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Channel: 東京里山農業日誌
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柳井市 余田と新庄南部のウォーキングルートを調査

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 来月は東田布施公民館から柳井市の余田新庄方面をウォーキングする予定でいます。しかし、雨ばかりの日々でなかなか下見の予定が立ちません。雨が切れた瞬間を見計らってバイクでざって走ってみました。帰り道、新庄から余田の間にある広大な田んぼは水浸しで田んぼと川の境が分からないほどで、まるで湖のようでした。思ったような調査ができませんでした。

 中村林道入口の地蔵様     中村林道終点のお堂     お堂内部のお地蔵様
  

 まずは、極楽寺跡近くから中村林道に入ってみました。入口近くにはお地蔵様があります。中村林道内は、ここ数日間の雨のため湿っており、濡れた落ち葉でバイクが何度かスリップしました。また、数か所で竹が道に倒れ込んでおり、その竹を押しのけながら通りました。赤子山ウォーキング時に通った道を確認した後、中村林道終端に行きました。

  臥竜梅近くのアジサイ     溜池正面の祠      ヒシでいっぱいの溜池
  

 中村林道終端は中村地区です。林道終端にお堂が一つあり、中にお地蔵様が安置されています。地元の方々がお守りしているのでしょう。近くに墓地があります。続いて、溜池前にある祠前を通って柳井方面に進みました。ただし、舗装されていない道のため、これまたバイクがツルツルとスリップして困りました。

      土穂石川,田んぼ,そして道の境が分からず、まるで湖のよう


 次に、目的地の一つである臥竜梅に向かいました。今の時期梅は咲いていませんでしたが、その途中の道にアジサイがたくさん咲いていました。アジサイの花を愛でるウォーキングになりそうです。
 続いて、新庄から余田の間に広がる広大の田んぼを通りました。ウォーキングの帰り道を確認するためです。しかし、このところの大雨で田んぼ,土穂石川,道の境が分からないほど水浸しでした。まるで、新庄と余田の間に湖が広がっているような光景でした。いくつかのルートを迂回しながら通りました。

            笹藪の中に埋もれた七体の地蔵尊、


 最後に七地蔵尊を訪れました。ここ数年下草を刈っていないためか、笹藪を押しのけないと行くことができません。本番ウォーキングで行くことは無理のようでした。いつも通っている石橋を渡って灸川を渡ろうと思っていたところ、石橋は通行止めとなっていました。やれやれ困った。もう一つある石橋は渡ることができることを確認しました。良かった。しかしながら、さんざんなウォーキングコース調査でした。
 
       雨で散々だった、余田~新庄ウォーキングコース調査


雨の中、早生桃の収穫を始める

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 午前中は曇っていたのに、午後は雨になりました。農作業でもしようかと思っていたのに残念です。農作業ができない代わりに畑や果樹園を回りました。先日袋をかけた桃のうち早生桃は収穫できる時期です。早生桃の袋を触ってみると、いくつかは柔らくなっていました。つまり収穫適期です。

    雨に打たれる果樹(桃)        袋がうっすらとピンク色
 

 このところ雨ばかり降るため、桃は成熟していないだろうと思っていました。しかし、袋から透けて見える桃は薄赤色に染まっています。そして、指でつまんでみた感触も成熟していることを示しています。袋を破ってみると、美味しそうな桃が顔を出しました。天候が良くないためか、例年よりは小ぶりです。

    袋を破ると薄赤色の桃が        やや小ぶりですが美味しそう
 

 我家で作っている桃は二種類です。今回成熟していた早生桃と、もうしばらくした後に成熟する晩生桃です。後者の方が実が大きく甘さも別格です。ただ、落下する実が多いため、そんなにたくさんは収穫できません。小ぶりで数多く収穫できる早生桃と、少ないものの甘く大型の晩生桃です。今しばらくは早生桃の収穫が続きます。

          収穫した早生桃二つ、小ぶりですが美味しそうな色

冬キャベツの幼苗をポットに植え替え

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 このところの雨続きで予定が立ちません。一番困っているのはウォーキングです。下見を計画しては中止の連続です。困ったことです。次に困っているのは農作業です。草刈りや収穫がが全くできません。
 今回は晩夏に植え付ける予定のキャベツの苗を、ポットに植え替える作業をしました。春キャベツは苗を購入しましたが、秋冬キャベツは毎年ではありませんが苗を自給しています。ただ、我家だけでの消費のためそれほど多くは作りません。

  種をまいた植木鉢       幼苗をボットに    しっかりとボットに移植
  

 2週間位前に植木鉢にキャベツの種をまきました。比較的大型になるキャベツの種です。植木鉢にはキャベツ以外の苗も育てています。その植木鉢で育った小さなキャベツ苗だけ取り出して、ポットに植え替えしました。1ヶ月後頃にキャベツ用の畝を作り、今回植え替えた苗を、畝に植え付けます。予定では11月か12月に美味しいキャベツが収穫できるはずです。美味しいキャベツは収穫できるでしょうか。

             今回植え替えた16本のキャベツ苗

裏山に進出してきた竹を伐採、竹から見た生存競争

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  なかなか梅雨が明けず、雨降りの毎日です。しかし、雨だからと言って家にこもってばかりはいられません。仕事場の郷土館に出かけてみたり、買い物に行ったり、雨でもできる農作業をたんたんとしています。今回、裏山斜面に進出してきた若い竹を伐採しました。去年までは竹が生えていなかったのに、いつの間にか竹が進出してきていたのです。気が付くのが遅れてしまいました。竹の子のうちに倒しておけば良かったのですが。

