5月27日、茨城県大洗町とひたちなか市の主に史跡を巡ってウォーキングしました。最初に行ったのは幕末と明治の博物館です。この博物館は幕末に土佐から脱藩して、その後長州藩で活躍した田中光顕が建てました。
幕末に土佐の武市半平太が創設した土佐勤王党に所属し、武市が処罰を受ける頃、脱藩して長州藩に行き、そこで高杉晋作の元で奇兵隊諸隊で倒幕・明治維新に活躍しました。この博物館には久坂玄瑞や吉田松陰など長州藩士の資料が多く展示されています。一方、薩摩藩の資料はあまりありません。長州藩に長く関わったためでしょうか。
田中光顕が建てた「幕末と明治の博物館」
田中光顕のとっびつすべきことの一つは、とにかく昭和十年代まで長生きしたことです。肉声もレコードに残っています。そして、亡くなるまでの間に各地に明治維新に関わる碑を建てたことではないでしょうか。明治維新を見ることなく亡くなった数多くの志士達を弔っています。例えば、茨城県では太子町袋田にある関鉄之助の碑です。また、多摩市の旧多摩聖蹟記念館なども挙げられます。
田中光顕は2.26事件直後に95歳で亡くなりました。2.26事件を目のあたりにして、軍部が独走し始めたことを彼はどう思っていたでしようか。もし彼が102歳まで生きていれば、昭和20年の敗戦を知ったはずです。自分達が死に物狂いで作り上げた明治維新が、こんな形で終焉するのを見なくて良かったと思います。
徳富蘇峰の石碑 幕末関連コーナー 桜田門外の変の模型
幕末と明治の博物館入口には、田中光顕の銅像が立っていますが、近くに徳富蘇峰の石碑もあります。徳富蘇峰が、明治維新における水戸藩の功績を認めている石碑です。倒幕は主に長州藩や薩摩藩が成し遂げましたが、尊皇攘夷の思想は水戸藩が中心だったように思います。その尊皇攘夷が種となって尊皇倒幕へと向かいました。特に、尊皇の考え方は水戸藩が「大日本史」を編纂している過程で生まれたのではないでしょうか。大日本史は、つまるところ古代から連綿と続く天皇の歴史だからです。
水戸藩の分裂の様相 明治天皇の品々 水戸藩の歴史
水戸藩は桜田門外の変頃から変節します。特に徳川斉昭と井伊直弼の確執が原因の一つに思います。徳川一門の斉昭からすると、徳川宗家を井伊直弼がいいように操っていると思えたのでしょう。その確執は桜田門外の変で頂点に達しました。以降、幕府の威光はどんどん下がり、水戸藩は分裂していきます。そして、天狗党の騒ぎなどで水戸藩の人材がどんどん失われます。結果的に、明治政府でにおける水戸藩出身者の出番はありませんでした。
明治期に活躍した水戸藩出身の偉人達
A:栗田寛 大日本史完成者 B:飛田穂洲 学生野球
C:横山大観 近代日本画 D:徳川慶喜 最後の徳川将軍
E:常陸山谷右衛門 近代大相撲創設
私が思うに、水戸藩は大日本史を編纂する過程で水戸学や尊皇思想を打ち立てました。しかし、徳川一門であるがゆえに倒幕に至ることができませんでした。尊皇攘夷思想は長州や薩摩に引き継がれつつも、攘夷の愚かさを知った両藩は、結果的に倒幕に目覚めました。水戸藩が種を蒔いて、長州や薩摩が育てて刈り取ったのではないでしょうか。明治維新の最初の種をまいたことを、水戸藩つまり今の茨城県は誇ってよいと思います。
当時の水戸藩の志士達 水戸学を学んだ長州や薩摩の志士達
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茨城県 大洗町,ひたちなか市の史跡ほか探訪ウォーキング(1/x)
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