田布施町役場に用事があり、その前に郷土館に寄りました。この日は、島根大学の考古学研究室の三名の方が調査のため来ていました。その調査の様子を見学させていただきました。錆びた鉄斧などを調査している途中でした。とても、精密に図面化している作業中でした。作業の邪魔をしてはいけないので、少し質問したぐらいで退散しました。
それからしばらくして、郷土館長のNさんから発明クラブの森山先生が郷土館にみえているとの電話連絡を受けました。買い物途中でしたが、すぐに郷土館に向かいました。
出土遺物を調査中の島根大学の方 中学1年生時の日記(1965.11.7)
国森古墳の鉄器の調査 赤字は森山先生のコメント
森山先生は、私が中学1年生時の担任でした。また、1〜3年生間所属していた科学クラブの顧問でした。当時の科学クラブでは、エアーカー(ホバークラフト)を制作していました。私が1年生の時、先生は黒い中古のバイクを理科の準備室に持ち込んできました。
科学クラブ部員はこのバイクを分解して、そのエンジン(250cc)を取り出しました。ホバークラフトの動力にするためです。エンジンを取り出し終わると、続いて木製のプロペラや本体も作りました。
約46年ぶりに再開した森山先生、今も発明クラブでご活躍
そのホバークラフトの制作は中学生には大変でした。下の記事は、私が中学1年時(1966.1.20)の私の日記です。ホバークラフト本体かプロペラを作るために、何かの寸法を測った後カンナかノミを使ったようです。また、ホバークラフト制作のために、授業が終わった後に何度か居残りしたようです。その時、私はその作業を「せんない」(山口県の方言?で、”大変”とか,”しんどい”とか,”責任が重い”などを複合した意味)と思ったようです。その私の日記に、森山先生からのコメントが赤字で書いてありました。
ホバークラフト制作のことが書かれた私の日記記事と森山先生のコメント
このホバークラフトの制作は、足かけ3年かかりました。エンジンを分解したり、プロペラを作ったり、本体をベニヤ板で作ったり、轟音と共にエンジンをかけたりと、その苦労をよく覚えています。完成後、人を乗せたホバークラフトが数センチほど空中に浮いた時は、部員みんなで感動しました。
私が今でも平気で、トラクターや耕運機の修理、ラジオ類の修理、古いエンジンを分解修理できるのは、この時の経験が生きているでしょう。この貴重な経験が、私のエンジニアとしてのスタートラインだったのではないかと思います。
ところで、3月1日から6日まで東京八王子の我家に行きます。時間があれば、八王子付近をウォーキングしたり秋葉原で部品を購入しようと思います。
中学3年時の日記、ホバークラフト完成の記事(1967.11.4)
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田布施町郷土館 出土遺物調査の見学、46年ぶりに恩師に逢う
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