          裏山の斜面のあちこちに生えていた若い竹


 小雨が降る裏山の斜面に行き、ノコギリで次々に若い竹を伐採しました。今年生えた若い竹ですので、なんなく切ることができました。このまま放置していると、竹は硬くなってノコギリでも切りずらくなります。早いうちに切るに限ります。伐採した竹はこのまま放置して枯らします。そして、秋か冬に燃やすつもりです。なお、伐採中に蚊の大群に襲われてあちこちを刺されました。

  ノコギリを入れる      簡単に節を切断      次々に竹を伐採
  

 裏山斜面に竹の進出を許してしまったのには理由があります。去年、裏山の尾根にたくさんの竹が向こう側から進出してきました。しかし、その竹をそのまま放置して生えるままにしてしまったのです。それが良くなかったようです。今年は、尾根を越えて我家側の斜面に進出してきたのです。いい場所があると、竹が思ったのでしょう。

       裏山の尾根道に生えたたくさんの竹、この竹も残らず伐採


 ところで、進出してきた竹をよく観察すると、必ずしも進出に成功した竹ばかりではないことに気が付きます。竹の子のまま枯れたり、伸びた竹の子が曲がって枯れたり、伸びたまま枯れている竹の子がいくつありました。なぜ、これらの竹の子は枯れてしまったのでしょうか。

        まだ皮をかぶっている竹の子、もうすぐ竹に、でも伐採


 これらの竹の子は、人に例えるといわば冒険者なのでしょう。良い場所に出た竹の子だけが生き残っているようです。まるで、人間が新天地を求めて冒険しているのに似ているのです。竹に限らずすべての生き物は、常に勢力拡大を試みながら生きています。枯れた竹の子や生き残った竹の子を見ていると、生存競争や適者生存の厳しい現実を見る思いです。
 生き物としての人はどうなのでしょう。かけっこで一位を取りたい、いい学校に入りたい、いい会社に就職したい、良い伴侶と巡り合いたい、お金持ちになりたい、リーダーになりたい、人々の注目を浴びたい・・・・などの業は、生き物としての生存競争の現れではないかと思います。

   竹の子のまま枯死      途中で曲がり枯死     竹の子の上が枯死
  

子供工作用の小型ICラジオの試作(4/x) バーアンテナの試作

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 秋に作る予定のICラジオの試作を続けています。バーアンテナを購入すると、それだけで300円もします。とにかくバーアンテナだけでも安価(20円で)に作ることを命題にしています。そのため、バーアンテナを子供に作ってもらう予定です。今回はバーアンテナをどう作らせるか試作してみました。材料は径0.2mmのエナメル線とフェライトコアです。小型にするため超小型フェライトコアを使います。

       バーアンテナを作るための材料、コイルとフェライトコア


 前回の試作で、IC(UTC7642)入力には同調コイルの中間タップが選択性で良いことが分かりました。そのため、コイルには中間タップを付けます。まず、コイルの巻き始めがほどけないように、コイルをフェライトコアに括り付けました。そして、ホットボンドで巻き始めを固定しました。

 コイルとフェライトコア    コイルの捲き始め    ホットボンドで固定
  

 捲き始めから10回巻いて中間タップを取りました。ところで、とても小さなフェライトコアのため、子供であれば摘むことができるでしょうが、大人の私が摘むことは困難でした。おまけにフェライトコアはツルツルするので、コイルが巻きにくくて困りました。購入すれば300円するところを自作すれば20円で済むのですから、我慢して巻くしかありません。

中間タップにホットボンド   中間タップを取り出す     残り100回巻いて終了
  

 続いて、取り出した中間タップをホットボンドで固定しました。そして、もう100回コイルを巻きました。巻終わりはやはりホットボンドで固定しました。これで、バーアンテナコイルの制作終了です。けっこう細かい作業で目も指先も疲れます。次に、このバーアンテをラジオとして組み込みます。ラジオ放送局をちゃんと拾ってくれるでしょうか。

         やっとこさ手巻きで制作したバーアンテナ
     A:バリコンへ,B:中間タップ(IC入力側に),C:アース

田布施町郷土館 資料倉庫を除湿するも

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  先日田布施町郷土館は棚卸をしました。その結果、傷みが見られた衣類などがありました。資料にとって、大敵の筆頭は湿度です。予算が十分ある資料館や博物館などでは、湿度や温度が管理された倉庫で資料を保管しているそうです。我が郷土館は、せめて湿度だけでも管理しようと倉庫内に除湿器を導入しました。

  開館時の湿度75%      市販の除湿器       別の倉庫にも除湿器
  

 今の季節は、保管資料にとって大敵の梅雨です。建物内にいると、なんとなく湿気を感じます。さて、郷土館開館時8:30の倉庫内の湿度は75パーセントでした。結構な湿度です。除湿器は閉館する5:00までスイッチを入れたままにしておきます。閉館後から次の開館時までの夜はスイッチを切ったままです。開館中の8時間で、どの位湿気が取れるでしょうか。

           棚卸が済んで、綺麗に並んだ各種資料


 閉館時午後5時に除湿器に溜まった水を計測してみました。すると、1部屋1.9Lの水が溜まっていました。1部屋は4畳半よりも狭いのです。しかも、湿度は75%から69%にしか下がっていませんでした。まだまだ除湿器に頑張ってもらわなければなりません。
 ところで、昨日も除湿したのですが、朝になると湿度が75%に戻っているのです。資料内に含まれる湿気が夜な夜な出てくるのか、又は隙間から湿気が入って来るのかも知れません。後者ならば対策が必要です。これからしばらく除湿を続けていれば、どちらが原因か分かると思います。

