬師堂に行きました。

                            南平和霊場お遍路ルート ※番号はお札所番号

田布施町 楽しかった、お遍路ウォーキング 24km(3/3)

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 伊佐里峠を抜けると、大泉寺脇を通り舗装道路に出ます。すぐに、次の札所である上組薬師堂に行きました。先日歩きやすいように草刈りしていたため、楽に薬師堂に着くことができました。地元の方が薬師堂を掃除したようです。建物内部が綺麗になっていました。草刈りして道を歩きやすくしたり、倒れた竹などを撤去して良かったです。

      第八番札所の上組薬師堂            第九番札所の大泉寺
 

 上組薬師堂を見学すると、伊保木と麻里府の往還古道を通って第九番札所である大泉寺へ行きました。到着後ご住職にご挨拶しようとしましたが、あいにくご不在でした。ご住職に事前にご了解いただたとおり、大泉寺で昼食休憩をしました。
 ところで、昼食休憩中に私のズボンにダニが食いついているのをEさんが偶然見つけました。ズボンから叩き落とそうとしましたが外れません。ライターを待って来ていたため、そのダニを軽く焼きました。すると、ポロンと取れました。山の中を歩いた時に食いついたようです。危ない、危ない!ダニが早めに見つかって良かったです

         大泉寺で昼食休憩、この時ダニに食いつかれているのを発見


 大泉寺まで来ると、このお遍路コースの約半分を踏破したことになります。休憩が終わると、お遍路ウォーキング後半の始まりです。ここまで来ると、やや足が重たく感じましたが歩き通すしかありません。次に、麻里府中郷を歩いて第十番札所である八幡田地蔵尊に行きました。江戸時代、亡くなった息子を弔うため安置されたお地蔵様です。

    麻里府中郷を散策     第十番札所八幡田地蔵尊    麻里府海岸の堤防
  

 第十番札所八幡田地蔵尊を見学し終わると、麻里府小学校跡地前を通って尾津に行きました。そして、麻里府海岸の砂浜を歩きました。馬島,祝島,馬島などを横目で見ながら歩きました。そして、麻里府公民館横を通って国道188号線の歩道に出ました。そして、麻郷の戎ヶ下に向かいました。

     麻里府海岸の砂浜を散策             第十一番札所戎ヶ下大師堂
 

 国道188号線をしばらく歩くと、第十一番札所である戎ヶ下大師堂へ向かう脇道に入りました。その脇道を少しばかり登ると、第十一番札所戎ヶ下大師堂に着きます。戎ヶ下大師堂は、昭和20年代に国道188号線工事のため今の場所に移転しました。移転前はもう少し戎ヶ下界隈に近い場所にあったようです。しかし、移転後の今の場所は、国道をまたがなければならないため、やや巡礼に不便です。

    第十一番札所戎ヶ下大師堂で思いがけなくお接待をいただく。感謝!


 戎ヶ下大師堂では、思いがけなくお接待をいただきました。ありがとうございました。戎ヶ下を出ると、次に第十二番札所大日如来にいきました。かつては、近くの教念寺に札所があったのではないでしょうか。教念寺は今は廃寺となっており、今は竹藪だけが残っています。続いて、第十三番札所である千光寺に向かいました。着くと、少しばかり座って休憩しました。

  第十三番札所千光寺    第十四番札所鳥越大師堂       人島橋跡地蔵尊
  

 次に最後の第十四番札所の鳥越大師堂跡に行きました。この鳥越大師堂は、地元では「こつり地蔵」と呼ばれていました。せきが止まらない、かぜがなかなか直らない時、このこつり地蔵尊に行きました。そして、お地蔵様が羽織ったよだれ掛けを持って帰るのです。そして、せきが収まったら、直ったお礼に新しいよだれ掛けを作ってお供えするのです。たくさんのよだれ掛けがこつり地蔵に納めてあったようです。
 続いて、八海公会堂横のお地蔵様をお参りしました。続いて、かつて架けられていた人島橋袂のお地蔵様もお参りしました。それが済むと、あとは出発地点の田布施交流館に田布施川の堤防を2km位どんどん上流に向かって歩きました。そして、17時頃に到着しました。歩いた総距離は約24kmでした。今回はお遍路ウォーキングとのことで、長い距離を歩きました。参加された方々大変お疲れ様でした。来月は、上関町の八島を歩きます。海沿いの長い砂浜を歩くなど、海の自然を満喫できる8km位のウォーキングです。

         南平和霊場お遍路ルート ※番号はお札所番号

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