     湿度が75%から69%に       除湿して溜まった水1.9L
 

柳井市 楽しかった阿月史跡巡りウォーキング(1/x)

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 とても暑い一日でした。この猛暑中、柳井市阿月の史跡を巡るウォーキングをしました。先々週の予定が雨天だったため、今日に延期したウォーキングでした。今回も天候が悪くて中止するかも知れないと思っていたらまさかの猛暑でした。田布施交流館に集合する前にコンビニで、いつもより多めの清涼飲料水を購入しました。いつもは0.5L入りですが、今回は1L入りの清涼飲料水を購入しました。 

  出発は阿月出張所    最初、合中地蔵堂        続いて克己堂
  

 下見で決めた順に、阿月の史跡をウォーキングしました。最初は合中地蔵堂です。続いて秋良貞温生誕地を訪れ、次に旧阿月小学校前の克己堂を訪れました。そこで、克己堂出身の世良修蔵や赤根武人など明治維新に活躍した人々を解説をしました。浦靭負の話もしました。

           地元の方々が清掃をしていた西神明宮


 克己堂を過ぎると、西神明宮に行きました。すると、地元の方々がたくさん集まって整理整頓をしておられました。挨拶をすると、思いがけずお接待をいただきました。ありがとうございました。今日は、東神明宮でも集まっておられるのでしょう。願成寺をスキップして、次に赤崎神社に行きました。長い石段を登りました。下見時には下草がたくさん生えていましたが、綺麗に刈られていました。

 西神明宮に集まった方々   赤崎神社の石段を登る    木漏れ日の赤崎神社
  

 長い石段を息つきしながら登りました。しばらくして赤崎神社に到着しました。しばらくの間、息を整えるため立ったまま休憩しました。次に、赤崎神社傍にある戦没者慰霊碑に行きました。慰霊碑の裏には戦争で亡くなった方々の名前が刻んでありました。続いて、バイパスの舗装道路に行きました。

  立ったまま休憩       バイパス道路に下る    赤根武人墓地に向かう
  

 バイパスの舗装道路に出ると、猛暑に疲れた方々は日陰で待機しました。そして、私を含めて5人は急坂を赤根武人墓地に向かいました。240mの上りを、ハーハー言いながら我慢登山です。直射日光が突き刺さるように当たります。上り坂の途中で振り返ると、阿月の絶景が見えました。これから行く阿月中学校跡地や砂浜が見えました。遠くには、紺碧の海とその向こうに周防大島が見えました。

        赤根武人墓地に向かう急登から振り返った阿月

柳井市 楽しかった阿月史跡巡りウォーキング(2/x)

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  急な坂をハーハー言いながら登り切ると、笹が生い茂る木陰の道に入りました。そして、しばらく登り続けると目的地の赤根武人の墓地に到着しました。赤根はもともとは医者の息子だったそうで、武家となるため赤根家に武家養子になりました。晴れて侍となった赤根は月性,吉田松陰,そして梅田雲浜に学びます。吉田松陰と梅田雲浜はともに安政の大獄で亡くなりました。

             赤根家墓所にある赤根武人墓石


 赤根武人は松下村塾で優秀だったようで、吉田松陰に加え梅田雲浜にも仕えました。安政の大獄時に雲浜の身の回りの世話をしたようです。ところで、同じ松下村塾内でも萩出身の塾生と、周防出身の塾生とは何か肌が合わないところがあったのではないでしょうか。赤根も世良も、毛利に仕える浦家の家臣だったからかも知れません。身分制度が強かった当時、どこか合わない空気があったのかも知れません。

    赤根武人墓所近くからの風景     〇は、赤根武人墓所に向かう上り坂
 

 赤根は清廉潔白で理の人だったのではないかと私は思います。高杉晋作のような無謀な生き方が理解できなかったのではないかと思います。幕末当時の軍事力などから判断して第一次長州征伐のように、第二次長州征伐でも敗北は必至の状況でした。奇兵隊の総監にまでなりながら、その時の判断ミスが命取りになったと思います。
 しかし、当時の状況ではとうてい長州藩が勝つとは思えなかったと思います。高杉晋作の無謀とも思える回天義挙、徳川家茂の死など想定外の事態が続きました。そして長州藩が勝ちました。理よりも勢いが勝ってしまったのです。その時、赤根武人の出番は永久に無くなりました。

     地元の方が手入れされているのでしょう、とても綺麗な阿月の砂浜


 私は、赤根武人こそ明治政府に必要な人だったのではないかと思っています。常識的な理の考えを持っており、高杉晋作のように狂信的とも言える考えはありません。立派な明治政府の一員になったのではないかと悔やまれます。
 去年、赤根武人に連なる方々にお会いしました。未だに靖国神社に祀られておらず、名誉回復がなされていないことが残念とのこと。名誉回復ができない原因は山縣有朋なのですが、赤根武人から奇兵隊を引き継いだ山縣有朋にとって、赤根を一生許せない何かがあったに違いありません。元々赤根の部下だった山形、赤根の奇兵隊時の戦歴を抹消したとの逸話が残っています。よほど、赤根が憎かったのでしょう。

   世良修蔵屋敷跡     往還道の地蔵尊         般若堂
た  

 赤根武人墓所を出ると、阿月中学校跡地を見学後、阿月の砂浜を歩きました。そして、世良修蔵屋敷跡、往還道のお地蔵様、般若堂、阿月漁港入口のお地蔵様、阿月漁港内のお地蔵様などを見学しながら楽しくウォーキングしました。次に、赤根武人屋敷跡やスキップした願成寺に行きました。

       阿月漁港と漁港内のお地蔵様(恵比寿様)を見学


熱中症警告のための機器を購入するも、困った!

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 梅雨明け宣言はまだなのに、猛烈に暑い日々が続いています。最近私の近くに住む方の一人が、夜中に熱中症になったとのこと。頭が痛くなり、吐き気があったそうです。涼しい所でじっとしていると、朝までには治ったそうです。同級生にも熱中症になった人がいます。私も心配になり、このさい熱中症警告のための機器を購入しました。

 熱中症警告機器        単3電池を挿入      表のシールをはがす
  

 近所のDIYのお店に行くと、温度計のコーナーに同じような機器がならんでいました。そのうちの一つを購入しました。熱中症になりやすい気温や湿度になると、光ったり警告音が出ます。見えやすい位置に取り付けました。ところが、いきなり警告音が鳴り響きました。うるさいのでスイッチを切ってしまいました。やれやれ、私のパソコンルーム兼工作ルームにはエアコンがないのです。自然の風と扇風機だけがたよりなのです。困った!

  見えやすい位置に取り付けた熱中症警告機器、顔の表情,警告音,光

柳井市 楽しかった阿月史跡巡りウォーキング(3/4)

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 日曜日のため、阿月出張所のトイレは使えません。そのため、トイレがある阿月漁港に行きました。ここで少しばかりトイレ休憩しました。この頃からさらに日が高く昇り、より暑くなりました。阿月漁港を出ると、海岸沿いにある大岩を横切り、赤根武人屋敷跡を見学しました。

 阿月漁港近くの大岩      赤根武人屋敷跡      願成寺の石垣
  

 ところで、赤根武人には一粒種の娘が一人いました。その一人娘に連なる親族が今でもいます。その親族には、赤根武人の話が代々伝わっているのではないかと思います。私が知っている範囲では、赤根武人に連なる家系は、現在三つあるようです。一つ目は赤根が武家養子に入る前の桂島松崎家。その子孫の方は四国松山市におられるそうです。二つ目は赤根の一粒種の娘の家系。武人がいったん養子に入った中富家(本家)を継いだようです。三つは赤根武人の弟の家系です。去年の秋、千葉県におられる武人の弟に連なる方にお会いしました。

          下見では見ることができなかった願成寺本堂


 赤根武人屋敷跡を過ぎると、スキップした願成寺に向かいました。ところで、願成寺でご住職と息子さん(小学6年生)に会いました。実はご住職と息子さんは、西神明宮で整理整頓をしていたそうです。偶然にも西神明宮から願成寺に帰る途中に、我々と出会ったのです。そして、ラッキーにも願成寺の本堂内を見学させていただきました。ありがとうございました。

   願成寺本堂内      愛宕社・疫神社の丘    左愛宕社・右疫神社
  

 願成寺のご住職のお話によると、かつては真言宗だったそうで、今は浄土宗とのこと。真言宗時代のお大師様を見せていただきました。浄土宗なのにどうして防陽八十八箇所霊場巡礼地の一つだったかの理由がこれで分かりました。なお、阿月での防陽霊場は十二番無動寺,十三番青木観音堂,十四番岩休寺,十五番合中地蔵堂,十六番願成寺、そして十七番般若院へと続きます。

             愛宕社・疫神社の丘にて


 願成寺本堂を見学すると、石風呂に行きました。そして、いったんバイパス道路に出て愛宕社・疫神社の丘に行きました。両社の説明を終えると、丘の木陰で昼食休憩をしました。日陰で涼しい風が吹いていました。楽しい昼食休憩が終わると、丘下のお地蔵様を見た後に青木地区に入りました。そして、多賀社の祠を見学した後、青木観音堂に行きました。

 丘下のお地蔵様         多賀社の祠        青木観音堂
  

柳井市 楽しかった阿月史跡巡りウォーキング(4/4)

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 青木観音堂を出ると、白井小助屋敷跡に行きました。この頃になると、さらに日差しが強くなり舗装道路を歩いていると、照り返しで体がほかほか暑くなります。二十代の頃、横浜の社会人山岳部「岩稜山岳会」に所属していたことがあります。ある春の合宿の時でした。北穂高の積雪の上を歩いていたのですが、日光の照り返しで目を傷めたことがあります。通称「雪目」と呼ぶ症状です。目がごろごろと痛く、瞼を開けることができなくなるのです。雪で反射した紫外線が、目を傷める症状なのです。今回の舗装道路の照り返しで「雪目」を少し心配しましたが、全くの杞憂でした。

   白井小助屋敷跡碑      荒神様の祠       国行雛次郎墓石
  

 次に、荒神様の祠に行きました。その道の途中、赤いブラシの木がある家の前を通りました。しかし、赤いブラシの花は散っていました。その家の方にお聞きすると、お婆様が花好きで、いろいろな花を植えているとのことでした。脇道に入り、荒神様の祠と七地蔵尊を見学しました。そして、やや暗い山の中に入って元奇兵隊士国行雛次郎墓地に行きました。彼は第二次長州征伐時、大島の役の戦いで惜しくも亡くなりました。

           防陽第十二番箇所霊場の無動寺に到着


 ちなみに我家にも大島の役に関わる言い伝えがあります。それは、婆さまの婆さまの婆様、つまり私の五代前の婆さまの話です。その婆様の息子が奇兵隊に入っていたそうです。その婆様は阿月の隣の伊保庄に住んでいたのですが、大島の役時に大砲の音がよく聞こえたそうです。その大砲の音が聞こえるたびに、息子のことが心配で仕方なかったそうです。しかし、その息子の消息は伝わっていません。戊辰戦争で亡くなったに違いありません。

  二体のお地蔵様      日露戦争凱旋門       猛暑の中、円勝寺に到着
  

 元奇兵隊士国行雛次郎墓地を見学し終わると、無動寺に向かいました。この無動寺の近くに、私の曾祖母の一人の出身の家があったそうです。家の名前は分かりませんが、屋号は「のけ」と言ったそうです。その曾祖母は、アメリカに渡って私の祖母を生んだそうです。しかし、アメリカで不幸にも亡くなったため、祖母は日本に帰ってきました。その祖母の姉はアメリカに残りました。その姉には二人姉妹の子供がおり、その家系が今でもアメリカにいるのではないかと思います。私が子供の頃、アメリカに住むその姉から贈り物がよく来ていたように覚えています。その後通信が途絶えたため、その家系の消息は分かりません。

  廃寺の岩休寺        浦家の墓所         立派な円覚寺
  

 無動寺を出ると、どんどん坂道を下りました。そして、二体のお地蔵様を見学した後、日露戦争戦勝記念凱旋門に行きました。凱旋門と言っても、パリのように巨大な凱旋門ではありません。門と門の間を結ぶ鉄梯子が外れて錆びていました。続いて、円勝寺に向かいました。お寺に着くとご住職のご厚意で、冷たいお茶をいただきました。氷入りのお茶はとても美味しく、猛暑で疲れた体に沁みいるほど美味しかったです。本当にありがとうございました。

          最後に訪れた東神明宮、皆さん元気に到着


 円勝寺を出ると、廃寺の岩休寺に向かいました。今にも崩れそうな本堂は哀れでした。かつては盆踊りが行われるなど、たいそう賑やかなお寺だったそうです。続いて、その隣にある浦家墓所に行きました。立派な墓石が立ち並んでいました。その後、円覚寺に行き、最後に西神明宮に行きました。今回は猛暑の中での史跡巡りウォーキングでした。参加された方々、本当にお疲れ様でした。

           猛暑の中、巡った阿月の史跡など

柳井市 余田新庄方面史跡巡りウォーキングの下見(1/2)

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  ようやく、今月予定の柳井市余田新庄の史跡巡りウォーキングの下見をすることができました。何度も下見を計画しながら、そのつど雨で中止となっていたので困りはてていました。今回の下見、酷暑で少しばかり疲れました。手の甲が日に焼けてひりひりしています。

 灸川傍の流れ恵比寿       極楽寺跡のお堂      岩国竪ヶ浜往還の石碑
  

 本番通りに朝10時に東田布施公民館に集まり、下見に出発しました。最初訪れた史跡は流れ恵比寿です。灸川傍の田んぼのど真ん中に鎮座しています。その昔、ここが海峡だった頃、宮島から流れ着いたとされる恵比寿様が祀られてます。次に、水金古墳に行こうかと思いましたが、先日の調査時に笹が繁していることが分かっていました。そのため、本番ウォーキングでは行かないことにしました。次に極楽寺跡に行きました。このお寺は、知願寺と大恩寺間の防陽第二十七番霊場です。しかしながら、50年位前に廃寺となりました。今は、その跡とお堂が残っています。

   涼しい中村林道      中村地区のお堂       静かな明顕寺
  

 続いて、岩国竪ヶ浜往還道を物語る石碑を見学しました。今の平生町竪ヶ浜は江戸時代、岩国藩余田の一地域でした。そのため、竪ヶ浜と岩国を繋ぐ往還道がありました。竪ヶ浜荒木にはその往還道の面影がまだあります。次に涼しい中村林道に入りました。中村林道を歩いたのは、赤子山ウォーキング以来です。

            とても素晴らしい明顕寺の山門


 うっそうとした竹藪の間を通る中村林道を抜けると、余田中村地区に着きます。さっそくお堂内のお地蔵様を見学しました。このお地蔵様は、母乳が良く出るとの由来があるそうです。粉ミルクが無い時代、母乳の出る出ないは子供の死活問題だったのです。昭和二十三年に再建されましたが、今は少しばかり傾いており、戸が閉まりません。なお平生町の木村(こむら)のお地蔵様も、母乳に関わる言われがあります。

 明顕寺の水子地蔵尊      ため池の地蔵尊      小高い場所のお堂
  

 その後、しばらく歩いて明顕寺に到着しました。ここでお昼休みを取りました。なお、麻里府の明楽寺は、この明顕寺が発祥とのこと、明顕寺の「明」をいただいたのではないでしょうか。お昼休憩が済むと、臥竜梅に行く予定でした。しかし、梅の季節でもなく日陰が全くない登り道ですので、今回の史跡巡りウォーキングから外すことにしました。明顕寺の後、ため池のお地蔵様や祠を見ました。そして、小高い場所のお堂に行き、積蔵寺に向かいました。

             下見として歩いた余田新庄のコース

今年最後の桃を収穫、A邸で皆さんと味わう

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 先日早生桃を収穫しましたが、今回は晩生の桃を収穫しました。早生よりも遅く実りますが、やや大きく甘い桃です。ところが、今年は長雨のせいでしょうか、甘さは早生よりも良いのですが、大きな実ではありませんでした。今回収穫した桃が、今年最後の桃となりました。

    枝を付けたまま収穫した桃          どう言う訳か、小さな桃
 

 袋をかけたにも関わらず収穫できなかった桃には、二種類あります。一つ目は、病気になってしまったため成熟する前に地面に落下した桃です。二つ目は成熟した後、虫が入った桃です。前者は仕方がないのですが、後者はしっかり袋をかけなかったのが原因です。隙間からカナブン、アリ、カブトムシなどが入るのです。
 かなりの桃が、収穫する前に腐ったり、虫に食べられます。しかし、それでも美味しい桃をいくつか食べることができました。ありがたいことです。今日は最後の5,6個を収穫して、A邸で袋をかけてくれた方々に食べていただきました。

              おいしそうな桃たち


 夕方A邸で、参加者各人が持ち寄っての夕食会です。私は、収穫した桃を5,6個を持って行きました。そして、デザートとして食べていただきました。ウォーキングの話、社会情勢の話、そして子供の頃の話などで盛り上がりました。とても美味しく楽しかったです。ありがとうございました。

        A邸で、美味しく食事しながらお酒も入り楽しく談笑

柳井市 余田新庄方面史跡巡りウォーキングの下見(2/2)

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 積蔵寺は小高い所にあるため、坂道を登らなければなりません。暑さで疲れた体に鞭打って坂道を登りました。正午過ぎのためだいぶ太陽が上に上がっていました。それに比例して日差しの強いこと。積蔵寺に着いた時、ご住職のご厚意でお茶をいただきました。汗だくの体に冷たいお茶の美味しかったこと、ありがとうございました。

               小高い場所にある積蔵寺


 積蔵寺のご住職とお話しをしていて、うれしい事がありました。先日阿月の史跡を巡りながらウォーキングした時、世良修蔵の屋敷跡などを見学しました。ご住職のお兄さんは、その世良修蔵を研究して本まで出したとのこと。さらに世良修蔵に関わる小説を書いた、司馬遼太郎が積蔵寺を訪ねたそうです。その時の、司馬遼太郎のハガキがあるとのこと。世良修蔵を研究した人がこんな身近にいたことがうれしくなりました。ご住職のお兄さんが執筆した世良修蔵の本を見させていただき、ありがとうございました。

  積蔵寺の本堂内     積蔵寺のお地蔵様        柳井の名木
                               コノテガシワとノウセンカズラ 
  

 積蔵寺のご住職と楽しいひと時を過ごした後、境内にある柳井の名木ノウセンガズラやコノテガシワを見学しました。そして、たくさんのお地蔵様も見ました。予定では、積蔵寺の次に土穂石方面に行くことになっていました。しかし、この猛暑ではこれ以上進むと疲れが増します。太祖荒神社に寄ると、ひたすら帰路の道を行くことにしました。

          積蔵寺と太祖荒神社の間にある綺麗な田んぼ  


 太祖荒神社に立ち寄った後、新庄の広大な田んぼを横切ってセブンイレブン(7&11)に寄りました。お店で、私は冷たいコーヒー牛乳を購入しました。店内で涼んだ後、再び猛暑の田んぼに戻りました。そして、土穂石川沿いの田んぼをひたすら田布施に向かって歩きました。

 立ち寄った太祖荒神社    涼しかった7&11    東田布施小学校に立ち寄る
  

 余田の農協ライスセンター横を通って、灸川に戻りました。そして、流れ恵比寿を横目に石橋を渡って大波野に入りました。そして、東田布施公民館に向かって歩きました。途中、PTCA活動でグラウンドゴルフを楽しんでいる東田布施小学校に立ち寄りました。指導をしているFさんに声をかけました。暑い中を、ご指導ご苦労様です。
 グラウンドゴルフを楽しんでいる子供達を見た後、東田布施公民館に戻りました。いやあ、猛暑の中での下見はとても疲れました。しかし、とても充実した下見でした。本番でも楽しんでいただけるウォーキングになると思います。

           下見として歩いた余田新庄のコース

田布施町 石の口八幡宮 夏祭り御神輿神幸(1/2)

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 神社などのお祭りの記録を取るように、ふだんから気を付けています。例えば去年、麻郷の浮島神社のお祭りに同行しました。しかしながら、私の勤務日がお祭り日だったり、二ヶ所の神社が同じお祭り日だったりすることが多々あります。10日、麻郷の高松八幡宮と城南の石の口八幡宮が同じ夏祭り日でした。そこで、私は石の口八幡宮の夏祭りに同行しました。そして、高松八幡宮はA君に同行をお願いしました。

 4.犬田(いんだ)の御旅所   5.勝間に着いた御神輿    6.潤田荒神社
  

 ところで、10日は田布施町クリーン作戦の日です。私は麻郷のある区の班長で、掃除に加えて班費を集めなければなりません。そのため、クリーン作戦が終わった後に石の口八幡宮の御神輿を追いかけました。御神輿が3番目の吉水集会所を出る頃に追いつきました。つまり4番目の犬田(いんだ)御旅所から同行しました。

        宮司様,御神輿,旗などを載せて移動する車列


 犬田(いんだ)の御旅所は、岩でできている珍しい御旅所です。去年の石ノ口方面史跡巡りウォーキングで初めて知りました。続いて、勝間に行きました。そして次に、思いもかけない場所に御神輿が行くのです。原地区に行くのかと思っていると、線路の下をくぐつて潤田(うるだ)に行くのです。そして、潤田荒神社の建物内に御神輿が入りました。お聞きすると、潤田は石の口八幡宮で、西山は妙見様だとのことでした。初めて知りました。

7.原集会所内の御神輿     8.田熊周善寺前      9.瓜迫での御神輿  
  

 潤田を出ると西山近くの道を通って線路をくぐり原地区に入りました。この潤田~原地区のルートは、この秋に私が計画しているウォーキングコースとほぼ同じだったのでびっくりしました。原地区では、原集会所に御神輿が降ろされました。この時、冷たいお茶のお接待がありました。ありがとうございました。次は田熊の周善寺前,続いて富永有隣顕彰碑がある瓜迫です。

          時貞上の御神輿、御神輿の下をくぐる地元の方々


 御神輿に同行して面白いことに気が付きました。その場所でのお祭りの終了間際、御神輿の下を地元が方々がくぐるのです。本来ならば注連縄を張った鳥居の下をくぐることが、いつしか御神輿の下をくぐることになったのでしょう。ところで、去年までは時貞の荒神様に御神輿が来ていたとのこと。今年は、宮司様や地元の方々の体調に合わせて道脇の広場で御神輿を迎えたそうです。時貞の荒神様は去年秋の城南宿井ウォーキングで訪れました。

    石の口八幡宮の御神輿に同行して移動したコース ※3吉水より同行


田布施町 石の口八幡宮 夏祭り御神輿神幸(2/2)

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 同行しながら、お宮係の方々にいろいろ聞きました。すると、奇数年には今年のコースの逆を行くとのことです。このため、今年最後尾に御神輿が来た地区は、来年は先頭になるそうです。不公平にならないとの知恵なのでしょうか。ちなみに、高松八幡宮や浮島神社は毎年同じコースで同じ順です。

   新宿井集会所にて      宿井市の横長御旅所        天行居にて
  

 御神輿は、時貞上を出ると新宿井団地の集会所に行きました。そして、次に宿井市(いち)の御旅所に行きました。この御旅所はとても横長です。江戸時代のことですが、石城神社からの三台の御神輿が降りてきて、お休みする御旅所でした。三台が並んで置けるように横長なのです。しかし、明治時代に宿井が田布施町になったことで、石城山の御神輿が来なくなりました。そのため、今は石の口八幡宮の御神輿一台だけが来ます。

              城南別所でお祓いされる御神輿


 続いて、お神輿は天行居に行きますが、倒壊した石鳥居の横を通りました。この石鳥居が倒壊していなければ、きっと石鳥居の下をくぐったに違いありません。かつてはバスがこの石鳥居をくぐっていたことがあります。天行居の次に別所に入りました。別所地域は、大きなため池があります。このため池は、江戸時代に作られたとの記録があります。別所堤(つつみ)と呼ばれていました。

  宮田の御旅所        森国・京国にて       最後の京城
  

 別所を出ると、ため池を横切り宮田に入り御神輿が降ろされました。続いて、城南のほたるの里である森国・京国に入りました。たくさんの方々が来ておられました。そして、最後に京城に御神輿が着きました。来年、お神輿は最初に京城に行きます。

          御神輿が帰ってきた石の口八幡宮


 なお、昔はもっと大きい御神輿を若者が担いで回ったそうです。倉庫にその大きな御神輿や御神輿に付き従う槍などの小道具がたくさん納められていました。昔は、さながら大名行列のようではなかったかと想像でできます。京城を出た御神輿は、石の口八幡宮に帰りました。宮司さん、お宮係の方々、暑い中を御神輿について回りお疲れ様でした。

    石の口八幡宮の御神輿に同行して移動したコース ※来年は逆回り

大輪のヒマワリ咲くも、今は梅雨

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 梅雨明け宣言はまだまだ先のようです。早く明けて欲しいのは人間だけではないようです。春に種をまいた我家のヒマワリ、待ち切れずに大輪の花を咲かせました。雨が多いと種ができないことがあるためとても心配です。

         梅雨明けを待ちきれず、大輪の花を咲かせたヒマワリ


 去年は8月中旬に花を咲かせたのに、今年は異様に早く咲きました。種まきが早かったからなのでしょうか。背は軽く2mを越えています。今年は雨が多く、背ばかり伸びて心配していたら、花も早く咲きました。肥料が良かったのでしょうか。ところで、春に植えた宿根ヒマワリは、まだつぼみすらできません。

    満開のヒマワリ           隣のヒマワリも花が咲きそう
 

田布施町 麻郷 新川川添の天王(てんのう)もうし

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 夏は各地でいろいな夏祭りが盛んです。私は、なるべくたくさんの夏祭りに参加するようにしています。そして、できるかぎり記録しています。今回参加したのは、麻郷 新川川添に伝わる天王もうしです。私が住む高塔は戦前に、軍のために住民全員が疎開させられました。そのため、伝統的な催しや祭りは絶えています。復興された祇園牛頭天王社祭だけです。

   荒神様の祠       浮島神社の明神様     天王もうしの準備
  

 新川川添には、伝統的な催しやお祭りがたくさんあります。例えば、荒神様,地鎮様,天王もうし,浮島神社祭,風鎮祭などです。川添地区は、歴史的にみて江戸時代初期に作られたことが分かっています。当時の川添氏が海を干拓してできた地区です。川添氏が、中村,曽田,弥冨家などを呼んで川添地区(川添東)ができました。これらの数家は最初、比較的高台の川添東のそらじょうに住んでいたのではないでしょうか。そのためか、そらじょうには古い催しがよりたくさん残っているようです。

       お神酒を注いて、天王もうしの準備をする宮司さん


 今回の天王もうしのことをお聞きすると、川添東の当屋一人と川添西の当屋一人、そして浮島神社の総代が、天王もうしを準備しお祭りするようです。私は部外者ながら、天王もうしに参加させていただきました。ありがとうございました。
 天王もうし以外に、荒神様,地鎮様,浮島神社祭,風鎮祭などについてもお聞きしました。これだけたくさんの伝統的な催しがあるのは、それだけ古くから、川添に人が住み続けている証拠ではないでしようか。これらの催しを、なんとか記録に残そうと思っています。

    天王もうしをされる宮司さん     天王もうし当屋二人と浮島神社総代
 

羊の原毛をいただき、さっそく脱脂作業

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 3ヶ月前に田布施農工高校を見学した時にいただいた羊の原毛、紡いで毛糸にしているうちに無くなってしまいました。そのため昨日、再び原毛をいただくため、田布施農工高校に行きました。羊場を訪ねると、毛を刈られた羊たちがいました。刈られた時は素肌が見えていましたが、今はすっかり新しい毛が生えていました。

  いただいた羊の原毛     お湯と洗剤を混ぜる      原毛を浸す
  

 いただいたのは、おそらく2頭分の毛でしょうか。2袋いただきました。これだけあれば、来年春までは十分に紡ぐことができます。ありがとうございました。原毛を家に持ち帰ると、さっそく脱脂作業に入りました。原毛には油分があるためそのままでは、手にくっつくような、しっとり感があるような、少しべたべた感があります。そのため、羊の毛を紡ぐ前にこの油分を取り除きます。これが脱脂作業です。
 なお、この油分を積極的に使って紡ぐのが、フィッシャーマンセーターだそうです。この油分が雨を通さないのだとか。かつてのイギリスでは、漁師の妻が夫のために紡いだため、この名前があるそうです。

             油分が溶け出し、白く綺麗な原毛に


 この油分を取るため、液体中性洗剤を使います。無臭の中性洗剤を探しましたが、売っていないのです。すべて香料が入っているのです。仕方がないので、なるべく香料が少ないものを購入しました。今後も原毛の脱脂作業をすることがあると思われるため、中性無香料液体洗剤を探しておこうと思います。

   汚れた液を捨てる    何度も水洗い        網に入れて乾燥
  

 さて、液体洗剤をお湯に溶かして、その中に原毛を入れ浸しました。その後、原毛全体が浸るようにゆっくりと押したり引いたりしました。乱暴にかき混ぜると、原毛同士が強く絡まってしまいフェルト状態になります。なお、積極的にフェイルを作りたい場合は、ゴシゴシと強く押し付けながらこすります。

  2度目の脱脂作業      再度原毛を洗う       何度も水洗い
  

 1度の脱脂作業では完全に油分が取れないため、私は2度洗剤で洗っています。そして、最後の水洗いを何度も丁寧にします。強く絞れないため、軽く押して水を出します。そして、網にくるんでぶら下げ、水分が落ちるのを待ちます。水が落ちなくなってもまだ、原毛には水分が含まれています。そのため、しばらく風に当てながら自然に乾燥させます。完全に乾燥すると、やっと紡ぐことができます。手仕事は時間がかかるものなのです。

     網にくるんでぶら下げ、水がしたたり落ち、完全に抜けるのを待つ    

田布施町 狼煙(のろし)リレーに参加

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 田布施町の詩情公園の丘の上で、狼煙リレーの催しがありました。この狼煙リレーは、もともとは広島県のどこかでスタートとして、次々に狼煙が伝わる全国的な催しです。田布施町は今年から参加しました。去年までは、平生町の般若寺が最終ポイントだったようです。

     狼煙リレーの受付            狼煙リレー開会式
 

 私は、狼煙リレーを主催する田布施町観光協会と郷土館の関わりで、狼煙リレーをお手伝いすることになりました。そのため、狼煙を上げる前に、狼煙などを例にした通信の歴史について子供達に説明しました。手を使った通信、音を使った通信などについてを説明しました。その通信の一つに手旗信号があります。ボーイスカウトのMa君が、遠くから「ノロシ」と手旗信号を送ってくれました。

           子供達にとても人気だった伝書バト


 子供達に一番人気があった通信手段は、伝書バトでした。Y君が飼っている伝書バトはとてもかわいいため、子供達はさかんに撫でていました。伝書バトで通信するときは、鳩の足に通信管と呼ばれる小さな筒を取り付けます。この通信管、今は使われておらず手に入れることができません。今回、特別に通信管を作っていただいたとのこと。その通信管を鳩の足に取り付けて飛ばしました。

   手旗通信のデモ     伝書鳩を飛ばす      狼煙用に火をおこす
  

 伝書バトによる通信が終わると、いよいよ本命の狼煙です。ライターで火をつけるのではなく、手で火をおこして狼煙の火として使います。ボーイスカウトのMi君が一生懸命、ろくろ状の火おこし機を回して摩擦熱で火をおこしました。灰のようなものに火がつくと、口で風を吹き付けて、火を大きくします。そして、狼煙台の枯草に点火するのです。

          煙をたくさん出すため、火の上に生木を置く


 狼煙台に火がつくと、今度は生木をどんどん火の上に置きます。そして、うちわであおいで風を送って、火を強くします。すると、生木の燃えるバチバチ言う音が大きくなります。すると煙がどんどん出ます。ただ、風が出ていたため煙がなかなか上に上がりません。それでも子供達は、煙に巻かれながらも嬉しそうにうちわで狼煙台をあおいでいました。
 その後、火を使ってマシュマロを温めビスケットに挟んで食べました。狼煙リレーに関わった田布施観光協会,ボーイスカウト、ガールスカウトなどの方々、お疲れ様でした。とても楽しい狼煙リレーの催しでした。

             狼煙リレーを楽しんだ、子供達や大人達

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